レムルス王国聖騎士団の事件簿〜ヴァレンディ特殊作戦(4)

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 作戦その(4)・暗闘



(くそっ)
 ツァイトは一歩足を踏み込んで王太子に迫り、その肩に向けて腕を突き出した。殴りつけるわけにも行かないので掴んで組み伏せることにする。
 が、ベッドに長座していたはずのその高貴なる少年はツァイトの手が届くよりも早くそこから飛び退っていた。彼は小柄な身体をふわりと羽のように宙に舞わせ、軽やかな音を立てて床に着地するのと同時に既に半身をこちらに向ける戦闘体制で身構えていた。
 敵前にありながらも落ち着いた物腰。迷いも無駄もない身のこなし。就寝中にこちらの気配を察したのも、決して偶然の産物ではないと確信できる。間違いなく護身術どころではないかなり高度な戦闘術を身に着けている者の動きだ。気づかれたと知ったときに迷わず逃げを打つべきだった、と後悔したが、今更遅い。子供だと思って侮っていたと言わざるを得ない。
 ツァイトは抜き身のままで持っていた短剣を服に直接縫い付けてある鞘へと戻すと、両の拳を握り締めた。刃などを持ったまま取っ組み合いになって万が一にでも王子を傷つけては色々拙いからだ。それを見た王子はほんの僅かに訝しげな表情をしたがそれ以上何かを言ってこようとはしなかった。戦闘の意思自体を引っ込めたわけではないので、何かの策だと判断したのだろう。
 暗い室内を、緊迫した静寂が支配する。
 数秒の睨みあいを経て、ツァイトは意を決して床を蹴った。相手からの狙いが定まりきらぬよう、左右にフットワークを使いながら少年に接近し――肉薄した所で容赦なく拳を突き出した。王子に対する処遇を、いかなる傷も与えてはいけない、から軽い打撲傷くらいまでは可、に勝手に変更する。素人か素人同然の者相手ならまだしも、ある程度以上に身体の動かし方を心得ている者を全くの無傷でどうこうせねばならないというのはあまりにも難しい。……全面的にこちらの身勝手な都合による攻撃に処遇の変更もクソもないものだが、こちらも命が掛かっているので慈悲深き聖王国王子の御心で是非とも容赦頂きたいところである。どう考えても無理な相談だが。
 ヴァレンディアの王太子は、ツァイトを正面に見据えたまま強く短く息を吐き、至近から突き出されてきたツァイトの拳を見切って己の腕で払ってきた。少年の細腕ながら絶妙な力加減でいなされてやや体勢を崩しかけるもツァイトはどうにか持ち直して重心を下げ、脚払いをかける。
 が、それを見越していたかの如き反応の速さで王子は両の足を屈めて跳んでいた。ツァイトの足は空しく床の表面を撫でるのみである。
 その姿勢のまま、目の前で王子の足が地に着くのをツァイトは舌打ちできるものならしたい気分で見続けた。相手の次の挙動は知覚出来ても、攻撃を外した直後の体勢は意識ほどには素早く立て直せない。それが非常にもどかしい。
 王子の片足が柔らかい絨毯の上についたのとほぼ同時に、寝巻きに包まれた反対側の細い足がツァイトの側頭部を目掛けて鞭のように振るわれた。ツァイトは辛くもその攻撃から頭部を回避させることに成功し、仰け反る形で避けたその体勢から大雑把な感覚で手刀をお見舞いする。
「……くっ」
 ごく軽く相手に触れた感触と同時に、少年が小さく声を上げた。攻撃の当たりは軽く、ダメージどころか痛覚を与えられるほどですらなかったから、ただ単に驚いただけだろう。ツァイトの手は少年の、身体を防護していた腕を掠めたのみだった。
 そんなほんの数合の攻防の後、両者は互いに後方に飛び再度距離を取った。
(くそったれ……ガキの体術じゃねーぞマジで!)
