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10


 耳障りなまでに大きな心臓の音が、鼓膜の奥に響く。
 ――いつから、そこにいたのだろうか? どこから、この会話を聞かれていたのだろうか――
 凍りついた時間の中で、クォークはミナをまじろぎもせずに凝視する。彼女もまた、あどけない顔に拭い難い驚きを張りつかせてクォークを見つめていた。……その表情に、悟る。全て、聞かれていたのだと。
「あ……」
 乾ききった唇の奥からひび割れた無意味な音が漏れる。クォークはただ、恐怖した。清らかに澄んだ彼女の瞳に、侮蔑の細波が揺れる事を。失望の火が灯る事を。
 ゆっくりと、ミナの瞼が動く。
 ミナは瞼を一旦下ろし、数秒の間瞳を閉ざしてから、それを開く。再び、自分へと真っ直ぐに向けられたその眼差しを見て――
 クォークの胸中で吹き荒れていた嵐が、止んだ。

 ――言った筈だよ。
 一見、そうと分からないくらいに淡い笑みを浮かべて向けられる、強く、優しく、揺るぎない瞳。
 その瞳から、自信に満ちた声が聞こえる。
 ――大丈夫だって。失望なんてしないって。

 そうだ。そうだった。
 一体何を恐れていたのだろう。もうとっくに覚悟を決めていた事ではないか。お互いに。
 自分は、全てを打ち明ける覚悟を。彼女は、全てを受け入れる覚悟を。
 彼女を信じればいい。ただ、それだけだったのに。

 手を触れられる距離にはないミナと、しかし確かに繋がり合っている実感を得て、クォークは愛する少女から少将の方へと顔を戻した。少将は胸の前で腕を組んで立ち、常と変らぬ、本心を推し量ることの難しい微笑を浮かべて二人を眺めていた。クォークは怯む事なくその瞳を見つめ返す。少将もまた、クォークに視線を向けたが、ややしてその目を逸らした。転じられた視線の先にはミナが立っている。国軍の高官である少将は、暫くの間、一兵卒にしか過ぎないばかりか兵士としてはどう見ても不適格なその少女を、蔑むでもなく見つめた。
 ――蔑んでいない。自身がたった今、ごく自然に覚えた感想を胸中で改めて繰り返し、クォークはその事実に小さく息を飲んだ。
 この女――レイチェル・クォ・ヴァディスの視線には昔から常に、相手に対する軽い蔑視があった。相手を意識的に嘲っている訳でも、侮っている訳でもない。ただ彼女の中では確固たる事実として、目の前にいる多くの人間が自分の下に位置する者であるというだけなのだ。あたかも王侯貴族が生まれながらに持ち得るごく自然な傲慢さ。或いは、実験動物を見守る研究者の眼差し。……恐らくはどちらも正鵠を射たものであるのだろう。彼女の実験動物であった当時は知り得ぬ事だったが、国軍の名鑑によれば彼女は貴族階級の出身であるようだ。
 しかし今、その女がミナへと向ける瞳に、常に漂っている筈の蔑みはない。口辺にはいつもの笑みを佩いたまま、その瞳が微かに浮かべている感情、それは――
 ――憎しみ?
 クォークは軽く眉を寄せ、少将の横顔を窺った。常に穏やかな微笑みと共にあるその女にとって、それは不思議な程に不似合いと思える感情だった。
 少将は、ミナに目を向けたまま、赤い唇を動かした。
「クーが私の元に来た経緯については、ミナさん、あなたは聞いた事があるのかしら?」
 その問いに、ミナは僅かに眉を持ち上げてから、首を横に振った。
「いいえ」
 ミナの答えに少将は、口元の笑みを少し深め、目を新月の形に細めた。
「私と彼が初めて会ったのは、彼が七歳の頃。その時彼は、国軍の取調室で事情聴取を受けていたわ。……両親殺しの、被疑者として」
 優雅に笑いながら、内緒話を打ち明けるような声で語り始める少将を、ミナの見開かれた瞳が見つめ返した。

