レムルス王国聖騎士団の事件簿〜レムルス王国聖騎士団(2)

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 (2) 王妃ルシーダ・セリス・レムルス(とその下僕たち)



 明けやらぬ紫色の空に、雲が薄く引かれている。朝も夜も早い勤勉な農民たちがようやく目を覚まそうとする時刻。いずこからか、ちちちち、と短い鳥の声が聞こえてくるが、その姿は広大な天空のどこにも映し出されていなかった。が――
「やああぁぁ!」
 清廉な早朝の空気を震わす裂帛(れっぱく)の気合の声に驚いたのか、小さな黒い影が二、三、地面から舞い上がる。どうやら羽を休めて朝食でも取っていたらしい。そして続けざまに、かつん、かつんと激しく木剣を合わせる音。聖騎士団の訓練施設では、早くも稽古が始まっているようだった。

「ふぁ……」
 抑えるつもりも何もない大あくびが、一人の聖騎士の口から洩れ出でる。
 無理からぬことだった。彼――聖騎士ツァイトにとって朝は他国の刺客よりも強烈な敵だった。刺客は力を以って退けることができる。だがこの朝のどうしようもない気だるさは排除できない。時間がこれを連れ去って行ってくれない限り。
 目の前で朝っぱらから飽きもせずに剣を合わせ続ける二人は放っておいて、ツァイトは室内訓練場の緩衝材の入った壁に寄りかかって、頭をうつらうつらと上下に振り始めた。
 ひゅ――!
 剣が空気を斬る鋭い音。目を閉じているため見えないが、ツァイトは知っていた。太刀筋は申し分ない。聖騎士団入隊以前よりあの少女には剣の心得があった。それはもう幼い頃からだ。ツァイトが初めて剣を与えられたとき――十の誕生日だ――それを見た彼女が駄々をこねたのだ。ツァイトばっかりずるい、とか言って。わざわざ少女のところまで見せびらかしにきた彼が悪かったわけだが、それで面白がって六つやそこらの女の子に武器を与えてしまう彼女の父親の何とも豪快と言うか娘思いと言うか危険人物と言うか、とりあえずそんな性質に、子供心に警戒心を抱いた……もとい、驚いたのを覚えている。
 その頃から彼女は、騎士見習いの少年たちに混じって剣術の真似事を学んできた。そしていつの頃からかそれは単なる真似事ではなくなってきていた。女だてらに王立士官学校に入学し、しかも主席の座を一度も譲ることなく軽やかに飛び級を重ね、最年少で卒業。そして今、そんな前代未聞の看板を引っさげて、レムルス騎士団の最高峰、聖騎士団に配属されている。
 四つも歳の離れたツァイトと、入団時期が一年しか変わらないのはそのためだった。類希なる才能の持ち主であることは、疑う余地もないだろう。
 しかしそれ以上に彼は、少女の対戦者の実力について熟知していた。戦士として恵まれ、かつ鍛え抜かれた肉体の青年。同い年で同期でもあるあの男と共に並ぶのが、彼は最初、とても嫌だった。ツァイトとて体重は多い方ではないがそれなりに長身の部類に入るし、身体的には騎士として合格であるはずなのだが、どうしてもあの男と比較すると貧弱なように見えてしまうのだ。何よりも腹が立ったのは、見劣りするのが体格だけではなく……
 不意に。
 すぐ間近での風の唸りを耳にして、ツァイトは咄嗟に腕を頭の上で交差する形で振り上げた。危険を察知したわけではない――いや、正確に言えば、脳が危険を危険と判断するよりも速い、第六感に囁かれたかの如き動作だった。ぴしっ、と鋭い音と痛みが彼の腕を襲う。
 瞼を開けると、彼のすぐ目の前で、木剣を打ち下ろした形で――説明するまでもないがツァイトの腕にだ――少女が静止していた。
「ラ、ライラ……」
 ようやく自分の今の瞬間の状況を把握して、冷や汗を垂らしながらツァイトが呻く。そんな彼を、ライラは厳しく細めた目で睨めつける。
「何寝てるのよ? 人が真剣に訓練してるその横で。頭来るわね」
「早朝に無理矢理たたき起こした挙げ句こんな所まで引っ張り出しといて何を言うか」
