レムルス王国聖騎士団の事件簿〜ホーンテッド・キャッスル(8) |
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(8)魔女の仮面の落ちるとき 「メ、メリー……!」 呻くように呟く魔女の挙動を封じんと、サージェンはメリーの白い喉元に当てた刃をほんの爪の厚さほど突き出した。サージェンの剣は大振りながらもよく研磨されており、若い娘の滑らかな肌に僅かに食い込むように触れていた氷刃はたったそれだけで楽に素肌の張力を突破し毛筋のような傷をそこに生んだ。 「サージェン!?」 敵であるとはいえ、また、ほんの微細なものであるとはいえ女性の素肌に傷を与えるという行いに、ライラは非難じみた声を上げた。強きを挫き弱気を助くを以って旨とする騎士の観念から考えればそれはあってはならない無作法であった。しかも、戦闘中、剣を互いに交えている際ならばまだしも、一方的に剣を突き付けている状況で尚刃を進めるとは。 唖然とするライラの視線を受けて、しかしサージェンは冷淡な表情のまま眉一つ動かすことなく目の前の少女を見下ろしていた。傷口から膨れ上がるように沸き出でてきた鮮血が、彼の白刃を伝い、一筋の糸を描く。 その様子を見て、ひっ……と魔女はおよそ彼女らしからぬ情けない悲鳴を上げた。 「こちらは確かに本物のようだな」 対して、サージェンの声はあくまでも平坦であった。そんな調子もまた魔女の恐怖を煽る結果になったようだった。 「まっ、待ってくれ、分かった、分かったから。その子を、メリーを放しておくれ。お願いだよ」 演技とはとても思えない動揺ぶりのヒラデルヒアに、これまであまり大きく表情を変える事のなかったメリーが目を見開いた。 「お、奥様」 「その子は違うんだ、お前の思っているものとは違うんだよ。あたしなら何でも言うことを聞くよ。騎士団に出頭しろってならそうするから、その子に酷いことをしないでおくれ」 「奥様っ!」 メリーは鋭く声を上げた。 「なりません、奥様、そんなことはなりません! 私などの為にっ……」 「大人しくしておいで、メリー!」 返ってきたヒステリックなほどの叫びに、思わずメリーは口をつぐむ。魔女の言葉が示すのはメリーへの気遣いのように思えたが、その声は切羽詰まりすぎて鬼気迫るものがありそのような優しい感情を内包しているようには思えなかった。 ライラは尋常ではない剣幕の魔女とメイドをおろおろと交互に見比べて、最後にサージェンに視線を転じた。彼は、ヒラデルヒアの一挙手一投足を監視するかのようにじっと彼女を見つめ続けていたが、その視線を不意にライラの方へ向けた。彼女の意識が自身の方へ向いたことに、視界の端で気がついていたようだった。 「ライラ」 「なっ、何?」 普段と全く変わらない調子の声に、しかしライラは何故か緊張感を感じて思わずどもった。 そんな彼女に、やはり普段と全く変わらない調子の声で、サージェンは告げる。 「あの魔女を破壊しろ」 「!?」 どもる声すら出てこず、ライラは絶句した。 「何言ってるの、サージェン! いくらなんでもっ……」 「その魔女は人形だ。壊しても問題はあるまい。その魔女が人形となれば、本物の魔女は別にいることになる。それがこの少女であるのなら、魔女がこの娘をこれほどまでに庇う理由も頷ける」 確かに――。ライラはサージェンの言葉に半ばどころでなく狼狽しながらも、ヒラデルヒアを観察した。魔女は己の腕を庇うように押さえていたが、その手の下にあるものは隠しようがない程大きいものだった。それは、傷口ではなくひびだった。柔らかそうに見えた白い皮膚に、焼き物のように大きなひびが入っている。先程、サージェンが破壊し尽くしたビスクドールたちのように。サージェンの言う通り、メリーに危害を加えられることを極端に恐れる態度も、そういうことであるのなら無理なく納得出来る。 けれども…… 「でもだって、人形? う、嘘、これが?」 人間の表皮に出来るはずのない大きなひびを見てすら、ライラにはその事が信じられなかった。