CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Epilogue #99 |
ばんっ! と、爆発にも似た音でドアが開け放たれる。その部屋の仮の主であるディルトがその異変について確認もしないなどと言うことはありえなかった。椅子にかけ、本を片手にくつろいでいた彼は、ページにしおりを挟んで腰を浮かせた。 「ウィル?」 ノックもなく、只ならぬ形相でつかつかと室内に入ってきた男の名を、ディルトは呼んだ。普段はどちらかと言えば比較的温厚そうである顔に、今は子供が見たらその晩はきっと夜泣きしてしまうだろうという程の焦燥なのか憤怒なのか判然としないが何か凝縮された激情を貼り付けて、ベッドに靴を履いたまま片足をかけていきなり枕をひっくり返して必死に何かを捜索するその姿は、なんとなくその原因に想像がつくとは言えさすがに怖れを感じずにはいられなかった。少々――いや多大に声のかけ難い雰囲気ではあったが、多分自分が止めないと彼を止められる人間はこの城内にはそう多くないであろうことに思い至り、ディルトは微妙に距離を置いたままウィルに再度呼びかけた。 「えーと、ウィル? 多分お前の捜しているものは、そーいう所をひっくり返しても出てくるようなものではないと思うのだがどうだろうか」 その建設的な意見に賛意を感じたのだろうか。ぐりん、と彼の首がこちらを向いた。 「怖……」 思わず感想が声になる。 「ソフィアが」 さすがに実際に涙は流していなかったが、どこか泣き疲れた子供のような声で、彼が呟いてくる。 「ソフィアが今朝からどこ捜してもいないんですけど……」 「だろうな。昨日、明日の朝一番に発つと言っていたからな。発つと言ったら発つ人だろう、彼女は」 「…………はあっ!?」 ウィルの声が気持ちいいくらいひっくり返る。ディルトは声に嘆息を混ぜた。 「やはり聞いていないのか」 「聞いてませんよ! いつですかそれ言ってたの!?」 「午前中だな、確か」 「予定立てたら何があっても変えんのかあの人はぁっ!?」 がばっと頭を抱えて――両手でと行きたい所だったのだろうが生憎とまだ負傷した左腕は動かないらしい――床に崩れ落ちたウィルに、ディルトは慰めの言葉をかける為近づいてしゃがみこんだ。 「彼女のマイペースは今に始まったことじゃなかろう」 「だからってっ! 人が一世一代の勇気を振り絞ってプロポーズしたってのにその答えも言わずにこれですかこの仕打ちですか!? 振られたんですか俺はーっ!?」 さすがにその台詞には多少驚きを感じて、ディルトは目を丸くした。 「プロポーズ……したのか?」 「しましたっ!」 「というかまだしてなかったのか?」 むしろ驚いたのはそっちだ。 「放っておいてくださいうわあぁぁぁぁ」 余程追いつめられているらしい。無理もないが。 ディルトは軽く咳払いをしてウィルの肩にぽんと手を置いた。彼自身意図していることではないが、解放軍の内外問わず女性に黄色い声を上げさせる穏やかな微笑みをウィルへと向ける。 「ご愁傷様」 「慰めないで下さいっ! しかもそんな無意味に爽やかに!」 「だってなぁ。オチが私の時と一緒だし」 「不吉なこと言わないで下さいぃぃぃぃっ!」 「ああ言えばこういう。一体どうして欲しいわけだ?」 ここまでなればもはや処置無しである。殆どさじを投げた気分でディルトが呟いた瞬間、唐突にウィルの時間が停止した。何かにつかみ掛かるように指を開いてわななかせていた手が、ぴたりとその形のまま硬直する。 「……ウィル?」 「どうもこうも……やることなんて一つしかないじゃないかっ!」 一声叫び、何の予告もなくがばっと立ち上がったウィルに驚いて僅かにディルトは身体を引いた。そんな彼を気にしたそぶりもなく、ウィルは踵を返して怒涛の如く走り出す。 ――後に残るのは、その場にしゃがんだままぽかんともう誰の姿も見えないドアを見送る王子と静寂。 あまりの展開の目まぐるしさに、数秒の間彼は放心していたが、やがてその体勢のまま手で口許を覆った。だが、後から後から込み上げてくる笑いを押し留めることはその程度では難しく、肩を震わせて彼は懸命にそれを堪えるより他がなかった。 「私も近々発つから、正式に挨拶をしなければならないと思っていたのだがなぁ……」 どうやらそれは無理かもしれない。 震える口角を無理矢理きつく引き締めて、ディルトは窓から青く澄んだ空を見上げた。 いい、旅立ち日和だ。 「陛下、本日のご予定ですが」 がさごそがさごそ。 何やら、物置の奥の方にしまい込んだ古道具か何かを取り出そうと苦心している君主を前にして、しかしリュート・サードニクスは執務室で報告を行うときと寸分違わない声音で手元のメモを読み上げていた。 「午前十一時より中央庭園を臣民に開放いたしまして、陛下への参謁が行われます。聖臨祭などの時と同じように二階のテラスからの謁見で、皆に陛下のご健在を知らしめて下さい」 「げほ」 ぺたりと座り込んで当の陛下――ウィルが引き出した黒い布の固まりは旅行用の大鞄だった。それを床に置き、軽く叩くと舞い上がった埃に彼は軽くむせた。埃まみれの空気はリュートの鼻孔をも通過して行ったが、こちらは僅かにも表情を変えることなく、続けた。 「まだ時間はありますがそろそろお召し替えになった方が宜しいでしょう。こちらが先日作らせました正装になります。残念ながらサークレットは帝国に持ち去られましたか、紛失しておりました。いずれこちらも新しいものを作成させます」 サークレットは、代々受け継がれてきたヴァレンディア国王の正装における装飾品のうち、そのものの金銭的な価値が最も高かった品であるという以前に聖王国国王の象徴とも言える物であったことから、帝国の手に落ちて以降処分されていないはずはなかったのだが、それでも制圧後の帝国本城ですらそれを発見できなかったのは口惜しかった。