レムルス王国聖騎士団の事件簿〜レムルス王国聖騎士団(7) |
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(7) 聖騎士ツァイト・スターシア(或る騎士の懊悩) 轟音…… まさにその言葉が四角四面に現す通り、その音は、周囲の大気もろともツァイトの鼓膜を轟き揺るがして、夜の静寂に包まれるべき森に鳴り渡った。音が発せられたのは、彼のすぐ傍、ほんの数メートル離れた程度の場所であったが、青年の耳にはその音は遥か遠く――あたかも遠大な空の何処かで鳴り響く、雷鳴のように感じられた。 いや。 真正面、目の前の男の後ろ姿を瞬きもせずに見つめながら、ツァイトは否定した。とりあえず否定した。 現実逃避はやめよう。間違いなく、そう、まごうことなく。言い訳をする余地もなく。この音は凄まじかった。現にそれはツァイトの肌すら振動させ、全身を総毛立たせている。認めざるを得まい。この鳥肌が、十割の率でその音によるものではないとしても、それくらいは認めよう。 ツァイトはただならぬ苦痛――もしくは悪寒を感じながらも、視線を逸らすことなく、目前の光景に意識を配し続けた。こちらに背を向ける男は剣を水平に薙ぎ払い終えた形のまま、未だ静止していた。鋼のような背筋と隆々とした筋肉を纏った腕は、今は衣服に隠されて目立たないが、右手の先で軽々と保持されている両手用の大剣が切っ先を僅かたりとも動かさないことは、その存在の何よりの証明であると言えただろう。 目と鼻の先に立つ同僚を、先に与えられた衝撃により舞い上がった粉塵が薄く隠そうとする。視界は下方に移すに従って悪くなっていたが、足元を見たとしても、その部位を完全に覆い隠すほどではなかった。蠢く塵の幕に促されるようにして、ツァイトは同僚の足元を見た。 男の目を見開いた生首―― のような、不気味なものはとりあえずの所、そこには落ちていなかった。並の膂力では普通の人間の脊椎を一刀両断にする事はた易くない。が、それが出来ないという事ではないだろう。ツァイトの同僚になるより前から、この男は傭兵としていくつもの戦場を経験していたという噂を聞く。敵手の首を打ち落とした経験も、あっても別段おかしくはない。この場にその物体がなかったのは、ただ簡単に、その原材料となる人間という生物が今ここにに存在していなかったからに他ならない。 男の足元に散乱していたのは、鉄で補強された扉――もとい、かつて扉だったものであった。 その前に、この場所の大まかな説明をしなくてはならないだろう。誰に告げるともなく、ツァイトは胸中で呟いた。あまり意味のない事ではあったが、その必要はあろう。これは別に現実逃避ではない。断じて違う。城に帰還したら班長である自分は報告書を作成しなければならない。その下準備だ。いや、言い訳ではないんだ、決して。 ――何はともあれ、今彼らが前にしているのは森の中に建てられた塔の入り口だった。街の物見やぐらのような貧相な代物ではない。高さは彼らが務めるレムルスの城にも匹敵する程で、面積も都市部の庶民の家ならば二、三軒は建てられる程がある、天然石を組み上げ作られた、ちょっとした城塞のような建物であった。夜の闇に佇む姿を足元から見上げると、威圧感すら覚える。王都から徒歩で一日分しか離れていないような土地に、こんな施設があったなどとはついぞ知らなかった。もっとも、ここは広大な国土を誇るレムルスである。いくら王都近郊でも、住人すら時として足を踏み入れる事を厭う深き森の中であれば、未知の建造物があったとしても実はそれほど不思議な事ではない。現代においても稀にだが、レムルスの森には近寄ってみればあからさまに目立つ規模の、例えば闘技場跡か何かであろう遺跡が発見される事だってあるのだ。 何者かの戦闘の跡を発見したその後、黙々と走り続けたサージェンの後について辿り着いた先が、ここだった。 もしかしてこの場所のことを知っていたのではないだろうかと思う程、その足運びには逡巡は見られなかったのだが、そうではないだろう。地面や周辺の草木に残る痕跡か、まさかとは思うが嗅覚か、それとも常人には感じ取る事の叶わない一種の魔力のようなものなのか、いずれにしろツァイトには知覚する事の出来ない何かが、サージェンを囚われの王子と姫の元に導いたらしかった。 相手が何者かは知れないが――ここが、それの拠点であるという事なのだろう。 夜目に確認しにくいが、ここまで来れば、ツァイトにもこの建物に最近、正確を期せば最近に至るまでかなり長い間、使い続けてこられた形跡があるという事は分かる。一応そういったことを調査する訓練は、聖騎士団員は標準的に受けるものなのだ。 意外にも、建物の前には見張り役などはいなかった。しかし常識的な判断により、ツァイトはどこかから監視の目があるという事を警戒し、森の木々の間から抜ける直前躊躇した。だが、単純な誤算がここで発生した。サージェンという男は戦闘において躊躇い等という言葉とは無縁な人物であったという根底部分を、彼は失念していたのだった。