レムルス王国聖騎士団の事件簿〜ヴァレンディ特殊作戦(3)

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 作戦その(3)・夜襲



 暗夜に包まれてもなお優麗な聖王国の王宮――白鷺にも似るその城の足元に、今、二つの黒い影が疾駆していた。
 月の隠れがちな夜ではあったが、王宮の庭内は決して暗闇に満たされているわけではない。所々に魔術による揺らぎのない明かりが灯され、周囲に厳しい視線を配り警戒する兵士たちの持つ物々しい槍斧を物々しく照り輝かせている。兵士たちは一様に緊張した面持ちであった。さもありなん、今宵、この城は大陸中から数多の客人を迎え、これ以上のない厳戒態勢を強いられているのだ。兵士たちは、ねずみの一匹をも通すまいと意識を凝らし、外部からの侵入者に対し注意を払っていた。
 しかし、影はそんな兵士たちの目を掻い潜り、庭内を移動していた。前述の通り、宮殿内のそこかしこで警戒の目は光っていたが、主にそれは外部からの侵入に対して向けられていて、既に内部に入っているねずみは辛うじて動く余地を得ていたのだった。
 二つの影は、比較的警戒の薄い中庭に辿りつくと、木陰で死角となる場所から鉤爪のついたロープを投げてテラスに引っ掛け、手早く登っていった。外壁を蹴って上階へと辿りつくと二つの影はテラスの床を這い、細い窓枠と僅かな窪みに手足を引っ掛けて明かりの届かぬ壁を伝って一路進んでいく。その遅滞のない手際は、これが事前から綿密に計画され周到に準備されたものであると窺わせるものだった。
 ――と。
「あっ」
 二つの影のうちの一つ――前方を進む影に付き従うように動いていた、それに比べると随分と小さな影が不意に小さく声を上げ、それに驚いたようにもう一方の影が後ろを振り向いた。そして、後ろの影が壁の突起から片足を滑らせているのを見ると慌てて片手を伸ばし、その腕を支えた。
 突然の危機にパニックに陥りかけていた小さな影はその支えで落ち着きを取り戻し、冷静に体勢を立て直した。
「ちょ、もう……ビビらせないで下さいよ……」
「す、すまない」
 大きな影がかける囁き声に、小さな影も囁きで謝罪する。それは、青年と幼い少年の声音だった。青年である方の影が今しがた少年を支えた手で、ついでのように額を拭う。実際の所は青年の頭部を含めた全身は黒ずくめの衣装で覆い隠されていて、彼の手が素肌に湧いた汗を拭い取ることはなかったのだが。
 そうこうしている間に少年が再度前進の準備を整えたことを確認すると、黒影の青年は、ざっと進行方向に目を向けて、囁いた。
「もう少しですから落ちないで下さいね、ディルト様」
「うむ、もう心配はかけんようにする。ツァイト」
 ――影は、ツァイトとディルトだった。
 傍から見ると不審極まりない、発見されたらその場で斬殺されてもおかしくない姿の騎士と王子の向かわんとする先は、この城の最奥と言っていい位置にあった。それは、この城においてどこよりも――数々の秘宝を収める王家の宝物庫よりも尚警戒の厳しいはずの場所である。
 隠密裏に二人が向かっているのは、この聖王国ヴァレンディアの王太子、ウィルザードの寝所だった。