もっとも、幼少の時分から鬱陶しがって式典が終わると何よりも先にそれを外して放り投げていた現在の所有者にしてみれば、その悔しさは数分の一も理解出来ないのだろうが。 案の定、リュートの発言に米粒大の関心も抱いていない様子の目の前の若き国王は、取り出した布鞄を開いて中を確かめていた。古く無骨な見た目だが大きく丈夫で防水加工も施してある実用的な一品に何ら欠損がないことを確かめると、ウィルは初めて満足したように肯いた。そしてこの場所での用事は終わったとばかりに立ち上がる。 「んじゃ」 「んじゃではありません」 そのまま爽やかに立ち去ろうとする彼の束ねた髪を、リュートは着替えの衣装を小脇に抱えたままわしっと掴んだ。 「あ、お前そういうことする? 普通主君にそういうことする?」 「主君たる自覚があるのならそれ相応の働きをしてください。今日も予定は詰まってるんですからね。十二時から東方諸国の首脳と食事会及び会談、一時半より城下市街地の視察、二時十五分からは市街区知事とのヴァレンディ復興計画についての会議、四時にはファビュラス教会最高評議会委員長殿がお見えになられ」 「勘弁してよもう。今俺それどころじゃないんだよ」 心底からうんざりとした口調で呻く主を遠慮も何もなく睥睨すると、瞬間、彼の顔は恐怖に引き攣った。あたかも、幼い頃のトラウマか何かでも甦ったかのように。 それは無意識だったのだろう。ウィルが自分の身体に魔力を集めていくのを肌で感じて、リュートはすうっと目を細めた。無意識であろうとどうであろうと、魔術士が魔力を集約させることは、相手に対して弓の弦を引き絞るのと同義である。 「で、陛下? その魔力は? 攻撃ですか? 防御ですか?」 言われてようやく自分の行っていた行為に気がついたのか、彼ははっと目を見開く。視線の高さの明らかに違う――彼からすれば見上げる位置にあるリュートの目を、萎縮しきった表情で恐々と見て、おずおずと告げてくる。 「え……と、ぼ、防御?」 「そうですか。覚悟が出来ているのならば話は早いです」 「ちょい待てマジ待て人の話を聞け!」 「いいでしょう。聞きましょう。聞いてから内容の如何に問わず然るべき処置を取るとしましょう」 「うわ意味ねえ!?」 悲痛とすら言える声で叫ぶウィルを変わらぬ冷ややかな目つきで睨み続け――しばしの間を置いて、リュートはやおら溜息を吐いた。 「リタ様も、ディルト様も一両日中には出発なさるそうです」 唐突な切り出しに、ウィルは思わずといった様子でリュートの顔を見た。リュートは静かに言葉を連ねる。 「お二方とも、荒れ果てた祖国のため、そこに住む人々のため、何よりも優先して元の平穏な世界に戻すよう粉骨砕身してご公務に就かれることでしょう。民の幸福の為に自らの幸福を生贄として尽力すること、これは為政者としての責務です。違いますか?」 「違わない……と思う」 ぽつり、と俯いてウィルは呟く。叱られた子供のようなその姿に、リュートはさすがに少しだけ悪いことをしたような気持ちになったが、それを心中に押さえ込んで続けた。 「でしたら、お分かりになりますね、あなたの為すべき事がどこにあるかという事は。……ソフィア様のことならば心配することもありません。彼女はこれまでも一人旅を続けてこられたのでしょう? そのうちまた元気なお姿を見せにきてくださいますよ」 下を向いたままのウィルを、リュートは幼い頃の彼にそうしていたように柔らかく諭す。だが、彼は顔を上げなかった。 リュートとて理解できないわけではない。大切な人との別離の辛さ。それが、彼が長年求めつづけてきたただ一人の少女であるならば――そして今、彼が彼女に感じているのが少年の日の淡い恋慕に収まらないものであるならば――またいつか会える可能性がないわけではないにしろ、これ以上の苦痛はないだろう。 ウィルが僅かに頭を動かす気配を示したのを読み取り、リュートは彼を注視した。ほんの刹那の事だったが、躊躇うような間を置いて、彼は静かに首を横に振った。 「でも、そのうちじゃ、遅いんだ。今じゃないと駄目だ」 「陛下」 リュートは少し厳しい声で囁いた。だが先程は恐れて見せたリュートの諌言にも今度は退かず、ウィルはリュートの瞳を真っ直ぐに見上げる。 「俺はこの聖王国の国王だ。故郷を好きな気持ちは変わらないし、見捨てるつもりもない。……それでも、俺が何よりも優先するのはソフィアだ。彼女が何を思って俺に一言も告げずに出ていったのかは分からないけど、間違いなく言えるのはただ事じゃないってことだ。多分それは俺の所為だ。彼女が逃げるなら、追いかけて捕まえなくちゃいけない。俺はそうするって、彼女に言ったんだから」 「この国がどうなってもいいと言うんですか」 意識して鋭くした声での問いかけに、しかしウィルは小さく唇の端を上げて素直なとは言いがたい笑顔を見せた。挑戦的な――いや、この表情を形作るのは、自信か。 「見捨てるつもりはないって言っただろ。ヴァレンディアは……大丈夫。お前がいるから」 完全に不意をついてきた発言に、リュートは思わず目を見開いていた。 リュートの肩を一度だけ軽く叩いて、ウィルの手はそこから離れる。リュートはその場に立ち尽くしたまま徐々に小さくなって行く背中を追うこともせず、やがて深々と息を吐いた。 ――違わない……と思う。 ウィルが俯いて呟いた言葉は、彼がそれを正論と認めたサインだった。少年だった頃の彼は、どんなにわがままを言おうと、自分が納得した正論を踏み超えてまでの言動はしなかったはずだったのに。 小さく。 噛み締めるように、リュートは笑った。そうしてから、彼はいつからかそこにあった視界の外の気配に向かって、振り向かず言葉を投げた。 「もしかして趣味ですか? 