 助けを求めるように、ツァイトは彼女の後ろに佇む男に目をやったが、無駄なのは分かっていた。彼女の背後の男、ツァイトにとっては同僚であり、ライラにとっては師である剣士サージェンは、今迄振るっていた木剣を杖代わりに身体を休め、二人の様子を眺めていた。興味深げではあるが、どこか褪めたような目。さりとて冷たいものでもない。ただ客観視していることを前面に押し出した瞳、とでも言うべきか。
 それがどうということはない。つまりは――彼が単純にぼんやりした男だという事だろう。
 諦めて、視線を前に戻す。目の前では、ぼんやりとは対極に位置する少女が興奮に頬を赤く染めていた。
「そもそも何で俺まで起こす必要があるんだよ。訓練なんざ二人でやってりゃいいじゃないか」
「そ、それは」
 何気ない指摘に急に口ごもったライラに、ツァイトがにやりとする。
「ははぁん?」
「何よっ」
 今のライラの顔の赤さは、先ほどとは出所が違うようだった。おどおどとした態度をひた隠しにしようとしているらしい少女の耳元に、囁きかける。
「心配するなよ、ライラ。お前みたいな小娘、サージェンはなぁんとも思ってないから」
「っ!!」
 ライラがまだ幼さの残る双眸を、かっと見開き――
 げしッ!!
 鈍い音が、ツァイトを打つ。そのまま、ぱたり、と青年は倒れた。うずくまるようにして、股間を押さえている……
「……ライラ」
 呼びかけは、サージェンの声だった。ツァイトは今現在、とてもではないが声を上げられる様子ではない。
「殺すつもりがないなら、少しは遠慮してやれ」
「だってぇ」
 ぴくぴくと痙攣しているツァイトに背を向けて、ライラは不服そうな声を上げた。

「感心ですね。こんなに早くから、訓練ですか」
 思いがけず響いてきた上品な声に、ライラとサージェンは、城へと続く扉の方を見た。訓練室の出口の、開け放しにしてあった鉄製の大扉の傍に、いつからいたのか一人の女性が立っていた。金色の髪を品よくまとめた、たおやかな貴婦人然とした女性である。年齢は二十代のどれであったとしても納得できそうだった。彼女が纏う、どこか少女めいた、フリルやリボンをあしらったドレスも彼女の実年齢をわかりにくくする一因だったであろう。どちらにせよ、おおよそ、こんな無骨な訓練施設で見られるような姿ではないことは確かである。
 その姿を見て、ライラは目を丸くした。思わず足元のツァイトを蹴ると、彼ものろのろと顔を上げた。女性の姿を目に入れるや否や、わっ、と小さな悲鳴にも似た声を上げ、おたおたと起き上がる。
「ルシーダ妃」
 慌てる二人をよそに、サージェンは、静かにその名を口にした。
 そう。その女性こそは、このレムルス王国第二王妃、ルシーダだった。
 王妃は、気品溢れる柔らかな笑みを、そっと頬に浮かべて見せた。
「畏まらなくてよろしいのよ。そのまま、続けてちょうだい」
「急所蹴りを……?」
 ぼそりとうわごとを呟いたツァイトのすねを、王妃から見えないようにライラはかかとで蹴りつける。当たり所が悪かったのか、ツァイトはまたもやあっさりと静かになった。
 そんなやり取りが目に入っているのかいないのか、王妃は変わらない慈愛溢れる微笑みで、三人を順に眺めて、言った。
「このレムルスのためにこんなに早くから鍛練にいそしむあなたがたの姿に、陛下もお喜びになる事でしょう」
「は、はい、ありがとうございます」
 思わず、ライラが答える。彼女自身、王族の警護という職務を持つ聖騎士だが、まだ入隊して日の浅い彼女はこれだけ近くで、王妃ほど位の高い王族に接した経験はなかったのだ。さすがに、サージェンやツァイトは王妃とも面識があるのだろうが――
 ふと、何の気もなく見上げたサージェンの顔に、ほんの僅かながら暗澹(あんたん)たる影が浮かんでいたのを見て、ライラは驚いた。サージェンが、負であれ正であれ、感情を表に出すのは珍しいが、それ以前に相手は王妃だ。慌てて視線だけをツァイトに向けると、何と、彼もまた同じような表情をこちらは結構あからさまに浮かべている。ツァイトの方は表情を変える事は珍しくないが……
(な、なに……?)
