レムルス王国聖騎士団の事件簿〜黒い狐と金の猫(1)

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第4話 黒い狐と金の猫
 (1)猫は軽やかならぬ足音を立てて



 かかかかかかか、と遠くで硬質な連続音が聞こえるのを、ライラ・アクティは目の前の相手と似たような音で木剣を打ち鳴らしながら耳に入れていた。恐らくはどこかで自分たちと同じように剣の稽古をしている誰かのものであろうが、なんとも強烈かつ素早い打ち合いだ。あれほどの力はまだ私にはない、と、集中力を失わない範囲で彼女は感嘆する。流石はこの騎士の国レムルスが誇る精鋭部隊、聖騎士団の団員だ。今は彼女に合わせた速度で剣を合わせている相手――彼女の師たる、神速の剣士とも渾名されるサージェン・ランフォードにとってみれば造作のない程度なのであろうが……
 このように日々真面目に修練をこなしていればいつかは、師のように、とまでは行かないにしろあの剣の主のような技量を身に着けることができるのであろうか。音と同期させるように剣を幾度か素早く振るってみた所、速度に気を取られて僅かに甘くなった太刀筋を指摘するかのようにサージェンに強めに剣を払われて、まだ自分がその段階にはないことを再認識した。
 今はまだ届かないけど――必ず。その領域まで辿り着いてみせる。
 遠くから響く剣戟の音は休むことなく、徐々にその強さを増してすらいた。既に額に玉のような汗をにじますライラは、打ち合いの素早さに加えてその剣の主の持久力にも驚嘆した。力強く響く音はあたかもこちらに近づいてくるかのようだし、その力強さときたらまるで木剣で石の床を殴っているかのよう――
「ん?」
 全力で振り下ろしたライラの剣を片手で受けるサージェンが、そんな気負いのない声を出して背面となっていた訓練場の入り口を振り返った。
 その瞬間、大きく扉を開けられていた出入り口に、ずざああと桃色の花が咲いた。
 花と思ったのは美しい薄桃色の豪華なドレスだった。ずざああという花が咲く表現にあまり相応しくない擬態語は実は擬音語で、前述のドレスがその場所で急停止する際に立った摩擦音だった。慣性に従い通路をそのまま通過して行こうとした桃色のスカートが、着用者の急制動に抗議するかのようにその場で大きく広がり満開に咲いた花の花弁の如き様相を呈したのだ。
 先ほどの剣戟の音っぽいものもそれと同時に止んでいたことに、ライラはどこか意識を遠くにやったような心持ちで気がついた。つまるところ、あれは木剣と木剣を打ち鳴らす音ではなく、硬いヒールの靴底が大理石の床を激しく叩く音であったと言うことなのだろう。
 そしてその着用者とは……
「うああああ。」
 ライラは意識を半分方飛ばしたまま、喉から声を漏らしていた。驚愕の。悲痛の。絶望の。声。
「……こんな所に何用ですか……ルシーダ様」
 普段は感情の揺らぎを声に出さないサージェンが、やはり今回もこの相手にだけは、彼にしてはめいいっぱい声を揺らがせてその名を呟いた。

 レムルス王国第二王妃ルシーダ・セリス・レムルス――本来ならこんな場所には全くそぐわない、その割に前にも同じこの場所で姿を見たことがある貴婦人は、自ら訓練場内に足を踏み入れ、ライラとサージェンの方に歩み寄って来た。
「丁度良いところにおられましたわ、皆さん」
「……知ってましたよね、我々がこの時間に自主練をしていたことを。知ってて来たのですよね、真っ直ぐに、全力で」
「これぞ女神が困っている私に下されたお導きでしょう」
 サージェンの冷静な突っ込みにそのまま言葉を続けたルシーダは、あくまでも偶然を装うつもりでいるようだった。結局偶然だろうと必然だろうとその後の展開に差異はないのであろうが。サージェンもそれを悟り、可及的速やかに話を進める方向を選択する。
「何か、お困りの事態が?」
 サージェンの促しに答えて王妃はやおら切なげに眉を寄せ、指を胸の前で組み合わせた。
「そうなのです! そうなのです! ああ、どうか助けてください、とても大変なことが起きてしまったのです!」
「……少々失礼」
 王妃が声高に訴え始めた所で、唐突にサージェン当人が話の腰を折った。それ以上何を言うこともなく彼は自分のベルトの後ろに手を回し――そこから何かを引き抜きざまに滑らかに腕を振るう。
 すこん!
「ひっ」
 サージェンが取り出し、そして投げた投擲用のピックが入り口近くの壁に突き刺さる。その僅かコイン一個分ほど手前に、ツァイトの鼻先。
 先程まで二人の訓練を壁際から眺めていた班長は、どうやら猛獣が餌に食いついているその隙にとこっそり逃亡を企てていたらしい。
「我らが班長が王妃殿下の御前から無言で辞するような聖騎士としてあるまじき無礼を働くなど有り得ぬ事と信じている」
 意訳。逃がすかボケ。
「そ、それは無論当然だが、ちょっと手洗……」
 ツァイトは見苦しくもなにやら足掻こうとした様子だったが、サージェンの持つ二本目のピックがぎらりと光ったのを見て、大人しく戻ってきた。
「失礼しました。で?」
 王妃に対するにしてはひどくぞんざいな話題の戻し方ではあったがサージェンがそう向き直ると、案の定それについては気分を害した様子も見せずにルシーダはすぐさま指を組み直し、何事もなかったかのように先の訴えを再開した。
「大変なのです、ディルト様が、私のディルト様が、誘拐されてしまったのです!」
「は?」
 悲嘆に暮れた表情をした王妃の口から放たれたのは、今度は何を言い出すものかと身構えていた三人をして、絶句せしめる一言だった。