 ――彼が生まれ育ったのは、旧ベインワットの最下層、貧民街と呼ばれる地区。場末の安アパートで、義勇兵であったお母様と二人で暮らしていた。実のお父様も、同じく兵士。お母様とは結婚はしておらず、二人の生活の面倒を見る事もなかった……どころか、度々お母様にお金を無心するような男だったらしいわね。女から巻き上げた金を酒と博打に湯水の如く浪費し、気に食わない事があれば暴力を振るうろくでなし。
 当然、クーの幼少時の生活は悲惨なものだった。唯一の養育者であるお母様も、半ばクーの子育てを放棄していたから。

「放棄……?」
 つい先刻まで戦場であった場所には不似合いな昔語りを淡々と紡ぐ少将をじっと見つめながら、ミナは訝しげに眉を寄せた。恐らく、同じく片親の元で、しかし愛情を惜しみなく注がれて育てられたミナには、『母親が子育てを放棄する』という状況を想像する事が出来ないのだろう。その具体的な様子も、それを起こし得る心理状態そのものも。
 そういったミナの成育環境までをも把握している訳ではないだろうが、少将は手間を惜しまずに説明した。
「クーのお母様は、そんな男の一体何が良かったのか、彼に大層惚れ込んでいて、彼が金銭を無心にやって来る度に、何の迷いもなく求められるだけのお金を渡していたの。どんな無体な仕打ちを受けようとも。自分や子供の生活になんて全く頓着せずに。お父様にとってお母様は、いい金づる以外の何者でもなかったでしょうね。また、スカウトだったお母様はクーを産んでからも、度々お父様に付き従って戦場に出向いていたそうよ。幼いクーを一人、お家に置き去りにしてね。……そんな環境で、例え辛うじてであってもクーが乳幼児期を生き延びる事が出来たのは、奇跡と言うより他はないわ」
 再び、ミナの目が愕然と見開かれる。少将の目元に満足気な笑みが浮かび、形良い唇が歌うように言葉を紡ぐ。

 ――夏のうだるような暑さの中でも冬の凍てつく寒さの中でも、狭く古びたアパートメントの一室に一人残され、ただひたすらに母親の帰りを待ち続ける痩せこけた幼児。
 僅かに残された保存の効く硬い黒パンも、いずれは黴が生え、虫が湧いて来る。
 腐乱した食物と汚物の散乱する閉ざされた部屋で空腹に耐えながら、彼は何を思い、薄汚れた壁を見つめていたのでしょうね――

 朗らかに告げられるおぞましい昔語りを、ミナは硬い表情を話し手に向けながら聞いていた。そんなミナに、少将はにこりと微笑みを投げかける。
「それでもお母様は、お父様と会っている時こそクーの存在をすっかり忘れてしまったけれど、家にいる時は、彼に水やパンも与えていたし、直接的な暴力を振るう事もなかった。クーにとってはお母様と一緒にいる時間は、飢えの苦しみのない、限られた安らぎの一時だった」
 向かい合う二人を傍から見るクォークは、疲労に似た重さを瞼に感じて、目を閉じる。
 悪気はない女だった。ただ、愚かな女だった。子供が親に無条件に依存するように、男に依存しなくては生きていけないというだけの女だった。
 だからこそ。自分と同じ弱者に過ぎないと知っていたからこそ、子供の頃の自分は、あの母親に対し憎悪を抱く事は出来なかったのかもしれない。

