レムルス王国聖騎士団の事件簿〜レムルス王国聖騎士団(1)

 

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第1話 レムルス王国聖騎士団
 (1) 新米聖騎士ライラ・アクティ(とその仲間たち)



 女神の名を冠する大地――ミナーヴァ大陸。
 広大にして豊穣な、麗しき神の庭。その東部地域の半分近くは、一つの王国に占められていた。
 その国の名は、「辺境の大国」レムルス。
 誉めているのだかけなしているのだか判断しにくい二つ名で呼び慣らされるこの王国は、しかしながら大陸一の領土面積と、西の大国聖王国ヴァレンディア、北のローレンシアに次ぐ歴史の古さに裏付けられた絶大な国力を有しており、大陸においては間違いなく他の列国を先導する立場にあった。また、賢王として内外に名高い現国王の敷く治世も、誉れ高きレムルスの名をより一層輝かせるものであった。
 堅牢な基盤の上に築かれた、日溜まりのような安寧。
 レムルスの民は、国土の八割を覆う深緑の天蓋から射す陽光を浴びて草木と共に育ち、険しい野山で額に汗して働き、悠久の時間の欠片を生きたその後には、森でとこしえの眠りにつく。森と共に生きるのは危険が伴い、また現代においてみれば時代遅れとも言える非効率さを内包してはいたが、それが彼らの、数百年の昔からの生き方であり、その生き方に疑問を持つものも多くはないようであった。彼らにとっては日々の暮らしの中における苦労さえもが幸福の要因であるのかもしれない。
 そんな国民が集まって出来た街だからなのか、レムルス王国最大の都、首都レムンすらも、どことなく安穏とした空気に包まれていた。大都市らしく、適度な活気とざわめきは年中絶えることはなかったが、それでも野菜を担いだ近郊からの行商人や、地面に描いた輪の中に石を蹴り入れて遊ぶ子供たちの姿が否応無しに牧歌的な雰囲気を撒き散らしている。
 概ね――いや完璧に――むしろ完全無欠に――王都は今日も平和だった。
 ――この時までは。
「きゃああぁー!!」
 日が天頂からほんの少しだけ下がってきた時刻。暦の上では真冬だったが久々に春並みの陽気になったこともあり、目抜き通りには文字通り人がごった返していた。当然それに伴い、街路は賑わいに満たされていたが、突如雑踏のざわめきを突き破り、女の悲鳴が周囲に響き渡った。
 道端で物を売る者。それを買う者。冷やかしに散策する者。様々な目的を持った人々が方々に目を向けていたが、この一瞬でそれらの顔が申し合わせたかのように一様の方向を向く。
「……?」
 やや遅れて、カフェのカウンター席で、白いスツールに座っていた男が、ようやく目の前のチョコレートパフェから目を離す決心を固め、顔を上げた。視線を周囲の人々に倣って窓の外へ向けようとした瞬間、彼の視界の隅に銀の閃光が走った。
 きんっ!!
 乾いた金属音が響き、場の時間が停止する。獲物を狙って急襲した銀光――銀のフォークが、チョコレートスプレーで艶やかにトッピングされたアイスクリームの三センチ手前で静止していた。男の持つ、パフェ用の長スプーンに見事に受け止められて。
「これは俺のだと」
 さっきから言っているだろう。語尾を省略し、男は視線を、フォークの先端から柄の方へ向かって辿らせていった。白魚のような手、細い腕、華奢な肩。そして最後に辿り着いたのはぷぅと頬を膨らました少女の顔だった。年の頃は十代半ば――十五歳だと、男は記憶していた――、恨めしそうに彼を見上げてくるその表情は、実年齢よりもやや幼く見えた。長く伸ばした柔らかそうな髪を、三つ編みに束ねて肩に垂らしている。
「いいじゃない、一口くらい分けてくれたって! サージェンのけち」
「自分で頼んだものがあるだろうが」
 と、サージェンと呼ばれた男――二十歳前後の青年で、周囲から見れば彼女とは余り似ぬ兄妹か、恋人同士に見えるだろう――は、視線で少女の前を指す。彼女の目の前には、ガラスの器にフルーツと生クリームでデコレートされたプリンが行儀よく鎮座している。わざわざ人のものに手を出さないでも、立派にそちらもおいしそうだ。
「だってこっち、アイスが乗ってないんだもん」
「こんな真冬に食うこともあるまい」
「注文した当人に言われたくないわ」
 言葉と同時に、少女が僅かにフォークを引いたのを、サージェンは見逃さなかった。サージェンのスプーンをかいくぐるようにして、素早く再びフォークを繰り出してくる。だが。
 きん!
