使役精霊の事情
先程から二人の妙齢の女性魔術士は、茶と茶菓子を置いたテーブルを挟んで向かい合い雑談に花を咲かせている。……尤も、花を咲かす、という表現がこの場合において果たして適切であるかどうかについては、僕自身少し自信を持てないでいるのだが。その会話の主題はまさに女性同士のお喋りの花形たる恋愛談義であるのだが、花を咲かすなどという可憐な表現を用いるには、その内容はいささか際どいものではあった。
「つまり怖いって訳? 大丈夫だろ、どんな精霊だって主人に害をなすことは絶対に出来ないんだから、襲われたりなんかしないって」
一頻り喋り終えた我が主に対し、何を馬鹿な事をとでも言わんばかりの呆れきった声と顔つきで、魔術士の女性はそう告げた。
「襲……!?」
顔を赤らめて絶句する我が主、ミカエラ様。口が何事かを紡ごうとぱくぱくと動いているが、声は出ないようだった。無理もない。我が主は恋愛などという話題には、お仕えしてまだ日の浅い僕ですらそうと分かる程に全く無免疫な方の筈なのに、そんな強烈な単語を突きつけられては絶句するより他はあろう筈がない。ご友人たるその女性がそれを知らないという事もないと思うのだが、我が主をからかうのが目的なのか、或いはそのような話題に大らかな女性なのか頓着した様子はない。
それはともかく、襲うだの襲わないだのと……槍玉に上がっている僕こそが誰よりも一番抗議を申し上げたい所ではあるのですが。僕が精霊の身で我が主たる魔術士ミカエラ様に恋慕し、そのお心を乞うているのは紛れもない事実ではありますが、我が崇敬する主にそんな無体な事などする訳がないではないですか。事を起こす際は襲うなどという卑劣極まりない真似はせずちゃんとご納得頂いてからじっくりとそれはもう丁寧に慎重に念入りに取り組ませて頂きますよ当然でしょう。と反論したい事は山ほどあるものの、残念ながら僕には口出しする事は出来ない。
「そ、そういう心配をしてるんじゃなくってだな。マキシは腹黒な奴だけど、酷い事はしないってのは分かってるし……。そうじゃなくって、なんというか……そんな事を言われたって、ど、どう対応していいか分からない……っていうか……」
腹黒はともかくそう言って下さるのは十分に光栄な事ながらも、僕の不服の度合いと比すると大分頼りない小声で我が主が抗弁されると、ご友人はソファーにふんぞり返って「ああん?」と柄悪く唇をひん曲げた。
「かー。うっぜーうっぜー。のろけなら他所でやれってんだ」
「何でこれがのろけになるんだよ! 真剣に悩んでるのに!」
ばんばんと両手でテーブルを叩いて憤慨を表現する我が主に、はんっ、と軽蔑するような息が吐きつけられる。勿論、本心からの軽蔑ではなく冗談交じりだ。……いや割と本心かもしれないが。
「のろけだろ。嫌なら止めろって一言言やあいいんだ。相手は自分の精霊なんだから、禁止されたら絶対にしない。それを禁止せずにどーしよどーしよ言ってる時点でのろけ以外のなんだっつーんだよハゲ」
「ハゲてない!」
「黙れ。ハゲろ小娘。大体だな、あんな精霊にしたって例外な位の美形に言い寄られる生意気な小娘の悩みなんぞを聞かされるこっちの身にもなってみろってんだ。私に砂でも吐かせたいのか、アサリか私は」
言った女性魔術士は、実際に口の中に砂でも溜まってきたかのような顔をしてテーブルに置いてあったティーカップを持ち上げ、中身を一気に飲み下した。空になったカップがソーサーの上に戻されると、すかさず横から給仕として控えていた水属性精霊が茶を注ぎ入れる。
「そもそも、魔術士が精霊に言い寄られるなんて話自体今迄聞いたことすらねーのによ。そんな超例外事項に何をどうアドバイスしろって言うんだ。……そういやないよな、ティア」
「……そうですね。私の聞く限りでは、耳にしたことはありません」
近くにいたからなんとなく、と言う調子で尋ねた声に、ティアと呼ばれた水属性精霊の女性は、控えめにそう返答した。ふむ、日和見的で無難な返答です。内心でそう褒めると声なき声で、それはどうも、といういらえがあった。