「そんな生活も、クーがある程度成長し、自分の力で飢えを凌げるようになってからは少しはましになっていた。……どういう風に日銭を稼いでいたかは、クーはきっとミナさんには聞かれたくないだろうから、ここは割愛する事にするわね。かつてのベインワットは今以上に戦災孤児で溢れ返っていて、幼い子供がまっとうな手段で日銭を稼ぐのはあまり現実的ではなかったから、これは止むを得ない事だったと思ってあげて欲しいのだけれど」
 婉曲に、言わなくてもいいような事を敢えて言う少将に、クォークは不快感を覚えるが、制止はしなかった。ミナの耳にわざわざ入れるような事でもないが、隠し立てするつもりは元よりない。
「生きる為の本能のなせる技だったのか、女神が哀れな子に与えたもうた唯一の奇跡だったのか、幸いにしてクーは、とても頭のよい子供だった。……この時点でお母様を捨てて家を出ていれば、或いはクーの人生は全く違っていたのかもしれない。多分その選択肢があった事くらいは、当時のクー自身、気付いていたのでしょう。けれどもクーは、その道を選ばなかった」

 ――金銭感覚に乏しいお母様に代わりクーが家計を支え、細々ながらも人として最低限の生活が営めるようになった彼らの家庭に、ある日、お父様がまたふらりとやって来た。
 当然の権利とばかりにお金を要求する男に、犬のように喜んで有り金を全て差し出そうとする女。……けれど、今ここでそのお金を差し出してしまったら生活がままならなくなる。この月の家賃も払えなくなってしまったら今度こそこの住処を追い出されてしまう。それを知っていたクーはその金銭の授受を遮った。
 しかしお父様にとっては、母子が住処を失う事などよりも自分が自由に遊べない事の方が厭うべき事態だった。お父様はクーの行動に激怒し、衝動に任せ、鍛えられた兵士の脚力で痩せぎすの子供をボールのように蹴り飛ばし、髪を掴んで幾度も幾度もその頭を床に叩き付けた。

 じわり、と、汚れた床に広がって行く赤い粘液。最初の数回の衝撃にこそ鋭い痛覚を感じた少年の意識は次第に薄れ、曖昧に解けて行く。これまでにも幾度かは鬱憤晴らしに殴られた事はあったが、この日は特に虫の居所が悪かったらしい。少年の抵抗の手が止まり、ぐったりと脱力しても攻撃はとどまる所を知らなかった。
 目の前で繰り広げられる惨状に驚いたのか、珍しくも女が男を制止する声が響いた。
 ――やめなよぉ、死んじゃうよぉ!
 ――っるっせえ! こんな小生意気なガキなんざさっさとくたばっちまえばいいんだ!
 ――で、でもぉ……
 ――俺に指図すんじゃねぇ!
 ――きゃあっ!
 怒れる男の暴力の矛先は女に簡単に向く。攻撃対象など誰でもよいのだ。子を成した相手だろうと都合のいい金づるだろうと関係ない。目先の衝動にしか意識を払えない愚昧極まりない男。
 鈍い打撃音を聞き、少年は腫れた瞼を開けた。顔面に男の蹴りを食らい、鼻を潰した女の顔が見えた。顔の下半分を鼻血で真っ赤に染め、泣きながら腕で頭を庇い許しを乞う女を、それでも男は狂ったように蹴り続ける。愚かで哀れな母親が泣いている。
 少年は床から頭を持ち上げると、視線を動かした。玄関の傍に、男の商売道具である長柄の両手斧が立て掛けて置いてあるのを霞む目で確認する。床に血を擦りつけるように這いつくばって、少年はのろのろとそれに近づく。女をいたぶるのに夢中な男は少年の動きになど意識を払わない。
 少年は、ゆっくりと立ち上がりながら、その両手斧を手に取った。自身の身長よりも長く、自身の体重に迫る程の重量のある戦斧は七歳の少年の手には余る代物であった筈だが、彼は誰に教えられた訳でもないその武具の扱い方を本能的に心得ているかのように、ゆらりと持ち上げ、斧頭を頭上に構える。
 先に気付いたのは、少年に背中を向けていた男ではなく、部屋の隅に追い込まれていた女の方だった。はっと顔を上げ、男の向こうにそそり立つ鈍色の刃に瞳の焦点を合わせた。続いて、その反応を訝しく思った男が胡乱気な眼差しを背後に向けた瞬間――