 こちらも再び、硬い音を立てて、十秒前と同じように難なくスプーンで受け止める。
「甘い。甘すぎるぞライラ。甘いのはパフェだけでいいのだがな」
「むぅぅ〜」
 唸り声を上げる、少女――ライラ。フェイントは効果無しと悟ったのか、次なる彼女の攻撃法は高速の連続突きだった。
 ききききききききんっ!!
 しかし、結果は突きの回数と同じだけ、剣戟に似た音を響かせるだけだった。
「きゃあぁぁー! やめてぇー!!」
 澄んだ金属音とかぶるように屋外から響く女の叫び声。それに野太い男の怒号と何かを崩す激しい音も重なってくる。だがそんな切羽詰った騒音も、真剣勝負の為に向かい合う二人の集中力を削ぐには程遠い。
「ふふ、こんなに早く師弟対決をする羽目になるなんてね……」
 己より遥かに実力が勝る相手を敵に回さねばならない緊張の所為だろう、一筋の汗をこめかみに流しながら、しかし一歩も引かぬ気迫でライラはフォークを隙なく眼前に構えた。すぐ隣に座る自身の剣術の師――いや、宿敵へと鋭い視線を投げかけて、
「いざ尋常に勝負!!」
「勝負じゃねぇだろッ!!」
 怒声は背後から降ってきた。と同時に怒りの鉄槌が、ライラの後頭部にぱかぁんと威勢のいい音を立てる。
 目の奥に飛び散る星を感じながら勢いに押されスツールから転げ落ちるライラは、恐らく自分と同様に死角から丸いトレイの襲撃を受けたはずのサージェンが、首を無造作に動かしてそれを避けているのを見た。
(くそぅ……)
 だが今は文句を言う相手が違う。突然現れた襲撃者をライラは睨み上げた。よく知っている声だった。
「なぁにするのよ! ツァイト! 今、人生最大の壁・弟子が師匠を超える瞬間に百年の時を越えて立ち向かってるのよ! 邪魔しないで!」
 がばっと起き上がったライラが、噛み付かんばかりの勢いで後ろに立っていた男にまくしたてた。言っていることはいまいち意味不明だったが、男の方は、何か慣れでもあるのか、不可解そうというよりは呆れたように眉を寄せ、目の前の少女を見返している。
「百年の時ってお前、聖騎士団に入ってまだ一月じゃねーか。どっから出てきたんだ?」
「言葉のあやよ!」
 言葉のあやと言う言葉は別に意味不明の発言を無制限にフォローするための便利機能じゃないんだぞ、という旨の指摘はどうせ言っても無駄であろうという賢明な判断からツァイトの胸のうちに押し止められた。それよりも優先度合いが高い事象を抱えている彼はそれに対して顎をしゃくって見せる。
「さっきからのあの悲鳴、聞こえないのかよ? 何やってるんだよ。お前らそれでも、国民の安全を守る聖騎士団の一員か?」
 説教をする騎士団長のように腕を胸の前で組んでじろりと睨んでくる青年に、ライラとサージェンは同時に顔を見合わせた。ライラが聖騎士団に入隊し、サージェンに師事し始めてから間もないのだが、毎日顔を付き合わせているせいか、早くも行動や意志に同調が見られるようになっている。師弟として、いい兆候といえばそうなのだろうが。
「騎士団の仕事ってそういうものだったっけ?」
 首をちょこんと左に傾げつつ、ライラが言う。同時にサージェンも、黙ったまま彼女と同じ仕草をした。小柄で愛らしいという言葉のぴったりなライラがするにはさまになるが、長身で戦士然とした体格の青年がやって可愛げのある仕草ではない。
「そーだよっ! 別に騎士は戦争やるためだけにいるんじゃねぇぞ」
「今日、非番なんだけど」
 首を、やはり同時に反対側へ傾げる二人。
「非番だろうとなんだろうと事件が起きれば関係ない!」
「……ツァイトが行けばいいじゃないの」
「うっがあぁぁ!!」
 頭を抱えて悶えるように二十歳やそこらの未来ある青年が絶叫するのを、周囲の人々がどこか哀れんだ視線で見詰めて来ている。理由が分かっているのかいないのか、ライラのツァイトを見る眼差しも分類すればそのようなものだった。
「ツァイト。つらい事があったのね。私達、友達じゃない。悩みがあれば相談に乗るわ」
「やっかましいわ悩みの種! タネ!!」
 種という単語に合わせて、ツァイトの指が、びし、びし、とライラとサージェンを指す。心底心外そうな表情の二人が再び顔を見合わせるのを見て、ツァイトは腕をわなわなと震わせた。