「誘拐されたって、あの……どういうことです?」
 相手が決して信頼してはならない災厄の元凶であることも忘れ、単純に疑問に思ったことを率直にライラは問いかけた。誘拐されたと言われても、どこで? どうやって? 今日はディルト王子に外出の予定はなかった筈である。
 ルシーダは淡々と状況を語り出した。
「今朝方、食堂で朝食を取っておりましたの。本日のメニューはパンが二枚にトマトとレタスとパプリカのサラダ、焼いたウインナーが二本と半熟のボイルドエッグにオニオンのスープ、それとデザートにオレンジでした。思ったよりは質素でございましょう? 王族と言えども朝食は大体このような感じなのですよ。栄養価的には申し分ないですし、シェフの腕は一流ですからシンプルでもお味はとても美味しゅうございますのですけれどもね。ディルト様も残さず全て平らげておりました。最近育ち盛りであられるからか、ディルトさまったらよくお食べになりますの。昔はトマトが少しお嫌いでしたのですけれどもそれも克服なされましたのよ。凄いでしょう? 流石私のディルト様ですわ! ……ともあれ女神に実りを感謝して、美味しく朝食を頂きました。そこまではよかったのです」
 ここまで前置きかよ。三者三様に突っ込みたい気持ちが顔に表れるが、聖騎士として我慢する場面である。
「その後、ディルト様は食後のお散歩に行かれたのです。いつもでしたら教師が来てお勉強の時間となるのですが、本日は日照についての実験を行うということで、午後の方が都合がよいとのことでしたので、お勉強の時間を午後に回したのです。ディルト様には机でご本を読むだけではなくさまざまな知識を身に着けて欲しいという陛下のご方針で面白い授業を行う教師をたくさんつけておりますのよ。今日の教師は王立研究所の農学者でして、わたくしも趣味でやっておりますお花の育て方などについてたまにご意見をお聞きすることがあるのですが、とても博識で頼りになる方なのです。それはさておくのですが、」
 ええい脱線多いな! ライラの横でツァイトの手が実にもどかしそうにわきわきと動いたが、すんでの所で堪えたようだ。
「それっきり、ディルト様が戻られないのです」
 ぴたり、と王妃は言葉を切って、辺りが急にしんとする。ライラも開きかけていた口を声を出さぬまま閉じた。
 静まり返る訓練場の窓からちらりと空を見上げ太陽の様子を確認する。まだ時刻は昼前であるようだ。朝食後すぐに出た散歩にしては確かに少々長いが、ディルト王子は遊びたい盛りの子供だ。攫われたなどと断じるにはいささか早いような気もする。それにそもそも――王城内ではないか。確かに以前、郊外の森へと出た際に、ディルト王子とライラは人攫いの一団に捕らえられたことが不覚にもある。だが……この何百もの騎士や兵に護られた王城内で、そのようなことが起こりうるものだろうか。城内は、少なくとも視聴覚の及ぶ範囲では、普段通りの平穏に包まれている。
「どこかで遊んでいらっしゃるのでは?」
「ディルト様の行きそうな場所はあらかた探させました」
 至極当然に思い当たる問いかけに対する即座の返答に、ツァイトは半信半疑の表情ながらも、一応は聖騎士の一班の班長としてサージェンに目配せをした。意図を汲み取って、サージェンも頷く。
「念の為、外部からの侵入の形跡があったか、すぐさま調べさせましょう」
「それも既に。特にそのような形跡はありませんでした」
 再度、間を置かず返された言葉に、立ち去ろうとしていたサージェンも振り向いて眉根を寄せる。
「……誘拐されたと仰いましたが?」
「ええ、その通りです。ディルト様は悪しき者に攫われたのです」
 王妃は確信を持った強さで、頷く。
「でも……」
 侵入の形跡はないと自分で仰ったじゃないですか、と呟こうとしたライラの機先を制してルシーダは薔薇の花弁のような唇を振るわせた。
「外部からの侵入者ではありません。わたくしには分かります。これは紛れもなく、かの黒き女狐めの仕業に違いありません!」
「黒き女狐……?」
 心当たりのない渾名に、誰のことかと眉をひそめて尋ね返すと、ルシーダは深々と頷いて、まるで忌避すべき呪いの言葉のようにその名前を吐き出した。
「陛下のお心を惑わす邪悪の権化、城の一角の森に住まう魔女、グロリアめですわ」
