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召喚術士の契約



「ちょおおおおおお!? 断ったはずじゃんかああああああ!?」
 甲高い女の絶叫が寮の自室にこだまする――と他人事っぽく言っては見ても例によって女というのは私自身な訳だが、それはさておき誰がどう聞いても悲痛な、としか思わないであろう私の絶叫が、我ながらとても女の子の部屋とは思えない手狭で雑多な空間の隅々まで響き渡った。私は根をつめて勉強なりをした後に眠りに落ちると一昼夜は起きない程に爆睡して、友人に「あ、また泥がベッドの中に落ちてる」とか言われているらしいたちだが、今のはそんな時の私ですらも思わず飛び起きてしまうほどの音量だったと思う。当然の事だがすぐそばのテーブルで場違いなほど優雅に朝の紅茶を入れていた見目麗しい青年、精霊マキシの耳にもその声は届き、彼は紅茶を注ぎ終えるや否やすぐさま私の方を振り向いた。……途中では止めないんだな。
「いかがなされましたか、我が主?」
「おまっ、ちょっ、こ、こら、どっ、どうしてくれるんだお前!」
 割と冷静に情景及び心理描写を行っていたように見えたかもしれないが私は決して落ち着いてなどいなかった。そう簡単に落ち着けるものではない。それだけの衝撃を今現在の私は受けている。
「僕はとりあえず今の所何もしておりません故、特に思い当たる点が多分ないのですが」
 回らぬ口で言葉になってない怒りをぶつけられるも精霊は穏やかな表情を一切崩さずに私の前に紅茶を置いた。とりあえずとか今の所とか多分とかが微妙に不穏だが、今回の件については間接的にはこいつの所為ではあろうが直接的には違うのはその通りなので聞かなかったことにしておく。私は震える手で、私を絶叫せしめたその元凶――先程部屋に届けられた手紙をマキシに渡した。渡してから精霊って魔術文字は当然分かるだろうが普通の人語も読めるんだろうかと思ったが心配は無用のようで、マキシの切れ長の瞳がさらさらと文字を目で追っていくうちに、唇の端が愉快そうに……ちょっと意地悪そうに上がっていった。うっ、しまった。こいつに見せるべきではない内容だったかも。
「ほほう? パーティーのお誘いですか。差出人は先日の教授殿ですか? 結構なことではないですか、是非お招きに預かるべきです」
 一読し終えて言った言葉は案の定、私の意に反するものだった。
 そう、それは先日誘われた貴族のパーティーとやらへの、再度の招待状……否、出頭令状だった。
「冗談じゃない! 絶対にお断りだ!」
 その手紙の差出人たる教授に口頭で誘われた時に言ってやりたかった言葉を吐きつけると四属性精霊は片方の眉を上げる。
「何故です。人脈構築は必ずや貴女様の為になりますよ」
「奴と同じこと言いやがって! そういうのはいらんと言ってるだろう!」
「研究者を志すにせよ、あって困るものではありません」
 んなこたあ分かってる。分かってるが、
「私が困るわ! き、貴族のパーティーだぞ!? 魔術士って言っても平民の私が行ける所じゃないだろう!」
「確かに人間の貴族には同じ人間の平民に何故か偏見を持っている者もいると聞きますが、主催者は、その教授殿と懇意にされている方なのでしょう、大切な客人を悪いようには扱いませんよ。それに仮に出席者にそういう者がいたとしても相手にする必要はありません。いずれ数多の権力を掌中に掴まれる貴女様を蔑ろにする愚か者など捨て置けば良いのです」
「だから! 権力掴まないし!」
 またさりげなく誘導しようとしてくるマキシに突っ込むが奴はけろりと「その話は後ほどゆっくりすると致しまして」と流した。ゆっくりもこっくりもしないぞ断じて絶対に!
