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『すんません! ミナさんとはぐれました!』
「はああぁぁぁあ?」
 パーティ間通信で入って来た報告に、アイラは無辜の市民に因縁をつけるチンピラのような声を返した。
「何言ってくれちゃってんのこの弓カス? はぐれましたぁテヘペロで済むと思ってんの?」
『思ってる訳ないでしょう! 俺だってこんな報告したかないっすよ!』
「口答えしてんじゃねーよ糞イーグル厨、通信で呼び戻したの!?」
『どうも聞いてないみたいで』
「だーもー」
 連絡を密に取り、密接に連携し合うというのは兵士としては当然の心得だ。通信石は戦場に於ける命綱だと言い換えてもいい。その命綱をないがしろにする事は、いくら兵士としては出来がいいとは言えないミナでも有り得ないと思っていたのだが……。いや、あれだけきつく言い含められていたにも関わらず、集団から外れるという真似をしてしまうくらいだから、そのくらいやらかす事は織り込んでおかなければならなかったのか。
「ったく、こいつは懲罰モンだぜ、ミナちゃんよぉ」
 アイラははあっと大きく溜息を吐き、渋々とした手つきで通信石の回線を部隊長へと繋げた。


 その話がクォークの元に届いたのは、あらかた事態が収拾した後の事だった。
 敵雷ソーサラーが占拠していた高台をスカウト隊によって沈黙させた後に、アイラ率いるソーサラー隊が先行していたウォリアー隊と合流を果たし、残る敵と交戦。程なく平地の敵を掃討した。
 敵からの攻撃が止んだ事を確認し、被害状況を確認する中で、漸く戦斧を下ろしたクォークは自らその事実に気付いた。
「おい、アイラ! ミナはどうした!?」
「あー、ちょいと行方不明みたい」
 てへぺろ、とばかりに自分の頭に拳をちょんと乗せて見せるアイラの仕草は、当然の事ながら一層クォークを逆上させるだけにしかならなかった。
「行方不明だと!? どういう事だ、はぐれたのか!? 何故すぐに俺に伝えなかった!」
『私が報告を止めさせたのだ』
 今にもアイラに殴りかからん勢いのクォークを辛うじて押し止めたのは、通信石から発せられた部隊長の声だった。
『交戦中にそんな事を知らされても気が散るだけだろう。戦闘の最中にたった一人の為に捜索チームを出せるとでも思っているのか』
「ソーサラー隊との合流後なら、俺一人くらいならば外れても差し支えない程度の余力はあった筈だ!」
『それは結果論だ。常識的に考えろ』
 部隊長の言う通り、常識的に考えれば混戦の最中にはぐれた味方の捜索など悠長に行える訳がない。するとしても、ある程度状況がクリアになってから慎重を期して救助チームを結成し、行うものだ。クォークの指摘は普段の彼らしさの欠片もない非現実的なものである。
 が、クォークはそのらしくない提案を撤回しようとはしなかった。
「じゃあもう戦闘は終了したし探しに行ってもいいな。シグルド後は任せる」
「おいおい」
 さしもの剛毅な中年兵士も即応しかねて、助けを求めるように自分の通信石を見下ろす。その視線に、遥か後方にいる部隊長が気づいたという訳ではなかろうが、呆れたような嘆息の気配が伝わって来た。
『もう少し待て、この天候では二次遭難の恐れがある。霧が晴れたら改めて捜索隊を編成する』
 その命令に、しかしクォークは衝動を無理矢理封じ込めた冷静さで反抗する。
「敵がまだ潜んでいる可能性がある、そう長く放っては置けない。身軽に動きたいから俺一人でいい。連絡は入れる」
 そのまま、それ以上何も聞き入れるつもりはないという意思を示すかのようにクォークは通信を遮断し、一団に背を向ける。進路を妨害すれば味方であろうと即座に斬り捨てられてしまいそうな鬼気迫る背中に、部隊員は誰も声を掛ける事は出来なかった。