 鋼の刃が銀弧を描く。
 鈍く硬い衝撃音。
 男の頭は熟れた果実のように爆ぜ割れ、血液混じりの脳漿が飛び散る。

「あ、あぁ……あああ……ぁああ」
 少年は斧を振り下ろした体勢のまま、壁際にへたり込んだ女ががたがたと震え出すのを見ていた。最初は微細だった震えは徐々に大きくなり、ある程度まで増大した所で限界を超えたように、女は目の前の、頭をかち割られた男の死体に飛び付いた。
「あ、あんたっ、あんたぁっ……!!」
 自分も同じように鮮血に塗れながら、しかし女はそれを成した男に取り縋る。男の身体がぴくんぴくんと痙攣する度に、半分方失われた頭部からは血潮が噴き出し、鼻孔や口元からも泡立った血が溢れ出した。それを押しとどめようとでもしているのか、無意識のような仕草で女の手が傷口を覆うが全く奏功せず、こぷりこぷりと血は流れ続ける。呆然とした体で手を離し、女は手のひらを見下ろす。掬いあげる形になった指の間から粘着質なものがぬちゃりと糸を引いて零れ落ちた。
「あああ、ぁあっ、ひあ、あ……っ」
 その、感触にか。呆然自失としていた女に再び意識が灯る。ぬめる体液に塗れた己の手を見下ろして、女の口から、しゃっくりのような細い悲鳴が上がり、
 そして、女は、
 自分を殺していたかもしれない男に縋り泣きながら、自分を救った子供に、

 殺意を向けた。

「よくも……よくもよくもよくもこの人をぉッ!!!」
 女が少年に憎しみをぶつけた事は、実の所ここまで一度もなかった。女にとって少年は、女児のままごとのように気が向いた時のみに発生する情ではあったが、一応は愛情を向ける対象であった。彼の存在を忘れた事はあっても積極的に疎んだ事はなかった。
 しかしこの時初めて、女は明確な憎悪を己が子に向けていた。
 血走った眼で女は少年を睨み、幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。男の装備の中にあったのか、女の手には小さなナイフが握られていた。スカウトである女は、一振りのそのナイフを怒りの為に打ち震えながらも迷いなく、息子へと向けた。
「この悪魔……っ! 殺してやるっ、殺してやる!!」
 口角から泡を飛ばして女は吠え、ナイフを腰溜めに構えて血の海と化した床を蹴った。申し訳程度の手入れしかなされていないなまくらの刃が迫り来るのを、少年は、武器を下ろしたまま無感動に眺めた。この時の少年の胸中には、特段の感情の波立ちはなかった。苦痛を押して立ち上がり、救わんとした母親に仇と罵られても、悲しみは覚えていなかった。
 ただ、そういうものなのか、と、思った。
 少年は、半歩前進すると、その踏み出しに勢いを乗せ、下ろしていた斧を女が手にするナイフを目掛けて跳ね上げた。きぃん、と澄んだ音がして、ナイフが回転しながら飛んでいく。その素早い斬り上げに反応出来ない女の身体が慣性に従ってもう一歩、少年に近づく。肉薄、とまでは行かない、長柄の斧の威力が最も効果的に発揮される間合い。
 次の瞬間、振り下ろされた斧は、母親であった女を、二つ目の肉塊へと変えた。


「その後、騒ぎを聞き付けた近所の住人からの通報によって軍の憲兵隊が現場に駆け付け、彼を拘束。しかし被疑者が余りにも幼少の少年であった事で扱いに苦慮した憲兵隊は、上層部に指示を仰ぎ……そこから彼の存在が私たちの耳に入る事になった。私はすぐに彼を迎えに行ったわ。私たちは、彼のような才能ある子供を国内全土から探していたの」