「そういうわけで私が相談に乗れるのは以上。私はアンタみたいな教授のお気に入りじゃないから期末のレポートで忙しいの。帰った帰った」
しっしっと犬を追い払うかのように手を振ってご友人が言うと我が主は唇を尖らせて反論する。
「レポート免除してもらってる風に言うな、人聞きの悪い。ちゃんと私も忙しいに決まってるだろ」
「やあ、ミカエラの四属性精霊じゃないか。こんな所に突っ立ってどうしたんだい?」
――不意に掛けられた声に、僕は意識を自分の身体に戻した。
視界に映る景色が、テーブルを挟んで語り合う二人の女性から、廊下の向こうからやってきつつある一人の魔術士の男性とその後ろに付き従う精霊に変化する。
「これはハスリム魔術士、我が主は只今ご友人のトロア魔術士とこちらのお部屋でご歓談中です。女性同士のお話がしたいとの事で、私はここに追い出されております次第です」
主の知己たる魔術士に手を胸に当て礼意を示しつつ、僕はそう返答した。尤も、追い出されたと言っても精霊は、やろうと思えば今そうしていたように他の精霊と五感全てを共有することが出来るので、中の会話は水属性の彼女を通じてしっかりと聞かせて頂いていたのですが。いえいえ勿論我が主の身辺をいついかなる時でもお見守りするのが僕の役目に他ならないからですよ。別に興味本位などではなく主にお仕えする精霊として当然の職務を遂行しているまでです。
そのようなこちらの内心や事情に気がつかれたかどうかは定かではないが、ともあれハスリム魔術士はそれについては何も言及せず、はは、と声を立てて笑った。
「あのミカエラ・ネルヴァとマイナ・トロアが女性同士の話とは面白い冗談だ。あの教授うぜえクソうぜえとか言い合ってる姿がまざまざと目に浮かぶよ」
今回は言っておられなかったが確かに仰りそうな台詞に、しかしながら僕は主の名誉の為に曖昧に微笑んで頭を垂れるに留めた。そうした魔術士本人への挨拶に続け、その使役する精霊にも礼儀として目礼すると、頭の後ろでだらしなく手を組んでいた青年姿の火属性精霊は片手を上げて応えてきた。
その気安い様子にハスリム魔術士が気づく。
「君ら、顔見知り?」
「あー、まあ。昔馴染みです」
答えたのは、先方の精霊の方だったが、僕も併せて頷きを返した。事実そのハスリム魔術士に従属する火属性の彼とは古くからの知り合いで、人間の言う所の幼馴染に近い。と言っても、精霊は人間世界にいる以上は、昔馴染みと旧交を深めるよりも主人に仕える職務の方を優先するものなので、こちらに来てから改めて何かしら話をした訳ではなかった。
「ご主人。ちょっとだけ時間貰ってもいいスか?」
なので、火属性精霊がそう言った声に、僕は内心少々驚いた。
「うん? 積もる話でもあるのかな。どうぞどうぞ」
が、彼の主たるハスリム魔術士は特に驚いたそぶりも見せずにあっさりと許可を出した。自由なものだ、と少し感心する。その火属性精霊に引っ張られ、僕はドアから離れさせられた。僕としては扉越しであっても可能な限り我が主のお傍についていたいのだが、彼がそうした理由に思い当たる点もないではないので大人しく従っておく。
「お前、人間口説いてるって本当か?」
少し離れた所にやってくるや否や、彼は小声で単刀直入に、僕が思っていた通りの事を訊いて来た。先程水属性の彼女に僕がしていたように僕の五感に入り込めば、その場から離れる必要も小声になる必要もないのだが、単属性精霊の彼の力ではそれは少々骨の折れる作業なのだろう。
「本当ですよ」
彼に合わせて肉声で、僕はあっさりと肯定した。瞬間、彼の顔が何とも形容しがたい苦さに曇る。
「……正気か?」
「ええ。とても」
再度、一瞬の間も置かずに答えると、彼は眉を寄せたまま溜息を吐いた。
「我が主に余計な事は言わないで下さいね」
火属性精霊は明らかにまだ何かを言いたげな表情であったが何かを言わせるよりも先に、そう釘を刺してから主の傍に戻ろうと彼を躱すと、既に部屋の扉が開いていて我が主は廊下に出て来られていた。おっと、部屋をお出になられる主人のお迎えもしないとは、この僕とした事が不覚を取ってしまった。足早にお傍に戻ろうとする僕に、そこにいたハスリム魔術士と言葉を交わしていた我が主は気づいてこちらを振り向いた。
