レムルス王国聖騎士団の事件簿〜ホーンテッド・キャッスル(4)

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 (4)魔女の戦場(いくさば)



 元々、サージェン・ランフォードは、寝床が変わると中々寝付けないたちであった。正確には枕が変わると寝付けないのである。聖騎士団に入団する以前――傭兵として身を立てていた時分は、一所に定住する事なく、大陸中あらゆる所を流離いながら生活していたのだったが、その頃持ち歩いていた手荷物の半分のかさを占めていたのは十年来の愛用品、マイ枕であった。雑穀のもみがぎゅうぎゅうに詰められた硬くて重く大きい枕は手回り品は最小限にするという旅行者の常識と真っ向から対立する物品であり、傭兵仲間の呆れの視線を一身に集め続けていたが、彼はどれだけ切迫した状況に陥ろうとも――これまでの例を一つ上げるならば、仮眠所が敵の急襲に遭って他の全ての持ち物を投棄して撤退しなければならなかった時も、それを手放すことはなかった。現在もそれは、聖騎士団宿舎二階南側十七号室に設置されている二段ベッドの上に安住の地を得つつ主に毎夜安らかな眠りを提供しているが、今回も当然のようにこの旅行に同道させてきている。但しその枕が主の帰りを待っているのは本来宿泊する予定であった宿においてであり、今、サージェンの頭の下にあるのは空気を沢山含んだ豊かな羽毛を内包する、柔らかくて軽くて大きくて黒い、備え付けの枕であった。
 サージェンは、上質な拵えの布団の中で寝返りを打った。柔らかい布団は、彼の大柄な体躯を女性のようにたおやかに包み込む。これはいい。だが、枕までもが同様に近い柔らかさだというのが、彼にとってはどうにも頂けたものではなかった。頭に与える抵抗感に、張り合いというか、覇気というものが全く足りない。以前、野外訓練を行った際に枕の携行を頑として許可しなかった班長、ツァイトに、この違和感と違和感がもたらす睡眠不足からなる戦意への影響などを事細かに説明したのだったが、彼は全く納得しようとはしなかった。
「覇気? なんだよそれ、覇気のある枕ってなに」
 そのような全く理解のない台詞を吐いてのけたのである。睡眠環境に頓着しない鈍感な性質の人間はこれだから、とサージェンは呆れたのだが、それに対する返答すらも、
「いや、訳分かんねえから……」
 そんな察しの悪い一言であった。全くもって愚鈍極まりない。
 ともあれ、そのような理由においてこの時、サージェンはやや眉を顰めた半覚醒の状態にあった。幼少より長年、傭兵稼業を勤めてきた経験上、腰掛けた体勢でも、最悪立ったままでも睡眠を取る事が出来る彼ではあったが、逆にそうであるからこそ安眠が許される際にはその環境の良し悪しに拘ってしまうのである。
 もう一度、寝返りを打つ。……何か違う。首を少しだけ傾けてみる。……やはり違う。どうにか現状における最善の寝心地を確保すべく、分厚くありながら窮屈な重みを感じない高級な羽毛の布団の中で巣穴にもぐる狸のような緩慢な動きをのそのそと続けていたサージェンは、ふと、ぴたりとその動作を止めた。
 外は未だ嵐が続いているようで、大粒の雨粒が雨戸を間断なく打ちつける音が響いている。灯も落とし窓も戸も閉め切った室内は真の暗黒に塗りつぶされている。
 視覚も聴覚も、当たり前に感じ、当たり前に感じぬ事象しか受け付けていなかったその時に。
 サージェンは、唐突に布団を跳ね上げるようにしてベッドから跳躍した。
 と、同時に、
 ぼすん!