 ――耳にした瞬間、三人はまさに氷の呪いを受けたかのように一斉に凍りついた。
 グロリア――グロリア・マリエステーレ・レムルス。
 このレムルスの第一王妃である。
 若い頃に大病を患って以降体調を崩しがちなかの王妃は、広いレムルス城の敷地の一角に小さな館と僅かな傍仕えの者を与えられ、政は当然として行事にも、特に主要なごく一部を除き殆ど参加することなく静かに過ごしているという。このレムルスにおいて国王に次ぐ尊い地位にありながらも隠遁の生活を送る第一王妃とは、王族の警護を任務とする聖騎士である彼らでさえ――新入りのライラは勿論のこと、ツァイトやサージェンでさえ、直接言葉を交わしたことはなく、その姿を数少ない行事にて遠くから仰ぎ見たことがあるのみだ。老齢のレムルス王の妃として相応の年齢ながら、どこか異国めいた――実際、近傍の小国から嫁いで来た王妃である――ぬばたまの髪と白皙の肌が美しい気品ある女性であったことを、ライラは記憶から呼び起こした。
「え、ちょ……あの、一国の王妃とあろう方がそのような真似をなさるはずがないではないですか」
「あなた方はあの腹黒狐の汚さを知らないから、そのような悠長なことが言えるのです!」
 語調激しくルシーダが言い放つ。いくら第二王妃たるルシーダとて、第一王妃をここまで強く侮辱する発言を他者に聞かれてはただでは済まない。ツァイトが慌てふためいて宥めようとするが、ルシーダの瞳に宿る憤怒の炎は留まる所を知らなかった。
「かの女の許されざる行いには枚挙に暇がありません。かの女は普段からディルト様のことを目の敵にし、顔を合わせるたびにディルト様のご健康に害を及ぼすほどの陰湿な嫌がらせを繰り返しているのです! ディルト様を攫ったのだって、これが初めてではないのですよ! ああ、ディルト様が、陛下とわたくしのディルト様が今どのような非情な仕打ちを受けているかと考えるだけで、わたくしは……!」
 硬く組んだ指を白くなるほどに握り締め、その色と同じ蒼白な顔で震える声を出す。最愛の息子のことを案ずる様はとても演技には見えない。
「かの女の悪行はディルト様に害を成すばかりではありません。更に許しがたきことに、かの女、陛下に薬を盛ったことすらあるのです……! 幸いにも発見が早く、事なきを得ましたが、あの時のことを思い出すとわたくしは今でも怒りに身体が震えます……!」
「く、薬ですって」
 呟きかけた口をライラは慌てて自分で塞いだ。第一王妃が国王に薬を盛るとは俄かには信じがたい事ではあるが、これ以上なくスキャンダラスな話である。ルシーダの暴言以上に人に聞かれるわけには行かない。
 ルシーダは叫ぶのを止め、胸の前で手を硬く握って俯いた。そして、長い睫に彩られた青い瞳を潤ませて聖騎士たちを縋るように見上げてくる。
「どうか、どうかあの悪女の魔手からディルト様をお救い下さい。あなた方だけが頼りなのです。かの老獪なる女狐はあれだけの所業を重ねておきながらもいまだ心のお優しき陛下を丸め込み、罰を受けることなくのうのうと暮らしているのです。今回の任務はディルト様をお助けするばかりではなく、陛下の御為でもあると心得て下さい」

「……なあ。どう思うよ」
 ルシーダが去ってしばらくした後にツァイトが発した問いかけに、ライラは慎重に考えてから、返した。
「嘘をついているようには見えなかったけど……」
 とはいえ、あのルシーダの話である。――邪気のまるで感じられない切実な瞳には今回もうっかり飲まれかけたが、あのルシーダ妃なのである。鵜呑みにしていいとも全然思えない。
 ただ……少なくともルシーダの様子から見るに、第一王妃と第二王妃は致命的に犬猿の仲らしいことは疑うべくもなかった。となると、子のない第一王妃が抱く、第二王妃の一人子への感情も、危険なものであることを警戒する必要があるかもしれない。
 第一王妃が夫たる国王に薬を盛る等という不穏当極まりない話は簡単に信じることは出来ないが、万一ということを考慮しておくべきかもしれない……
「……しょうがねえ。とりあえずグロリア様んとこに行くことにするか」 
 溜息を漏らしながらのツァイトの言葉にサージェンとライラも頷いた。


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