人の背後を取るのは」 「お前にもやられた試しがあるがな」 最初から隠しているつもりはなかったのだろうが、暗殺者としての長年の訓練の賜物なのか、その声を聞いてもなおどこか希薄なカイルタークの気配に、リュートは笑いながら振り返った。 「……楽しそうだな」 「そんなことないですよ。とても困っています。山積みな今後の予定は一体どうすればいいのやら」 書類仕事などであればリュートの代理署名でも片がつく物が多い。それで片がつかないものであれば本当の『代理』、すなわち筆跡を真似て国王の署名を行うという一種の犯罪行為を実行することになるが、これも彼にとっては慣れたことだった。……しばらくやっていなかったので多少練習が必要になるだろうが。しかし、謁見や会談となると、どうしても本体の姿が必要となってくる。これはどうしようもない――ようにも一見、見える。 リュートは口許から言葉を零さずただ笑みを浮かべたまま、おもむろに、ずっと手に持っていた聖王国国王の正装の、一番上にあった紅のマントの下から黒っぽい物体を取り出した。 ダークブラウンの、布のようにしなやかなそれが何であるか一目では看破できず、カイルタークが凝視する。 それは―― 「……かつら?」 返ってきた正答に満足し、リュートはにこりとした。 「こんなこともあろうかと、衣装も少しだけ大きめに作っておきました。いやあ、準備はしておくものですね? カイル」 「なぜ私に同意を求める……?」 「それはもちろんこれを着るのがカイ……」 「言うな! 聞きたくない!」 この男にしては非常に珍しいことに、叫び声と言っても差し支えない大声を張り上げるカイルタークを、しかしリュートは変わらぬ優しげな――と言うより聞き分けのない子供を宥めすかすかのような笑みで見つめて、有無を言わさず手の中の衣装を突きつけた。 「私じゃ瞳の色が違いますし、何よりサイズが合いませんでしょう? 何、大丈夫ですよ。子供の頃の陛下のお顔を知っておられる方は何人かおられますが、七年も経っているんですから色さえ間違ってなければ分かりっこありませんって」 「ウィルが分からなくても私の顔が分かる者はいるだろうが! 教会の評議委員長など騙せるわけがなかろう!?」 「そこはまー気合いで」 「どうにかなるかっ!」 「ははは。行動を起こす前から諦めては駄目ですよ、カイル」 「そういう問題とは違う! ……全く……」 諦めたような――とはいえ無論、ヴァレンディア王の影武者にさせられる運命にまで諦めたのではないだろうが――嘆息を漏らしてカイルタークはその鋭い目から力を失わせる。 「……この兄にしてあの弟あり、か……」 「ははははは。それってどういう意味ですか? 誉めているように聞こえませんよ?」 一人頭を抱えるカイルタークの横で、リュートは声をあげて笑いながら、腕の中の衣装をしっかりと抱え直した。 蒼空の天蓋を支える柱のように枝葉を伸ばす木々の足元を、一台の馬車が駆け抜けていく。冬でも葉の落ちない種類であるらしい樹木は、冬の陽光にその緑を一層映えさせている。馬車は多頭引きの大きな物だったが、内部には定員以上の旅客が乗り込み、ごった返すとまではいかないにしろ座れない者がいる程度には混んでいた。 名高い聖王国の王都から隣国フレドリックへと向かう主要な街道でありながら、その事実に似合わず――それまでの状況を考えれば当然ではあったのだが――整備が不十分な路面に、しかしながら四頭の馬の計十六の馬蹄は軽快なリズムを刻んで行く。ただ、その代わりのつもりなのか、車輪の方はと言うと実に素直に路面の凹凸を乗客に伝播して来ていた。乗り物酔いをするからというわけではなかったのだが、出発時から窓の外を眺めつづけていた少女は、前方から近づいてきた同型の馬車に、この馬車よりも明らかに多い乗客が乗っているのをすれ違いざまに確認した。 「ソフィアちゃん」 名を呼ばれ、彼女は意識を外界から車内へと引き戻し、すぐ隣の席に座る女性の方を振り向いた。柔和な笑みを浮かべて彼女の方を見ていた女性――ライラと目が合う。馬車の内部を取り巻くようにしつらえられた椅子のライラの反対隣には、今は彼女の恋人であるサージェンの姿は珍しくもなく、彼女らのように王都を旅立とうとしているのだろう男が馬車旅に早くも疲れたのか居眠りをしていた。彼に限らず、馬車の中には船を漕いでいる者もいたが、多くはこれからの旅路に思いを馳せてか、一様に明るい表情で談笑したり景色を眺めたりしていた。ちなみにこの場にいないサージェンは、ライラに先んじてヴァレンディを出発し、先の村で落ち合う約束をしていると言う。 ソフィアに呼びかけたライラは、手のひら大の小袋を彼女の前に差し出してきていた。 「クッキー食べる?」 「……誰が作ったんですか?」 「…………サージェン」 「わーい♪ いただきます」 喜んで受け取ると、ライラは微妙に複雑な表情を浮かべたが、ソフィアは気にしないことにしてきつね色の焼き菓子を一かけほおばった。 「そう言えばライラさん、ディルト様たちと一緒に帰らないでよかったんですか?」 ふと思い出した疑問を、ソフィアは口をもぐもぐと動かしながら発する。彼女のくぐもった発声をライラはきちんと聞き取って、穏やかだった笑みを、少し深い――強いて言えば悪戯っぽいものへと変えた。 「私、って言うか私たち、レムルスには帰らないのよ」 「!? 何でっ!? 騎士団は!?」 「辞めたわよ。もうディルト様と将軍の了承も頂いたわ」 「うっそぉ……」 楽しそうに言うライラを、ソフィアは唖然として見つめた。レムルス国内において騎士であるということはこれ以上ないほどの名誉である。宮廷騎士に向ける憧憬の眼差しは、子供であろうと大人であろうと変わらないというくらいだった。しかも彼女は聖騎士だ。レムルスで育った者ならば、最上位の騎士であるその位階をなげうったということをこれほど気軽に報告されては、大抵はソフィアと同じ反応をする。 