「お前らと同じ班ってだけで俺がどれだけ普段から迷惑被ってるのか分かってないだろ! 自覚持てよ、自覚! 聖騎士たるべき自覚をよ! ……っだあ!! 最初からこうすりゃよかったんだ!!」
 最後に一声叫んで――
 同僚二人の首根っこを、猫の子をつまむかのように掴み上げる。ツァイトは、サージェンほど大柄な男ではなかったが、さすがに聖騎士の一員であるというべきか、人間二人を悠々と引きずって足早に店の出口へと向かって行った。
「あ……」
 ずんずんと足を踏み鳴らしていく男の剣幕に圧されたのか、声をかけるタイミングを逸した店主が間抜けな声を上げる。引きずられたままサージェンは、カウンターの上に寂しく置いていかれたパフェとプリンの代金銀貨一枚を彼に放った。

 「辺境の大国」レムルス。
 この国にはもうひとつの別名があった。
 「騎士の国」レムルス。
 その呼称は、レムルスが大陸最大規模の騎士団を擁することに由来する。しかしそれだけでは足りない。レムルス王国騎士団が、大陸最大規模でかつ、大陸最強の戦力でなければ、誰が定めたわけでもないその呼称を人々が口に上らせることもないだろう。それは万人にとって疑う余地のない確たる事実だった。古く、戦乱の時代よりレムルス騎士団が挙げてきた武勲は枚挙にいとまがない。レムルスが大陸で最大の国土面積を誇っているのは伊達であったり、ましてや田舎だからという理由であったりするわけではないのである。
 戦乱の時代が終わり、東部地域が平定されてかなり経った今でも、レムルス騎士団に対する一般人の憧憬と畏怖の念は変わっていない。列強の力が拮抗し、また、相互に協力関係なども築き上げられている現代において、戦争が起こる可能性などないに等しいが、それでも騎士たちは日夜厳しい訓練に明け暮れ、たゆまぬ努力で技を磨き続けている。鍛え上げられたその力はもっぱらツァイトの言う通り、武装盗賊団の制圧という大仕事から都市の警備、果ては街道の整備まで、国民のために注がれていた。街道の整備は武力とはあまり関係ないだろうが。ちなみにこの街道の整備に回されることを、人は左遷と呼ぶ。
 レムルス王国騎士団には、その役割毎に細分化された数多の部隊が存在する。サージェンたち三人が所属する聖騎士団もまたその内の一つであった。一つにして、この騎士の国に於いて最高の名声を誇る騎士団である。
「聖騎士団の存在目的は、他の騎士団の模範になること」
 重々しい声で、サージェンがライラに向けて呟いた。別に意図してもったいぶった声を出しているわけではないが、彼の、男性の中でも低い部類に入る声は何気ない言葉でも重厚な響きにする。ライラは、自分の頭の上はるか彼方にある師の顔を顎を上げて見上げた。
「能力、儀礼、胆力、その他どの点においても。そのために、聖騎士団には選り抜きの騎士が抜擢される。まあ、騎士課程首席の君には今更言うべきことではないだろうが」
 ライラは軽く頷いた。
 二人はもう引きずられてはいなかった。自分らの足で声の方向へと駆けている。店の外まで出るとツァイトは手を離し、さっさと目的の方向へ走り出してしまったので、このまま彼に背を向けてさようならという手段もあったのだが、後が怖そうなので止めておいた。もとより彼らが心を引き止められていたのは主に食後のデザートにであり、別に悲鳴の主を助けるのを嫌がったわけではないのだ。
 声の聞こえ具合から、事件の発生現場はそう遠いとは思えなかったが、人込みの所為もあってまだライラには視認出来なかった。声は低いが背の高いサージェンには、現場自体とまではいかなくても人の滞り具合は見えているようだったのでライラは黙って彼について行く事にした。まだ辿り着くまであると踏んだのか、サージェンは視線を前に向けたまま、解説を続ける。
「故に我々は、平時では王族の警護という栄誉ある職務を与えられている」
 再びライラは頷く。今度は先程よりは少々沈痛に。
「……やっぱり、私達の仕事じゃないんじゃない、これって」
