レムルス王国聖騎士団の事件簿〜レムルス王国聖騎士団(5) |
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(5) 囚われの王子と騎士と、怒りの剣士 「……う……?」 紅色の唇から小さなうめき声を漏らし、彼女――ライラ・アクティは二、三度、まばたきをした。 酷く頭が痛む。これほどの頭痛は、就任パーティーの次の日以来だ。あの時、彼女は緊張して喉が乾いたためテーブルの上に置いてあったグラスを一気にあおったのだが、それはお約束通りと言うか何と言うか、度の強い酒だったのだ。世界の回る感覚に酔い、即時に意識を失った彼女が目覚めたのは明くる日の太陽が昇ってかなり経ってからだった。迷惑をかけたはずの先輩たちは笑ってその失態を許してくれたのだが、彼女の自尊心は激しく傷ついた。故にその時彼女は誓ったのだった。いくら上官の……それが仮に騎士団長の命令であったとしても、もう二度と酒は口にすまいと。激烈なまでの頭痛と胸のむかつきは、その日一日中彼女を苛み続け、その磐石の如き決心を不動のものとさせた。しかし、今現在感じる痛みは、あの恥ずべき記憶をまざまざと思い起こさせる。あれほどまでに堅く心に言い聞かせた誓約を、自分は破ってしまったのだろうか? 意識の中で過去と現実の痛みを交錯させながら彼女は考える。現実……現実? 「気がついたか? ライラ・アクティ」 ――その声に、ライラは思わず跳ねるようにして身を起こした。後頭部から剣を串刺しにされるような感触を、矜持で――そう、聖騎士たる矜持でねじ伏せる。かび臭い石の床に尻を落とした体勢で、今度はゆっくりと頭を動かした。 「……ディルト様!?」 暗い視界の中央にその姿を認め、彼女は声を上げた。ふと一声叫ぶと、音声は思った以上に反響した。ライラは思わず口を押さえようとして、その時初めて自分の状態に気付く。 手、というか腕が動かない。 怪我を負ったわけではない。物理的に固定されている。手首を身体の後ろで縛り上げられているのだ。よくよく見ると目の前の主も同じように腕を背中に回したまま動かすことが出来ないでいるようだった。 痛む頭に顔をしかめながら、彼女は周囲を見回した。部屋を照らす光明は天井近くの小窓から差し込む月明かりのみで殆どないに等しかったが、それでも手近な所を大雑把に確認するには足りた。そこは狭い部屋だった。床に敷き詰められている物と同じような石が組み上げられ、壁と天井を形成している。どこかじめじめしていて、壁や床の隅の方にはかびやら苔やらが深緑の絨毯のように生えていたが、無論、それは気分のいいインテリアではなかった。前述の明かり取りの窓と、部屋の唯一の入り口であるらしい鋼鉄製の扉にはどちらにも、錆びた鉄格子がはまっている。総合的に判断すると、古い……そして恐ろしく長い間、掃除をしていなかった部屋――いや、牢屋であるという事が知れた。 確認の作業を進めるに従い、ライラは自分の混乱は収まってくるの自覚していた。いや、正確に言えばこれは混乱ではなかっただろう。混乱する以前に、何が起こったのか察知できず、それについて考察することを放棄していた。もっともそれが混乱と言うものなのかもしれないが。 混乱が収まれば、それに先導されるようにして、直前の――実時間にしてみれば、直前と言うには少し時間が経ち過ぎているのかもしれないが、彼女にしてみれば直前の――記憶が蘇ってくる。頭痛の原因は決してアルコールの所為ではなかった。 男たちに囲まれて戦いを挑み、無様にも自分で隙を見せて――斬られた。はずだった。 ライラはその痛む部分に手で触れようとして腕を上げかけたが、その行為は、再度自分の腕が不自由であることを自覚させるだけに止まった。だが、それで良かったのかもしれない。もし触れてみて、その部位にぽっかりと大きな穴が開いていたりでもしたら、きっと騎士の矜持をもってしても立ち直れそうにない。気がつかなければそれはないと同じ事でいられる。気づいては駄目だ。 と、 「怪我はなかったよ」 ディルトが唐突に告げてきた言葉に、ライラは思わず彼の顔を見返した。その視線に、少年は彼女を安心させるように力強い頷きを返してくる。 