レムルス王国聖騎士団の事件簿〜ホーンテッド・キャッスル(3)

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 (3)魔女との会談



 部屋から一歩足を踏み出したこの瞬間、ライラのこれまで底辺を這いずり回っていた運気はいきなり最上級まで跳ね上がっていた。
 ライラが黒薔薇のドレスに着替え、与えられた部屋のドアから顔を覗かせると、その視線の先ではもう既にサージェンは身支度を整えて廊下で彼女を待っていた。息を潜めんばかりに密やかな彼女の気配に気がついた彼の顔が、くるりとこちらを向いてくる。
「どうかしたのか?」
 落ち着いたいつもの口調で尋ねてくる彼を見て、ライラはドアノブに手を伸ばしたまま体温を体感温度で三度ほど上昇させていた。
 サージェンが身につけていたのは、丁度聖騎士団の正装を黒く染めたような詰襟の礼服だった。やや長めの上着を剣帯で纏め、愛用している長剣を吊り下げている。その様はまさに、物語の中からやってきた清廉なる騎士そのものであった。実際の所、騎士などというものはそれこそ飽きるほど見慣れ、その実態をも夢が崩壊せんばかりに熟知するライラではあったが、それでも――否、だからこそ、であろうか――目の前の雄々しくも見目麗しい剣士の姿には、市井の少女たちが騎士という言葉を壮絶に勘違いして覚えるようなただならぬ感銘を受けた。
 ライラは、自分の頬に熱が集約されていくのを感じながら、ただただ吐息するばかりであった。
(ああ、はなぢ出そう)
 うっとりと、心中の深い所でそう呟く。そんな、夢と現のはざまを垣間見るかのようなぼんやりとした表情を不思議に思ったのか、ふと、サージェンが首を傾げた。
「どうかしたのか、ライラ」
 呟いてから、一つの可能性を確信したかのように、眉間に縦皺を刻む。
「それ程までに体調が悪いのか?」
 先程と同様に、その紅潮を発熱に因するものと捉えたのだろう。深刻そうなサージェンの表情を目にし、ライラは冷や水を浴びせ掛けられたかのようにはっと覚醒した。
「ち、違うわ、大丈夫! これは全然違うから!」
 けれどもただ無理矢理否定するだけの反論は、サージェンの眉間の皺を取り払うには全く力不足だった。生っ粋の貴族らしくプライドの高いこの少女は、他人に心配をかけるという事を嫌って、仮に本当に体調を崩したとしてもこれと同じ反応をする。サージェンは、ライラという少女と出会ってまだ二月も経たないうちに彼女のそんな性格を見抜いていた。
「無理をする必要はない。部屋で休ませて貰え。館の主には俺が丁重に礼を述べておくから」
「違うから、本当に!」
 そのまま本気で置いていかれそうになって、ライラは慌ててサージェンの黒衣を掴んだ。
「違うの、これは、サージェンがかっこいいからっ!」
 焦燥に急き立てられて叫んでから、ライラははっとして思わず口を押さえた。
 けれども当たり前ではあるが、今更口を押さえた所で既にそこから外に旅立っていった言葉を回収することなど出来ない。突拍子もない発言は、さしものサージェンにも衝撃を与えざるを得なかったようで、精悍な顔にきょとんとした無垢な驚愕を乗せている彼の顔を見上げてライラはあわあわと手を振った。その顔に、そして、その顔が続いて気付く先を想像して、ライラは大混乱に陥っていた。かっこいいだなんてかっこいいだなんて。確かにサージェンは紛れも無くかっこいいけどそんなそのものズバリ頬まで染めてかっこいいだなんて言っちゃったらいくら鈍いサージェンだって、
 ぽん。
 と、サージェンの手が唐突にライラの頭に置かれて。その直下の彼女の頭脳に稲妻のような衝撃が走る。
「ライラ」
 続けざまに硬直した脳味噌に浴びせ掛けられたのは、サージェンの穏やかな声の洗礼だった。春の日差しの如き声音に、凍り付いていた頭が急速解凍し再度回転を始め出す。
 違うのさっきのは変な意味じゃなくって!――どうにかして活動しようとしている頭が咄嗟に、先の台詞についての解説を叫び立てたが、悲しいかな舌の方はまだそれを即座に声に出せる程には運転は回復していない。
 ぐるぐると目を回しながら「あ」とか「う」とか「え」とかを発音しているライラを彼はしっかりと見つめ、真っ直ぐな声で告げた。
 一言。
「君も可愛いぞ」
 ライラの口が、「あ」の形で止まる。
「なっ…………ななんなんなななっ?」
 真ん丸に広げた形の口から、母音が暴れ狂うようにむやみに飛び出すのをライラは止める事が出来なかった。声と共に心臓までぴょこんと飛び出してしまいそうであった。
 そんなライラの錯乱を知ってか知らずか――サージェンは鷹揚に深く頷いて見せる。
「ああ、まるで黒スグリのようだ」
 …………。
 ……黒スグリ。
 ……黒スグリ?
 しばしの熟考の果てにようやくあの小粒な黒い果実を思い出してライラは眉間に皺を寄せた。
 ……美を賞賛する言葉としては少々珍しいように思える。
「ええと……それって…………悪口?」
 まさかこのサージェンが意味もなく悪口などを言うとは思わなかったがいまいち意図が掴めず、とりあえず思いついたことを尋ねてみると、彼は心外そうに少し眉を上げた。
「何故。そんなはずがあるまい。心からそう思っている」
 ……ちょっぴりズレを感じる。
 別に過分な世辞を言っているのかと問うた訳ではなく、額面通りに言葉を受け取った上でそれを疑問に思っているのだが。
「そ、そーよね……ありがとう」
 けれどもライラはもうこれ以上その真意を追究しようとはせず頷いて礼を言った。真意も何も、彼の言った通りなのであろうとライラは内心で納得した。彼女自身が可愛いかは置いておいて――客観的に言えば十分ライラも可愛らしい部類に入る少女ではあったのだが――、この発言は彼が何の悪意もなく純粋な褒め言葉として口にした台詞であったことは疑う余地はなかった。きっと、剣士として卓越した判断能力を持つ彼は、その他の事象における判断においても常人とは一味違う結論を導き出すのだろう。
「……さて、行くか。随分待たせてしまっている」
 サージェンが告げて、ライラの先に立ち、先程来た廊下を少し戻りかけると、待ち受けていたように壁の影からメイドの少女がすっと姿を現した。