 ヴァレンディア王族一家の住居は、会議場や国王の執務室のある本殿三階の一角にあるらしい。優美な立ち姿を誇るヴァレンディ城の中では比較的下層に位置するフロアである。
 ツァイトは城を見たときから漠然とではあるが、ヴァレンディアの王族たちは城下を見下ろす塔の様な作りになっている王城最上階にでも住まっているのだとばかり思っていたのだが、実はそうではなかったらしい。古い時代には王家はそこを私室として使用していたこともあったそうだが、四代前の王の時代からはずっと国王の寝所を含む私室は執務室と同じ階に用意されているという。政務に打ち込むあまり休む際に最上階の寝所へ移動する手間を惜しんだ当時の王が、執務室の近くに寝床の方を移させたというのが始まりなのだそうである。その王の勤勉さに倣うというのがその習慣が続けられている理由だそうだが、もしかしたらそこまで勤勉でない王も、かなり階段を登らなければ辿りつけないことが窺える城の上階にまで上るのは面倒に思って「このままでいいや」などと判断してきたのかもしれないと、こっそり思うツァイトである。
 歴代の王の真意はさておき、今のツァイトにとってそれは実に助かる事実であった。内部の警護があまりにも厳しくそれを回避するルートが見出せなかった為、侵入経路は外壁伝いに行く方法を採用したが、もし目的地がそんな場所にあったらそのアプローチ方法すら不可能になる所であった。ツァイトは高所恐怖症ではないがそれでも下から見上げる尖塔は、そこから逆に地上を見下ろすことを想像するとぞっとする程の高さがある。尤も、三階という高さも、柔らかい地面に上手く着地すればともかくとしてうっかり落ちたら十分生命に危険が生じる高度ではあるのだが。
 二人の侵入者は予定通り外壁を伝って王太子の寝所のある区画にまでやってきていた。ここまで呆気ないほど順調に、全く兵士に発見されることなく到達することが出来ている。それもこれも、この作戦行動を指示した悪魔の持つ情報とそれを用いて自ら立てたらしい侵入計画の正確性のお陰である――が。
 ツァイトはテラスのない窓の一つの前で足を止めた。外から見ると他にも無数にある窓と全く変わらない作りをした透明な硝子の窓で、その外側には鎧戸もつけておらず内側に薄いカーテンが引いてあるのみである。
 しかしこここそが、彼らの目的地の、入り口であるのだった。
 そしてまたここが、事前に把握させられた指示書には載っていない行動の開始地点でとなる。これ以降の具体的な行動は現場での作戦指揮者――つまりツァイトの裁量に全て一任されているのだった。
 ツァイトは、ここに至るまで幾度もそうしてきたように窓の内側からは見えないように体を屈めて窓の下をくぐって窓の反対側へと移動した。しかし今回だけはディルトは元の場所に残したまま、自分だけである。窓の反対側というすぐ目の前の予定位置まで移動を完了し姿勢を整えなおした全身が酷く重く感じられたのは、ここまでの疲労の所為ばかりではあるまい。ゆっくりと背筋を伸ばしつつ、ツァイトは音を立てずに息を吸い込んだ。
 一つの窓を挟んで反対側の壁に張り付き息を殺しているディルトが覆面の隙間から無言で青い瞳を向けてくる。それに答えてツァイトは軽く頷いた。標的は就寝している子供とはいえ、いくらなんでももう言葉で合図を送りあうことは出来ない。
 ツァイトは窓の隙間から薄刃の短剣を差し入れ、中央の掛け金を一気に押し上げた。
 ……きん。
 涼やかな音が夜気に染む。音はごくささやかなものではあったが、静まりかえった空気には酷く大きく響いた気がして、ツァイトは覆面の下のこめかみに汗がじわりとにじむのを感じた。直ぐには行動を起こさず、しばしの間室内の気配を壁越しに伺っていたが、中の王子や、近辺にいるであろう見張りが何らかの動きを見せる気配は無かった。
 いける……か。
 作戦遂行が可能であるという判断を下して、しかしツァイトは喜びでなく落胆を感じていた。いっそのこと今のうちに目を覚ましてくれりゃ全てご破算になってくれるのに。
 けれども残念ながらそんな彼の切なる願いを叶えてくれる天使などこの世には存在しないようであった。いるのは今も部屋で良い知らせを待って笑顔をたたえているであろう女神の顔をした悪魔のみ。なんかもうこのまま逃げたり出来ないだろうかとかなり真剣に思う。貴族の地位も、聖騎士の位も全て投げ出して。このままこのヴァレンディアの城を下り城下を抜けて街道に出て遥か彼方まで歩いて歩いて歩き通して最果ての農村辺りで畑を耕すとか。無理だろうか。
 無理だろうナ。
 何故だろう。どれだけ逃げてもあの邪悪な笑顔から逃げ切れる気がしないのは。
 諦めて目の前の現実に意識を戻す。
 ツァイトはディルトに窓の外に残るように仕草で告げ、そっと窓を開いて窓枠に足をかけた。音もなく飛び乗り、飛び降りる。上等な絨毯はツァイトの足音を吸収し、彼の気配を殺すのを手伝った。
 ツァイトは着地の姿勢からゆっくりと身を起こしながら周囲の様子を伺った。重々確認した上で部屋に踏み込んだ以上当然ではあるが、室内には眠っている少年以外には誰もいなかった。部屋にある気配は、すう、すうと調子を変えることなく続く静かな寝息のみである。ここで、何者かが潜んでいたとすればツァイト以上の使い手であるということになる……
(って、俺以上の使い手なんてごろごろしてやがんだけどな)
 あの悪魔は何をどう評価しているのか、一国の世継ぎにして自分の最愛の一人息子の身命を預けてくるほどにツァイトを信頼してくれているようだが、ツァイトはサージェンのような戦闘の天才とは違うのだ。戦闘能力や状況判断力など騎士として必要な総合能力は、聖騎士団員である以上一般の騎士よりはマシかもしれないが、聖騎士としては決して突出しているという程ではない。彼が出来ることならば余裕でこなせる者は、サージェンをはじめとして聖騎士団内にはごろごろといるのだ。つまる所、聖騎士団と同等以上の錬度の高さを垣間見せたこのヴァレンディアの騎士団にもそんな奴らはごろごろいるとも考えられるわけで、どれだけあの悪魔が彼の事を信頼しようとも、彼がそれに答えられる可能性はそう高いわけではないのである。ツァイトが今ここで何かしくじれば、彼ばかりでなくこのディルト王子も、ひいてはレムルス王国自体をも簡単に危機に陥れる羽目になる、しかも本来全く不必要であるはずの重責を、何故、どうしてあの悪魔はこうもいつもいつもいつもいつも……
 ……考えるのやめよ。
 どうせ愚痴を重ねた所で逃げることは叶わないのだ。考えれば考えるほどに虚しくなってくること請け合いである。
 ツァイトは今は、任務の遂行ただそれだけに集中することに努めた。このまま対象の口を塞いで声を出させぬようにして、目を覚まさせ、しかる後に……
 天使の笑顔を浮かべる悪魔――言うまでもなく王妃ルシーダから与えられた任務を思い出して、ツァイトは腹の中で極大の溜息をついた。