 霧の中、クォークは念の為にマップを開いて視線を落としてみたが、ネツァワル国の魔法技術の粋を集めて作られた筈のその機器は何ら反応を示さなかった。元より期待していた訳ではないのですぐに諦めて、それを物入れにしまい込む。
 代わりに自分の目という光学装置を駆使して周囲を探査する。半ば頭に血が上った形で部隊を離れて来てしまったが、その判断を彼は少し後悔していた。後で懲罰を免れないであろう事が想像に難くないから……ではなく、この状況下で単独でたった一人の少女を捜索するというのは彼の能力を以ってしても困難であるからだ。クォークは視力がよく注意力もある方だが、今日の彼女の装備は、先日エルソードから届けられた、この霧に溶け込むような色合いをした白いソーサラー用のローブで、目視で発見するのは至難であると言えた。その上、どこに敵の残党が潜んでいるか分からないこの状況では、声での呼び掛けにも慎重にならざるを得ない。自分が攻撃されるのならばまだいいが、下手に返答したミナが狙われては堪らない。
 クォークは視覚のみでミナを探しつつ、つい先程まで戦場であった濃霧の森を彷徨い歩いていた。
(ミナ……)
 胸をざわつかせる焦燥を精神力で無理矢理押し殺し、胸中で愛する少女の名を呼ぶ。ミナは戦闘能力にこそ難のある兵士だが、ずぶの素人という訳ではない。この国に来る前から兵士として生きてきて、戦場での振る舞い方は一通り身に付けている。戦場に於いて上官の命令は絶対だ。いくら彼女でも、命令を無視して味方の傍を離れるという挙動を何の理由もなく取るとは思えない。
 このタイミングで彼女を誘い出したのは一体何であるのか。……少将の傍には部隊長がついている筈であるし、そもそも少将にミナに危害を加えるメリットがあるとも思えない。だが、ただのイレギュラーとして片付けるには不安要素が多過ぎる。
(ミナ……)
 もう一度、祈るように囁いた、その時。
 クォークは背後に突如、鋭利な刃物のような気配を覚えた。
「…………ッ!!」
 一直線に己に注がれる、純粋な、殺気。
 戦場にあっては空気にも等しい筈のその気配の、しかし細剣での刺突の如き鋭さに、クォークの意識のフェイズが一瞬にして『捜索・索敵』から『戦闘』に切り替わる。目で相手を認識するよりも早く肌が敵の位置を捉える。既に互いが互いを致死の間合いに収めていると知覚し、振り向きざまに、手に携えた両手斧で背後の敵を斬る。
 濃霧すらも裂く一閃に、背後の敵が胴を逆袈裟に斬り上げられ、浮き上がるようにしてその身体を背後に傾がせた。
 その瞬間、網膜に焼き付くように映り込んだ色に、クォークはその目を大きく見開いた。
 目の前で倒れ行かんとしているのは、白い――霧に溶け込むように白い、ソーサラーのローブ。
「ミ……ナ……?」
 口を突いて出た自分の声に、クォークは腹の底から戦慄した。すぐさま、兵士の生命線たる武器すら放り出し、茂みを掻き分け、倒れた姿に視線を落とす。
 そこには絶命する一つの死体があった。白いローブに身を包んだ女ソーサラー……肩には、エルソードの紋章である青い稲妻を付けている。装備こそ似通っていたが、ミナとは全くの別人だ。
 それを確認しても尚拭い去り切れない恐怖の残り香に、クォークはまばたきすら出来ぬまま繰り返し繰り返し、荒く息を吐いた。冷え切った利き手の指先が震えるのを、逆の手で掴んで押えて自己制御を試みる。
 ――と、
「落し物よ、クー」
 再び、人の気配が背中に触れた。今度は一切敵意の感じられない、街中で聞くようなのんびりとした声ではあったが、しかしクォークは先の敵に対するもの以上の警戒心を覚えて素早く振り返った。
 濃密な霧のヴェールの向こうから、ゆっくりと、金色の影が現れる。気負いのない足取りで近づいてきていた女の影は、立ち尽くすクォークの五歩ほど手前で立ち止まると、しなやかな動作で腰を折って、地面に手を伸ばした。そのまま目的の物を、やはり軽い動作で拾い上げる。今しがたクォークが無意識に投げ捨てた、長大な鋼鉄の両手斧。女は――少将はその柄を片手で掴み上げ、飴玉でも手渡すかのように気楽な仕草で彼に向かって差し出した。