 メイドの娘に導かれ、洞穴のように真っ暗な通路を先程のようにひたひたと進み行く事しばしして、ようやく一行は終着点と思しき扉の前に到着した。この屋敷を異様に広く思わせていた主原因はやはり得体の知れないものに対する恐怖であったようだったが、その分を差し引いたとしても十分に広大な城館であった。
 立派なこしらえの扉をメイドが軽く握ったこぶしで叩き、内部に声をかけた。
「奥様。お客人をお連れ致しました」
「ああ、お通ししておくれ」
 中からハスキーな、恐らくは中年以上の年齢の女の声が返答してくる。それを受けて娘は両開きの扉を片側だけ開けて、サージェンとライラをその先の室内へと促した。
 室内もやはり、絨毯からカーテンからタンスや花の生けていない花瓶に至るまでが全て真っ黒で統一されていて、けれどもそろそろそんな状況にも慣れてきていたライラはさほど驚くことなく(ここまで来てこの部屋だけピンク一色だったりする方が多分余程びっくりする)、周囲の様子をざっと眺めただけで視界の中央に視線を戻した。扉の真っ正面に設えられた大きな窓のすぐ傍に、ゆったりとくつろげそうなロッキングチェアが置かれていて、そこにはひとつの人影が腰を下ろしていた。
 そこに座っていた人物が思いの他淀みのない若々しい挙動で立ち上がってこちらに黒い瞳を向ける。
「我が館へようこそ。歓迎するよ、お二方」
 告げて、魔女は紅を差した妖艶な唇に笑みを浮かべた。
 ライラは、魔女という言葉と声の印象から、老齢に近い歳の女性を想像していたのだったが、その予想に反して彼女の目の前に今立っているのは、色香漂う大人の女、という雰囲気を白皙の美貌の中に持つ女性であった。床につくほどの長い真っ直ぐな髪と、豊満ながらも無駄のないボディラインをくっきりと浮き立たせるタイトなドレスはさも当然の如く漆黒だったが、唇のルージュだけは鮮烈な赤で、ライラは久方ぶりに色味のあるものを目にした心持ちだった。
「あたしはヒラデルヒア・ギルティス。もう大分昔からここに住んでいる魔術使いさ。……街の者は魔女と呼んでいるようだがね」
 下町訛りというか、蓮っ葉な印象の強い口調でそう言って、濃い睫に彩られる切れ長の瞳をどこか面白がるように彼女は細めた。魔女という呼称は彼女自身も気に入るものであるらしい。名乗りを上げた魔女に、サージェンは貴婦人への正式な礼として膝をついてシルクの手袋の嵌められた女の手を取った。彼の騎士風の装いとあいまって、一枚の絵画のように様になっている。
「サージェン・ランフォードと申します、マダム・ギルティス。深い博愛に満ちたあなたの厚意に、感謝を申し上げます」
 慌てて、ライラもスカートの裾を軽くつまみ上げて膝を折った。
「ライラ・アクティです、ミセス」
「ヒラデルヒアで良いよ。亭主がいる訳でもないんだ。あの子……ああ、メリーと言うんだが……あの子があたしのことを奥様とか言うのも、昔の癖みたいなもんだからね」
「癖ですか」
 ぽつりと声に出して呟いたサージェンに、彼女――ヒラデルヒアは、ああ、と頷く。
「前はいたんだよ。とっくの昔に逃げられたんだがね。女神様の国にだけど」
 どうやら亡くなった、という事らしい。「失礼を」と頭を下げたサージェンに、魔女は手を振って気にしていない旨を伝えてきた。
「ともあれ今この館にいるのはメリーとあたしの二人だけだから、気兼ねしないでくつろいでいって構わないよ」
「ありがとうございます。ご迷惑はおかけしないようにします」
「ははっ。構わないっつってるだろ。さすが王都の騎士殿は遠慮深いもんだねえ」
 笑声と共に何気なく告げられたその言葉に、ライラは思わずはっとして顔を上げた。他者に騎士であるという事が知れてまずいという事は全くないのだが、今現在、彼女らは自らの身分を明示する物品など何一つ身につけていないというのに何故素性を看破されたのか、その驚きと僅かばかりの警戒心が、彼女の背筋をつついたのだ。サージェンの方も、驚きを示す度合いは小さくとも概ね同じように感じたようで、小首を傾げるようにしてヒラデルヒアの顔を見た。
「ああ、何で分かったかって? ほら、さっき、お嬢ちゃんの方がコート着てただろ。あれに見覚えがあってね」
 あのメリーとかいうメイドが、最初に引っ込んだ時にそれを見抜き女主人に告げたのだろうか。ライラは一瞬そう考えかけたが、「見覚えがあって」という言い方をしているという事は、人づての話ではないということだろう。
 疑問顔のライラに、少し芝居がかった得意げな仕草でヒラデルヒアは長い指を振った。
「魔女をお舐めでないよ。あたしは、自分の館に近づく全てを、この目で見る事が出来るんだ。あんたたちがそこの丘をてくてくと登ってくる様子も見ていたよ。お嬢ちゃんは、随分とこの館に脅えていたようだったね」
 ――驚愕を禁じ得ない。魔女という存在は、そんな力まで持っているというのか。ライラは目を見開いたまましばし硬直してから、自分が行ってしまった非礼にはっと気がついて、深く頭を下げた。
「ご、ごめんなさい、私、見られてるなんて思わなくて、失礼な態度を取ってしまって」
「いいや、覗き見してた方が悪いんだしね。……まあそれに、こんなぼろっちい屋敷だ。気味悪いと思うのも当たり前だしねえ」
 言って、魔女はからからと笑い声を上げた。
「それじゃあまあ、ゆっくりしていっとくれ。今腹が減っていないならもう少し経ってから、夕食にする。準備が出来たら呼ぶよ」
「過分なお気遣い痛み入ります」
 サージェンとライラは丁重に頭を下げて、魔女の前を辞した。