 ――初めまして、クォーク。私は、クォ・ヴァディス。レイチェル・クォ・ヴァディス。

「当時彼は七歳。私たちの部隊で訓練を開始するには少し歳が行っていたけど、彼と面談して私は確信したわ。彼は、私たちに神様が下さった最高の贈り物に他ならないのだと」
 うっとりと、夢見るような声で少将は追想する。
「彼は生まれながらにして、まさしく私たちが作り上げようとしている兵士の完成型に近い存在だった。実の父母との生々しい殺し合いの状況を、正確かつ克明、そして客観的に把握し説明出来る冷徹な記憶力。初めての戦闘で既に備わっていた、目前に迫る殺意にも動じない胆力。武器の扱いに関する天与の才。それらのどれを取っても、今まで磨かれた事のない原石としてはこれ以上ない程秀逸だった。けれど何よりも素晴らしかったのは、その冷静さ……冷酷さと言ってもいいかしら。直前まで護ろうとしていた、愛していたお母様に対してであっても、ひとたび攻撃を受ければ、悲嘆する事も躊躇する事もなくすぐさま反撃対象へと変更出来る精神性。情に流されず、いかなる状況でも適切な判断を即座に下せるこの才能は、とてもとても得難い物だわ。……例えそれが、戦場以外の世界では、人間として壊れた性質であると言われる物だとしても」
「クォークは……壊れてなんていない。優しくて、とても情の深い人よ」
 震える声で反論するミナに、少将は少し憐れむように唇の端を歪めて見せた。
「そう思えるのは単にあなたが彼の脅威となる存在ではないからよ。彼は、護れる範囲でなら護るべき人を護る。でもいざとなれば自己防衛を優先するわ。彼は優先順位をよく心得ているの」
「そんな事ない! クォークはいつだって、命懸けで私を護ってくれた!」
 ミナの叫びに、少将は憐憫を含んだ眼差しを向けた。
「……クーは自分の為に他人を切り捨てる事が出来る反面、弱者を護りたいという相反する優しさも、元々心の中にひとかけら、持ち合わせていた。それが彼の最小にして最大の苦しみの根源。彼を完璧たらしめなかった唯一の瑕瑾。クーの身柄を預かった私は、その欠点を矯める事に長く心を砕いてきた。思うままに、本能の命ずるままに剣を振るえばよいのだと、雑念などに心を痛める必要などないのだと、長い時間とあらゆる手段を用いて教えてあげたのに……摘んだ筈の彼の苦しみの芽を、あなたはまた育てようとしている。……その点では、ミナさん? 私はね、あなたを、とても恨んでいる」
 ひたり、と。笑みの形でありながら、笑みの失せた女の眼差しがミナへと向けられる。酷く暗く、淀んだ、根の深い憎しみを隠そうとしないその眼差しに、ミナは気圧されて一歩後ずさった。
「彼は、あなたに出会い、あなたにその芽を再び育てられて、自身の本性の方を忌むようになった。ともすれば現れかねない冷酷な本性をどうにかして律しようと必死の思いで自分に呪縛を掛けた。今度こそ愛する者を裏切るまいという、命を捨ててでもあなたを護るという、誓いという名の呪いを。
 ……彼にはもう、無理なのに。最大の愛を与えるべき母親に裏切られたクーには、本当はもう愛なんて儚いものを信じる事など出来ないのに。信じている振りをして、あなたを愛していると自己暗示を掛けて、あなたと同じ感情的な人間という愚かなステージに立っていようと足掻いている」
 宵闇の仄暗さを帯びた気配を身に纏い、少将はしかし朗らかな少女のように嗤いながら、クォークを振り返る。
「ねえ、クー。彼女は眩しかったわよね。あなたの憧れる、きらきらと綺麗に輝くばかりの美しい愛を、あなたが信じ切れないそれを心から信じて何の衒いもなく語る彼女は。……最期までそれに殉じる事が出来るなら愛を信じ抜くのも幸せなのかもしれない。けれど、あなたには無理よ。あなたは彼女とは違うもの。あなたの不安はきっと現実になるわ。あなたはいつか、彼女を見捨ててしまう」
 ゆっくりと、暗渠の中に誘う手を差し伸べて。
「だから、戻っていらっしゃい、クー。あなたには、あなたに相応しい幸せをあげる。あなたが決して傷つかないように、私の愛で包んであげる」
 少将の、聖堂で聖歌を歌い上げるような声が、白霧の中に解け。
 ミナが、か弱い子猫が威嚇するかのように、しかし必死に少将を睨み。
 クォークは、やや天を仰ぐように顎を上げながら目を閉じた。
 ――数秒程か、数分程か。世界そのものを引きのばしたかのような、空虚な時間が音もなく過ぎる。
 やがて、絞り出すような声で、クォークは囁いた。
「……少しだけでいい。最後にミナと話をさせてくれ」
「クォーク!?」
「いいわよ」
 ミナの驚愕の声と、少将の優しい許可の声が重なる。クォークは、持っていた斧を地面に突き立てると、少し小高い所に立ち尽くしていたミナの方に身体を向け、両腕を差し伸べた。
「……ミナ、おいで」
 口元をきつく引き結び、目を潤ませたミナは、何かを言いたげに瞼の下を震わせたが、しかし黙ったまま、小さな崖を飛ぶ。クォークの腕の中に真っ直ぐに飛び込んでしっかりと抱き付き、その胸に顔を伏せた。少しの間、感極まったようにその腕の中で震えた後、くぐもった小さな声で彼女は囁いた。
「最後だなんて言わないで。あの人は、わざとクォークが傷つくような事を言って揺さぶりを掛けてるだけよ」
 しがみついて来るミナの柔らかい髪を梳きながら、クォークは首肯する。
「分かってる。あいつは俺の揺さぶり方を心得てるから、動揺しないとは言わないけど……平気。もう、あんな言葉では、俺は絶対に踏み外さない」
「だったら」
「……ミナ」
 ミナの言葉を、呼び掛けと強い抱擁で遮り、クォークは睦言を紡ぐ甘さで少女の耳に囁く。