こちらを懇願するように、けれども睨むような強さも持って見つめてくる瞳には明確な意思が感じられる。これまで何ら違和感なく会話も交したし、食事すら共にしたのだ。本当にこれが人形だというのだろうか? 「ライラ」 戸惑うライラに、サージェンが低い声を投げかける。 「それが仮に人形でなかったとしても躊躇する必要はない。それは、俺達に明確な害意を持って攻撃を仕掛けてきた敵だ。恐ろしく姦計に長ける油断ならない相手だということは分かりきっている。今の俺たちの戦力に、敵に情けをかけて手を緩めてやれるような余剰は無い」 彼はヒラデルヒアの投降の態度がポーズである可能性を懸念しているのだ。その可能性は大いに考えられることだった。事実、攻撃を仕掛けられるまでは完全に魔女の偽りの善意に騙されていたのだから。 ライラはごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくりと魔女の方を向いた。途中で、大き目の瓦礫を拾い上げる。瓦礫で敵を殴るというのはそれこそ騎士としてどうだろうと思わざるを得ない戦法だったが他に武器はないので仕方がない。真正面から、意味も無く忍び寄るような足取りでライラは魔女に接近して行った。魔女は苦虫を噛み潰したような表情で、けれども一切の抵抗をせず立っている。 ――と―― 「…………奥様あッ!!」 サージェンに動きを封じられていたメリーが、突如甲高い声で絶叫を上げた。はっとして、思わずライラは魔女から視線を外してその少女の方を見る。この主従の罠かという意識は働かなかった。ただ、抵抗をすれば、彼女はその場でサージェンに斬り捨てられかねない、その危惧だけが心臓を凍らせた。 サージェンの、素顔、という程に彼が覆い隠そうとしていたものではないが、その表面から薄くて不透明な一枚の皮をめくったような位置にあるもの――これまでの余り長いとは言い難い付き合いでは掴みきれていなかった何かに、ライラは少し気づいたような気がしていた。 彼ほどの腕前を持つ剣士なら当然持っていて当たり前であったはずなのに、今まで全く考えもしていなかったもの。 端的に言えば、冷酷さ。敵への徹底した無慈悲。敵と認知しさえすれば、例えそれが女性であろうとも、恐らくは子供であろうとも全く容赦されることの無い殺戮の意思。先程の魔女の幻覚の中で見た少年の姿を脳裏に描いてライラは直感した。サージェンの中では目の前にいる人間は恐らくその全てが敵か味方のどちらかに二分されていて、ライラはたまたま味方に分類されていた故に気づかないでいたが、今の彼とは随分乖離した雰囲気を持っているとあの時は思った少年は、今のサージェンにもしっかりと住み着いている。多分、彼の根幹として。 ――ライラが制止の声をかけるよりもその挙動は早かった。 サージェンの剣がメリーの白い喉を貫く――ことはなく。 メリーは、魔女に対し叫ぶのとほぼ同時に槍の柄で喉元にあるサージェンの剣を跳ね上げていた。喉から、顎を通って耳あたりまでが、浅くではあるが大きく切り裂かれる。その様に、サージェンはほんの僅か瞳に驚愕を乗せた。魔女を人形と仮定していた以上、身を捨てての抵抗は有り得ないと踏んでいた中で受けたこの反応に驚いたのか、それとも自分がこれほど優位な状況で剣を払われたというかつて無い経験に愕然としたのか。しかしそれも一瞬の事で、サージェンはすぐさま槍を振り上げたメリーに対し剣を閃かせた。 「……ッ!」 けれどもこのメイドの少女も相当な使い手であるようで、ライラであればまず間違いなく心臓を一突きにされているサージェンの一撃を、旋回させた槍の柄で噛み合わせるようにして受け止めた。それだけの獲物を振り回している見た目では決して分からない豪腕はやはり伊達ではないらしく、聖騎士団でも有数の偉丈夫であるサージェンの重い攻撃に小揺るぎもせず耐え切っている。 「……ふっ」 微かに、サージェンが笑うような気配を見せた。