 その後、あてがわれた部屋に戻り一時間程が過ぎてから、二人はまたメイドに先導され、食堂へと案内された。
 この食堂も、食事に十分な明りは点してあったが壁紙からテーブルクロスからナプキンから何もかもがやはり真っ黒で、テーブルに着席してから食事を出されるまでの数分の間、ライラは非常にドキドキとしながら待つ事を余儀なくされた。このまま、このテーブルで始まるのが食事会ではなく謎の儀式だったとしても何ら不思議がない雰囲気なのである。否、儀式ならまだよいくらいだ。目の前に食事と称して蛙かイモリの黒焼きの皿でも出されたらどうすればいいんだろうと彼女は本気で悩んでいた。
 しかしながら、提供された食事は至って普通のパンとシチューだった。この料理も、この広い城で唯ひとりの奉仕者であるメリーの作ったものであると魔女は告げたが、そんな説明や談笑を交す間もライラはスプーンでシチューの中身をこっそりと探っていた。彼女自身も、それはあまりにも失礼だろうとは思うのであるが――この時は、手の方が勝手にそう動いていたのだ。防衛本能というものは怖い。結局の所、通常に考えれば当然の事ではあったが、その美味なシチューにはライラが心配したようなモノなど特に何も入ってはいなかった。
 己の作業に忙しかったライラに代わり、主に普段はどちらかというと寡黙なサージェンが礼儀として魔女と歓談を交わして、しばしの時が経過し、彼らは部屋に戻って休むことになった。

 その夜――
 心身共に妙に疲労していたライラは、肌触りは最上級の漆黒の寝具にくるまって、安らかに寝息を立てていた。
 暗い廊下を、僅かな足音すらも立てずに接近してくる何者かの気配を全く察する事無しに……


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