 離れたくない。
 離したくない。

「愛してる」
 愛しているから。
「振りでも自己暗示でもない。……奴の言う事は、昔の俺にとっては本当に当て嵌る事だったかもしれない。でも今は、ちゃんと知っているから。君が注いでくれた気持ちの確かさを。このメルファリアを包む海よりも広く深い君の愛情を」

 きっと、昨日までの自分ならば、先の時点で既に心を折られていた。
 でも君が、君の全てを差し出して教えてくれた想いは。どんな言葉や理屈を弄されようと、決して穢される事はない。
 嘘偽りなく愛しているから。

 だから、この選択が、出来る。

 ゆっくりと、クォークは腕を解き、ミナの顔を見下ろす。涙に濡れた真っ赤な目で彼を見上げるミナの頬を両手で包み込んで、わななく唇に、そっと慈しむようにくちづける。
「どこにいても、どんなに離れていても、心だけは常に君と共にある。ずっと君を想い続ける。……だから、」

 ――さよなら。

 つぶらな瞳を大きく見開いて伸ばされるミナの手から、クォークは静かに身を躱す。小さな手が虚しく空を切るのを尻目に、彼は少女に背を向けた。
「いやだっ、やだよぉ……、行かないで、クォーク、クォーク……っ!!」
 涙声での絶叫を背中に聞きながら、踵を返す少将に付き従い、クォークは白濁の闇へと歩みを進める。瞼だけを閉じ、全神経を背後の少女の気配に集中して耳を澄ます。
 身を切られるような悲痛な慟哭であっても、最後まで彼女の声を聞いていたかった。



 同じ頃、《ベルゼビュート》に対し、本土への撤収命令が下されていた。
 レイチェル・クォ・ヴァディス少将は、使いと名乗る国軍兵を通じて一通の通達のみを部隊に届け、忽然とその姿を彼らの前から消した。
 ――《ベルゼビュート》副隊長、クォークと共に。

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