「じゃあ」
ハスリム魔術士に軽く別れの手を上げると、我が主はそのままこちらに歩いて来られたので僕は立ち止まって頭を下げその場でお待ちした。すぐ間近までやって来られた我が主の、普段の定位置である斜め後ろに付き従った僕に、我が主は振り向かないまま声をかけてきた。
「なあ、マキシ。今ハスリムに聞いたんだけど」
その声は部屋の中では聞かれなかった僅かな緊張を帯びていて、僕は少し嫌な予感を覚える。
「精霊にとって人間と恋愛するのって禁忌だっていうのは本当なのか?」
……やれやれ。口止めした矢先に別口から漏れるとは思ってもいませんでした。
「お茶でも淹れましょうか」
「いらない。今たらふく飲んできた」
「それは残念。折角昨日、ご好物の青鹿屋の砂糖菓子を買って参りましたのに」
「……菓子だけちょっと出してくれ」
既に日常的となったそんなやり取りを経てから我が主は勉強机も兼ねる古びたソファーセットに着き、僕は少し遅れて砂糖菓子を乗せた盆を持ち主の元へ戻った。
砂糖菓子の皿を主の前に置いてから、主の邪魔にならぬよう普段通りに視界の外に下がろうとすると、やはり呼び止められた。斜め向かいのソファーに掛けるようにと言いつけられ、僕は嘆息を押し殺し、失礼します、とそれに従った。
「おかしいとは思ってたんだ。いや、今日言われて改めて思ったんだけど、精霊と付き合ってる魔術士なんて私も全然聞いたことなかったから」
言い出されたのは、先程の問いかけの続きだった。
「いくら種族が違うったって見た目だって変わらないし言葉だって通じる相手なのに、一組もそういうカップルが出来ないなんて逆に変だ」
「これまで皆無だったわけではありませんよ。例えば、北方の豪族に嫁いだという三属性の女性とか……」
僕は反論として指折り例を挙げようとしたがそこで止まらざるを得なかった。よく考えたら僕もその他には思い当たらないかもしれない。ごまかすように笑みを浮かべて見せてから手を降ろしたが、主に深刻な表情を崩しては頂けなかった。
「何で禁忌なんだ?」
先程の問いを繰り返す主に、僕は精霊らしからぬ曖昧さで返す。
「そこはまぁ、種族の違いがありますれば、色々難しいこともあるのではないかと」
「何か明確な問題があるんじゃないのか?」
「……さあ、どうでしょうか」
「精霊の癖に主の命令をやり過ごそうとするたぁいい度胸じゃないか」
疑問であって命令じゃないですからねそれは。あまり褒められた事ではありませんが、制限上は嘘をつかないならこのようなごまかしも認められてはいるのです。人間世界に於ける精霊の振る舞いには様々な制約がありますが、同時に色々と逃げ道もあるものです。
が、賢明なる我が主はほんのまばたき二回分程の時間、僕を見つめただけでその逃げ道を封鎖する方法に思い至った。
「四属性精霊マキシに命じる。知ってる事は全部言え」
「……精霊の使い方を覚えましたね」
まあ、よほど迂闊か精霊を使い慣れていない魔術士にしか効果のないささやかなごまかしなのですけれども。僕は渋々と口を開いた。
「以前、精神共振率の話は申し上げましたが……心の繋がりなどというものが魔力効率に響く事からも分かる通り、精霊は心の在り様が直接己の魔力、ひいては己の生命にまで直結する生き物です。且つ、その意思は、非常に強固にして一途。精霊召喚術にて召喚されその使役精霊となれば、言わば口約束に過ぎない召喚術士との契約の履行に万難を排して固執し、ひとたび恋をすれば、千年を超える生涯を通してただ一人を愛し抜く程に」
真っ直ぐに、我が主――僕の愛するその方を見つめながら告げる僕に、果たして何を思ってくれたのか……こちらを見返しながらも僅かに所在なさげに瞳を揺らす主に小さく微笑んでから、僕は続ける。
「それ故に、時折、酷く脆い。愛する者を失えば、哀傷のあまり己の生命を保つ事も出来なくなってしまう者すらいる。……いえ、正直に申し上げれば、そうなってしまう者が殆どです」