 申し合わせたように沈痛な表情を浮かべる先輩二人の間で、訳も分からずライラはうろたえた。そんな聖騎士二人に対し、目の前の王妃自身は、にこにことした笑みを崩していない。訳が分からない。
「あなたが、ライラ・アクティですわね。先月付けで、聖騎士団に入った」
「は、はい」
 既にめいいっぱい伸び切っている背筋を更に伸ばして、ライラは返答した。
「お覚え置き下さり、誠に光栄に存じます」
「久方ぶりですからね。あなたのような可愛らしい子が入ってくるのも」
 王妃の微笑みは、ライラの、同性の目から見てもうっとりする様なものだった。優雅な容姿と穏やかなその物腰は、相手の心を和ませてくる。さぞ高級な貴族の出自なのだろう。
 しばし、満足そうにライラの姿を見てから、王妃は目をツァイトの方へと向けた。
「ときに、ツァイト・スターシア?」
 穏やかな声。おっとりとした笑み。それを聖騎士の青年に向けたまま、王妃はやはり変わらぬ声で言った。
「減俸を申し渡されたそうですね」
「減俸ではありません。今月は全額没収されてます」
 いらないツッコミを横から挟むサージェンを、ツァイトが横目で睨む。
「まあそうなのですか、あらあら、それは大変でしょう」
 王妃は、口許に手を当て、さも哀れだという調子で嘆いた。が――
「この危機をどうにかして脱したいとお思いのあなたに、よいお話がございますの」
 続けて彼女が吐いた台詞は、表情と同じ、溢れんばかりの満面の笑みの気配だけを纏っていた。



 夜――
 宿舎の窓が叩かれる音に気がついて、窓を開けて周囲を見回したライラは、程なく、暗闇に紛れるように立つ、一人の男の姿を発見した。
「ツァイト?」
 その名を呼びかけると、彼は、草を踏む音にすら注意を払い、静かに窓の近くに寄ってきた。付き合いは子供の頃からで、今更見間違うはずもないが、それは紛れもなく、名を呼んだ聖騎士団の先輩の顔だった。だが見慣れているその顔は、月明かりの所為か未だかつて見たことがないほど青ざめている。
「どうしたの、ツァイト……」
「静かに」
 鋭い囁き声で、警告してくる。しきりに周囲を警戒するツァイトに不審感を抱きながらも、ライラは彼の調子に合わせて声の音量を下げた。
「何よ。何かあったの?」
「……逃げるぞ」
「逃げ……って、はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げたライラの口を、ツァイトが慌てて塞ぐ。そのまま、彼は一方的に告げてきた。
「荷物は出来るだけ少なく。軽装でいい。二、三日潜伏出来れば大丈夫だと思う。城下じゃ心もとないから二つ先の村まで足を伸ばすぞ。なるべく早く準備しろ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、訳分かんないわよ。とうとうそんな夜逃げしなきゃなんないような事までやらかしちゃったの?」
「何他人事っぽく言ってる。いいか、幼なじみのよしみで忠告してるんだ。早く逃げとけ。間違いないぞ、次はお前だ」
「だから、何がよ! 私が何をしたって言うの?」
「目をつけられた。あの女に」
 訳が分からない。
 ライラは眉を寄せた。今日一日を思い出してみる。朝、サージェンと訓練していて、王妃様に会って、それからは聖騎士団の通常訓練を……
「って、あの女って、もしかして王妃様の事!?」
 その他に、女という単語で何も思い付く点はない。目を丸くするとさも当然というようにツァイトは頷いた。
「他に誰がいるかよ」
「お、女だなんて、王妃様に向かって……」
「んなこと言ってる場合か。面倒くせえな、行くぞ」
「ちょっ……!?」