 自身の方へ向けられている訳ではない刃に身構えて、女に近づかずその手元を凝視し続けていたクォークに、彼女はくすりと笑みを浮かべて、軽々と斧を放った。
 虚空に危なげない弧を描き、受け取り易い角度で投げられて来た斧の柄を、ぱしんと音を立てて手で受ける。手元に戻って来た愛用の武器の慣れた重量に、どうにか平常心に近いものを取り戻し、クォークは目を冷たく細めて相手を見た。
「こんな所で何をなさっているんです、少将殿。もうとうに本隊は撤収していますが」
 クォークの言葉に少将は、小首を傾げる仕草と共に、慈悲深い女神の如き完璧な微笑を浮かべて見せた。
「大切な元部下の大切な人の行方が知れないというのに、放って帰ることなんてできる訳がないでしょう? 今、私の部下たちにも捜索に当たらせているわ。……ああ、本来の目的は戦場の検分だから、気にしないでいいわよ」
 その瞬間、クォークの顔色が変わった事に、彼女は気付いたらしかった。穏やかに微笑んだまま、さも気遣わしげに眉尻を下げる。
「心配しないで……って言っても難しいかしら。疑り深い子ね。この機に乗じて始末しようだなんて考えていないわよ」
 クォークの懸念を正確に察し、少将は誤魔化すことなく否定する。その言葉を受けても緊張を解こうとしないクォークに、暫くの間彼女は黙って視線を向けていたが、やがて根負けしたように微笑みを苦笑に変えた。
「ええ、本当は、始末した方がよいのでしょうけどね。あの子は明らかに、あなたの足枷になっているわ」
 ぴくり――と、再びクォークの目元が強張る。それは決して大きな表情の変化ではなかったが、この女にとっては十分に、彼の内心の動揺を伝える動きとなっていたようだった。少将はくすりと笑みを漏らした。
「ほら。そうやって簡単に感情を乱す。……私の事を警戒しているのでしょう? 敵だと認識するのなら弱みは見せないようになさい」
 くすくすと、微笑む女が近づいて来る。
 柔らかな。柔らかな、金色に輝く微笑。
 一歩、二歩と静かに距離が詰められるが、クォークは進み出る事も引く事も出来なかった。やがて眼前まで来た女の細く白い指先が、すうと伸ばされ、クォークの頬にそっと触れる。一瞬だけ反射的に震えた彼の表情筋が、直後、力をなくすのを見て、少将は、満足そうに口の端を持ち上げた。が、すぐその微笑が切なげなものに変わる。
「……あなたは弱くなってしまったのね。折角清浄な水槽の中で大切に育てていたのに、私の不注意で濁った川に放つ事になってしまった所為で。ごめんなさいね」
「俺は弱くなってなんかいない」
 女の指先に頬を捕らえられたまま、クォークは、唇だけを動かしてそう即答した。だが女は緩やかに、そして悲しげに首を横に振る。
「護るべき者を得ることは、強さには繋がらない。弱点を抱え込むことが強さに繋がる訳がない。防衛は攻撃の三倍難しい。そうでしょう? 愛だの優しさだのという概念が良き物とされるのは、ただ単に世の中の都合だもの。弱者を護ることを賛美して、無駄な争いごとを起こさない為の。……戦場に於いては、全く意味を成さないものよ」
 少将の細い指が、クォークの頬を愛おしげに撫でる。
「私は博愛や良識といった概念を否定するつもりはないわ。それらはいわば、心の余裕が嗜む事を許した嗜好品。心の余裕は豊かさの象徴、豊かさは社会の安定に、社会の安定は国民の幸福に繋がるわ。まさしく私たち軍人は、国民のそれを護る為に戦っているのですもの。でも、あなたにはちゃんと教えたでしょう。あなたは兵士なの。戦場は、優しいことが善とされる世界ではないわ。か弱く儚いものを愛しても、あなた自身が苦しむ羽目になるだけ……。弱点は、敵に見つかれば、徹底的に突かれる」
 