「何故です? 別に対人恐怖症と言う訳でもありませんでしょう」
 改めて尋ねられた瞬間。私の目がぎくっとあさっての方に泳いで行ったのをマキシは見逃さなかった。
 が、それは心底意外な事実だったようで、信じられないとばかりに目を見開く。
「……講堂の壇上ではあれほど堂々と振舞われます貴女様が?」
 うぐぅ。私の顔は自然と苦虫を噛み潰した形になった。
 ……ああそうだとも。私は人付き合いが得意じゃない。自分の研究分野について大勢の前で発表したり討論したりするのは別に問題ないのだが、知らない相手との他愛もない会話ってのは本当に苦手だ。同じ魔術研究者相手ならまだ話題があるからどうにか間を持たすことも出来るだろうが、私は魔術以外は何も知らない。よりにもよって貴族なんぞが相手となったら共通の話題をひとつ見つけるだけで三年くらい掛かりそうだ。
 仮に話下手な部分がなくたって、下町訛りで見た目も地味で礼儀も教養もあったもんじゃない私がそんな華やかな席に出るなど考えるだけで恐ろしいことである。血統書つきの猫の品評会に何故か紛れ込んだ薄ら汚れた野良猫だ。そんな晒し者になど、誰が好き好んでなりたいというのか。
 ぷいとそっぽを向く私にマキシは苦笑したようだが、渡した手紙を丁寧に畳んで私に返しつつ、落ち着いた口調でゆっくりと言う。
「しかし、こう繰り返しての要請があった以上は、我が主、貴女様のスタンスでは断りにくいのではないでしょうか?」
 うぐぅ。さっきと全く同じ、声にならない音が再度喉から漏れる。
 確かに、一旦断った件について再度、しかも書面で申し入れられるとなったらこれは誘いと言うよりも一種の業務上の命令だ。上の命令には逆らわない、これが私がここまで貫いてきた成功の為の大原則である。勿論教授たちの意向に最後まで従って王都や教会のお偉いさんになる将来なんて真っ平だからいつかは断固としてノーを突きつけなくてはならない瞬間が出てくるわけだが、果たして今がその決定的な反逆のタイミングなのだろうか……?
 ――冷静に考えてみて、答えは、否。
 はあぁぁぁ。さっきから変な音で吐き出しつつあった腹の中の空気の、残りを全部吐き出す盛大な溜息をついた私を、四属性精霊はやっぱりにこにことして見ているだけだった。

 ドレスなんぞという生活にも研究にも不必要な代物を私が持っている筈もなく、人づてに心当たりを聞きまくってもらってぎりぎり当日午前中に先輩の女性から借りることが出来た。魔術士の制服である漆黒のローブでいいじゃんずるずるした感じなんて似たようなもんだしって思うのだが、男の魔術士はローブで構わないようなのだが女の場合ローブは正装として扱われないそうなのだ。訳が分からない。
 生まれて初めて着たドレスはえらく窮屈だったが友達の手、厳密には友達の使役する女性精霊の手を借りて何とか身に着けた。幸いにして、その精霊は昔の主の時に何度かドレスの着付けをしたことがあったのだそうだ。助かった。手伝ってくれた友達はしきりにいいなあと言っていたが、代われるもんならいくらでも代わってやりたいものである。薄い青色の、フリルの沢山付いたドレスは見る分には確かに大変可愛らしくて良いかもしれないが、それだけにこの私が着るのだけは勘弁させてもらいたかった。似合わないことこの上ない。土下座で許されるなら迷わず土下座してるレベルだ。せめてもう少し、大人っぽいものがいいというか後生だからフリルはやめてくれまいかとも思ったが、選択肢はなかったしよく考えたら大人っぽいドレスは恐らく体型的に輪をかけて似合わない。私の体形は一言で言ってしまればがりがりの寸胴なのであった。
 着付けが終わって部屋から出ると、ドアの脇で待っていたマキシが私を一目見るなり、「お綺麗です」と言って微笑んだ。
「ドレスはな」
「貴女様ご自身も十分にお綺麗ですよ?」
「……こんなみすぼらしい体形の女のどこが綺麗だってんだ」
 見え見えのお世辞を言われたって全く嬉しくない。鼻に皺を寄せるとマキシはとんでもないと大仰に首を振って見せた。
「何を仰いますか。乙女の儚さと清楚さの現れた気品あるお姿です。貴女様を目にして護って差し上げたいと思わずにいられる男などきっといないことでしょう」
 お、乙女……清楚……。聞いたこともない言葉を聞いたような気がして私は断固として否定要素を探さなくてはならない気になった。
「髪だって色は暗いしくねくねしててみっともないのにか?」