サージェンは、訓練中に――少なくともライラと手合わせしている最中に笑うことなど無い。実戦形式での訓練で彼女を打ち負かしたとしても、表情に喜びを浮かべたりなどしない。それは彼にしてみれば当然だったのだろう。大人が子供に打ち勝って喜んでどうするのだ――。そう、メリーに対し笑みを向けたのは彼女に対する賞賛だった。少なくともこの相手が、自分と戦えるレベルであることを、ライラがまだ全く到達していない力量を持つ相手であることを認める証。 噛み合わせていた互いの武器をどちらからともなく打ち合わせてから引き戻し、二人の戦士は対峙し合った。手にしているのは全く形状の異なる武器ながら、半身を引き相手に対しやや斜めに身体を向けるような一見酷似した構えで、相手の息遣いを探る。 先に動いたのはメリーだった。漆黒のフレアスカートを花開くようにたなびかせ、大振りな槍を剣の如く軽やかに扱ってサージェンに対し突撃をかける。サージェンの剣は届かず、かつ自身の攻撃範囲には十分入る絶妙な間合いに迫り、メリーは槍を上段、中段、下段と恐るべき速度で突き出した。 が――受けるサージェンも只者ではない。まさに目にも止まらぬ速度で繰り出される槍の連撃を全く淀みの無い体捌きで完全に躱し切ると、メリーの呼吸と呼吸の間の一瞬の隙をついて一歩足を前に踏み出す。巧みな攻撃を見せてくれた返礼とばかりにサージェンが、刀身がライラの身長ほどもある大剣を片腕で薙ぎ下ろすという絶技を披露すると、「くっ……」と小さな呻き声を上げて今度はメリーが後ろに下がる。 少女が後退したことで開いた空間に、赤い飛沫が散る。 片腕で保持することによって間合いを伸ばしたサージェンの刃が、メリーの利き腕を鋭く裂いていた。 サージェンは、剣の構えは解かずやや腕だけ下げて、己の剣の切っ先の向こうにその少女の姿を置いく。彼女は細い片腕からどくどくと流れ出る鮮血を押さえようともせずに、両手で硬く柄を握り締めていた。血飛沫を散らすほどの出血は相当に酷い物だった。このまま血を失い続ければ、五分と意識を保つことは出来まい。しかしそれでも尚、保身よりも攻撃の意思を優先させようとする敵手に、サージェンは酷薄なまでに冷静な声で一言、語りかけた。 「もう、勝負はついたように思うが?」 これ以上対戦を続けて相手に回復不能なダメージを与える事を避ける為というよりはやはり無駄な手間を省く為なのだろう。冷たい声音は語らずともそう彼の内心を確信させる。けれども、どちらにしろ受け入れた方が彼女にとっても利があると思われる降伏の勧告に、メリーは頑として武器を捨てようとはしなかった。 「まだですっ!」 ぎりっと音を立てるほど強く槍を握り締め、残った息を全て吐き出すようなメリーの雄叫びに、 「……そうか」 サージェンは一言、呟いた。 諦めも、残念がる様子もない、ただの確認、といった様な声で。 「サージェンっ!」 ライラは思わず叫んでいた。彼は――ためらわない。彼が出来る最大の妥協を少女が蹴った以上、彼にこれ以上彼女を顧みる必要性などないのだ。戦士として、それは完璧な精神であるのだろう。けれども、それはライラにとって納得の出来るものではなかった。 サージェンが、対戦者を真っ直ぐに睨み据え、床を蹴る。 ライラは手に持っていた瓦礫を放り捨て、踵を返してサージェン達の方へと駆け出した。どう見た所でサージェンの剣がメリーの首筋に到達する方が早そうだったが、まだ実際に到達していない以上はライラが彼を制止するのをやめる理由にはならなかった。彼女は、そういう少女だった。 「やめ――!」 「ぎゃっ」 ライラの声にかぶって、悲鳴が聞こえる。 思わず、目の前の光景を凝視したまま、ライラは足を、走る形のまま固まらせていた。 サージェンの剣はまだ、メリーの元には届いてはいなかった。――その悲鳴は何故か、ライラの背後から聞こえたものだった。 「……お、奥様っ!」 メリーがサージェンから視線を外して、彼を超えてその向こうのライラの背に当たる位置に目を動かしたのを見て、いまいち瞬間的には状況を把握しきれていなかったライラはまずそのことについて声を上げそうになった。