僕の言わんとしている事に気づいたのか、我が主は揺れつつあった瞳の焦点をはっと定め、僕の目を見た。
「共に長き時を生きる精霊同士の愛の結末であるのなら、またそれも運命と誰もが割り切ってはいるのですが、ご存知の通り、人間の寿命は我々精霊と比べて非常に短い。故に、人に恋するという事は、精霊にとって膨大に寿命を削る行為に他ならないと解釈され、禁忌とされているのです」
「そんな……」
主の唇が言うべき事を捜すように戦慄き、どうにかして見つけ出した言葉を紡ぐ。
「そりゃあ……そんなの、駄目に決まってるじゃないか。タブー視されて当たり前だ。下手したら、寿命が十分の一とかそこいらに縮まるってことじゃないか。そんなの馬鹿げてるよ」
「何が馬鹿げていると言うのです。貴女様に恋をした事ですか」
「そ、そうとは言わないけど……」
いっその事、そうだとでも言って切り捨ててしまえばいいものを。それが最善でないと分かっていても、冷たく突き放したりなど出来ないのが我が主の優しく、甘い所だ。それとも僕の事を憎からず思ってくれていると自惚れても良いのでしょうか?
僕はソファーから立ち我が主の傍らに跪くと、膝の上で固く握られていた白い手を恭しく取ってその指先に口付けた。その途端、主のお顔にぼっと火がついたかのように一気に朱が差す。精霊は他者の外見の美醜については通常特に意識にも留めない――というか、人間の感じるような美醜の価値観自体を持っていないが、このようなお姿を見るとやはり可愛らしいと思ってしまう。
「今貴女様が考えている事を当てて差し上げましょうか。今のうちに、きっぱりと僕を振ってしまった方が僕の為になるんじゃないか。そう思っていますね」
触れ合う手がびくりと震えた。――素直な方だ。
「勿論、貴女様の心に既に別の方がいるのなら、お邪魔はしません。僕は貴女様を心の奥でのみお慕い申し上げて余生を過ごしましょう。けれど、僕の為だなどという理由では駄目です。何故ならもう既に僕は、貴女様を愛してしまっていますから。もう遅いのですよ」
恐らく、これはとても卑怯な手段なのだろう。優しい優しい我が主の心根に付け込む、とても狡い罠。こんな事を言われたら、この心優しい方がそう簡単に僕の手を振り払えるわけがない。けれども僕は、どれほど汚い手段を用いても、この御方の心を手に入れる事を望んでいる。その為の武器となり得る、この御方の同情を買える精霊の体質すらもが幸運であると思える程に。
しかし我が主は甘さと同時に愚直な程の頑なさも持ち合わせた方だった。
「そ、そんなの妄想とか、思い込みかもしれないじゃないか! ちょ、ちょっといいなって思ったのを恋と勘違いするとか、よく聞く話だろう!? 大体、召喚してからまだ一ヶ月くらいしか経ってないのに……」
「人を愛するのに時間なんて関係ありませんよ。人間だって、時としてそうなのでしょう? より直感の働く我ら精霊ならば尚更です」
最初は――召喚されたあの時は、僕はこの方を、自分のキャリアの踏み台にする気満々だった。精霊世界に生を受けてから二百年、この方は僕が生まれて初めて持った召喚者だった。それは僕の生まれついての魔力の高さが原因で、僕を召喚し得る力量を持つ魔術士の絶対数自体が少な過ぎる現実をそのまま現していたのだが、そんな僕を初めて召喚して下さったのは僕以上の精霊すらをも喚べるほどの潜在能力を持つ魔術士で。魔法陣の中からお姿を見た瞬間に僕はこの方の溢れんばかりの可能性を感じ取り、惚れ込んでいた。この機を逃すわけには絶対に行かないと感じた。
勿論、踏み台と言っても一方的に食い物にする気などは当然なく、互いに良い思いが出来る様に最善を尽くすつもりであったのだが、その目論見はたちどころに崩れた。まさか、召喚者と利害が真っ向から対立するなどという出来事が起こるとは全く想定していなかった。