「貴女様のブルネットの髪には魔術士としての知性が現れておりますし、白皙のお肌にも大変よくお似合いです。理知的でありながらも柔らかな髪質は愛らしいお顔立ちに相応しいまろやかさを添え、一段とその美しさを引き立てております」
 ……うわぁ。
「よくもまあそうもすらすらと背筋の痒くなる嘘を並べ立てられるもんだな。吟遊詩人として食っていけるぞ」
 私が勝てる相手じゃねーや。そう判断して白旗を振るとマキシは意外そうに眉を上げた。
「おや、精霊は主に嘘はつけないものなのですよ?」
「主の不利益になる嘘はだろ。言った方が不利益にならないなら言える」
「我が主は疑り深くていらっしゃる」
 くすくすと可笑しそうに笑ってから、マキシは「お手を」と手を差し出してきた。教授には奥さんがいてそちらも出席するので、私のパートナーはマキシになる。精霊が異性なら、精霊をエスコートする若しくは精霊にエスコートされるというのは別に珍しいことではないらしい。魔術士にとって精霊は自分の能力を最も万人に分かりやすく誇示できるポイントの一つだし、精霊は美形が多くて映えるしな。私の場合は特に精霊とセットで披露するのが教授の目的なんだからこれで当然なのだろう。私としても教授とマンツーよりかはマキシの方が気疲れしないで済んでずっと有難い。しかしだからと言って何もアカデミーにいるうちからエスコートすることもないだろうと思ったが、履き慣れないヒールの高い靴はたったの数歩で私を辟易させたので、素直にその手を取った。
 アカデミーの学舎から外に出ると、空模様は生憎の雨だった。学舎の玄関ポーチには一応屋根は出ていて横付けされた馬車に風雨に晒されずに乗る事が出来るようになっているが、地面は濡れてはいるので衣服の裾がちょっと怖い。ドレスが汚れやしないかとびくびくしながら裾を抱えて歩こうとすると、横合いからにゅっと伸びた手が私の身体を掻っ攫い、軽々と持ち上げた。
「おおう!?」
「失礼。折角のお召し物を汚してはいけませんので」
 ――こ、これは伝説のお姫様抱っこって奴ですか!?
 あまりに想定外な出来事にあわあわしている間にマキシはポーチを歩ききり、馬車の中に直接私を降ろした。マキシはごく当然の事をしたまでと言わんばかりの、至って何事もなかったかのような表情だが、私は呼吸の仕方も忘れる程にびっくりした。あと歩行距離が十歩程も長かったら心臓が止まっていたかも分からん。ど、どういう感覚してるんだろう精霊って……。精霊にとってはこれってごく普通の行為なんだろうか。それとも私がいちいち驚き過ぎなだけなんだろうか。精霊の常識も人間の常識も、私にとってはよく分からない。既に車中に乗っていた教授とその奥さんなら分かる事なのかもしれないが、そんな事を尋ねる勇気はなかった。もしも私の感じた通りに非常にこっ恥ずかしいことだったらと思うと怖くて表情を伺うことすらできない。
 私に続いてマキシも馬車に乗り込もうとしたが、その直前にふと外を振り仰いでぽつりと呟いた。
「風の機嫌がすこぶる悪いですね。もっと天気が崩れるかもしれません。今のうちに散らしておきますか?」
 何気ない口調で問いかけられて、そんなことが出来るのならと安直に頷きかけたがその直前ではっと気づいて首を止めた。
「ここで頷いたらお前に魔力を振るわせるって事になって即ち『本契約』って寸法なんだろ?」
「おや、よく気付かれましたね。残念」
「この極悪詐欺師!」
 ぶんと振るった私の拳は軽く顔を引いた精霊の顎を掠めもせずに空振りした。ほんっとに油断も隙もない。

 教授夫妻と私たちを乗せた箱馬車は、雨の中街へと向けて出発した。風も雨脚も強かったので外にいる御者がちょっと可哀想だなあと思ったが教授の精霊である御者は風と水の二属性だから大丈夫だと教授が言った。……イヤ水属性って言ったって別に水棲生物って訳じゃあるまいし、大丈夫とかそういうアレじゃないような気がするんだが。すまない逆らえない。
 山の中にあるアカデミーから一番近い街に入って、夜の闇にも煌びやかな市街を暫く走ると一層煌びやかな邸宅が見えた。その玄関ポーチに馬車が止められ、降ろされたその場で思わず私は口をぽかんと開けて周囲を見やった。お城だ。そう思った。目に入るのはポーチだけだから建物の全容は分からないが、扉も柱もアカデミーのそっけない作りとは訳が違う。きっとあの重厚な扉を開いたらぎらぎらとしたシャンデリアが掛かっていて、真っ赤な絨毯なんかがびらーっと敷いてあるに違いない。まだ見てもいない光景を想像したら頭がぐらぐらしてきて視界が暗くなってきた。いやだ。絶対に場違いだ私。馬車に散々揺られて気持ち悪いしコルセットもきつくて気持ち悪いしこの上人に酔ったら多分吐く。どうしよう。無理だ。