 言うが早いか、ツァイトは子供でも抱き上げるかのように、ライラをいとも簡単に窓から引っ張り出した。重装歩兵という、自身の体重よりも重い鎧を身に纏 い前線で戦う訓練をしている騎士である彼は、細身の割に腕力がある。それにしても大根でも引っこ抜くかのように無造作に女の子を扱うというのはどうかとい う感じではあるが。戸惑って目を白黒させるライラの腕を掴み、ツァイトは追い立てられるかのように走り出した。宿舎を迂回し、裏手の林を抜けて裏門から外 へと脱出する。ツァイトは一番安全で発見される可能性の薄そうな逃走ルートを頭の中に描き、後ろのライラを気にもせずに足を進めた。途中、ツァイトのペー スについていけなくなって足をもつれさせたライラが転んで、きゃん、と犬の鳴くような悲鳴を上げたのだが、彼の耳には欠片も届いていなかった。もはや、一 刻の猶予もない事は分かっていた――
 だが。
「待て」
 低く響く声が、緊張と運動の所為で上昇しかけていた彼の体温を一瞬にして下げた。ぬかるんだ沼に足を踏み入れてしまった瞬間のように、その動きがぴたりと止まる。
 ひょう、と宿舎の裏庭である林を抜ける風が、鋭い声を上げる。それに混じり、
「ううっ……しくしくしく」
 と、女の泣き声が聞こえて来た。一瞬何か、人外のものを想像してしまってツァイトはどきりとしたが、その声の主に思い当たって安堵の息をつく。さっき、転んだままずりずりと引きずってきたライラが泣いているだけだ。どうということはない。
「どうということはないじゃないわよ! めちゃめちゃ擦り剥いてるわよどうしてくれるのよ!」
 何故かツァイトの心の声を耳ざとく聞き取り(?)、ライラが怒りの声を上げてくるも、彼はそれには構わずに周囲の人気のない林を見回した。足を止めた理 由――彼に声をかけた主を、せわしなく視線を動かして探す。気配は感じないが、絶対に、聞き間違いや気の所為ではない。確実にいる。この近くに、敵は。
 唐突に――
 ツァイトは傍らにしゃがみ込み泣き言を言っている幼なじみを蹴り付けた。その勢いでライラは悲鳴を上げる暇もなく地面に突っ伏し、その反動を使ってツァ イトは彼女とは反対側へと跳ぶ。丁度彼女とツァイトがいた空間を、一陣の風が裂き、三歩ほど離れた地面に何か鋭いものが突き刺さった。ナイフだ。
「げっ……!?」
 月光に怪しく光る刃物を見て、ツァイトは引き攣った悲鳴を上げた。攻撃を受けることは想定していたが、いきなり暗闇から投げナイフとは洒落にはならない。
「殺す気か!? このくそ野郎!」
「そういう言葉を使うな、ライラに伝染する」
 先程と同じ男の声がツァイトの吐き捨てたスラングに反論してくる。やはり、いた。ナイフが飛んできた方向と声の大きさから、相手の隠れている場所の目星をつけて、ツァイトは叫んだ。
「出てきやがれ、サージェン!」
 その言葉に応えて、ツァイトが睨み付けていた木の幹の陰から、すっと音もなく長身の男が姿を現した。ツァイトの指摘通り、サージェン・ランフォード、そ の人である。そこまではよかった。そこまではツァイトの想像の通りだった。しかし、神速の剣士という仰々しい呼び名を用いられる事もあるその同僚の手に、 抜き身の剣がぶら下がっているのを見てツァイトは戦慄した。
「ちょ……!? マジ洒落にならんぞ、それ……!」
「問答無用」
 にべもなく言い放ち、サージェンは剣先をツァイトの方へと真っ直ぐに向けた。内外に名高い剣士からはいつものぼんやりとした気配が消え、彼が待つ刃よりも鋭い怒気が、彼の全身を包んでいる。
「親切ぶった物言いでライラをかどわかし、上手く逃げられればそれでよし、出来ない時にはスケープゴートにする……見え見えだ」
「ここここれには深い訳が! 話し合おうサージェン、我が親友よ!」
 言いながらも説得が不可能である事は目に見えていた。ツァイトの手は意識からその支配を逃れ、腰の剣を引き抜いていた。
(あああ、何やってるんだ俺! 馬鹿俺!)