しかしだからと言って諦めるわけには行かない。この御方こそが僕の主たる方だという直感を信じ、僕はどうにかして気に入られようとひたすら媚び諂う作戦に出た。我が主は、僕のそれが単なる阿諛追従である事を見抜きつつも、傍にいる事自体は許して下さった。僕を送還する研究には余念がなかったものの、冷淡に振舞うことは決してしなかった。こちらの心が痛む程に優しい方だとは思ったが、僕も引くに引けなかった。そこには意地もあったが――実を言えば、我が主にはさぞご迷惑だったに違いないが、いかにしてこの鉄の意志をお持ちの方を落とすか考えるのが楽しかったのだ。
思えば、その時にはとうに僕は恋に落ちていたのかもしれない。一体どこが最初だったのか……僕と同じように、他者に媚びてでも自分の願望を通すことを是とするしたたかな強情さに、似たもの同士の親近感が芽生えたというのが始まりだったのか……それともやはり、初めてお目にかかったあの瞬間だったのか。言われてみれば、確かにほんの一月程度の出来事にしか過ぎないというのに最早僕にも分からないが、いつしか僕はこの方の、頑固さも一途さも真剣さも優しさも鈍感さすらも、何もかもが愛おしいと思うようになっていて……かの時、精霊により近い存在になりたいと、真っ直ぐに告白されたあの刹那に、最後の確信を得たのだ。見ず知らずの者にすら慈悲を垂れる優しさを持ちながら、僕の矮小な野望などとは比較にならない、種の壁すらも超える大望を抱くこの方こそが、僕の全てを捧げる主だと。
「愛しています。ミカエラ様」
ほっそりとした指先に唇を触れさせながら囁くと、我が主は泣きそうな程に眉を寄せて、何かを堪えるように目を閉じた。――その、これまでに見た事のなかった表情に、僕は声を低めて今ふと脳裏を掠めた懸念を口にする。
「……それともやはり心に決めた方がいらっしゃるのですか? まさかハスリム魔術士?」
「は!? 何であいつが出てくるの!?」
僕の問いかけに、我が主は今しがた閉じたばかりの目をぎょっと見開いて、心底仰天したような声を上げた。僕は薄く笑って告げる。
「彼ならばご心配は無用です。火の単属性風情を使う魔術士一人、僕の敵ではありません」
「何で臨戦態勢!? っていうか私に好きな人がいたら邪魔しないってさっき言わなかったかお前!?」
言ったかもしれませんがそれは本当は貴女様に想い人がいないと思ったからこそ言えた訳で。実はいるのかなと思ったら何だかふつふつと敵愾心が湧いてきました。
が、主の反応から察するにやはりそれは思い過ごしなのだろうという結論に至った僕は冷静さを取り戻す。
「……まあそれは冗談ですが」
「本当に冗談だったかお前。目が割とマジだったぞ」
割合冷静な声での突っ込みに、僕は眉を寄せて我が主を見つめた。
「貴女様が紛らわしい態度をなさるものですから」
「私の所為かよ……」
「では、他にどなたかがいらっしゃるのでしょうか」
げんなりと呟く主に、僕は改めてその重要事項を問うた。と、我が主は先程のような追い詰められた表情こそ見せなかったものの、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「そういうのは別にいないけどさ。……そうじゃなくて、お前さ、私の好きな人なんかを心配してる場面じゃないだろここは。自分の寿命を心配しろ」
「そう申されましても。都合三百年弱も生きれば人間の尺度で言えば稀に見る程の長寿命に当たると思うのですけど」
「稀にもいねーよ」
「では全然問題ないじゃないですか。長生きしましためでたしめでたしで」
真顔でそう言うと、主は頭痛でも感じたかのように僕が取っている方ではない手で額を押さえた。
「強引に前提を摩り替えるなよ。お前は人間じゃなくて精霊なんだから全然長生きになってないだろ。……って言ってもどうせ平行線なんだろうな。どうせ、私の言いたい事を全部分かってて無理矢理摩り替えてるんだろうから」
「我が主のご慧眼には感服致します」
やはり真顔で賛辞を述べると、額を押さえる指の間からじろりと睨まれた。主はしばしそのまま酷く恨めしそうに僕を見て、はあと息を吐いて額から手を離す。ついでに僕が握っていた手もそっと引き抜いてしまう。