「男はあなたを、剣の柄尻で殴ったんだ。失礼だとは思ったが、眠っている間に見せてもらった。私は医者ではないから分からないが、少なくとも外から見てそうだと分かる怪我はないようだった」 それを聞いてライラはほっとした。鈍器であっても、後頭部を気絶するほど強く殴打することは生命の危険性はなくはない。が、剣で突き刺されるよりはずっと生存率は高いだろう。こうして再度目を覚ます事が出来たのだから、おそらくは大丈夫なはずだ。 自分に言い聞かせるように胸中で呟くライラを、ディルトは静かに見つめていたが、彼は突然、床に額が付くほど深く頭を下げた。王子の突然の挙動に、先刻のあの行為の時ほどではないにしろライラは驚いて目を丸くしたが、彼女が何かを言うよりも先に、ディルトが言葉を発していた。 「済まなかった、ライラ。私の為に」 「王……ディルト様、止めて下さい、そんなことは」 王子、と言いかけて、直感でそれを口にしてはまずいということを悟り、言い直してライラはディルトを制止した。ライラの困惑した声に気を遣って、聡明な王子はすぐに頭を上げて見せたが、代わりに視線を下げて、謝罪の態度を示してくる。王族であるというのに、臣下の前で自分の非を認めることに、彼は何の躊躇もしなかった。 ディルトのその態度は、ライラの目にとても潔く映った。子供でありながらその気性は立派な一人前の男のようである。これでは、つまらない劣等感で気分を斜めにしていた自分の方がよほど子供ではないか。 恥ずかしさを紛らわすために苦笑して、ライラは下を向く王子の目を更にその下から見上げるようにして、覗き込んだ。 「ディルト様、それは違います。私はあなたの騎士。私はあなたを護るために聖騎士団に籍を置いているのです。あなたに危険を及ばせてしまったのは、全て私の落ち度です。あなたが気に病む必要はありません」 「だが……私が足手纏いにさえならなければ、ライラ、あなたは敵を全て倒す事が出来ただろうに」 「そんな、サージェンじゃあるまいし。あんな多勢に無勢の状況をひっくり返すような真似、どうやったって出来ませんよ」 呆れた口調が表に出ないように気をつけながら、ライラは反論した。呆れたのは、別に王子に対してではない。そしてこればかりは自分に対してでもない。いくら聖騎士とはいえ、そこまで生命体としての限界を超えた能力までは要求されないだろう。呆れたのは、おそらくそんな所業をもさほども苦もなくやってのける事が出来るのであろうサージェンの、常識外の能力にだった。見ていると、こちらが呆けてしまうほど彼は強い。対戦者を倒すその手際は、まるで手品か喜劇でも見ているかのようだった。その映像をふと思い出したのだ。 (……サージェン) 口の中だけで、その名を呼ぶ。 彼はもう、この事態に気がついているのだろうか。……おそらくは気付いているだろう。心配を……してくれているのだろうか? 「ともあれ……」 色々、思うことはあったがとりあえず、ライラは今度は声に出し、呟いた。声は、敵にこちらの動向を知られる危険を少しでも避けるため、先程以上にひそめておく。もっとも、すぐ傍に、例えば見張りなどの人間がいるのなら、とうに何かしらのリアクションがあってもいいはずだった。それがないという事は、すなわち今は、近くには誰もいないという事なのだろう。それがいつまで続くかが分からないが、それでも永遠にこの状況のままという事はありえないのははっきりしている。急ぐに越したことはない。 「状況の確認が先です。現在を含めた今迄の状況を総合すると、さっきの男共に掴まって閉じ込められてるとしか思えませんが、それで間違いないですね?」 「ああ」 ライラに倣って声を密談の音量にまで落とし、ディルトは頷いた。 「あなたを倒すと男たちは、私たちを抱えてここまで連れてきた。ここまではずっと森の中を通ってきたので、場所は分からないが」 「乗り物は? 何か使いましたか?」 「使わなかった。歩いてきただけだ。……一時間もしない距離だったと思う」 「……成る程」 瞼を半ばほど下げて、ライラは頷いた。目を細めるのは考え事をする時の彼女の癖だ。 接敵からここまでで、大分情報は集まっていた。敵の外貌が見えてきたと言ってもいい。 