 ツァイトは自分自身に毒づいた。が、サージェンの方はその態度を潔しと取ったらしく、躊躇なく剣を構え、正面から正々堂々と仕掛けてくる。
「く、来るな! お前と俺とじゃ勝負になんねえだろ!?」
「勝負の必要はない。粛正だ」
「粛正ッ!?」
 静謐な声音の中に、出所不明な激怒を察知して、ツァイトは声を裏返らせた。攻撃は無駄な事は考えるまでもなかった。認めたくなくても、それだけの力量差があるのは事実なのだ。息を飲み、身体を防護するために剣を横に構える。
 サージェンが、振りかぶった剣を目にその軌跡のみしか映らないほどの速度で、振り下ろしてくる。
 神速の剣士。
 ツァイトの脳裏に、目の前の男の二つ名が実体を伴って描き出される。
「サージェン!!」
 動く事も声を出す事も出来なかったツァイトの代わりに、ライラの叱咤が飛んだ。だが、形なき声が剣を防ぐ盾になる事は出来ない。そのまま、若き騎士の脳天に、銀の剣は――
 ぼグっ。
 激しく鈍い音を立てて衝突し、その動きを止めた。

「サ、サージェン」
「心配する事はない。剣の腹で殴っただけだ」
 とてとてと近づいてきたライラにこともなげにそう言って、サージェンは鞘に剣を納めた。ライラには彼の動きを目で追う事すら出来なかったので分からな かったが、どうやら最初から本当に同僚を斬殺するつもりはなかったらしく、彼は剣を横にして振り下ろしたようだった。それでも、ライラが剣を振るうのとは 段違いのスピードだったというのだから、彼の力量は計り知れない。ライラはサージェンの足元に転がるツァイトを見下ろした。ライラは彼と試合をしたって五 本に一本も取れない。無論、彼女が弱いのではない。聖騎士団として日夜厳しい訓練や特殊な任務に就いている彼らの実力が規格外なのだ。無様な姿を晒してい る幼なじみを、しかしライラはある種の尊敬を込めて見詰めていた。
「まあこれは放っといて」
 その割には薄情な台詞を吐いて、目を放す。
「どういう事なの? 私、事情が全然飲み込めないんだけど」
 その質問には答えず、サージェンはライラの顔に目をやって僅かに眉をひそめた。一瞬訝ったが、彼女もすぐに気がついた。
「ああ、顔ね。ひどい?」
 ツァイトに蹴られ、盛大に地面と頬擦りをした顔に、擦り傷を負っているのは見えないライラも気づいてはいた。頬を拭ってみると手のひらに、土汚れと一緒にべっとりとまではいかないものの血がついた。改めてひりひりとした夜気に染み入られるような痛みを感じる。
 無言のまま、サージェンはライラの腕を掴み、強く引き寄せる。
「えっ……」
 どきりと心臓を飛び上がらせてライラは長身の男の顔を見上げたが、彼はライラの手を引いて、今彼女が来た道を大股で戻りはじめていた。
「サージェン?」
「あの馬鹿の言う通り、もしかしたら逃げた方が得策かもしれないんだがな。手当てをしない訳にはいかないだろう」
「あはは、大丈夫よ。このくらいの怪我、訓練中でもよくするから」
 実際、心の底からそう思って笑い飛ばしたライラだが、ちらりと視線を送ってきたサージェンは、「そうはいかない」と一言、低く呟いた。
「女性の顔に出来た傷を放っておくわけにはいかない」
 再度――おそらく言葉以上の意味はないとは知りつつも――目を見開き、ライラは頬を紅潮させた。その時にはもう、サージェンは前に向き直っていたので、 彼女のそんな表情を窺い知る事は出来なかっただろうが、彼女は恥ずかしげに俯いて、少しだけ、彼が繋いでくれる手に力を込めた。

 去りゆく二人のその後ろでは、未だ地面に転がったままのツァイトが、白目半開きのまぶたをぴくぴくさせていた。


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