やれやれ、だから言いませんでしたのに……。
僕は床についていた膝を伸ばすと、主に無礼を働く決意を固めた。徐に立ち上がった僕を驚いた目で僕を見上げる我が主、ミカエラ様の瞳を見詰めたまま身を乗り出して、ソファーにその小さな身体を閉じ込めるようにして手を突く。
「ちょ……ちょっ!? マ、マキシ!? な、なに? なにを」
ミカエラ様は僕から逃げるように背凭れに仰け反ったが、その分僕は接近する。我が主はより一層逃げ場を失っただけだった。慌てふためいて視線を彷徨わせるその頬に、僕はそっと手を触れた。
「つめた……」
小さく声を上げて、主が首を竦めた。ああ、いけない。つい興奮して体温が下がってしまったようだ。僕は四属性精霊だが水寄りな為、心を乱すと水属性の特徴が強く出て、体温を自分でも知らないうちに下げてしまう癖がある。しかしわざとではなかったが声を奪い取ってしまえたのは幸いと、頬に触れるのは指先のみに留めるようにしながら言葉を紡ぐ。
「ミカエラ様。貴女様は、愛するどなたかと家庭を持って、幸せに暮らす夢を思い描いた事はありませんか?」
穏やかな声で問うと、我が主はこわごわとながらもそっと目を開いた。この方は、どんな問い掛けにも真摯に答えようとして下さる。
「分からない……考えた事、ない。将来については、研究者として立つことしか考えたことなかったし……家庭っての自体も……私は親はいたけど、あんまりその、」
「……すみません」
意図せず、余計な事を思い出させようとしてしまったことを謝罪して、僕はミカエラ様の髪を撫でた。再び目を閉じるが、今度は怯えたのではなく、くすぐったく感じたようだった。温度を取り戻しつつある指で、再度すべらかな頬を慈しむようになぞった。
「不躾な発言となりますことをお許し下さい。……僕は、そのような夢を持っています。精霊の家庭の概念は、恐らく人間世界のものとは相当違うと思うのですが、生涯の伴侶を得て、愛し合い、子孫を成すという点では変わりありません」
「し、子孫」
頬を赤らめ繰り返してくる我が主を見ながら、僕は、ええ、と答えた。精霊だって生物ですから繁殖はします。
僕としてはその部分が主題ではなかったのだが、我が主にはそれは十分に気に掛かる点であったようで、大分逡巡してから僅かに首を傾げ、窺うように僕を見た。
「そ、そういえば、精霊も、あのやっぱり、そ、そういうことするのか?」
「そういうこととは?」
そ知らぬふりをして聞き返すと、ミカエラ様のお顔に一段と朱が差した。おや、もう既に十分赤いと思っていましたが、まだ赤くなる余地があったのですね。これも分かっていて聞き返してみただけなのだが、我が主は生真面目にも、人間と精霊の生物学上の違いよって僕が理解し得なかった可能性を考慮されたらしい。どうにかして説明しようと口を開いたり閉じたりの作業をしばしの間行った後に結局言語化する事が出来ず、諦めて真っ赤なままで俯いた。
「なんでもない」
「精霊世界に在る精霊同士の繁殖方法については人間とは少々異なる形になりますが、精霊は、人間世界に在る時は、外見だけでなく内部構造までほぼ完全に人間の肉体を模しますので、そういうこともしようと思えば可能ですし、人間と繁殖する事もまた然りです」
「分かってんじゃねーかこの馬鹿」
皺の寄った我が主の眉間を僕は微笑みながら優しく撫でた。
「しかしながら子孫を成すというのは精霊にとっても無論幸福ではありますが、どちらかというと愛情の副次的な産物でして。家庭を持つ、と便宜上申し上げましたが……その言い方では、少し意味合いが違ったかもしれません。これは、人の言葉では何と申し上げればよいのか……つまる所、愛する方とひとつになることを強く望んでいるという意味なのですが」
「ひ、ひとつ」
主はまた僕の発言中の一単語を拾い出して絶句された。何か言い方が拙かっただろうか。もしかしたら慣用的に不適切な意味を有する表現だったのかもしれない。僕は人語は覚えて日が浅いわけではないのだが如何せんネイティブではないので微妙なニュアンスの誤りはどうかご容赦願いたい。……だったら紛らわしいから言葉尻でからかうな、と言われそうだが。