 聖王国ヴァレンディアは魔術文化の発達した国で、代々王族には優秀な魔術士が多いと聞く。そしてまた、魔術の権威たる教会魔術士に師事し、学んでいるとも聞いた。だから、子供相手とはいえ魔術での反撃については少なからず警戒してはいたのだが、この少年の反撃法は全く予想外な、実に洗練された格闘術。これは想定外だった。格闘術であれば魔術よりも余程ツァイトの専門分野に近いというのがせめてもの救いではあるが、この少年も全く以って驚嘆すべきことに、その専門家の技量に近しいものを持っている。
 ――だが――
 元々王族の威厳に満ちて引き締まっていた真正面の幼い頬が、先程よりも尚強い緊張を得て、強張りに近い硬さで固まっているのが夜目にも分かった。
(気付いてやがるな。たいしたもんだ)
 鋭く細めた目でツァイトはそれを確認して、威嚇の意図を込めて一歩だけ歩を進めると、少年は間合いを頑なに保持しようと一歩後退した。
 この幼い使い手は、今の僅かばかりのやり取りで既に気付いたようだった。目の前の男が自分よりも優れた力量を持っているということに。
(まあ……殴り合いにかけてこんなガキに劣るようじゃ、流石に聖騎士としてマズいしな……)
 余裕を持って対処できる、という程ではない微妙な程度の差ではあるが、しかし確信に近い強さで、ツァイトも己がこの少年を制圧することは可能であると感じていた。格闘戦を有利に運ぶ手足のリーチがそもそも違うし、修練においても、この少年も十分以上に積んではいるようだが流石に聖騎士団員の訓練量には及ばないと見える。こちらの攻撃に対する反応はかなり優秀だが、読みがやや甘い。三手ほど先くらいまでは読めるようだが、こちらは四手読める、という感じだろうか。
(さて、どう処理するか)
 処理という単語は畏れ多くも聖王国の王太子に向けて思うには失礼が過ぎるが、既に失礼の塔が出来るほどに失礼を積み重ねまくっている現状においてはそんなことはどうでもいい。それよりも決断に猶予はないことが問題である。この王子も今の事実に気付いた以上このままではいるまい。人を呼ばれるとか武器を取られるなど、この優位を崩す次の手を打たれる前にどうにかせねばならない。
 とりあえずは、早急に力ずくでねじ伏せる。そう決心して、ツァイトは動いた。
 少年の柔らかい弧を描く眉が、怯えるようにではなく躊躇うように寄せられる。そして、ごく小さく囁くように、王太子が唇を動かすのが見えた。
 その囁きの内容はよくは聞こえない――が、それが何であるか気付いたツァイトは、前進しようとしていた身体を冷や水を浴びせかけられたかのように硬直させた。
 ――これは、魔術の呪文!
 最初は予期していたはずのその反撃法に、しかし今のツァイトは愕然とするしかなかった。これだけの戦闘能力を持つ少年は、この上で魔術士でもあるというのか――!?
 いや、高度な格闘術を見せられたからとて魔術を使ってくる可能性を捨て去るべきではなかった、とツァイトは臍を噛んだ。かの少年の武術が教会魔術士である師から仕込まれた物であるというならば、それは寧ろ自明ではないか!
 本来なら即座にその呪文詠唱を妨害せねばならない所ではあったが、衝撃と自省からなる動揺が仇となった。ツァイトは古代語の知識を持たない為、唱えられた音節を数えて発動までの残り時間を大まかに知る程度しか出来ないが、口早に唱えられる呪文は短いものであるなら既に発動段階まで唱えきれている。これ以上むやみに接近するわけには行かない。
 一声――ツァイトには意味を解することの出来ない言葉で鋭く発せられた声と同時に、少年が掌底を突き出した。それが単なる打突であれば十分にかわすことができるだけの間合いは空けてあったが、ツァイトは危機感を覚えてもう一歩、その瞬間に動けた最大の距離だけ身体をずらす。
 ドォン!!