「大丈夫です、我が主」
 平衡感覚を失いかけていた私の肩を支えて、耳元で囁かれた声に、私は思わず顔を上げていた。大丈夫ですか、ではなく、大丈夫です、という一言。
「僕がいますから、大丈夫です。たとえどのような事態が起ころうとも貴女様は必ず僕が護ります。だから、大丈夫です」
 決して強くはない、あくまでも優しく穏やかな声が私を覚醒させる熱を帯びて耳から身体の隅々まで行き渡っていく。気が付けば、視界を覆おうとしていた闇は消えて、私は自分の足でちゃんと立つことが出来るようになっていた。
「大仰な奴だな。ここは未開の密林か」
 こちらを見つめる瞳にそう唇を尖らせると、マキシは満足そうに微笑んだ。
 扉の先は想像通りに絢爛豪華でやっぱり気後れしたが、マキシが差し出した腕に手を置いて廊下を歩いていった。豪勢な額に入った絵画や精細な模様が描かれたとんでもなく高そうな壷が並ぶ異空間にくらくらしつつも、どうにかパーティー会場となっているホールの入り口まで辿り着く。そこは更にこの世の物とは思えぬ世界だった。宝石の山のように煌めくシャンデリアが吊るされ、目も眩まんばかりの明るさに満たされた広い室内には、見るからに偉そうな紳士や花畑かって思う程色とりどりに着飾っている貴婦人たちがごっちゃりとひしめいていた。私なんぞが足を踏み入れたら即刻首根っこを掴まれてそのまま牢屋にぶち込まれたって文句は言えなそうな光景を一望して、更に震えが来る程の躊躇を感じたが、マキシの急かすでもなくただ私を待っている視線を感じて、えいと気合を入れて足を踏み出した。いっそのこと目を閉じてしまいたいがそうも行かない。人で溢れ返るホールはマキシに誘導されていても歩きにくいことこの上なかった。その上、丈の長い衣服はローブで慣れているが、やっぱり靴が足を引っ張る。
「転びそうになったらどうぞ遠慮なく僕にしがみついて下さい」
 そのさまを想像するとこっ恥ずかしいことこの上ないが、転ぶよりはマシであろうと考えて素直に従う事にした。廊下ではまだよかったのだがホールに入ってからは私の緊張度合いも極限まで高まってしまったようで、教授たちに付き従って奥の人の集まりに辿りつくまでに二回ほどつっかえてしまったが、いきなり体重を掛けてもマキシはびくともしなかったのでコケかけたのはそんなには目立たずに済んだと思う。
 そんな風にここに至るまで、口から心臓が飛び出るんじゃないかって程の緊張に晒されまくってきたわけだったが、最大の懸念事項であった、貴族を初めとする知らない人たちへの挨拶については、思いの外大した事ではなくって拍子抜けしてしまう程だった。私が何もしなくても勝手に紹介して勝手に自慢してくれる教授の後ろにくっついて歩いて普段みたいに、
「ハイ。アリガトウゴザイマス」
 って言っていればいいだけだったのだ。なんだよもー。これでいいんじゃないかハハハ。心配して損したー。
 ……だなんて思えるのは多分、マキシに半ば抱えられながら歩き続けていたからだ、というのは本当の事を言えば身に染みるって位に気づいていたが、私はさもなんでもないような振りをし続けていた。だってみっともないことこの上ないじゃないか。誰かに引っ付いていられるっていう安心感に縋っているなんてどこの子供だって感じだ。
 実際、マキシは宣言通りに私を護ってくれた。時折、「ハイアリガトウゴザイマス」というおまじないさえ返せない話しかけ方をしてくる奴らがいたもんだから。言うに事欠いて、
「魔術士だそうですが、可憐でお美しいお嬢様でびっくりしました」
 だなどと……! いや、浅学な私だって貴族というものは社交辞令を言う生き物だということくらいなら知っている、知っているがだからと言ってそれに一体何と答えればいいのだ。ハイアリガトウゴザイマスってそれじゃ肯定だろう、それは駄目だろう常識的に考えて。
 だがそのように私が一瞬でも困ると、横からすかさずマキシが「我が主は大変内気な方で御座いまして」などと会話を持って行ってくれる。すると大体は「奥ゆかしく慎ましやかな素晴らしい女性だ」という賞賛に変わるのだった。社交辞令すげえ。
 挨拶してくる人が途切れた時に、私は後学の為にマキシに尋ねてみた。
「あれは本当はどう答えればいいの?」
「有難う御座いますで良いですよ」
「えっ、何それずうずうしい」
「別にずうずうしくもないと思いますけど……」
 社交辞令というのは本当によく分からない。魔術の呪文の方がよっぽど平易だと思う。