「何でまたそんな思い切ったことを」 「私たちね、結婚するの」 「えっ!?」 再びの爆弾発言に、ソフィアは当然のごとく絶句する。今度のは、彼女個人的には先程以上の衝撃を与えるせりふだった。 「ほ、ほんとですか?」 嘘だなどと思ったわけではないが問い返すと、ライラはこっくりと頷いて見せた。 「う……わぁ……おめでとうございます」 「ありがと」 当人よりもよほど顔を赤らめて告げた祝福の言葉への答えは簡潔なものだったが、ライラの言葉、表情全てからにじみ出る幸福の雰囲気をソフィアは感じ取っていた。 「でも何でレムルスに帰らないんですか? 二人とも実家はレムルスですよね?」 「あれ、言ってなかったっけ。サージェンは西の出身なのよ。丁度ヴァレンディアとフレドリックの境あたり」 「へえ、知らなかった」 「それとね、随分前から二人で話し合ってたんだけど。この戦争で家を失った子供たちを集めて、孤児院……って程のものじゃないけど、ちょっと大きな家族を作ろうと思っててね。レムルスよりもこっちの方がそういう子、いるみたいだから。家も借りたのよ。ちょっと町から遠いけど、広くて安くて結構いい家なの。それの用事でサージェンが先に行ったんだけど」 ソフィアは三度、目を見開く。今日のライラには驚かされてばかりだ。彼女はふと、俯いて膝の上で組んだ自分の手を見た。 急に黙り込んでしまったソフィアの顔を、ライラが少し驚いた様子で覗き込んでくる。 「どうしたの?」 「……ううん、ライラさん、すごいなあって思って」 「何が?」 「あたしなんて、この先どうするかなんて昨日やっと思いついたくらいなのに、ライラさんたちはあの忙しい中ずっと考えてたんだなあって」 「あはは。伊達にソフィアちゃんより長く生きてないわよ」 気楽な調子でそう言って、笑う。彼女のやろうとしていることは夢として語るなら奇麗だが、現実には美しいだけでは済まない仕事であろう。その先には幾多の苦難が待ち受けているに違いない。ライラはその想像も出来ないような愚かな女性ではない。本国に帰れば戦後の混乱の中とはいえ貴族の姫君として安楽な生活が約束されているであろうのに、それを捨てて自分の望む道を、愛する人と二人で歩もうとするライラの姿は、ソフィアの目に、いつも以上に魅力的な女性に映った。 「ソフィアちゃんはこれからどうするの? 昨日思いついたって言ったよね、さっき」 ライラの問いは、ソフィアにとって少し唐突だった。客観的に見れば話の流れとしてはごく自然なものだったが、彼女は何故か、自分の事を聞かれることを考えていなかった。 「あたし……? あたし……は」 口篭もったのは急にそんなことを問いかけられた為で、それを言いたくないと思ったわけでも、言いにくかったわけでもない。少し頭の中で言葉を整理してから、ソフィアは顔を上げた。 「トレジャーハンティングをしようって思ってるんです」 「ああ、ソフィアちゃん、それが本業だったもんね」 頷きながら、ライラが興味に目を輝かせる。 「で、何を狙うか決めたんでしょ? 何? どんなお宝?」 「欲しいものは沢山あるんで、近い所から行こうと思ってます。まずはフレドリックで高名な賢者って人が作ってるらしい丸薬」 「丸薬?」 ソフィアの答えは、ライラが想像していたものよりも遥かに地味なものであったということなのだろう。失望ではなく単純な驚きで、ライラの声が少し裏返った。 「それと、生命の水。って言っても薬草を煎じた苦いお茶のことみたいなんですけど。身体を丈夫にして、怪我とかを早く治せるんだそうです。あと、大陸の最南端の高原でしか育たない苔を使って作る、軟膏ってのも何となく欲しいかなあって思ってる所で」 「……それって」 ソフィアが口に上らせた品の偏りに気づいたライラが、声を上げる。トレジャーハンティングと言って挙げたその品物は全て――恐らく怪我に効くのであろう薬ばかりだった。 「もしかして、ウィル君の腕の為?」 ライラの静かな問いかけに、ソフィアは赤みがかった頬を指先で掻いた。 「あたしにしか出来ないことを見つけたんです」 それを口に出すのは彼女にとって非常に恥ずかしいことだったが、昨日ウィルが言った言葉を知らないライラにならと、意を決して呟く。 「ウィルがあたしにくれた気持ちが、あたしはすごく嬉しかったから。本当に、何も言えないくらい嬉しかったから。だから、簡単なことじゃこの気持ちを返すのはできないから、あたしは、あたしにできる一番のことをしなきゃいけないと思って。……昨日の朝、何となくこれ、思いついたんですけど、夜になって……絶対やろうって、決めたんです」 照れ隠しの明るさで笑顔を作って、ライラへ向ける。事情を知らないはずのライラは、しかしそれ以上深く追及することなく、優しく微笑んでくれた。 「だってさ。愛されてるじゃない」 ライラが、ソフィアの方を向いたままそんなことを言う。――しかし彼女には、それが何のことだかは分からなかった。 が、理解できなかったのも言葉通り一瞬の出来事だった。いや、更なる理解不能の渦に落ちたとも言うべきか。 「……何だ。気づいてたんですか。驚かそうと思ってたのに」 「座るときたまたま顔見えたからだけどね」 ライラの隣の席で深く俯いて眠っていた男がのそりと頭を起こし、ライラとソフィア、二人を見て気楽に片手を上げてくる。 「……はぁ!?」 その顔をようやく意識が判別して――声を聞いた時点で分からなかったわけではなかったのだが、混乱していたのだ――思わずソフィアは揺れる馬車内で立ち上がっていた。 「ウィル!? 何でウィルがこんな所にいるのよ!?」 「何でって失礼だな。もうちょっと他に言いようがないの?」 くすくすと、実に楽しそうな笑声を立てながら、ウィルはかぶっていたつばの広い帽子を脱いだ。