 声を下に向けたまま、ただ恨みだけを前にいる――と言っても姿は見えないが――先輩であるツァイトに向ける。変な面倒に巻き込まれて週に一度の貴重な休暇を潰すことの苦痛は、彼女の正義感よりもほんのちょっぴりだけ勝っていた。この平和な王都で起きる騒動など、実の所たかが知れている。
「まあ、人助けはやって悪いことでもないだろう。それにこれだけの騒ぎだ、警らの騎士ももう来ているかもしれない」
「だったらツァイトってば、何で」
「少しでも点数を稼いでおきたいのだろう? 先月遅刻しすぎで減俸ぎりぎりだったから」
「……どっちが自覚持ってないのよ」
 嘆息して、ライラは、やや前を走っていたサージェンに合わせて足を止めた。

 その場にいた人々は、心配そうな、もしくは興味深そうな表情で、輪となって囲む中心部の何かを見ていた。騎士とは言え体格は同年代の少女と変わらないライラは人だかりの中で何が起きているか見る事ができず、ぴょんぴょんとその場で跳ねた。その横を、サージェンがするりと抜けていく。慌ててライラもその後に続いた。
 通りにぽっかりと、半径五メートルほどの円形の空間が作られていた。その中心にいるのは幾人かの男と一人の女であった。男のうちの一人は確認するまでもなく、先に駆けつけたツァイトである。
(あーあ)
 天を仰ぎ見て、呻く。あれだけ早く来てくれと強く念じていたのに、巡回の騎士たちにこの思いは届かなかったようだった。
 ツァイトの目の前にいる男たちは、三人。いずれもがっしりとした体躯で、まっとうな職業に就いているとはとても思えないだらしない風体をした若者であった。上唇の片側だけを威嚇するようにあげ、斜め上から彼らよりは少々背の低いツァイトを見下ろす様は典型的なチンピラそのものである。決まった枠内に収まることを嫌い、しかし結局無個性に陥っているような彼らだったが、恐らく彼ら自身はそんなことには気付いてすらいないだろうし、それで笑い出したりでもしない限り、この際関係もないだろう。ライラが敢えてそんなことを思ったのは、つまりツァイトはそういう事で笑いそうな人物であったからだ。
 しかし今回、ツァイトはそれを口に出しはしなかった。無論内心は分からないが。彼は泰然と、各々身長で一回り体重で二回りは大きい男たちを睨み据えていた。
 そのツァイトに庇われるような位置で、恐々とその様子を窺っている女がいた。地味な渋染めのスカーフを目深に被りその表情は見えにくいが、僅かな動きから若い女であるらしいことは分かる。そこにいる面々の足元にぶちまけられた大量の果物類から察するに、彼女はその場所で物売りをしていた行商人なのだろうと思えた。そこへ、何か男たちが因縁をつけてきたりしたのだ。平和な王都レムンであるが、このくらいの事件なら珍しくはない。
「んだと、騎士様よォ、ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ、あぁ!?」
 姿形も行動も典型なれば、言葉までもお決まりな事をチンピラの一人が叫ぶ。ツァイトは自らの身分を既に自分の口から明かしたようだった。そうでなければ彼が騎士であるとは誰も思わないだろう。今日は街に遊びに繰り出してきただけなので、武装もしていないし服装だって街の若者が着るものと同じシャツとスラックスである。それに加え、ツァイトは体格も平均的な男性のそれと大して変わらない。男たちの前に立ちはだかるのがツァイトでなく、長身、筋肉質で見るからに職業剣士だと分かるサージェンであれば話は違うのだろうが、騎士と名乗ってはいても見た目は優男風の青年一人に萎縮するほど彼らの腕力への自信は低くないようだった。
 しかし、普通ならば末席とはいえ貴族たる騎士と事を構える事の愚かさに気付くものである。ツァイトの発言自体、はったりと読んだのかもしれない。しかしその愚かさにすら気づかない真性の愚か者である線も否定できない。どちらもありえそうではある。
 ともあれ――
 恫喝にも怯まない青年に痺れを切らしたのか、男の一人がずいと前へ進み出る。
「よぉ兄ちゃんよ、俺らはなぁ、その田舎者の姉ちゃんに、こんな道の真ん中で商売してたら危ねえぞと親切にも注意してやったのよ。ちょっと小突いたら折れちまいそうなひょろっちい男にしゃしゃり出てこられても困るんだよなぁ?」