 パーティー会場にはダンスフロアもあったがそっちは恐ろしくて全く近寄らず、軽食が供されているテーブルには食指が動いたが如何せんぎゅうぎゅうに締め上げられたコルセットが窮屈でたいして腹に入らずと、なんかもう、うああああってしか言いようのない生殺し感を味わっていたその時に、事件は起きた。
 折からの雨はいつの間にか嵐に変わりつつあったようだったが、大気を騒がしていた水と風の元素たちがついに反乱を起こしたらしかった。
 唐突に鳴り響いた、積み上げた丸太の山を突き崩すような物凄い轟音が、会場の全ての人間の会話を、一瞬にして纏めて全部奪い去った。しん、と一斉に静まり返った数秒間の空白の後、ざわざわと不安そうな声が戻る。
「落雷でしょうか」
 呟いたマキシと一緒に窓の方を見るが、窓は頑丈な雨戸で閉じられていて外の様子は見えない。窓を開けたらまずいよなあと思いつつ、そちらの方へ近づいていこうとすると、急に腕を掴まれて私はたたらを踏んだ。あぶねっ。
 あわやコケそうな目にあって抗議の声を上げようと見上げた四属性精霊は、今度は顔を窓の方ではなく、反対側の廊下の方へと向けていた。
「まずいですね、火事のようです」
「えっ、えええ!? 火事!?」
 潜められた声は周囲に無用な混乱を招かずにおく為だったのだろうが私が騒いでしまった所為で台無しになった。しまった、と気づくがもう遅い。その時には廊下の天井を這うように、ゆっくりと黒い煙がホールに侵入してきていた。
 場の群衆が、蜂の巣をつついたような大パニックとなった。
「ご、ごめん」
「いえ、あの様子では我が主の所為という訳では」
 黒煙に追い立てられるようにして出口に向かうドアに殺到する客たちに押しつぶされないように、マキシが私を庇う感じで壁際に寄せた。人の流れに乗って避難しようとしなかったのは、うっかり押し倒されて転んでしまえばその方が命が危うい、そんな状況だったからだろう。第一私は魔術士だ。例えマキシが私を避難させようとしたとしてもそれは拒否しなければならない立場だ。一般人にはない特殊な魔力を持つ私たち魔術士は職種的には研究者とはいえ、非常時は率先してしんがりを務めて一般人の安全の確保に努めるものなのだ。
 ……って。教授ちゃっかり混じって逃げてるし。あのハゲ。
 怒涛の如く流れていく人だかりの中に見えた薄らハゲを見送ってから、私は目の前のマキシに目をやった。私の横に両手を付いて囲ってくれてるおかげで私は人々の体当たりを直接受けずに済んでるが、マキシは少々痛そうに目を瞑ったりもしている。精霊と言っても、腕力や身体の強さは人間と変わらないし痛覚だってある。
「大丈夫か?」
「いえ、こんなものは大した事ではありません。それよりも、問題なのは奥の様子ですが……」
 あらかた人が流れきった所で、マキシは再度奥の方へ視線をやった。ホール内には靴やら扇子やら勲章やらの落し物が大量に落ちてはいるが、転んで踏み潰されたような怪我人などは幸いにも出なかったようだった。しかし、奥は分からない。時間が経つにつれ、奥へと続く廊下から流れてくる煙は濃くなっているように思える。
「厨房の方なんじゃないか? 使用人の人とかがいるかもしれない」
「では、僕が見てきますから我が主は避難を」
「私も行く」
 私は邪魔な靴を脱ぎ捨てて、隠しポケットからハンカチを取り出す。身軽になって走り出そうとした所を、慌てて止められた。
「まっ、待って下さい、いけません! 貴女様は外へ」
「何でさ?」
「何でさって、そんな本気で分かってないような顔をされて言われても……」
 本気で分かんねーよ。この緊急事態に悠長に何やら文句を言っているマキシを置いて、廊下に飛び出した私は、皆が逃げたのと反対側に向かって走り出した。

 火の元は厨房ではなく、ホールから出てちょっと行った先の廊下だった。やっぱり落雷だったんだろう、炎を上げる大木が倒れこんできて大きな窓を突き破り、廊下を塞いで周囲の絵画やカーテンに火の粉を撒き散らしている。激しい風雨もまた同じ窓から吹き込んでいるが、火の元素の勢いを衰えさせるには全く至らないようだった。
 どうもこの先は突き当たりのようだし、規模としてはまだ屋敷全体に広がる程ではないようだから誰もいなければこのまま引き返すつもりだった。だが悪い事に、その奥に人影が見えた。視界は分厚い黒煙で覆われているが人が床に這いつくばっているっぽい姿がちらちら見え、ばちばちと木が爆ぜる音に混じりながら微かに「たすけてええ」という声が聞こえる。ああくそう、人の事は言えないが何かどんくさそうなのが取り残されてるな!