メリーのその行為は、一騎打ちの最中に相手から目を離すなどという行為はサージェンにとってはこれ以上ない勝機になる。 が、サージェンも自分の視界の範囲外で起きた現象に意識をほんの少し奪われたらしく(もしかしたら彼にとってはまだ保護対象である後輩の身に何かがあったかもしれないことを危惧したのかもしれない)、方向的には彼の方へだが彼の存在を完全に無視して、負傷しても手放そうとしなかった槍すら投げ出して走り出しているメリーを視線で追うような形で悲鳴のあった方へと振り向いた。 メリーはサージェンの剣の間合いの中に無手であることを全く意に介せず入り込み、そのまま彼の横を通り過ぎる。同じようにしてライラの傍も駆け抜けてその背後、床に力なくうずくまっている主の元へと滑り込んだ。 「奥様、奥様っ! しっかりなさってくださいっ!」 悲鳴のような声を上げながらメリーは魔女ヒラデルヒアの肩に縋り付く。そのヒラデルヒアは、「あ、あ……」と細い呻き声を上げながら顔を両手で押さえ込んでいた。 その仕草からライラは最初、魔女が泣き崩れているのかと思った。だが、その理由が全く分からない。また、尊大ですらあった魔女がそのような態度を取ることも全く想定外で、ただただ予想だにしていなかった光景に呆気に取られて眺めているうちに、別に魔女は泣いている訳ではないらしいことにようやっと気がついた。 ぱり、ぱり、と、薄氷が割れていくような音が、聞こえる。 それは、魔女の手の下――ヒラデルヒアの顔面で発生している音であるようだった。 ライラと……そして、彼女の傍まで歩み寄ってきたサージェンは、わけも分からないままその様子を眺め続ける。魔女を注視していたライラはふと、うずくまる彼女らの膝元に、両手を広げたほどの大きさの瓦礫が落ちているのを見つけた。それはつい先ほどまでライラが手にしていた、魔女に対して武器として用いようとしていたあの瓦礫であるように見えた。 それが魔女の足元に落ちていてその魔女が苦痛に喘いでいる、ということは…… 「えーと」 放り出したときに、魔女の顔面にちょうど命中させてしまった、ということだろうか。やはり。 ばつの悪い思いが胸の中に去来するがライラはとりあえずそれ以上何を言うことも出来なかった。 ぱり、ぱり……謎の音は断続的に続いていたが、そこに、ぱらり、とか、ことり、とか言う何かが落下するような音が混じり始めてきて、ライラは目をしばたく。魔女の身に起きている変化をまじまじと見て…… 「……っ!!」 ライラは、息を呑んだ。 手で、必死に顔を押さえる魔女の、その手の下――魔女の顔面に、無数のひびが入っていた。見ればひびだけではなく、そのうちのいくらかは剥がれ落ちている様子さえ見える。ぱらり、ことりという音はその顔面が床に落ちる音であった。凝視している間にも、崩壊は絶え間なく続いていた。細かなひびに切り取られ、次々に剥がれ落ちる皮膚。否、皮膚にしては硬い、人形のそれのような硬く白い表皮。 しかし、ライラに息を呑ませたのはそういった現象のみでなく、その下にあったものだった。 剥がれた表皮の下にあったもの、それは…… ひびの入った白い肌よりももっと深く皺の刻まれた、年のかなり行った老婆の顔だった。 「……の、小娘……よくも……」 怪奇劇の舞台のような暗い城で命のやり取りを散々交した後、乱れた漆黒の髪の隙間から覗く老婆の顔に低い声で恨み節を吐かれて…… 「んきゃあああああああああああああああああああッ!!?」 ライラは先だって吸い込んだ息を遺憾なく全て悲鳴に変えて、古城の夜気を振るわせた。 「本当に、手癖も悪いって上に何て失礼な小娘だい。人様の顔を見て悲鳴を上げるだなんて」 自分の城で、主従ともども後ろ手に縛り上げられ床に座らされたまま、けれども調子は最初の通りに戻してぶつぶつと文句を呟く老婆に、いまだ完全には放心 状態から戻って来ているわけではないライラは、膝を心持ちかくかくとさせながら向かい合っていた。