その中から、はらりとソフィアよりも長い髪が肩に落ちる。常に視界に入っていたと言うのに全く気づかなかったのは、この、気づいてみればこれ以上ない程ちゃちな変装の所為だ。 「言いようも何も! だって訳分かんないじゃない!? ウィル、ヴァレンディアの王さ」 「流石にそれはストーップ」 ライラの目の前から手を伸ばし、ソフィアの口を塞いでから、ウィルは小声で囁いてくる。 「……そりゃ、君を追いかけて来たに決まってるだろ。言ったはずだけどね? 君が逃げるのなら俺はこうするって」 「それにしたって、どうやってウィルがまだ寝てる時間に馬車乗ったあたしに追いついて……ってああそうかっ! 空間転移っ!」 自身の持ち技でもあるそれのことを、今の今迄完全に失念していた自分の愚かしさに、ソフィアは頭を抱えて絶叫した。 どこに向かったかも分からない人間を追いかけるのはこの魔術を用いた所で至難だが、経路もおおよその発着時刻も調べられる駅馬車を追跡するのならば、さほど難しくはない。彼がやったように、どこかの駅に先回りして、何食わぬ顔で乗車してしまえばいいだけだ。 「ソフィアも空間転移使ってたらどうしようもなかったけどさ、馬車に乗ったのを見たっていう人に会ったから。ユーリンなんだけど。こりゃー忘れてるなーラッキーと」 「あー馬鹿馬鹿あたしの馬鹿! ちょっと考えれば分かるじゃない! あああ何やってんのよあたし!」 「ってそんなに全力で嘆かなくても」 両手をぷるぷると震わし全身で悔しさを表現するソフィアに、困ったように眉根を寄せて、ウィルが呟きかける。どこか申し訳なさそうな彼に、ソフィアはしかし、きっ、と鋭い視線を向けた。 「大事なのはこっちじゃないでしょ! 話ずらして逃げようったってそうは行かないわよ!」 「話ずらし始めたのは君……」 ウィルの突っ込みは無論、無視する。 「あなたはこんなことしてていいような立場じゃないでしょ!? こんな大変なときにウィルがいないでどうするつもりなのよ!?」 「何だそんなこと。やだなあソフィア、俺なんていてもいなくてもたいして変わらないよ」 「そんなわけ……」 「リュートがいればね。ははぁ、さては君、俺が何であいつを生かして連れ帰ってきたか分かってなかったな?」 「なっ……」 清々しいまでの明快さで何とも鬼畜な発言をするウィルに、ソフィアはさすがに言葉を失った。……今頃、当のこの青年の兄は寒気を感じているか、くしゃみをしているか。彼のことなので何の痛痒も感じず泰然としている可能性が大だろうが。 「仮に」 ふと呟かれた彼の声の調子がそれまでと変わったわけではなかったが、どこか身に纏う色を違えて、彼の口から発せられた音はソフィアの耳に響く。 「リュートがいなくても、誰もヴァレンディアを任せられる人間がいなかったとしても、俺はこうしていた気がするけどね。……君を失ってまでこの手に留めておきたいものなんて、何もないんだから」 「……何てせりふ吐くのよ」 ウィルの小さな囁きは車輪が地面を削る音にかき消され、周囲の乗客に漏れる事はなかったようだった――いや、丁度二人の間に座っていたライラには聞こえてしまっただろうが。それでも十二分に恥ずかしいことには変わりないのだが、ライラの恋人もこの位のせりふは全くのしらふで言える人間だ。他の誰か、例えばディルトなどに聞かれるよりはまだいい。 がたん―― 少し大きな石にでも乗り上げたのだろう。車体が一度、大きく揺れる。ウィルの意識が僅かにソフィアから逸れたその瞬間に、彼女は顔を馬車の外へと向けた。 外の景色は殆ど変わらない。日当たりの悪くない森に降る光は、緑を透かしてソフィアの肌にまだらな陰影を落とす。眺めていると、木々の向こうに小さな屋根が見え始めていることに彼女は気がついた。次の駅はもう近いらしい。 「……次は」 ウィルには視線をやらず、その手前のライラの顔を見ると、彼女は町の名前を教えてくれた。大都市から近からず遠からずと言った位置にある山のふもとに開かれた、さほど大きいとは言えない規模の町だったのだが、ソフィアはその名前を記憶に残していた。昨日、ターゲットにする品を定めるとき候補に上げ、結局除外していた物のある場所だった。 「ウィル! 次降りるわよ!」 「え? 急だね?」 「今決めた! ほらいいから支度支度! 荷物それだけ? すみませーん、降りまーす」 混んだ車内でにわかに荷物の上げ下ろしを始めた二人が自分の持ち物を確保した頃には、馬車は町の入り口の駅に滑り込んでいた。 「ウィル君、ソフィアちゃん、良い旅を」 別れの挨拶と言うには軽い調子でライラが指先で宙に十字を書く。ファビュラス教の祝福の印だ。神官はもう少し複雑な印を書くが、普通の旅人や町の人間は簡略化したものを使うのが普通だった。 「ライラさんも。どうか行く道に平穏を」 気の利いた言葉も思いつかず、ソフィアは常套文句でもあるそのせりふに最大限の気持ちを乗せて十字を切った。 「そのうち遊びに来てね。待ってるから」 言いながら、ライラはちょいちょいと手招きをしてソフィアだけを傍に呼び寄せた。ウィルも少し興味を引かれた顔をしたが、彼は駄目らしい。ライラの口許に耳を寄せてソフィアは彼女の言葉を聞く―― 「え!? 嘘!?」 「えへへー。ほんと」 「何だよ二人だけで」 「女の子だけのひ・み・つ・よ。ウィル君」 ちっちっと立てた人差し指を振っておどけて見せるライラに、ウィルも調子を合わせて頬を膨らませて見せる。驚愕の表情を隠せないソフィアに、ライラはウインクした。 「それじゃあね」 「あっ……ええ、お元気で」 人の流れが起きはじめている車内にこれ以上留まることは出来ず、手を振るライラに挨拶を返して、二人は昇降口に向かって歩き出した。 「そう言えば、俺も聞きたいことがあったんだけど、いい?」 