 激しい衝撃音は、ツァイトの背後の壁を打ち付けて夜闇に響き渡った。
 ――引き時だ。
 先ほど瞬間的に下すことの出来なかった撤退の決断は、今度こそは即座に行えた。迷わずに窓に飛び、地上の茂みに向けて身を躍らせる。進入時窓の外に張り付いていたディルトは、予め王妃の情報を参考にして指示していた経路を使って地上に降り、距離を取ってもらっていた。作戦前は側についていると言い張っていたディルトだが、「王子は撤退支援要員です。」という言い方で、ツァイトが部屋に進入した後はすぐに地上に降りるよう厳命していたのだ。勿論本音はただでさえ困難な任務にお荷物は心底いらないというわけだが、ディルトは「ならば任せてくれ」と快く引き受けてくれたのがちょっと心に痛い。まあそれは今はどうでもいいのだが。
「何事ですか、王子っ!」
 跳躍から着地までの時間はツァイトの主観では非常に長く、それだけの思考をするに十分だったが実際はほんの刹那のことだった。室内の――扉を隔てた廊下から若い男の声が聞こえてドアが開かれる音が響くのと、ツァイトが低木を多少蹴破り柔らかい地面に足をつけるのはほぼ同時で、敵の挙動の速さに冷や汗を感じた。ツァイトはそこから即座に窓から死角になる位置に跳び、気配を殺し足跡も抜かりなく消しながら暗がりの中を迅速に進み始める。着地時の足跡は消せなかったが、あればかりは仕方がない。
「これは……」
 若い従者が絶句する声が聞こえた。ツァイトは魔術を撃ち付けられた部屋の状態を目視してはこなかったがあれだけの衝撃である。最低でも宿舎の自分の部屋と同じ程度の惨状にはなっていることだろうと想像できた。同室のサージェンは綺麗好きで自分のスペースだけはまめに掃除をしているが、気を利かせて人のスペースを掃除してくれるような奴ではない為、二人の部屋は半分は殺風景なまでに整頓された空間、もう半分は何かの山、というような感じにきっかり二分され極めて珍妙な状態になっている。いや、だからそんなことは今はどうでもいいのだが。
 王太子の寝室内からは、しばらくして何故か唐突に怒鳴り声が聞こえてきた。それが自分に無関係であるわけがなく、しかし異変が起きた直後ではなく、数拍おいた後になって急にそんな声を上げるというその意味が全く分からず、ぎょっとしたツァイトはその様子を窺いたい衝動に駆られたが、今はそれを探るよりも気配を殺してやり過ごす方が得策だと思え、彼は足を止めることなく全力でその場からの退却に専念し続けた。

「これは……」
 部屋の惨状は宮廷魔術士たるリュートをして二の句をつけることすら躊躇わせるもので、彼は呟いた口からそれ以上言葉を出すのを断念し、そのまま閉じた。ベッドの天蓋は破れ、布団からは羽毛が飛び出て部屋中に舞い、絨毯は割け、周囲の棚からは物が零れ落ちては破損しており、正面の石壁は一部砕けて凹んでいる。ヴァレンディの王城の調度品は一見地味かつ質素に見えるが決して質の悪い品は使っていない。布団は水鳥一羽からほんの一握り分しか取れない最高品質の羽毛のみを使って特別にあつらえさせたものだし、絨毯は八十年もの月日を国王の足元で見守ってきた由緒ある逸品である。それ以外のものも当然のように、次代の聖王国国王の所有物に相応しい来歴を持っている。修繕にいくら掛かるのかと頭を抱えるのは本来リュートの担当ではないが、しかしそれでもやはり自然とその辺に考えが行ってしまう彼を吝嗇(りんしょく)だと責める者はいるまい。
「……まあ修繕費については王子のおこづかいから引くからいいとしまして」
 頭痛を我慢するように目を閉じて、指先をこめかみに当てて静かに呟いたリュートの横顔に、王子が驚愕の張り付いた顔を向けた。