魔術も恐らく使えず、何より負傷しているメリーはともか く(一応止血は施してある)、魔女であるヒラデルヒアの方は例え手足を封じたとしても呪文を唱える口を塞がれていなければ無力化したとは言いがたいのだ が、もはや抵抗の意欲を失っているらしいことは明白だった。それでもサージェンは警戒して、魔女の口を封じようと考えたようだったが、どうにかライラはそ れを説得して、二人に剣を突きつけて抵抗の気配があれば即座に対応することが出来るようにすることで納得させた。 魔女の口を自由にさせたのはライラにも一応考えがあってのことで、彼女はその考えを実行に移すべくへっぴり腰ながらも魔女の前に立っていたのだった。 「……何なのよ、それ」 これ以上なく端的に尋ねる。考えというのはもちろん、事の真相を魔女の口から問いただすことだった。――犯罪にかかわる部分についての動機ならば街の騎 士隊詰所に引っ張って行ってから担当官がいくらでも追及するだろうが、それでは内容を聞けたとしても要領を得ない伝聞になることだろうし、何よりもライラ が膝をかくかくさせる程驚いているのはそれではなくこの変貌についてである。 妙齢の魔女の顔は完全に剥がれ落ち、今はその下にあった皺だらけの老婆の顔が隠されることなく覗いていた。いつの間にか腕のひびも大分その崩壊の範囲を広げていたが、その下も同様で乾いてところどころ色素が沈着している老人の腕らしきものが見え隠れしている。 「それってあんた人様の顔を……」 また魔女が「だから小娘は」という表情をしかけたが、自分の立場を鑑みてか、それとも彼女にその手の文句を言っても詮無い事に気がついたのか、軽く肩を竦めることで魔女はその台詞を打ち切った。 「全く、レディの化粧を落とした素顔をあんまり見るもんでないよ。ああそうさ、化粧で誤魔化してたって奴だよ悪かったね」 「化粧……」 呟いて、ライラは床に落ちている白い破片のようなものを見下ろした。顔に硬いものが当たってぱりぱりとひびが入って剥がれ落ちたこの陶器の欠片みたいなものが…… 「化粧ってレベルじゃないでしょこれ!?」 びっとそれを指差して激昂するライラに魔女も完全に開き直る。 「あーあー厚塗りだよ厚塗りで悪かったわねこん畜生!」 「厚塗りってレベルでもないわよ!?」 「あんたみたいな小娘には分かんないさね、顔を石鹸でゴシゴシ洗ってそのままほったらかしてもそんなぷくぷくしたほっぺたでいられるようなあんたにゃね! いいかい小娘女の肌ってのはどう頑張ってもそのまま晒しておけるのは二十歳までなのさ! それを過ぎたら奈落へ直滑降! 真ッ逆さま! 洗顔したら即座に化粧水と乳液で保湿の膜を張り! しみやくすみはファンデーションを塗ったくって塗ったくって隠す! 顔から首から腕から足から全部そうやって覆い隠してようやっと完成品さざまあ見ろ! ははは今のうちにせいぜいいい気になっているがいい、あんたもいつかこっちに来るのよこっちの世界に来るのよぉぉぉ」 先ほどよりもずっと魔女という形容がしっくりくる容貌になった老婆に呪いをかけられるように下から見上げられ、ライラはそういうことでもないんだけれど という反論も出来ずに「ひー」と半泣きになりながらサージェンの腕に縋った。サージェンもその勢いにやや引き加減になりつつも、小さく嘆息して剣の先を向 けたまま魔女へと問う。 「お前が、本物の魔女ヒラデルヒアであるということで、間違いはないのだな」 「最初からそう言っているだろうが。ヒラデルヒア・ギルティス。当年とって百二歳の魔術使いよ、はん」 「ひゃっ……?」 憮然として回答するヒラデルヒア。ライラは思わず仰天して呟きかけたが、この場はサージェンに任せて自分は口を閉じることにする。サージェンはメリーに視線を転じて、再度魔女へと尋ねた。 「そっちは?」 「うちのメイドのメリーだって、これも言っただろう」 「ただのメイドであるはずがないだろう、それほどの使い手が。