黒い大きな鞄ひとつという荷を背負い上げて、乗降の人波に押されよろめくウィルに、ソフィアは手を差し出したが、彼は小さく頭を振ってそれを断った。もっと面倒なことは手伝ってもらうけど、と不自由でない代わりに大荷物を引っ掛けている方の肩を竦めさせて彼は言った。 「……で、何が聞きたいって?」 「どうして何も言わずに出て行ったの?」 「どうしてって……」 詰問というものでは決してないが、穏やかながらも有無を言わせない雰囲気のあるウィルの声に、ソフィアはしかし従わず、そっぽを向く。 「……秘密」 「ソフィアもかよ。何でさ」 「たいした事じゃないもの」 「たいした事でないなら言ったって構わないだろ」 「じゃあたいした事ある」 「何だよそれ」 「何だっていいでしょ」 「よくない。なあ、どうして?」 なおも追求してくるウィルを、我慢の限界にきたソフィアはとうとう見上げて睨み付けた。 「もー! 決まってるでしょうが! 顔合わせたら行くの嫌になっちゃうじゃないの!」 やけになったように叫び、人込みをかき分けるようにしてソフィアはずんずんと車内を歩いていく。どう努力した所で、頬に朱が差すのは押さえられない。ウィルは今どういう顔をしているのだろう。ぎゅっと目を閉じて、彼女はステップの最後の段から飛び降りた。 「ソフィア」 呼ばないでよ! そう思っても声には出せず――彼に一言声をかけることすら今は恥ずかしくて耐え切れないのだ――ソフィアはウィルの呼びかけを無視して馬車から離れる。だが数歩も行かないうち、腕を後ろから掴まれた。それは、ウィルからのリアクションとしては十分に予想の範疇であったが、それでも反射的にソフィアは振り向いた。と、 「……っ!?」 目を閉じる隙もなく。 気がついたときには焦点も定められない至近にウィルの顔は存在していて――舌は熱と柔らかい感触に翻弄されていた。 「わぁお」 ライラのそんな歓声に、今更ながらにぎょっとして、ソフィアは目だけを馬車の方へと向けた。窓からこちらを見ていたのはライラだけではなかった。外を覗ける位置にいる乗客全ての視線が、ただ一点に集中している―― 「…………ッ!!?」 どごッ!! 限りなく錯乱に近い心理状態の中、攻撃目標だけは的確に判断し、ソフィアは会心の膝蹴りをウィルの脇腹に決めていた。 走り去る馬車の音は徐々に小さくなりつつあったが、彼女の罵声は収まる所を知らなかった。 「馬鹿! 阿呆! 恥知らず! あんな公衆の面前で何てことするのよこの強姦魔!」 「強姦って……また」 流石に最後の言葉は聞きとがめてウィルは唇をすぼませるが、ソフィアには彼の抗弁を受け入れる用意はなかった。 「あああもう恥ずかしい! 恥ずかしすぎてもう外歩けない! あんたもー帰んなさい実家に帰んなさいッ!」 「ソフィアってば照れ屋さんだなー。こんなの予行演習、予行演習」 「……何のよ」 「そりゃもちろん結婚式。知人友人親族その他大勢と神様の前でキスするんだよ? こんなもんで恥ずかしがってちゃ出来ないじゃないか」 「それとこれは問題が全っ然違うでしょうがぁ!」 「違わないって。もう可愛らしいんだから〜」 目尻をだらしなく下げて腕を巻き付けてくるウィルを慌てて引っぺがして、ソフィアは人に慣れない猫のように素早く彼の手の届く範囲から逃げ出した。ウィルの方もそこまでして逃げる彼女をなお追いかけようとはとりあえず思わなかったらしい。少し離れた場所で、彼が小さく吹き出す音に反応し、ソフィアは恨めしげに睨んだ。 「何だか今日、いつになくテンション高くない?」 「そうかな?」 きょとんと両の眉を上げてウィルは聞き返す。しばし空を見上げて何やら考える様子を見せた彼は、視線をソフィアの方へと戻すと、今まで彼が目を向けていた空のような満面の笑みを浮かべた。 「嬉しいからかな」 ――その、ウィルの答えに。 何が、と聞き返す程、ソフィアも馬鹿ではなかった。その返答になるのであろう言葉を聞いて冷静でいられる程、利口ではないということが自覚できる程度には、という意味だが。よって彼女は当然の結果として、行動選択肢の中から、彼を無視して荷物を抱え、通りを進むことを採択する。 苦笑と、地面からウィルが荷物を持ち上げる音が彼女の後に続く。 青空。行き交う人の賑わい。走る馬車のいななき。復興の途中ながらも活気ある町並みに囲まれて歩く自分と彼。 肩越しに振り返ると、目を合わせることそれだけで、至上の幸福とでも言わんばかりにウィルの目が喜びの感情に満ちる。 (もー……) これ以上の文句は心の中だけに留めておく事にして、ソフィアは深く溜息をついた。いい加減彼のペースに引きずられることに疲れたというのが理由の大半だが、彼のそんな純粋な少年のような表情に怒る気力を吹き飛ばされてしまったという事実もその理由の一つとして認めざるをえない。 「ソーフィア」 語尾にハートマークがつきそうな勢いのウィルの声に、彼女は、何? と首を傾げた。 「これから、どこ行くの?」 「そぉねえ……」 人差し指を顎に当ててソフィアは考える。用があるのは特定の場所ではなく、この周辺であれば多分どこでもいいことだったので、彼女もさほど深くは考えず下車したのだ。 通りを抜けて風が吹く。どこか懐かしい、緑の匂いのする風が。目的はあれども終着点など特にない旅路だ。風に誘われるまま、気の赴くままに歩いてみるのもいいかもしれない。 整然と並ぶ屋根のその向こう、近くにそびえる山間に埋もれるように偶然見えた『それらしき』ものを、ひとまずの目的地と定めて彼女は宣言した。 「あの山。登ろう」 「えー。山ぁ?」 初めて彼は少し嫌そうな表情で、不服の声を漏らした。 「ん?」 薄く闇のとばりが降りたとある村の馬車駅―― 荷物を抱えて降りてきたライラを出迎えに来ていたサージェンは、一人きりで降りてきた彼女の姿に小さく声を上げた。 「ただいまー」 「ああ、お帰り。