 と、雨音の中に異質な衝撃音が響いた。どこか威力の足りなさそうな軽い音は、その音色の通りの破壊力であったからでは決してなく、ただ単に受け止めたのが柔らかなベッドであったからであろう。その証拠に、一抱えもある枕が放り投げられたかの如く宙に浮いた様子が頬に触れた空気で知れた。気配よりも息遣いよりも、もっと繊細な攻撃の意志とも言うべき物を察知し回避行動を起こしたサージェンは、己の想像以上に相手の存在が至近にあった事に、この時初めて気がついた。
(熟睡していたら)
 何とか、何故とか、そういったことを考えるよりも先に結論だけを想像して、背筋に冷たい汗を感じる。
(対応、出来なかった)
 長時間の任務行動中に仮眠を取る時のように浅い眠りの中に身を置いている、という場合だけでなく、通常の睡眠時でも、ある程度は外界の気配を察知する事が彼には出来る。だが――今の攻撃のような気配の薄さでは、さすがに反応しきれなかったであろう。たまたま意識だけは完全に覚醒していたからこそ回避し得たのだ。
 絨毯敷きの床に素足をつけた時にはもう既に、サージェンは剣を鞘から抜き放っていた。不意を討たれようと視界が利かなかろうと、剣士である以上敵前で剣を取る事は忘れない。飛んだ瞬間には既に次なる体勢制御について考えていた為着地地点の補正などは行う必要もなく、上体を起こすのみで構えを完成させ、それとほぼ同時に彼は、剣と共に枕元から拾い上げていた小石を床に投げ落とした。一瞬の間を置き、小さき炎を揚げてそれは燃え上がる――否、燃え上がったかのような明るさを、絨毯を焦がすことなくその場に生み出していた。
 これは『輝光石』――特殊な技法により熱のない光を発する魔術を法石と呼ばれる石に付加した道具である。『騎士の国』または『辺境の大国』との異名を取るこのレムルスは、こと魔術文化においては他国に十年分以上の後れを取る後進国であったが、国内最精鋭の軍団である聖騎士団にはファビュラスやヴァレンディア等といった魔術先進国より輸入された最先端の装備が支給されもする。この『輝光石』もまたその一つで、いちいち種火を起こす手間もなく、合図一つで炎を発生しない安全な光明を得る事が出来る画期的な物品だった。ただ、これに限らず魔術付加アイテムは非常に高価かつ貴重な為、一つ使用する毎に事後許可申請を提出せねばならない所が難点ではあったが。
 ともあれ、後の事は後で考えるとして、今は当座の問題を、濡れたような輝きを返す鈍色の刃の向こうに見据える。
 その対象であった敵手の姿を視認した瞬間、サージェンは表情を変えぬまま、しかし十分に意外な心持ちで呟いた。
「あなたか」
 彼の目の前にいたのは、黒衣の妖艶な貴婦人――この館の女主人、魔女ヒラデルヒアだった。『輝光石』があるとは言えその光は室内を全て照らし出すには十分ではなく、揺らめかぬ石の光が為す影の中、黒衣の魔女は、なお暗き闇を纏うかのようにして静かに佇んでいた。
「よく避けたねえ。寝っ転がってる相手に一撃を躱されたのなんて、随分と生きてるけれど生まれて初めてだよ」
 紅い唇から魔女は心底楽しそうに言葉を洩らした。
「どういう事か、説明して頂こうか」
 低く厳めしい声でサージェンは問う。視線でざっと魔女を検分したが、武器のようなものを持っている様子はなかった。先程の衝撃を考えて、敵の獲物は重装歩兵隊等で常用されているモーニング・スターのような大振りの打撃武器と考えていたのだが、その考察は誤りであったらしい。武器の一つも持たぬ華奢な美女は、サージェンの鋭い視線に晒されながら、しかし、余裕すら感じられる笑みを浮かべるのみである。
 戦闘能力において圧倒的に格差のありそうな相手に自然に感じた躊躇を、サージェンは即座に振り払った。見た目に惑わされるなど愚の骨頂だ。手弱女と見えても彼の者は魔女――恐るべき力を秘めた特異能力者である。訓練された魔術士は武装した敵兵一個小隊と相対するのと同等の危機感と警戒を持って臨まねばならない相手と言われるし、それは全くの事実として、彼自身も身を持って知っている。
 魔女は未だ、攻撃態勢らしい姿勢すら取っていなかったが、サージェンは、無音で床を蹴った。
 一瞬の後に、肉薄。そして流れるように、刃を振り下ろす。
 その時になってようやく、魔女はほんの僅かながら動きを見せた。しかしそれはあまりにも僅かすぎる動作だった。真っ正面から袈裟懸けに剣を振り下ろされながら、彼女はただ小さく吹き出しただけであったのだから。