「お願いが御座いますの」
 なにやら含みのある発言を投げかけられた歓迎の宴の後、王妃に部屋に呼びつけられたツァイトは、開口一番にそのいつもの悪魔の呪文を口にした微笑を湛える貴婦人にうんざりとした視線を投げた。王妃に対して無礼極まりないその態度は、近侍の者がもし見たならば激しい叱責が飛ぶことは疑うべくもないものだったが今は人払いがされており、王妃自身はその程度では眉の一つも動かす人物ではないということは分かりきっている。
 この忌まわしき呪文の後に続く言葉は、毎度毎度人の度肝を抜いてくれる内容ばかりであるのだが、今回も例に違うことなくツァイトの目玉をあまねく星々の彼方にまですっ飛ばすことに成功した。
「ウィルザード様の、サインが頂きたいんですの」
「……サイン?」
「ええ、サインですわ」
「なんのです?」
 ツァイトがまず連想したのは条約などを締結する際に行う調印式でのサインだが、そんなものを一騎士であるツァイトに依頼されても困る。いつも困る事ばかりしか言わない王妃ではあるが、これは外務大臣か何かに要求するような内容であってお門違いも甚だし過ぎる。
 と、王妃はツァイトの勘違いに気づいたか、いいええ、と訂正してきた。
「署名とかそういうものでなく、普通にサインですわ」
「普通に……って、えーと、舞台俳優かなんかにファンがせがむような……?」
「そうそう、それですわ、それ。この紙にですね、きゅきゅっと、サインを頂いてきて欲しいんですの」
 言って王妃は厚手の色紙と描画用の木炭を手渡してきた。
 それを両手で受け取りながら、ツァイトは思わすため息をつく。まあ、確かにヴァレンディアの次期国王様と言えば有名人ではあるけどな。でもサインってあんたね。
 とはいえろくでもない任務には違いないが、いつもに比べたら格段にたやすい仕事ではある。かのヴァレンディアの王族にこんな用件でアポイントメントを取り付けられるかどうかは甚だ謎だが、一応立場的には同格であるレムルス王族直々の依頼とあればどうにかなるだろう。
「はぁ、まあ分かりました。では行ってきます」
「どこへ行くのです?」
 早速踵を返し王妃の前を辞そうとしたツァイトに、王妃は後ろから不思議そうに声をかけた。
「何って、サインもらってくるんでしょう?」
「まさか、殿下に直接サインくださいなどと言いに行くのではないでしょうね」
 咎めるというよりは幼子を嗜めるような口調で言う王妃にツァイトはまさかと肩を竦める。
「いや、そんなことは。俺みたいなぺーぺーがいきなり余所の王家の方に直接お目通りなんてできるわけないじゃないですか……。具体的には思いつかないですけど、どなたかにお願いして頂いてもらうしかないでしょう」
「同じ事です。駄目です、そんなことは」
「……は?」
 思わぬ言葉に目が点になる。
「レムルス王族の誇りにかけて、他国の王族の方に物を乞い、頂くなどという恥ずかしい真似が出来るわけがないではないですか」
「……はぁ? あの、でもサインが欲しいんですよね?」
「ええ。是非ともディルト様に、ウィルザード様のような立派な方になっていただきたいという願いを込めて」
「……でも物を乞うのは駄目なんですよね?」
「レムルス王国の誇りに傷がつきます」
 しばし熟考したが――分からない。
「…………、どうしろと?」
 問うツァイトに、王妃は自信満々に頷いて見せた。
「簡単です。誇りが傷つかない形にすればよいのですわ。私に妙案が御座いますの」