ソフィアは? 一緒に来るのだとばかり思っていたが」 「途中で降りちゃったから。ウィル君と一緒に、ね」 「……ほう」 経緯は全く知らないはずだが深くは追及して来ず、サージェンは軽く感嘆の声を上げた。わざわざ尋ねずとも、ライラの方から面白おかしく語り聞かせてくれると知っているからだ。 「でも何だったのかしら。五つくらい前の……ほら、あの山の所の町で降りたんだけど。駅のすぐそばまで来た時に、急に予定変えるって言って。ウィル君の薬を探しに行くって張り切ってたのに」 「薬……ふむ。なら、あれだろう」 要領を得ない表情のライラに、サージェンは指をぴっと立て、いつもの低い声で言う。 「あの辺り、国外からも湯治客の来る有名な温泉街なんだ」 「……なーるほど」 サージェンの真似をして、ライラも指を立てて呟く。同じポーズをした二人はそのまま数秒ほど見つめ合い―― ライラがぐっとこぶしを握り締める。 「今頃ラブラブ温泉二人旅!? 初めて同じ部屋で夜を迎える若い恋人たちはついに今日こそ目くるめく!? よっしゃ! 頑張れウィル君!」 「同じ部屋かどうかまでは」 遠く彼方の恋愛経験後輩に、あくまでも先輩として盛大なエールを送るライラに、冷静な突っ込みを入れるサージェン。それでも全くめげずに心温まる空想――いや妄想を描くライラを愛おしげに見つめていた彼は、彼女の身体をそっと抱きしめて、その唇に軽いキスを落とした。 「サージェン?」 彼の指先が、ほんの少し躊躇ってからライラの腹部へと触れる。 「……まだ触ったって、分かんないわよ?」 くすりと笑ったライラに、はにかむような、堪え切れない幸せを意図せず零してしまったかのような笑みをサージェンも向けてくる。 つい我慢できず、ソフィアにはこの『秘密』を漏らしてしまったが――彼女はウィルにこの事を言うのだろうか? 女の子同士の秘密というのは冗談なので、言っても構わないのだが、出来ることなら言わないで欲しいと思う。次に会う時、あの青年の驚いた顔を見るというのもまた一興だ。 「サージェンー」 大きな荷物を軽々と担ぐサージェンに、彼女は勢いよく抱きついたが、彼は全く動じることなく妻の体当たりを受け入れた。幼い頃から常に剣を握り締めてきたため皮膚が角質化した大きな手のひらで、ライラの頬を撫でる。硬くて暖かい、彼女の何よりも大好きな感触だ。 「幸せに、なるよね」 「ああ」 ライラの唐突な問いに、欠片ほどの迷いもなく、当然のことだと彼は頷く。 「幸せになるとも。俺たちも……彼らも、皆。もう、嵐は過ぎたのだから」 いつだって、何よりも正しいのは彼の言葉だ。名高い賢者の声よりも、女神に愛される聖者の声よりも、深く安らかに真実を告げる声に身を預けて、ライラは彼の筋肉質な腕をぎゅっと抱きしめる。 「幸せになろうね」 鎖を断ち切る、それが行うことの出来る全てだった。 けれどもう、その必要はない。 私たちには、手放せなかった刃を収める場所が既にあるのだから。 今度は、鎖を繋いで行こう。永遠に。 「寒い本気で寒い昇天するほど寒い凍る凍える停止するこんな所で俺の永遠は終了してしまうんだしくしくしく」 「よく分かんない泣き言言うなっ! 冬なんだから寒いのは当たり前でしょ!?」 「ない胸張るなっ! こんな時期に山で遭難した挙句雨まで降られて寒いも言えなくなったら本格的に終わりじゃないか!」 「ない胸とかさらりと言うなぁぁッ!」 ここがヴァレンディアでも有名な温泉地帯であるということは、もちろんウィルは知っていた。 山に向かうと告げたソフィアに更に尋ねると、彼女は確かに温泉に行くと言っていた。 ――だと言うのに。 宵を過ぎ、山中で活動するには確実に適さない時間になっているにもかかわらず、彼らの居場所は暖房を効かせた居心地のよい温泉宿ではなく冷たく重い漆黒の天蓋の下で、彼らの身体を濡らすのは暖かい湯の温もりではなく肌を突き刺す氷雨であった。今はまだそれほどの降りではないが、これは恐らく、夜半にかけてもっと強くなっていく雨だ。 「でもおかしいわねー。下から見上げた感じ、温泉宿、この辺にあったと思ったんだけど」 洒落では済まされないこの状況下でソフィアの少女らしい声が冷ややかに――しかし当人には全くの自覚なく――追撃をかけてくる。 「場所調べたんじゃなかったのか!? 見えただけ!?」 「安全策を取って、余裕を持って行けるように近道したつもりだったんだけどねー」 「更に悪い!」 「大抵はこれで行けるのよ。十回に八回くらいは」 「二割しか確率なかったとしても人間ってのは一回死んだらそこで終わりなんだよ一回で!」 「あはははは。たかだか冬山で遭難して雨に見舞われてついでに食料もないくらいで人間簡単に死なないわよ」 「それのどこの辺りが簡単な状況なのか十文字以内で俺にも納得できるように言ってみろ!」 たまらず怒号を上げたその瞬間、ウィルの背に、演劇の演出効果のような稲妻が走る。 「きゃあっ!?」 間を置かずして轟いた雷鳴に驚いたか、ソフィアは甲高い悲鳴を短く上げてウィルに飛びついてきていた。 続けざまに、閃光――と、轟音が再び。 背後の漆黒の闇を振り仰いで二度目のそれを眺めてから、ウィルは、自分の胸で身を縮こませる少女の姿を信じられない思いで見下ろした。 「……もしかしてソフィア、雷、苦手?」 「…………。」 「うわぁ。かわいー」 と、ソフィアががばりと顔を上げ、喚く。 「言っとくけど! いきなり大っきい音が響くのが怖いんであって、鳴るタイミングが分かってるならどうって事ないのよ!? 魔術の雷とかなら全然平気なのよ!?」 「それもどうかと思うけど……あ、今光った」 「っ!」 「嘘ぷー」 「……!!」 一歩跳ねるように下がってから放ってきたソフィアの鋭いハイキックを、今度は右腕でかろうじて防ぎ――先程のは左からだったのだ――、ウィルは笑みを浮かべる。