「おい、そっち! そっちには出口はないのか!?」
 怒鳴り声でそう問い掛けると、泣きそうな声で「ありませんん」と返って来る。そりゃそうだろうな、ないから困ってるんだろう。
 ちっと舌打ちして、私はドレスの腕をまくった。ぎょっとした様子で、私を追ってついてきたマキシがこちらを見る。だが別に、この細っこい腕で燃え盛る大木を抱えてどかして助けにいこうって訳じゃない。そんなこと考えるまでもなく無理だし、無駄に火達磨になるのも御免である。
 私は両腕を真っ直ぐ前に伸ばし、手指を大きく開いて手のひらを炎に向けた。もう既に私の両の目は対象物しか見ていないからよくは分からないが、マキシは更に動揺したように身じろいだようだ。精霊にとっては、素手で炎に挑もうとするよりも尚、人間が自ら魔術を用いてそれを行おうとしているという方が驚きに値する事のようだ。
 私はおもむろに呪文を唱え始めた。
「風の元素、疾く来たりて空に舞う。人の世界を吹き抜けるはローレリア、銀色の鍵。大いなる魔。巨人の息吹。全てを吹き散らし消滅させうる偉大なる力。レウラ、レウラ、ゾルティーグ、レイス、レ、ウィールレリヒト。小さきもの。輝けるその葉脈の御名。我が持ちたるささやかなりし力を持ちて開く次なるマグナールの扉、吹き散らせ、吹き散らせ、我が求めに従いて」
 古今東西のありとあらゆる魔術言語を解析し、人間のみの力で使える魔術として一から組み立てる、というのがとどのつまり私の研究の内容だ。呪文がぶつ切れだったり部分部分あまり意味が通っていなかったり意味を解析しきっていない未知の単語が含まれているのはまだまだ最適な呪文を研究中で、今はつなぎとして使える暫定的な呪語で無理矢理術式を繋いでいるような状態だからである。
 未完成ながらも術力を帯びた呪文に私の魔力が励起される。強いエネルギーを与えられたそれは出口を求めて私の身体を駆け巡り、炎に向けて翳される私の腕に唐突に気づいたかのように、奔流となって一気に手のひらに集まった。
 そして――
 そよっ。
 ――鼻息くらい微かな風が、私の手から出た。
「我が主……?」
「うわああああん!! できたんだもん! あんた喚ぶ前だったら多少の風くらいなら起こせたんだもん!」
 癇癪を起こした子供のように叫ぶ。あの大木を吹き飛ばす、なんて物凄いもんじゃないが、炎をちょっとは吹き散らせるかも、くらいの魔術には本来なっていたはずなのに! こんなに自分の力が使えなくなってるなんてどんだけ燃費悪いんだよこの四属性精霊はー!
「人間の身で物理現象を引き起こせる程の魔術を使えることは賞賛に値しますが、それでも流石に万全であっても、これ程の勢いの炎を消すには至らないでしょう……というか風じゃ危ないですし」
 溜息のような声で呟いてから、マキシは本物の溜息も吐いた。
「炎にも水にも風にも地にも干渉できる僕ならこの場を収めるのは造作もないことですが、主としてお命じになりますか?」
 マキシは馬車で冗談でしてきたのと意味としては同じになる伺いを私に立ててきた。精霊の召喚者として精霊を使役して――『本契約』をするかどうかという伺いを。奴にとってはそれこそが本望な事のはずだが甚だ不本意そうな声なのはやはり緊急事態にかこつける形になるのは流石に気が咎めるからなのだろう。だが私にだって、心底不本意極まりないことだが、最早方法がないことくらい分かっている。と言うよりも、これまで諦め悪く本契約せずにはいたが正直な事を言えば、こいつを送り返すのは無理なんじゃないかなーと、ここ暫くの調べで思いつつはあったのだ。もう今更である。
 当たり前だ、早くしろ――そう口に出すより先に、マキシは早口で続けていた。
「以前貴女様が読まれていた魔術書、あの記述には不足がありました。精霊を送還する方法はあの他にもあるのです。それは『仮契約』のまま三年を過ぎる事。今のまましばし我慢されれば、ミカエラ様、貴女様は僕から解放され、お望みの研究を続けることが出来るようになります。それでもお命じになりますか?」
 なんっ……!?