 王妃の説明はこうだった。
 つまり、レムルスの名前を出さずに、誰だかわからないままに、もらってくればいいわけです。
 誰だかわからないようにするには、顔を隠せばいいわけです。
 顔を隠して、こっそりと頂きに行けば、ほら、どこにも問題ありませんでしょう――?

(間違いは、どこからだったんだろう)
 さっき考えるのやめよう、と思ったばかりの無常さに、いつの間にか思考が戻っている事を感じてツァイトは首を振った。どこからもなにもない。言うなれば、奴の存在自体が端から間違いだ。
 この無限の悪夢に絡め取られた以上、彼がやるべきことはただひとつであった。ヴァレンディアの王太子の寝室に不法侵入し、それを脅して(やり方自体はツァイトに任されているが脅す以外になかろう)、サインを書かせる事のみである。なんていうか、一言で言うと死にたい。
 しかしながらツァイトはその心の奥底にある望みを押し隠し、王子のベッドの傍らに立って、最後の観察を行った。これだけ間近に迫っても、少年は安らかな寝息をわずかばかりも乱していない。約束されているはずの安眠をこんな馬鹿げた用件で妨げる事を胸中で詫びながら、ツァイトは眠る少年の口元を覆うべく腕を下ろした――
 瞬間。
 何の前触れもなしに殺気じみた気配に首筋を撫でられた錯覚を覚え、ツァイトは下ろそうとしていた手を引き同時に後ろに跳躍していた。
(なん……?)
 己の第六感が下した指令に戸惑って、けれどもツァイトはその危機感が命じるがままに前方に意識を凝らした。
 その前方――
 少年の上掛けから、細い腕が伸びていた。
「あれ、捕まえたと思ったのに」
 聞こえてきたのは、蜻蛉か何かを捕まえ損ねたかのような、落胆にも至らないごく軽い声。それを上げたのは、無論、目の前の腕の持ち主……
 ヴァレンディア王太子ウィルザード。
 ツァイトの進入に気づき、目を覚ましたというのか。それどころか動揺の気配を微塵たりとも見せず眠った振りを続け引きつけて捕らえようとした?
 ツァイトの背に戦慄が走る。
 少年は悠然とベッドの上に身を起こし、丸いダークブラウンの瞳をこちらへと向けた。
「こんな王宮の奥地までようこそ。まさか僕が何者か知らずしてここまで来たということもないだろうから、自己紹介はしないけれど」
 いかにも子供らしい可愛らしさすら感じる声質であるにも関わらず、子供らしからぬ威厳と風格を感じさせる声。
「いかなる意図があっての狼藉か。答えて貰おう」
 そんな声で少年が――至高なる聖王国の王太子が、静かに問うて来た。


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