 その言葉に合わせ、残りの男たちが笑い声を上げた。どうやら、彼らは暇つぶしの手段を、路傍の物売りの女をいびることから、通りすがりの青年を痛めつけることに切り替えたようだった。にたにたと下品な笑いを浮かべながら単調な挑発を叩き付けてくるチンピラに向ける目に、ツァイトは汚物を見るような不快感を混ぜ込んだ。
 さしもの愚鈍な連中も、その目には気づいたらしい。なめきっていた表情を怒りの形相に変化させる。
「その目は何だぁ!? なめてんじゃねぇぞ!」
 叫んで、男が太い腕を振りかぶる。戦闘のための訓練を受けているわけはないだろうが、喧嘩慣れはしているのだろう。迷いなくツァイトの顔面へと向けてこぶしを振り下ろした。が。
 そもそも、素人の一撃で倒されるようであれば最初からでしゃばってなどいない。ツァイトは余裕を持って身体を半分ひねって躱し、男のがらあきの脇腹にひねりを利用した蹴りを入れていた。
「がふぅっ!?」
 息を絞り取られるような悲鳴を上げて、男が転がる。
「てめぇ!?」
 激昂する残り二人に向かって、ツァイトはゆっくりと足を下ろしながら身体を向ける。
「面倒くせぇ、いっぺんに来いやコラぁ!」
 ――叫んだのはツァイトだった。
 まがりなりにも貴族の青年が吐いたその言葉は、どっちがチンピラだか分からないような代物だった。



 こつこつこつ、と、神経質なまでに規則的な音。延々と、それは連続し続けている。延々と――そう、延々と。永劫とも思える時間。重苦しい空気を纏ったまま、時の流れが止まったかのように誰もが動かない。いや、動けない。
 静寂な――ただひたすらに静寂な空間に、同じ硬い音だけが響く。部屋は狭い。元々はそこそこ広い部屋なのだろうが、さまざまな書籍、それを入れる書棚、書類仕事用の大きな樫の机、その上に載っている書類諸々が、そこにいるものを窒息死させるかのように部屋を狭くしていた。
 息もつけない静寂と緊張。ライラは居心地の悪さに身じろぎした。本来なら動けないはずの空間なのだから、本当にこっそり、少しだけでなければ許されない。いや、それすらも許されざることなのかもしれないのだが、彼女は十分おきくらいに姿勢を整え直していた。そうせずにはいられなかった。だが彼女の横と前で直立の姿勢を保っている聖騎士団の先輩二人は、入室を許されてから今に至るまで一時間半、頭から足の先までぴくりとも動かしていない。それは大変立派なことであろうが。
 ライラは悩んでいた。彼ら、ツァイトとサージェンを尊敬するべきかどうか、悩んでいた。
 机の奥の、黒革の椅子に座っていた初老の男が、机の表面を指で叩くのを止めた。こつこつという音がぴたりと止まる。彼は机から離した手を、祈るように組んで、頭をうな垂れた。皺の刻まれ始めた口を横に開く。下を向いたまま吐き出されたのは、盛大な溜息だった。
「相手は腕、肋骨、腰の骨を折る重傷」
 それはこの一時間半で何度も聞かされた事実だった。ライラは――厳密に言えば自分がやった行為ではなかったのだが、痛いところをつかれたように、うっと頭を下げる。が、残りの二人はさも当然のように直立不動の姿勢を崩さない。俯いたまま、初老の男が何かを堪えるようにゆっくりと続きを口にした。
「……いくら騒動を起こしかけていたとは言え、武器不携帯の民間人に対して、非番中の、聖騎士が、全治一ヶ月の怪我を負わせるという重大な事件について、この私、聖騎士団長コルネリアス・ローウェス・エバーラシーは、聖騎士団員であり首謀者ツァイト・スターシアに通告する」
 すっと顔を上げた男、騎士団長の瞳には、老いてなお衰えを見せない勇猛な武人の炎が見えた。
「今月の俸給は無しだ、ゼロだ、ばかもぉぉぉぉん!!」
 老雄の怒号に打ち負かされてか、書棚から分厚い本がばさりと落ちてきたが、その衝撃波をもっとも間近で食らったツァイトは、やはり一ミリたりとも肩を動かすことはなかった。
 迷っていたライラは、彼の毅然とした態度を尊敬しないことに決めた。
 ただ単に彼は怒られ慣れているだけだった。

「酷いよなー。今月給料無しだってよ。信じられない。搾取だよ。詐欺だよ。奴隷扱いだよ」
