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11


「全く。散々引っ掻き回しておいて用が済めばポイとはどこのビッチだ。胸糞悪い」
 忌々しげに鼻を鳴らし、罵声を発する部隊長の前で、ミナは俯いたまま、微動だにせずに椅子に座り込んでいた。
 ネツァワル国首都ベインワット、《ベルゼビュート》部隊本部の大会議室。その上座に座る部隊長は、軽口じみた口調の中に不快感と苛つきを隠さずに吐き捨てた。有耶無耶のうちに部隊監査も終了となり、首都に帰投した彼らを待ち受けていたのは言いようのない後味の悪さだけだった。
 会議室に集まった部隊員達は、不機嫌な部隊長を曖昧にさざめきながら見つめている。
「クォークさんは」
「原隊復帰との事だ。特殊戦術開発局……ふん」
 部隊員の問いに答える部隊長の頬が嫌悪に歪む。その機関が如何なるものであるのか、彼女は知識として持っているらしかった。実の所この機関の存在は、ある程度深い情報を持ち得る人間であれば一度や二度耳にした事があるという類の、公然と言うにはやや日陰にある軍内の秘密であった。
「それで」別の部隊員が後を継ぐように口を開く。「どうするんですか、部隊長」
 部隊長はその言葉を発した部隊員を仇のように睨み、牙を剥く肉食獣めいた顔で言った。
「どうするもこうするもなかろうが。顔に泥を塗られた以上、我ら《ベルゼビュート》が成すべき事は決まっている。血の報復。これ以外には有り得ない。例え相手が国軍であろうともな」
 あの少将はクォークを手に入れるや否や、軍の正式な行事である部隊監査を、一言の挨拶もなく、こともなげに放棄して、去って行ったのだ。
 あたかも、お前らなどただの釣り餌、眼中にすらない、と言わんばかりに。
 国中に名を馳せる部隊として、これ程の屈辱があろうものか。
 しかし――
「俺は反対です」
 その部隊長の獰猛な発言に、反論する声がまた別所から上がった。今度の声は部隊長の側近と言ってもいい、複数人いる副隊長の内の一人のものだった。並の人間であればそれだけで縮み上がる部隊長の眼光が部下を射る。だが無論彼も、その程度の殺気を向けられる覚悟もなく発言してはいなかった。
「そもそも、奴らがどこに姿をくらましたかって事すら分かっていないんです。この首都に戻ってきた形跡もない。大元の拠点であったロックシャンクも、随分と昔に何らかの事故があって以降はもぬけの殻だという。……こんな無茶で強硬な手段を用いてクォークを引き抜き、忽然と姿を消すような輩ですぜ。これ以上藪をつついたら何が出て来るもんか分かったもんじゃねえ。業腹でしょうが、ここで手を打っておきましょうや」
 宥めるような発言に、部隊長は瞳の光をより一層強める。
「これだけの侮辱を受けて尚黙っていられるとは、貴様、腑抜けたか」
「ただじゃ済みませんぜ」
「それがどうした」
 苛立ちもあらわに低く唸る部隊長に、副隊長は一歩も引かず視線を返し、やがて腹を括った表情で口を開いた。
「部隊長。クォーク一人の為に、身内全体を危険に晒すおつもりですかい? 歴代の部隊長が命を賭して護って来たこの《ベルゼビュート》を。あなた自身も尊敬する前部隊長がここまで育て上げたこの部隊を、自らの手で壊す気ですかい?」
 指摘された危険性は、部隊長にとっても決して考慮の外にあったものではなかったのだろう。彼女は反撃しようと鋭く息を吸ったが、その息を吐き出さないまま唇を引き結んだ。
 炸裂する寸前の魔法弾のような、一触即発の緊張が会議室の卓上に膨れ上がる。
「部隊長さん」
 その張り詰めた空気を押し退ける小さな声に、会話中の二人に注がれていた数多の視線が微かな驚きを伴って転じられた。部隊長当人らも含めたその視線の先には、椅子に掛けて膝の上で固く拳を握る少女の姿があった。
「……ミナ」
「情報の伝手だけ少し貸して下さい。後は、私がやります。私は《ベルゼビュート》とは関係ないから」
 手元に向けていた視線を決然と上げたミナは、部隊長の隻眼をひたりと見つめて言った。






 暑くもなく、寒くもなく、
 明るくもなく、暗くもなく、
 そこはただ、それだけである場所だった。
 強いて言えば、箱。
 檻、ですらない。用具を入れる、箱。
 光を遮断する、音を遮断する、空気を遮断する、
 未来を遮断する、密閉された箱。
 深い深い穴倉の奥。抜け出す事の叶わない泥濘。絡みつく茨。

 遠く、遥か遠くに揺らめく淡い光に、腕を伸ばす。
 閉ざされた海の底から柔らかな輝きに向かって立ち上る、歪にひしゃげた泡。
 逃がしたくなくて、懸命に指を伸ばすが、届かない。
 ――もう二度と奇跡が起きる事はない。