 避けようともしない女に剣を振り下ろす事に、躊躇いを感じなかった訳ではない。もっとも、何の理由も聞かないままに惨殺するつもりはさすがになく、剣の平で殴打するつもりではいたのだったが、下手に受ければ鎖骨肋骨の一本や二本は軽くへし折れるだけの威力はある。けれども目の前の魔女はその事実を全く認識していないかのような気楽な姿勢を保ち続け、あまつさえ笑みすら零したのだ。
 躊躇いを感じなかった訳ではない。だが、剣速を緩めることもしない。
 サージェンは、内外に名高いその神速の剣でもって、魔女の細身に剣を食い込ませた――
「!!」
 と、同時に、床に手をつく低い姿勢で真横に跳ぶ。
 まばたき一つの時間だけ遅れて、目には見えない何かが屈めた身体の上を通過して行く奇妙な気配をサージェンは感じた。それが錯覚などではない事の証左として、頑丈な古城の石壁を揺らす鈍い衝撃音が直後、鳴り響く。
「おやおや、また避けられてしまった。何てことだい」
 声は、丁度今サージェンが剣を向けていたのとは全く逆の、背中の方角から聞こえた。
 半身を向ける構えになるよう振り向くと、妖艶な笑みを唇に佩く魔女が、部屋の入り口近くの壁に楽な姿勢でもたれかかって立っていた。一瞬前まで確かに彼女がいた場所には、もう何も、影も形も存在しない。たった今サージェンの代わりに強力な打撃を受けた、魔女から見て現在正面に位置する壁もついでに確認すると、こちらでは崩れかけた壁の一部がぱらぱらと音を立てていた。
「いつの間に」
 冷静に問うサージェンに、魔女は静かに首を横に振った。
「今、移動した訳じゃないよ。空間移動だなんて魔術を使うのは、御伽噺の魔術使いだけ。さすがのあたしも使えやしないよ。今し方、あんたが見てたあたし、あれはただの幻覚さ。魔術の基本さね」
 まぁ、と溜息のように呟いて解説を続ける。
「基本と言っても、作るのも破るのも、た易い、って意味じゃあないんだけどね。魔術で幻覚を生み出す、ってのは基本でありその全て。これまでこのあたしが必殺必中としてきたとっておきの不意打ちだってのに、あれで仕留められないなんて反則もいい所だ。あんた何者だい」
「…………」
 呆れにも似た賞賛の視線に、けれどもサージェンは応えない。ほんの数秒の間、回答を待つように間を置いたヒラデルヒアは、口元の笑みを崩さぬままに言葉を紡いだ。
「まあ、いいよ。ともあれ……あたしがこっちに来ておいて、正解だったね。メリーも無能じゃないけど、これだけの男の相手は、さすがにあの子には荷が重いだろうから」
 その一言に。
 サージェンの、普段は殆ど感情の表出しない表情に、ほんの僅か、変化が起きる。彼自身が己の感情を自覚するよりも先に、それを見た魔女がくつくつと可笑しそうに喉を鳴らした。
「おお怖。そんなに怒る事、無いじゃないのさ」
 彼が魔女に向けたのは、一見した所それほど変化に富んだ怒りの表情ではなかった。顔を鬼や化け物のように紅潮させたのでも、大口を開け怒号を発したのでもなく、ただ冷ややかなまでに鋭い、貫くような視線、これを向けたのみだった。けれどもその微々たる変化の中に潜む暗澹たる底深さは計り知れぬものがあった。彼を良く知る者であれば、彼が滅多に見せる事のない静かなる赫怒に恐れおののいたであろう。――ただ、魔女がそのような態度を取らなかったのは逆鱗に触れた事に気付かなかった訳ではなく、気付きながらもどういう思惑か、敢えて更に煽り立てようという意図があったからのようだった。
 彼の反応にどこか満足げに首を頷かせつつ、魔女は笑みを織り交ぜた声で告げる。
「そうかいそうかい、あのお嬢ちゃんがそんなに大切かい。そいつは……」
 狂暴にして蟲惑的な、微笑を浮かべ。
「残念だったね」
「貴様あっ!!」
 ――敵との間合いは、広い一室の端と端に近い距離、助走をつけたとしても数歩では到底埋め切れぬ程があった。
 それだけの距離を、しかしサージェンは相手に微動すら許さず埋めて、次の瞬間には女の胸の中心を、刃で一突きに刺し貫いていた。
「……っな……」
 空気の抜けるような声を上げ、ヒラデルヒアは呆然と自分の胸を見下ろす。深々と心の臓を貫く剣はどう見た所で明らかに彼女に致命傷をもたらすものであった。
「なんて、ことだい、……本当に」
 ずるり、と後方に滑り落ちるようにして倒れ込む魔女が、驚愕を声にしていた。
「ほんとうに」
 腕が、ふらりと宙を泳いで――
 ――サージェンの眼前で、ぴたりと止まる。
「あの子の事が好きなんだねえ、ヒューヒューちくしょー青春野郎ー」
 いきなりはっきりとした調子に戻った声と台詞に虚を衝かれ。
 思わず(これも滅多にある事ではないが)ぽかんとしたその隙に、サージェンの視界を、魔女の白い手のひらがふんわりと覆い隠した。


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