 騎士団員寮の一角にある娯楽室。
 結局あの後も長々と絞られ続け、都合二時間の後に彼ら三人はあの狭い牢獄から解放された。聖騎士団入団後一ヶ月で、早くもその長たる――つまりはこのレムルス王国中の全騎士を統括する聖騎士団長直々に説教を食らうなどとは思ってもいなかったライラは、完全にめげていた。よく考えてみればこの件についてはライラもサージェンも非がなかったはずだったのだが、一人で叱られるのを嫌ったツァイトにいつのまにか言い包められ、気がついたら同席する羽目になっていた。
「ううー。幼年学校からずっと優等生で通してきたのにー。お父様に何て詫びたらいいのよ」
 これでもこのライラの言葉には嘘はない。負けん気と気位が高い分、規則には厳格な方だ。悲痛なライラの声に同調するように、娯楽室のソファーに寝転がったままツァイトが、芝居がかった仕草で、天に向かって嘆いた。
「おお、我らが母、天におわす女神ミナーヴァよ、定年間近のくそぢぢいに不当にそしられ家畜の如き扱いを受けている子がここにいます。どうかあなたの小さき子に大いなる愛を」
「不当でもなんでもなかろうが」
 ぼそりとした、だがしかし真実を貫く剣の鋭さを持った突っ込みに、ツァイトの動きがぴたりと止まる。ソファーと並んで置かれた椅子で、サージェンが視線を落としている本のページをぱらりとめくった。目と脳では物語をじっくりと堪能しながら、口だけは別の生き物のようにさくさくとツァイトを刺す。
「大体相手が大人数だしこちらも丸腰だったから全力でやらざるを得ませんでしたなどという言い訳が効くわけがあるまい。素手での戦闘訓練も、多対一の場面での訓練もこなしているだろう」
「だ、だからって素手で多対一なんて訓練はやってねぇぞ?」
「それは一般の騎士の言い訳だ。聖騎士として技術を身につけた以上、その技術を複合し応用できるようにするのは当たり前であって」
「……お前みたいな戦闘馬鹿とは根本的に作りが違うんだけど、俺」
「どうしてもその言い訳を通用させたかったのなら、腕の一本も折ってくるべきだったな」
 本から目を上げもせずに、さらりと言うサージェン。そんな彼の代理のように、ライラがツァイトの方へ視線を向けた。
 ふてくされたようにごろごろとしている青年の身体には傷の一つもついていなかった。相手を一人一ヶ月、合計三ヶ月の怪我に追いやったというのにである。双方とも武器は所持していなかったのだから、本来ならここまでの大事になることもなかったはずだった。だがこうなってしまったのは、ひとえにこの先輩――いやこの馬鹿が、はしゃぎすぎたためである。最初の一撃で完全に頭に血が昇り、なりふり構わずかかってきた男たちに、嬉々として蹴りを食らわす様は実に楽しそうだった。絶対最初に言っていた「聖騎士の自覚」も「点数を稼ぎたかった」こともこの時には頭の隅にもなかったはずだ。
「ツァイトの大馬鹿! あほたれ! 何が悩みの種よ! あんたなんか育って育って悩みの大木じゃない! やだやだこんな班長のいる班なんて私やだあ〜」
 子供のようにじたばたと腕を振って暴れ出したライラの頭を、サージェンはぽんぽんと優しく撫でる。
「ようやく気づいたな、利口だ」
 人を小馬鹿にしているとしか思えない言葉だったが、彼は全くの真剣だった。サージェンは人を舐めて見たりなどしない。彼は何をするにも真剣な男だった。
 が、それが好印象に映るかどうかは時と場合による。
「知ってたんならサージェンもどうして言わないのよ!? 何で始まる前に解決策を模索しないのよ!?」
「どうせいつものことだし」
 これも真剣さが成せる発言だったかは謎であるが。
「うわーんどっち向いても馬鹿ばっかー!! お父様助けて私こんな職場いやーッ!!」
「俺もやだー。給料ー……」
 屈強な騎士たちが寝泊まりする宿舎に、叫びと慟哭がこだまする。
 「騎士の国」レムルス王国聖騎士団。
 騎士と言う言葉に幻想を抱く者が憧れて止まない精鋭部隊の隊員たちの、過酷な日常が今日も幕を閉じようとしていた。


 

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