 つぷり、と、静脈に針が打ち込まれる感触を、クォークはただ無感動に受け入れる。
「ねえ、クー。もしこれが、あなたを私の意のままに操れるようにする薬だったらどうする?」
 注射器の内筒に押され、血管の中に流し込まれる冷たい液体。それと同じ冷ややかさを隠し持つ、子守歌のような囁きが耳朶を撫でる。
「私はあなたにこう命令するの。あの子を殺して来て、って」
 耳にこびりつく粘性の声音に、しかしクォークは眉一つ動かさない。その横顔に何を感じたか、少将は苦笑し、彼の腕から針を抜いた。
「冗談よ。ただの栄養剤」
 続いた言葉にもクォークは特に反応を示さず、機械的に視線を巡らせて、壁に立て掛けられていた両手斧を確認するとそれを手に取った。そのまま少将に無言で背を向け、淡々と部屋の中央に進み出る。
 聖堂じみたドーム状の高い天井と広さを持つ一室。但し灰色の岩盤で作られた壁面は装飾の類は一切なく、至って簡素である。岩盤をそのまま平滑に切り出したかのような、素っ気なく無機質な一室。平滑な壁面上部には、ぐるりと取り囲むように、強化ガラスで作られた窓が設えられている。そこから見える景色は屋外のそれではない。窓の向こうにはこの部屋と同じような無機質さが続いていて、白衣を身に着けた研究者と思しき顔が、淡々と階下の様子を見物している。
 高みからの視線に晒されながら、クォークは正面に佇立しているモノに目を向けた。
 今日のそれは人間の被験体ではなかった。見上げんばかりの隆々とした筋骨。黒鉄色に鈍く輝く皮膚。剛腕の先の巨大な手指には大剣の如き凶悪な鉤爪を備え、獣の顔貌の上には雄牛のそれに似た鋭い角を頂いている。およそ人の恐怖を煽る要素を悪意を持って練り固めたような、この世の物とは思えぬ異形だが、その姿には見覚えがあった。かつて、情報部が開発したという召喚獣『デーモン』だ。全身を覆う鋼鉄の皮膚は非常に硬く、撃破するのに多大な時間を費やした事を記憶している。

 どこで。
 ――深い、駐屯地の森で。
 どのような状況で。
 ――背中に、彼女を庇って。

 彼女。
 ――――ミナ。

 声に出さず、胸中のみでその名を囁く。自分が自分である為の、最後の呪文。それがまだ唱えられたという事実に心から安堵し……そしてその甘やかな感情を、背後にいる少将に悟られぬうちに消し去り、意識を目の前の哀れな異形へと戻す。
 蒸気機関の駆動音のような低い唸りを漏らし、呪いじみた暗い眼差しでこちらを睨め付けるそれを、無感情な瞳で見つめ返す。
『戦闘試験、開始』
 無機質な声が灰色の世界に響く。命じられるままに、クォークは床を蹴った。



「ナンバー〇五の調子はどうかね」
 レイチェル・クォ・ヴァディスが戦闘実験室を見下ろす観察室に戻ると、上官が声を掛けて来た。矮躯にたっぷりとした贅肉を纏う身体を揺らし、口髭を扱きつつ小さな目を向けて来る老齢の上官に、レイチェルは胸に手を当てる軍式の礼を取る。礼式に男女の別はないが、彼女の仕草は如何なるものでもどこかな艶美な女性らしさを匂わせる。それを見た上官の眼差しに年甲斐のない好色なぎらつきが浮かぶが、彼女はそれに気付いたそぶりを一切見せずに、穢れを知らぬ少女のような無垢な笑顔を返した。
「順調な仕上がりを見せておりますわ、閣下。身体能力は成長に伴い充実しておりましたし、戦況判断能力も思った程には低下していませんでした。再教育の完了には今暫く時間を要しますが、計画通り全て滞りなく進んでおります」
「今暫くとは具体的にどの位かね」
「あと一週間もあれば、自我の消失を確認する事が可能であるかと」
 一週間という見積もりに、老人は目を眇めた。
「もう少し早くはならんのか。脳の……何と言ったかね、なんとかいう部分を切り取る手術をした方が確実ではないかね」
「前頭葉切裁術は成功率が高いとは言い難い手術です。あれ程の逸材に万が一、重篤な損傷を与える危険を考慮しますと、行うにしてももう少し廃却用被験体を用いて術式を確立させてからの方が宜しいかと」
「ふむ」
 子供を宥めすかすかのような声での彼女の説明に、老人は渋々ながらも納得して頷いた。尤もこの、直近の記憶の保持すら怪しい素人の老人に、さも分かった風に首を振る以上の事など出来はしないのだが。所詮は便宜上用意されただけのお飾りに過ぎない。
 その、全く美しくもない飾り物に慇懃に礼をしつつ、レイチェル・クォ・ヴァディスは下げた頭の影で唇の笑みを深める。
 ここから、また、始まる。
 私と同じように全てが失われてしまった、この地から。

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