「いえこれは別に他意はなく。精霊にとって理想的な愛情の形です」
釈明するように前置きをして、僕は少し考えながらその様態を人語に表すことを試みる。
「つがいで魂も肉体も溶け合って、混じりあい、五感のみに留まらず、あまねく全ての想いを交感して、ひとつになる。言葉も、意識すらも必要としない、右手と左手のような別個でありながら完全に同一の存在になる。そのような状態に至れることを、我ら精霊は無上の幸福と感じます。精神と肉体、全と一の明確な境を持たない我らと違って人間には個という概念がありますから、ミカエラ様にそれを求めるわけではないのですが……」
我が主は茫洋とした表情で僕の稚拙な説明をお聞きになられていて、僕もそれ以上この感覚をどう表現すればよいのか思いつかず――僕がミカエラ様に何を求めているのか、その最も肝心なことが僕自身の中ですら茫漠としていて言い表すことが出来ずに止む無く口を閉じると、ミカエラ様は唐突に、すっと手を伸ばして僕の眉間を撫でた。先程僕がミカエラ様にしたのと同じ仕草に、僕は目をしばたいて、そこで気づいた。僕の眉間にも同じような皺が寄っていたらしい。
ああ、この小さな手の何と雄弁なことだろう。僕には幾万言を弄しても辿り着けない境地へと、この方は簡単に行き至る。お許し下さい、と胸中で謝って、僕はミカエラ様のお体を抱きしめた。ぎゃっ、と耳元で悲鳴が上げられてその身体が氷像のように固まったが、しばしそのままでいても、禁止の命令は下されなかった。
有り丈の想いをこの腕に込める。
「優しく、気高き心を持つ我が主。決して同一の存在とはなれなくとも、僕は貴女様にもっと近づきたいのです。貴女様が精霊に近づきたいと仰ったように。従僕として護り、お力添えするのみでなく、この魂全てを以って貴女様を包み込みたい。貴女様の心が居られる場所そのものとなりたい。それは貴女様の居ない千年の命よりもずっと僕にとって価値のあることです」
抱き締めるミカエラ様の早鐘のような鼓動が胸に伝わってくる。きっと僕のそれも同様にミカエラ様に伝わっているのだろう。酷くもどかしく切なさすら覚える、肉体という壁を隔てた曖昧な接触。けれども、あらゆる感覚を共有し総てを完全に通じ合わせる幸せは知っていても、こうやってそれぞれの肌で、手探りで互いを感じ合える歓びを知る精霊など、僕と同じように人に恋をした三属性精霊の他にはきっと居ない。
僕の腕の中の固く強張っていたミカエラ様の肩から、少しだけ力が抜けるのを感じた。
「……どう考えたって私ってそんな、たいしたものじゃないと思うんだけどな」
何を仰るかと緊張していた僕に零されたのは、心から不思議がっているかのような声だった。しかも、僕を唖然とすらさせる内容であった。
「どこがたいしたものではないのかご説明頂きたい位です。論破する自信はありますよ」
「口でお前に勝てる気はしないからやだ。……ま、夏は涼しくていいかもな」
達観したような、或いは何らかの覚悟を決められたようなミカエラ様の附言に僕は、え? と首を傾げる。ああ、そういえば、体温がまた知らずのうちにうっかり下がってしまっていたかも知れない。……いや、そうではなく。もしや、今のお言葉は……
「それは御寝所へのお誘いでしょうか」
返答次第ではちょっと自制が効かないくらい下がりそうなのですが。
「ばっ!? 違うっ! こ、こうしてるくらいなら丁度いいって話であってっ!」
何か危機感でも感じられたのか、にわかにじたばたとし始めた我が主を、僕は獲物を捕らえるかの如く強く抱き締める。そうすればうろたえ具合はより一層強まるが、僕は離さなかった。我が主は暴れるばかりで何も言われませんでしたので。ご友人も仰っていたではないですか。嫌なら一言、命令すればよいのです。
――感謝します。この御方と引き合わせてくれた世界の偶然に。
「愛しています、ミカエラ様。……僕だけの主」
祈りにも等しい思いを込めて、僕は誰よりも愛しき方に、そう囁いた。