 私は目を見開いてマキシを見た。召喚した精霊に命じて魔力を使わせる事で初めて本契約となる、という事自体は知っていたが、そんな仮契約の期限なんてもんは知らなかった。精霊を仮契約のままにしておく魔術士自体が、通常はそうそういるもんではないからだ。
 ここでマキシに命じなければ――目の前にいる知らない人を一人見捨てれば、私は自分の望む未来を手に入れられる――?
 私はぎっと奥歯を噛んだ。
 私の未来と知らない人の命どっちが大切だと思ってるんだ!
 ――――人の命の方に決まってんだろアホー!
 実際に迷った時間は呼吸一回分にも至らなかった。いい加減、そう長々と迷っているわけにもいかない。
「ミカエラ・ネルヴァが精霊マキシに命じる、炎を鎮めろ!」
「お命じにならなければ幻滅して更に契約を切りやすくなったかもしれませんのに」
 ほっとした声でそんな小憎たらしい事を言ってくるのが何とも言えず腹立たしい。
「流石にそんな寝覚めの悪いこと出来んわ」
 腕を組み憮然と返答した私の隣から四属性精霊がふわりと浮かび上がった。高さのある廊下の真ん中へんくらいまで浮上して、燃え盛る炎を見据える。
 銀色の髪が炎の色に染められて、まるで黄金のように神々しく輝く。パーティー会場のシャンデリアなど霞んで見える程に、畏怖すら感じるまでの壮麗な光。猛る火の元素を威圧するかのように手を差し伸べて、私の呪文よりもずっと威厳のある声で、命じる。
「炎よ静むべし。水よそれを助くべし。風よ止むべし。地よ護るべし。我は四属性精霊マキシ。全ての元素よ我が意思に沿え」
 それは魔術言語で紡がれていたものの、呪文ですらない、端的な、小細工も何もない命令だった。私の力ずくでの呪文になど見向きもしなかった元素たちが、精霊の言葉には我先にという程に従順に従って命じられるままに流れていく。マキシの身体から発せられる、金とも銀ともつかないまばゆい光に包まれて、炎はその勢いを落とし、窓から吹き込む雨の雫はそれを包み込み、風は水の動きを邪魔しないように静まり、熱に煽られぱらぱらと崩れかけていた石の壁はその崩落をぴたりと止める。
 何もかもが圧倒的だった。人の限界を軽々と超えて行く。まざまざと自分との違いを見せ付けられる。
 痛い程の悔しさにも切なさにも似た感情を覚えながらも、けれども私は素直に思っていた。
 ああ、綺麗。

 魔力の残滓たる粒状の光を纏って、精霊が私のそばに音もなく降り立った。
 窓を突き破って黒く焼け焦げた大木が倒れ込んでいるという惨状には変わりないが、すっかりと炎は消えて、上がる煙ももうもうとした黒から僅かに白い湯気が揺らめくのみに変わっている。奥で逃げ遅れていた人も、腰でも抜けたのかそこから動けないようだが無事のようだ。マキシに救い出してきてもらってもいいが、恐らく鎮火されたのが確認されればすぐに誰かが助けに来るだろう。放っておいても大丈夫なら放っておいていい。
「我が主……」
 恭しく膝をつき、どこか遠慮がちな視線でマキシが正式に主となった私を見上げる。それに視線を移した私の唇が勝手に動いた。
「……好き」
「えっ!?」
 唐突にそんな事を言った所為か、酷く驚いた顔をするマキシに、堰を切ったように私は言葉を続ける。
「私は精霊が好きなんだ。もっとあんたたちに近づきたい。だからこそ、私は研究対象に人間の魔力を選んだ。精霊の本質たる魔力を研究して、精霊により近い存在になる為に」
 いつもは思い出しすらしない、遠い遠い記憶の中にある声が聞こえる。

 ――悪魔の子! あんたなんか私の子じゃないわ、寄らないで、汚らわしい――

 ――悪魔の子? いいや、君は精霊の子だ。
 ――精霊の子?
 ――そう、精霊の子。そら、見るといい、彼女は私の精霊だ。美しいだろう?