何者だ」 「何者とか言われても……」 追及するサージェンに、魔女は顔の皺の中に一瞬だけ心底困惑した色を浮かべて、横のメイドを見、サージェンへと向き直る。 「……ちょっと武術と料理が得意な普通の子じゃないか、変なことをお言いだね」 「…………」 魔女の声には微塵の迷いもなく、ただ、サージェンの言葉そのものに対する不理解だけが滲んでいた。 「この子は身寄りがないからあたしが親代わりみたいなもんで、何十年と世話してるけど、見ての通り気立てのいいそりゃあ良い子なんだよ。この件についたって、あたしに付き合ってくれてるだけなんだから、悪く言わないで貰いたいね」 なるほど親代わり、だから彼女に危害を加えられることに対しあれほど過敏に反応したのか。 一瞬ライラは納得しかけて、そのまま固まる。 ――何十年って。やっぱり何者だヨ……? 恐らくはその点はサージェンもかなり不可解に思ったのであろう、見た所ライラと大差ない年齢のメイドの少女を彼は一瞥したが、結局それ以上何も言おうとはせず、気を取り直すようにして次の質問を投げかける。 「それで、どのような意図があってこんな真似をした? 俺達の精気でも吸い取ろうと考えたか、魔女」 ようやく入った本題に魔女は少し呆れたような声で答えた。 「御伽噺の読み過ぎだよ、あんた。そんな素晴らしい魔術があればこんな化粧なんざする必要もないだろうよ。……もっとも、あんたたちの持ってるものを味わわせてもらおうと思っていたのは間違いじゃあないがね」 不穏当な発言に、サージェンは目を鋭く細めたが、魔女は泰然と続けた。 「別になくなるもんじゃない。魔術で記憶の欠片をちょっとばかり半具現化させてもらって、思い出の一つや二つを夢の中で見せてもらうってだけさ。事実は小 説より奇なりとはよく言ったもんで、人の人生を垣間見るってのは思いの他面白くてね。……ま、いい趣味でもないって事は自覚しているがね」 「そんなことの為に攻撃を仕掛けてきたというのか?」 サージェンの剣呑な口調にも、魔女は動じることはなかった。 「あんたの部屋での事を言ってるのかい? なら勘違いだ。あんたにぶつけようとした魔術、あれは別に攻撃じゃない。あれがあたしの言った記憶の欠片を取り出す魔術さ。ちょっと衝撃が強いように見え ただろうけど、あれは生体エネルギーと親和する力だから、身体に当たった所で別に痛くも痒くも感じないはずだ。実際、接触して撃ったあれに痛みは感じな かっただろ?」 顎をしゃくるようにして回答を求めた魔女に、しかしサージェンは頷かなかった。――確かにあの時彼の眼前を覆い隠した術が、最初にぶつけてこようとした術と同じものであれば、痛みどころか特に何らかの衝撃すら感じなかったのは間違いないが。 「……その後はそっちから剣ぶら下げて突っ込んできたんだから、反撃ぐらいするに決まってるだろ」 言ってから魔女はふんと鼻を鳴らした。 サージェンとライラは、同時に顔を見合わせる。二人は申し合わせたように、魔女とメイドからそそくさと距離を取って、会話を聞かれないように小声でぼそぼそと話し合い始めた。 「ライラ、これは……立件できるのか?」 「言ってることが本当ならだけど、無理ね」 即答せざるを得なかった。ライラ的にはプライバシーの侵害という立派な罪があるように思えるのだが、残念ながらレムルス王国の法律にはプライバシー権の 保証は明記されておらずそれの侵害に対する罰則もない。また、魔女の言い分通りならこちらが先に攻撃を仕掛けたことになるから、それに対して防御行動を 行っても罪になるとは考えにくい――もっとも、魔女側の紛らわしい行為から攻撃の必要性を感じたライラたちの行為も不問にされる状況だろうが。 「…………どうする?」 彼にしては大分逡巡した挙句、発せられたその言葉に、 「どうするもこうするも……どうしようもない……んだけど……」 ライラは、歯切れ悪くそう答えるしかなかった。 ――翌朝、街に戻ってから聞き込みを行った結果は、魔女の言い分は概ね信憑性がありそうだという裏づけが取れただけだった。 魔女は街では人間嫌いで通っていたが、街の人間にも稀に街を訪れる旅人にも、以前魔女の館に宿泊したことがあるものは何人もいるらしく、またその中で行方知れずになった者なども調べる限りは皆無であるらしいことが分かった。 おまけに、魔女のもてなしを受けた者が口を揃えて言うには、「そういえば何だか懐かしい夢を見た」との事で、「まあ不気味だけど飯も旨かったしメイドは可愛かったし(この件についての発言者は男性限定だが)呼んでくれるならまた行きたい」そうであった…… 「ふわぁ。ねむー……」 昨日の晩に宿泊する予定であった宿の一階に設えられたレストランと呼ぶには一枚格が落ちる作りの食堂で、角切りトマトソースのパスタをくるくるとフォー クに巻き取りながらライラは呟いていた。それを見て、目の前の席で新芽野菜のサラダをつつきながら、サージェンが穏やかに苦笑する。 「こちらに戻ってからすぐに調査を開始したからな。少し仮眠を取るといい」 時刻は昼下がり、といった頃。昨日程ではないが今日も少し遅めになってしまった昼食を口に運びながら言う彼に、ライラは「んーん」と首を横に振った。 「今晩まとめて休むことにするわ。折角の休日が勿体無いもの」 一日無駄に浪費してしまったことだし、と彼女は続けようとしたのだが、その言葉は飲み込むことにした。昨夜は大変な一夜だったが、とりあえず全部終わっ てみれば、無駄に浪費したという程悪いものでもなかったかもしれない。変わった体験も出来たことだし、何よりサージェンの過去だなんて素敵なものも見れた ことだし。喉元過ぎれば何とやら、といった感じのものかもしれないが。 結局魔女は、法的に処分することはやはり不可能そうだったので、放置することにした。……とはいえ褒められたことをやっているわけではないので、恐らく 魔術士の管理組織であるファビュラス教会に言いつければ何らかの制裁を与えることも出来るかもしれないのだが、ライラもサージェンも教会に渡りをつけるつ ては特に持っておらず、またその手段があっても事務手続きやら何やらで休日を潰す結果になるのも面白いことではなかったので見なかった振りを決め込んだの だ。 これからも彼女らはあの趣味の悪い趣味を続行していくつもりなのだろうが、一概にライラには彼女らの趣向を非難することが出来なかった。見ず知らずの人 間の過去には特に興味は無いが、サージェンのならば、喜んでご相伴に預かりたいくらいだ。……そんなことを思って、ライラはふぅと息をつく。 「どうした?」 ライラの不意の溜息に、サージェンが尋ねてくる。コーヒーカップを片手に、穏やかにくつろいだ雰囲気で。表情そのものは剣を握っているときと余り変わらないけれど、纏っている空気は別人のように違う。 (サージェンは) 首をかしげるように彼の顔を見上げながら、ふとライラは声に出さず独りごちる。 (どっちのサージェンが好きなんだろう) どっちのサージェンが本物なんだろうと思えば多分どちらも本物で、それ以外の答えはありえないから、そう考える。どっちが好きなんだろう。ライラ自身は どちらも好きなのでどちらでもいいのだが、もしサージェン自身が「味方」と一緒にいるときのくつろいだサージェンの方が好きなのだったら、ずっとそうで あって欲しいと思う。というかずっとそうでいさせてあげたいと思う。 「ライラ?」 付き合いの薄い人が聞けば無感情そうに聞こえるらしいサージェンの声の中に、ライラはしっかりと彼女への優しい気遣いを聞き取って、満足して笑顔を浮かべた。窓の外に視線をやりつつ、ライラは弾んだ声で告げる。 「あと二日の休暇、めいいっぱい遊びましょうね」 「ああ、そうだな」 嵐が去った街には青空が戻ってきていて、まだ所々に水溜りが残る路地を遥か彼方まできらきらと輝かせていた。 |
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