つまり…… 「とりあえず、妙なことさえなければ今すぐに命の危険があるということはないですね」 まず始めに、最重要事項について、ライラはディルトに告げた。真剣な表情で見つめてくる王子を彼女も真っ直ぐに見つめ返す。 「これは営利目的の誘拐です。そう判断できる理由は、彼らがディルト様の素性を知らなかったことにあります。少なくとも王位簒奪(さんだつ)を狙う輩の手のものや、何かしらの恨みによる犯行ではありません。計画性も、待ち伏せられていた以上、全く無かったとは言えませんが、長期的な計画ではなかったはずです。私たちが出発を決めたこと自体、昨日の事ですし」 相手の正体は、恐らくの所はせいぜいが、この付近を根城にする盗賊といった所であろう。森の中にこんな拠点を構えているなら常に犯罪行為に手を染めている者たちである可能性が高い。裏寂れた街道沿いの――ちなみにここまで山道を通ってきたのはこの目の前の王子の趣味だ――客もまばらな宿場町に、それにそぐわぬ裕福な身なりをした旅人が入っていくのをたまたま発見し、急遽襲撃を計画した。それが一番素直な推理であるように思える。常に真正面から推理を行っていても適切な結果は見えないものだが、だからと言って簡単に考え付く推論を無視したところで実りがあるとも思えない。 この結果は、偶然と迂闊さの為したものだった。当初は宿に押し入る計画だったのだろうが、たまたま標的と護衛が一人、そこから離れた。これを狙わない手は無かっただろう。サージェンとツァイトがいれば、この程度の人数は確実にその場で捕らえるが出来た。どちらか片方でもよかったくらいだ。迂闊だったとしか言いようがない。 悔しさに唇を噛んでから、ライラは言葉を続けた。 「その上で私の命をあの場で奪わずわざわざ連れてきたのであれば、二人まとめてどこかに売り払おうと思ったか……ディルト様については、身代金を取ろうとも考えたかもしれませんね。その後の運命はまあ、私と変わらないでしょうけれども」 淡々としたライラの声を聞いているディルトの顔が白い月明かりに照らされて蒼白になっていた。それに気がついて、ライラは幼い王子ににこりと微笑みかける。 「あくまでも相手方の『つもり』の話です。私だってそんなの嫌ですから。……ディルト様、彼らにあなたの素性について何も言っていませんね?」 「……ああ、言っていない」 頷く王子に、ライラは手が封じられているので気分だけで、胸を撫で下ろした。それがばれていたら、状況の危険度は格段に跳ねあがっている所だった。もっとも、既に知られていたのであったら今のように再度目を覚ましてあれこれ思索する必要性も無かったとも言える――恐らくは、眠っている間に、永遠の眠りの中に突き落とされていたはずだったのだから。 ライラが安堵する理由が分からないのだろう、ディルトは不思議そうな目をして首を傾げている。王子の疑問を解消すべく、ライラは口を開いた。 「……相手は、ディルト様のことを、ただの貴族の子供であると思っているんですよ。そして私のことはただの護衛だと。だからこそ、こんな誘拐劇をやらかしたんです。貴族相手なら、大もうけが出来るって」 金持ちの家からなら沢山金を取れる。それ自体は理解に苦しいものではなかっただろう。王子は、理解していない者にとっては至極当然の問いを返した。 「だったら、私の家ならばもっと……」 「資産は比ではないでしょうね。けれど、あなたのお家以上に敵に回してやりにくい相手はいますか?」 その言葉に、彼は、あ、と小さく息を呑んだ。思った以上に聡明な少年であるらしい。 「そう。王族の誘拐など、それが仮に未遂に終わったとしても、死罪に相当する重罪です。国は総力を挙げて、犯人に対処するでしょう。そうなってはたかだか一介の犯罪集団が簡単に逃げおおせられるはずはありません。手があるとすれば、残らず証拠を消し、すぐさま国外へ逃げ去るくらいです」 もちろん王族殺しは未遂とは比較にならない重い罪になるが、既に極刑が確定している以上、少しでも可能性のある方に賭けようとするだろう。 「そういうことか。だから呼び名が違ったわけか……」 先程、坊ちゃま、などという呼称を使ったライラの真意にディルトは気付き、納得したように頷いた。