「え!? 何さらっと怖いこと言ってるの!?」
「割賦で構いませんよ、心配しなくとも」
「いやそういう問題じゃないし! ていうか割賦でもこれ相当なもんだし!?」
「で、一体何があったんです?」
 そこで初めて王子の方を向いてリュートが問うと、幼き主君ははたと気付いたようにまた別の意味で慌て出し、興奮しているということを伝える以上の意味を成さない身振り手振りを交えて訴えてきた。
「そ、そうだよ! 賊が! なんか殺し屋っぽいのが! そこから!」
 リュートは示された開けっ放しの窓に寄り、外を覗いてみたが、特にそれらしき気配は察知できなかった。ただ、窓の直下の植え込みが潰されているのが暗がりの中になんとなく見える。
「もう近場にはいないようです。或いは気配を殺して潜んでいるか。まあどの道、そのような手合いは後から慌てて追いかけた所で捕らえるのは至難でしょう」
 室内を振り向いて告げたリュートに、王太子殿下は何やら非常にご不満な様子だった。
「何でそんな落ち着いてるのさ」
「慌てれば三倍速で追跡できるようになるというならいくらでも慌てますがね。王子、あなたももう少し落ち着かれたらいかがです。敵前でそのような振る舞いをなさっては侮られるでしょう」
「いや、……敵前でまで騒いではいない、けど……」
 如何なる時も一国の王太子としての振る舞いを忘れないようにと教えたつもりで、実際にこの幼き王子はその要求に概ね完璧に答えてはいるが、近しい者の前では素の子供っぽさが顔を現す。尤もリュートも、そこまで厳密に己を抑えさせるつもりはないのだが。
 とりあえずまずは真冬の寒気を室内に取り込む、開け放たれた窓を閉めようと取っ手に手を伸ばした、その時。
 がさがさ、と部屋の奥で何かが立てた物音に、それまで王子をからかっていたリュートは機敏に反応した。
 すぐ間近で起きた不審な気配に全ての意識を移し、それを検めようと音のしたクローゼットに歩み寄る。
「あっ。ちょっとそこは待った……」
 それに気付いた主が何故か制しようとしてくるが、臣下は従わなかった。
 手早く開けたクローゼットの扉の奥にあったのは――
 布をふんわりと敷き詰めた木箱と、その中に鎮座する、子猫。
「にゃあ」
 愛らしく潤んだ瞳で見上げて鳴いてくる子猫を黙って見下ろして、やがてぐぐぐとリュートの顔が既にやや腰が引けている王子の方を向く。
「王子ッ! あれだけもう猫拾ってきちゃダメだと申し上げたでしょうが!」
「あああバレた!?……じゃなくて、えええっ!? 侵入者にはあの反応なのにこっちでは怒るの!?」
「怒りますとも! 城内にあと何匹猫増やせば気が済むんですか!? 廊下を通ればにゃーにゃー庭木の陰からにゃーにゃー大変なんですよ可愛くて可愛くてもう!」
「可愛いなら万々歳じゃないか、じゃなくて、今はそれよりもー!」
「万々歳じゃありません、トイレだけは躾けてありますがドアで爪とぐわカーテンに登るわ大変なんですよ!? こないだなんて応接室の天井近くまで子猫が三匹仲良くカーテンよじ登っててどうしようかと心底悩みましたよ私は!」
「ちょっ! そんな可愛い光景なんですぐ僕に教えないんだよ!」
「確かにあまりにも可愛すぎて私も一分ほどそのまま和んで見てましたがそうこうしてるうちに落っこちでもしたらどうするんですか!」
「そ、それは困るけど! すごく困るけど! あああ見たかった鈴なり子猫見たかったああああ!」

 ヴァレンディアの王子が、ツァイトが想像だにしない内容の絶叫を響かせているその頃には、合流した二人の侵入者は安全圏までの離脱を成功させていた。


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