 愛なら私が好きなだけあげる。
 他の誰よりも、あなたを愛してあげる。

 頬に触れるその指先に込められる愛情のみは、何故か嘘偽りのないもののように思えてしまい、無表情の仮面の奥でクォークを例えようもなく苛立たせた。穢してはいけない神聖なものに汚物を塗りたくられたような、度し難い屈辱感が胸中に渦巻く。目が眩む程の感情の高ぶりを覚えていたがどうにかそれを堪え、クォークは低く抑えた声で囁きを返した。
「心配には及ばない。ミナが、俺の弱点だと認識される事はある。けれど、逆鱗であると分かり易く示しているものに敢えて触ろうとするあんたみたいな命知らずには、相応の痛手を負って貰ってるんでね。それでも尚懲りずに手を出して来る程の馬鹿はそうそういるものではないさ」
 クォークの、取り繕いを捨てた口調での返答を受けて、微笑みに彩られていた女の口の端が、更に愉快そうにきゅっと持ち上がった。
「本当に、お口は達者になったわねえ。そこだけは、部隊長の彼女に感謝すべきかしら」
「話はそれだけか? 忙しいんだ。他にも用があるなら後にしてくれないか」
「大丈夫よ。……彼女の無事は確認したわ。今、こちらへ向かっているって」
 女は、手のひらの通信石をちらりと示して見せてから、ゆったりと微笑んだ。そしてやおら、蛹から孵化する蝶さながらに両腕を大きく広げ、告げる。

「漸く準備が整ったの。戻っていらっしゃい、クー。私の師団へ」

 ――予想だにしない言葉、という訳ではなかった。寧ろそれは、相手の要求として想定されるものとしては上位に位置する一言だった。
 けれどもクォークは、その発言を耳に入れてからたっぷり十秒程は、目の前の女の整った容貌を、黙したまま見つめ返す事しか出来なかった。
「……何を都合のいい事を。先に俺を捨てたのはあんたの方だろう」
 腹の中で煮えくり返る激情を辛うじて制し切り、胸中の汚泥を血を吐くような声に変えて吐き捨てると、少将はゆっくりと頷いて見せた。
「そうね。それは本当に悪かったと思っているわ。だからこそ、きちんと責任を取りたいの。あなたに苦しみを教えたこの世界からあなたを掬い上げて、元いた安寧の場所に戻してあげたいの」
「……余計なお世話だ。今、俺は十分に満ち足りている。あんたに心配して貰う必要なんて何一つない」
「本当に?」
 笑みすら含んだ穏やかな声が、氷の剣の鋭さで喉元に突き付けられる。
「私の元にいた頃は、何にも思い悩む事はなかったわよね。憎しみも、恐怖も、嫉妬に身を焦がされる事もなく、あらゆる精神的苦痛から遠ざけられて、心安らかに過ごせていたわよね。今はどう? 彼女の挙動に一喜一憂して、彼女に危険が迫れば自身を顧みずに身を呈して庇い、彼女を害する存在に常に怯え、緊張を強いられ続けている。……あなたの心身は、あなた自身が思っているよりもずっと疲れ、摩耗しているわ。今だって、恐ろしくて恐ろしくて仕方が無いのでしょう?
 ……そこのそれ。彼女じゃなくて良かったわね?」
 少将の、足元に向けられた視線が、クォークに先刻の凍りつく程の戦慄を強制的に思い出させ、肩を震えさせる。女の声という形を取った氷の刃が、首の皮にゆっくりとゆっくりと食い込んで来る。

「ねえ、クー。本当は、怖いんじゃなくて?
 いつか、差し伸べた自分の手が大切な彼女の喉首を掻き切ってしまわないかと。
 だって、あなたが一番信用ならないと思っているのは。あなたが、最も彼女を害する存在と危惧しているのは。他でもないあなた自身なのだもの。
 それはそうよね?
 憎んでいたお父様はまだしも、『愛していた』筈のお母様までもを殺してしまったあなたなのだもの――」

 がさり。
 唐突に、横合いの草むらがささやかな音を立て、クォークは弾かれたように振り返った。
 視線を向けた先では、少し傾斜のついた木陰から、一人の少女が呆然とした体で立ち尽くし、こちらを見下ろしていた。白地に山吹色のラインの入った、霧に溶け込むようなソーサラーのローブを着た――愛しい、誰よりも愛しい、少女。
 丸く大きく見開かれた少女の瞳を見つめながら、クォークは喘ぐようにその名を囁いた。
「ミナ……」

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