 ――……きれい。
 ――だろう。君は、この綺麗な彼女らに愛された子だ。
 人並み外れて魔力が強く、身体の内に収めきれぬ者を我々魔術士はそう呼ぶ。
 魔なる法を知らぬ者にとってはそれは呪われた悪魔の力に見えただろう。しかし、その力は学べば押さえられるようになるものだ。そして自分の、皆の為に使える、祝福された力となるものだ。
 ――祝福された、ちから。
 わたしも……そうなれる……?
 ――勿論だとも。美しき精霊のいとし子よ、我々と共に行こう。

 ――精霊の子――

「精霊の存在は私に生きる意味をくれた。私に誇りをくれた。だから私は……いや、私が。精霊に近づく為の研究をしなくちゃならなかったんだ」
 けど……
 柄にもなく滔々と語っていた自分にふと気が付き色々な意味で我に返って、私はぐったりと肩を落とした。
 大元になった過去のトラウマ的何かは今となってはぶっちゃけどうでもいい。寧ろ魔術を学ぶ機会を得られた事を感謝しているくらいだ。重要なのは現在だ。たった今、私が自らの手でバッサリ断ち切ってしまったらしき現実だ。
 最初から無理だと思っていたならばまだ諦めもつこうものだったが、しかし実はその手段は存在していて、尚且つその唯一かもしれない手段を聞いたそばから私自ら摘んじゃった、というこの事実が何かもう時間が経つにつれてだんだんふつふつと腹の中で沸き立ってきた。あああもうこの性悪精霊、お前物凄く言わなくていいこと言ったよ! いっそ何にも知らないまんま本契約させるのが優しさだろうあの場面!
 この内心の恨みつらみを知ってか知らずか、目の前の精霊はいっそ朗らかとも言える、邪気のない笑顔を私に向けた。
「研究を続ける手段でしたらまだ残されておりますよ。前に、申し上げましたでしょう。精神共振率の話を。僕を送還することはもう無理ですが、精神共振率を高めますれば或いは、魔力に研究を続けられる程度の余剰を生むことができるやも知れません」
「まあ、これから一生共に過ごすんなら信頼し合える関係でいたいもんではあるね……」
 自分の将来が音を立てて崩れていくさまに凹みきっている私はマキシの慰めに力なく答える。その共振率とやらついては確かに以前聞いたが、よく考えてみればそんな単純な事で目に見える程の効果があるのならそれは人間の魔術士の間でもとうに有名になっている理論の筈だ。実質の効果の程はゼロではないが然程でもないって所なんだろう。
 しかしそれに対して四属性精霊は妙に晴れやかな声で答えてきた。
「大丈夫です。惚れましたから」
「……え?」
 そのいらえの意味が全く分からず、私は怪訝に思って眉根を寄せる。見上げると、マキシは天からの啓示でも受けたかのような、気味が悪いくらいに清々しい表情で私を見つめていた。
「割と最初のうちから優しく芯が強く素敵な方だと思っておりましたが今確信しました。貴女様は僕の力だけではなく心をも捧げられる方です。精霊としてのみでなく一人の男として惚れました。だから大丈夫です。共振率についてあまり信用されておられないようですが、恋人同士ともなれば本来よりワンランク上の精霊の維持も可能な程の効果を齎すと聞きます。それなりの余剰は十分に見込めるでしょう」
 …………。
 …………は!?
「いっ、いやそれで大丈夫ってことになるのがよくわかんないんだけど!? こっ、恋人になるには自分がオッケーってだけでなく双方の同意ってもんが必要であってだな!?」
 何が何やら状況がよく掴めていないまま、頭を経由しない反射として反駁を口にする。え、ええと……? ええと……? 何だって? 非常に難解な魔術言語で語りかけられたかのようにすぐには意味が分からない。じ、辞書。辞書はどこ?
「そうですね、残念ながら現状、貴女様はまるっきり僕にご興味がないようですが……」
 残念ながら、という部分だけ本当に残念そうに声を落としたが、続けて向けられた顔はいつもの意地悪そうな――いや。自信と確信に満ちた笑みだった。
「大丈夫ですよ。僕は絶対に貴女様を手に入れてみせますから」
 ――な、なんなの!? 何の自信なのそれは!?
 っていうかいやちょっとその前に待ってまだ脳内翻訳がちゃんと出来てない、惚れるとか何とか……えええ? あの、だ、だれがだれにですと?
「絶対に、離しませんからね。我が主」
 一体自分の身に何が起こりつつあるのか杳として把握できないないまま、私はただただ唖然として、召喚したあの日に言っていた言葉と同じような事を言って笑う私の四属性精霊を見続けていた。

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