サージェン・ランフォードは歩幅すら変えず森を抜け、真正面の扉に接近し…… 今に至る。という状況であった。 「阿呆かオマエはぁぁぁッ!? 何やってるんだよ!? 何者だかも分からないような相手に何の考えもなくいきなり喧嘩吹っかけてどーするんだ!? オマエの行動原理はあれか!? 全部脊椎反射か!?」 ちなみに何者か以前に、本当にここが二人を攫った犯人たちの根城であるかという疑問もあることにはあるが、その点についてはツァイトは特に疑ってはいなかった。痕跡だけを調べながらこれだけ怪しげな場所に辿り着いたのだから、十中八九は間違いないだろう。能力に関しては、誰よりもこの男は信用に値する。が、それがツァイトを安堵させる糸口になるはずもなく、思わず絶叫する彼を、走り出して以降サージェンは初めて振り返ってその顔を見た。 「何者かなど、とうに分かっている」 「マジで?」 真剣に驚いて、ツァイトは同僚の顔を見返した。この班では、頭脳労働の類はツァイトとライラの役目だ。ついでに言うと入隊後一ヶ月にして何だが、主であるのはライラの方だ。それでも人外とも感じさせる勘の鋭さが成せる技なのか、時としてサージェンは理論を超越して唐突に、物事の核心を突く事がある。今も、彼は自信を漲らせて頷き、その正体を告げた。 「敵だ」 「…………」 「もう問題はないな。行くぞ」 「……ありかそんな答えッ!?」 深く追及する事なくツァイトがそう叫んだのは、文句をつける相手である当人が既に室内に向かって走り出していたからだった。 明かりの点されていない塔内に踏み込んで、さほども行かないうちに、しかしサージェンの広い背中は遠ざかる事を止めた。 「どうした?」 「階段だ」 サージェンは告げて、それを目で示した。窓から降る月明かりに、彼の眼光が刃のように映し出される。 入り口をくぐってすぐのエントランスホール――と言えるほどの豪勢なものではなかったがその意味合いを為す空間の奥に、確かに階段が見えた。ひとつは上り。そしてもうひとつは、地下へと続く下り。 「わかんねえのか?」 ツァイトの問いにサージェンが頷く。当然である。常に生活者がいるような場所で、特定の痕跡を探るなどという技は使えない。さしものサージェンも、いくら疑わしかったとはいえやはり超常現象に頼っていた訳ではないらしく、これでは追跡のしようがないようだった。 不意に、サージェンが上りの方の階段を見上げた。遅れて、ツァイトもその意味を察する。かなり大人数の足音が、そちらの方向から聞こえてきている。 「……囚われのお姫様は、上だろ。やっぱり」 ツァイトはそっと同僚に告げた。地下に二人が捕えられている可能性がないと判断した訳ではない。塔の頂上と地下では確率的には半々だろう。だが、ここまで来た以上、守備に入った所で仕方がない。人数を考えればかなり厳しい戦いになろうが、背を見せずに済む分こちらから攻め上がった方がいいだろう。言いたいのはそういう事である。なんだかんだ言って、ツァイトも十分血の気の多い男なのだ。 「分かった」 班長の指示に従って、サージェンは階段を二段ずつ飛ばして駆け上がった。 「あれっ?」 思っていたよりもかなり長かった階段をようやく上り切って、すっかり荒くなってしまった息を整えつつ、ライラは周辺を見回した。 階段はかなり広い部屋に直接繋がっていた。恐らく先程の音はこの広間で発せられた物だったのだろう。明かりは点されておらず薄暗かったが、小さな窓と開け放たれた入り口から注ぎ込む月明かりが何とか、視界を保たせてくれていた。 「……あ」 一旦視界から外しかけた「開け放たれた入り口」を再度見て、ライラは小さく声を発した。これだ。これが先の轟音の原因だったのだ。鉄で補強された扉が、薄板の如く見事に破られていた。叩き破られた訳でも、貴重品である爆薬を用いられた訳でもなく、それは剣で切り刻まれたらしかった。まるで親の仇であるかのように徹底的に粉砕された残骸は、一見した所では剣でそれが成されたようには見えなかった。剣でそういうことをする人物に強い心当たりがなかったら、ライラもそうは思わなかったかもしれない。 「サージェン!」 やはり、彼だ。彼が助けに来てくれたのだ。歓喜の声を、彼女は上げた。 もう一人、難しく想像を巡らせなくても来ているであろうことが容易に予想される同行者については、何とも薄情な事に、彼女の脳裏にはかけらも浮かんではいなかった。感極まって手の中の剣の柄をぎりっと握り締める。当人としては感動のあまり少女がハンカチか何かをぎゅっと掴むシーンを想定したのだろうが、ぐりん、と力強く振り上げられた剣が月光の元で鈍く凶悪な輝きを放っていたとなっては、絵柄的にはそうも行かない。どの道彼女自身には関係のない事ではあったのだが。 「ライラ!」 緊迫した声で、彼女の方の同行者――ディルト王子が、騎士の名を呼んできた。 「上の方から争う音が」 「ええ」 それは、ライラの耳にも届いていた。