坊ちゃまと呼ぶに何の抵抗もない姿をした少年であるが、まさか今だかつて王子をそんなふうに呼ばわった者もいるまい。 「その節は、失礼致しました」 「いや、ありがとう。ライラは本当によく機転が利く」 心底感心したように言って、彼は笑みを向けてきた。こんな状況でありながら、心強く思っている。つまり、彼女を完全に信頼しきっている。そんな笑顔だ。 その感情は何よりも嬉しかった――が、同時に、絶対にこれを裏切れないという崖の縁に立たされた緊張が全身の筋肉を引き締める。 (さて……舞台は整ったわ。あとは役者がどう動くか……ね) 乾いていた喉を小さく鳴らした、その時。 扉の外――やはりここと同じように石造りであるらしい廊下の遠くの方から、何人分かの足音が硬く響いてくる音に、彼女は気付いた。 「戦闘の跡、だな」 靴底で削られた地面に膝をつき、観察していたツァイトは、徐に立ち上がりながら呟いた。薄い下草がこそぎ取られたのはつい先程といった様子であるし、そこに真新しい血痕まで確認できるとあればもはや疑う余地もないだろう。 血痕―― 無論、そんなものを見ただけで、それが誰のものかであるかなどツァイトに分かるはずはない。だが、この場に彼らの探す人物――もしくはその遺体――がないのであれば、現在二人が存命している可能性は高い。 それでも背中に感じる寒気は止まらなかった。危機に対する恐怖ではない。入隊後一年という短い期間の中でこのような危険な状況にそう何度も陥ってきたわけではなかったが、それでも彼は向かい来る恐怖には大抵のものであれば克服できるという自負があった。例えばそれが俸給を減らされるとか歳の離れた妹が人のベッドの中で蛙を飼うとかでないのなら。 今感じている悪寒は、気温の所為でも恐怖の所為でもない。それは、その寒気の発生源が、すぐ真後ろにあるからに他ならない…… なるべく後ろの人物を刺激しないようにゆっくりと振り返りながら、ツァイトは口からうめき声に似た音を出した。 「サージェン……おちつけ……な? 多分大丈夫だから……」 「落ち着いている」 サージェンは存外にも冷静に返答して来た。いつも通りに低く、いつも通りに感情のない声は確かに、発言通りに落ち着いているようにも感じられる。見た目にしてもだ――ツァイトは同僚の顔を盗み見るようにしながら認めた。ツァイトの見ていた場所とは違ったが、同じ事を確認するために地面に目を落とすサージェンの鋭い顔は、別に今始まったものでもない。 だが一年の間毎日、ただぼんやりと顔をつき合わせて来たわけではない。昔――という程昔でもないが当初の頃は、この男を一方的にライバル視してきたツァイトである。余人には窺い知れないこの神速の剣士の本性を、聖騎士団でよく知っている人ランキングの上位にランクインできる自信が彼にはある。 サージェンは地面から目を離し、ざっと周囲を見まわした。ただそれだけの確認で進行方向を定めたらしく、何の迷いも無く足を踏み出す。 「さ、サージェン? そっちなのか?」 「これだけ痕跡が残っていれば、軍犬でも分かる」 「いや普通人間よりも犬の方がそういうの、よく分かるんだと思うけど」 等とツァイトが言っている間にも、サージェンの背中はかなりのスピードで遠ざかっていく。慌ててツァイトはそれを追いかけた。駆け足で。 サージェンの足の進め方は早足程度で、決して走り出してはいなかった。足の長さが並ではない彼は普段から歩く速度はかなり速い方なのだが、何と言うか今は、それすらも越えて超常現象のように速い。もう少し現実的に言えば魔術のようにという所だろうが、土地柄なのかその特殊な力を扱う素質のある者が殆ど生まれないレムルスの民にとっては、超常現象も魔術も同じようなものである。どちらにしろ、いくらサージェンが戦士として類稀なる力を持っているとしても、魔術までは行使できないだろう。 「あーもー! 何が落ち着いてるだよ! オイ待てってマジで!」 見るものが見さえすれば、どう穏やかに取っても怒り狂っているとしか言えない表情を浮かべていたサージェンを、ツァイトは全速力で追って行った。 |
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