荒くれ者たちの集まる場所であろうから、内部の諍いもない事ではないのだろうと思うが、この状況ではそれもあまり有り得る事ではないだろう。 ディルト王子だけここから逃がして仲間を追うか。それとも、ディルト王子を護りながら二人でこの場を離れるか。騎士として正しい判断は後者である。前者はあまりにも危険すぎる。そして、騎士に被害が出たとしても、危機の中から王族を救い出せればその任務は成功なのだ。 さほど、迷った訳ではない――が。 「行こう。ライラ。上へ」 王子に呼びかけられてライラは顔を上げた。ディルトは悠然と、階段を上り始めている。 「迷う事はない。諦める事もない。何、強力な守護者がいるのだ。今度は私も逃げるくらいならしてみせるさ」 「了解!」 それは騎士としてはあるまじき行動であったに違いないのだろうが。 互いに悪戯めいた笑みを交わして、ライラはディルトを先導する為に、足早に階段を上った。 それは荒野を征くが如く。 それは怒れる獅子のように。それは鋼鉄で武装した黒鹿毛の馬の轢く戦車のように。それは豪雨の中にある濁流のように。それは…… ええと。 ……もうなんでもいいや。 抜き放った剣を振るう動作とともに、ツァイト・スターシアは己の思考をそこで断ち切った。確かに、何かこの男サージェン・ランフォードを言い表しめる、誰もが、ああっ! と叫んで手を打つ程に的確な文言があったような気がしてならなかったのだが、どうにも出てきそうにない。何かこう、喉の辺りまでは出掛かっているような感触があるのだが。 こういう魚の骨のようなものをそのまま放置するのは非常に気持ちが悪いが、仕方がない。今は忙しかった。思考を続けつつも、ツァイトは――そしてサージェンも、一時たりとも手を休める事なく敵を切り伏せている。 この騒動を勃発させたのは、あちらの責任である。ツァイトは、この辺りを報告書では強く主張しようと決めていた。二階まで階段を駆け上がった二人は、そこで男たちの集団とついに対面した。こういう場合の交渉役であるツァイトがサージェンの前に一歩出て、口を開こうとしたその途端に、男たちは有無を言わさず一斉に抜剣したのだった。もちろんこちらは二人とも、剣の柄に手もかけていない。こうなっては交渉の余地などあったものではなく、自分たちも不承不承剣を抜いたのだった。この辺りは下線でも引いて記述するべきかもしれない。 何はともあれ、彼らは作業のように男たちと剣を合わせつつ、前進を続けていた。 敵はさほど強くない。問題無く突破できる。気を抜いていた訳では決してないが、ツァイトは目を細めてそう戦況を判断した。敵の人数は二十人近くと、実は先程ライラが相手にした数よりも一人当たりのノルマは多くなる計算なのだが、二人はさほど苦もなく進んでいる。サージェンは言うに及ばず、ツァイトの技量もライラより数段勝るが、この優勢を支えているのはそれよりも地形的な理由だった。二階は一階と構造が異なっていて、階段を上がった所は廊下になっていた。天井がかなり高いので、気を使えば剣を振るうに困らないが、一挙に何人もが突撃出来る広さではないその廊下は、二人にとってこの上なく有利な戦場であった。本来は逆にそれを防戦の要として使うための作りだろうとツァイトは思うのだが、集団で戦うための訓練を積んでいない男たちは、ここが自分らの拠点であるというのにそれに気付いていないようだった。 相手は強くない――それは決して彼らの腕っ節が弱いという事ではなく、その戦略構成力の拙さを指しての感想だった。腕自体は……まあ、喧嘩には慣れているだろうな、という程度の技量はありそうだ。広い場所で相手をするとなったら、何とか渡り合える限界はせいぜいが三、四人くらいだろうか。サージェンは、その倍……いや、三倍くらいはいけそうな予感がするが。今も、一歩先を歩むサージェンが斬る数は、ツァイトのそれより倍は多い。 怯んだのか、間合いを計ろうと試みたのか、瞬時、男たちの剣が同時に引かれる。偶然が為したその好機を、サージェンは見逃さなかった。飛び込むようにして、一気に男たちの中に踏み込む。 「……っはぁッ!」 ともすればそれだけで相手を竦ませてしまう程の気迫を呼気と剣に乗せ、サージェンは腕を風に唸らせた。無謀にもその一撃を剣で受けようとした男の一人が、無残に肩をばっくりと切り裂かれる。男の剣は確実に、サージェンの剣の軌跡の上にあったのだが、彼の剣閃は、何らかの妨害を受けたという事を全く、これっぽっちも、頭に来るくらい感じさせなかった…… 閃光のように、ツァイトの脳裏に言葉が浮かんできた。 先程、喉の奥から拾い上げようとして、叶わなかったその言葉だった。 それはあたかも鬼神の如く。 まさに荒ぶる神の如く。 ――神速の剣士。 週に一回はその意味を思い知らされる名を、今日もツァイトは畏怖を込めて唱えるのだった。 |
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