彼女がこれ以上文句や攻撃を仕掛けてくる前に、彼はぽんぽんと目の前の少女の頭を撫でた。 「ま、今日のところはしょうがないし、宿は諦めてここいらで休もう」 「……って言ってもねぇ……」 眉を寄せて、ソフィアが周囲を見回す。彼女も、この雨は一晩は上がらないものであると気づいているのだろう。冬枯れした山には雨をしのげそうな木陰はなく、都合よく洞窟や大きなうろもあったりしない。 「防水布は持ってない?」 「あるけど……二人じゃ敷いてそれでいっぱいだと思うよ」 「それで十分。休もう休もう。もー初日から疲れたよ」 既に動く気力もないことを片手を振って伝えると、彼女は仕方ないかといった様子で鞄の中から厚手の布を引っ張り出した。広げてみるとかなりの大きさで、二人で座っても余裕があるくらいだった――が、余った部分を雨よけに使えるほどには大きくない。 「かぶってた方がまだ良くないかな?」 「大丈夫」 自分も腰を下ろしながらソフィアを座らせ、彼は小さく言葉を唱え始める。 「呪文?」 ソフィアがそう呟いた時には彼の魔術は完成していた。二人の頭上に降り注いでいた雨が見えない何かに阻まれて、あらぬ方向へと弾き飛ばされてゆく。 「これって魔術?」 「そう。軽い物理防御障壁」 「うわぁ、便利便利ー! すごーい、ウィルがいてくれて助かったぁ!」 先程の憎悪すら篭っていた眼差しとは一転、彼女の目はあからさまに「すっごい便利なアイテム拾っちゃった。ラッキー♪」という意味合いの輝きを放っていた。 ……まあ、今のところはそれでもいい。早いうちに味を占めてもらえば、旅先でいきなり捨てられることもないだろう。彼女は使えるものはとことん使うタイプだ。 魔術を展開すべき範囲を視線で確認して、ウィルは障壁の途切れ目を閉じた。二人と荷物を不可視の天幕が完全に覆う。 ソフィアには、雨粒が何もないところで軌道を変えて行くのが面白いようで、飽きずに上ばかりを見ている。そんな彼女の視界の外から、ウィルはそっと彼女に手を伸ばした。 「わっ」 ぐいと肩を抱き寄せられたときに初めて気づいたソフィアは、小さく悲鳴を上げてウィルの顔を見上げる。 「なっ、何? ウィル」 「もっと側に寄って。出来るだけ障壁を小さくしたい」 「う、うん」 素直に肯いて、ウィルの腕にしがみ付くように、ぴたりと寄り添う。ウィルは穏やかに笑って目を細めた。しかしそれは、ソフィアが見ていれば気づいただろうが、決して満足した微笑みではなかった。 「ソフィア」 「ん?」 「もっと近くに。ここ、おいで」 言って、ウィルは自分の膝を軽く叩いてみせた。露骨に、ソフィアが嫌そうな表情をする。 「下心丸出し……」 「そんなことないよ。障壁小さくしないとさ、一晩もたないから。それだけ」 彼女は、その言葉を信用してくれなかったようだった。しかし、一晩もつかどうかというのは嘘ではない。カイルタークと違ってウィルは、こういった芸の細かい魔術はそれほど得意ではないのだ。 その辺りはソフィアも汲み取ってくれたらしく、しぶしぶというか、やれやれというか、そんな表情でウィルの前に移動した。すぐさま、待っていましたとばかりにいそいそと、彼女の背から唯一動かせる右腕を回し、全身を包み込むように抱きしめてきたウィルに、ソフィアは深々と嘆息した。 「全くもー。今日これで何度目のセクハラ?」 「誤解だよ。俺は雨と寒さの脅威から君を護ってあげたいと純粋に思ってるだけなんだから。ほら、女の子は身体冷やしちゃ駄目って言うだろ」 「言うわよね。何でかしら」 「やっぱり、丈夫な子供を産む為じゃない?」 「…………」 ソフィアが沈黙する。猥褻な発言だと突っ込むべきかどうか迷っているのだろう。 「だったら俺は命懸けで護らなくちゃね。将来の為にもげふッ」 肘がみぞおちに突き刺さる。至近距離からの、予備動作を全くつけていない一撃だが、入るところに入れば強烈である。ウィルとしてはこっちの方が何度目だと尋ねたい処遇であるが流石にすぐには声も出なかった。 ウィルを黙らせることに成功して程よく満足したらしいソフィアは、彼の胸へと体重を預けてくる。 「あったかい……」 「……ん」 実にその通りであったので、ウィルは頷いた。彼女の、人より少し高めの体温が冷え切った身体を癒していく。ようやく一心地ついて彼は小さく吐息した。温泉よりは確かにぬるいが――まあ、具合は上々だ。 「ね、ウィル」 振り向かず、俯かず、何気ない唐突さで呟きを発してきたソフィアに、ウィルはこれといった動作は示さず意識だけを向けた。 「雷が鳴ってた夜なんかはね、ルドルフもこんな感じで慰めてくれたよ」 「…………」 「やっぱり嫌かな、ルドルフの話は」 「別に、そんな事はないけど」 少なくとも、嫌悪して耳を塞ぎたいという程ではない。しかし、無論進んで聞きたいものでもない。彼女が言いたいのであれば聞いてもいいという程度だ。沈黙しかけたソフィアを後ろから視線で促すと、器用にもそれを振り向かず嗅ぎ取って彼女は続けてきた。 「一緒に、アップルパイ作ったりもしたの。記憶なかったくせにあたし、それは覚えてて。でね、どんなに忙しくても一日一回はお散歩に付き合ってくれた。悪い人じゃなかったよ」 「……うん。分からなくはない……いや、よく分かる、って言うべきかな」 静かに、彼は呟く。それはずっと感じていたことだった。 「あいつは……手に入れる事の出来なかった、俺だから」 いいとか、悪いとかの言葉で単純に括れるほど、人間は簡単な生き物ではない。人が戦う理由は善悪などではない。ただ、何かが違う、ただそれだけのこと。 大切なものを手にしていたかいなかったか。 運命を分けたのは、そんな些細な違いだけだった。 そう――聖戦など、初めからどこにも存在していなかったのだ。 「元気出して」 ウィルの膝の上で、身体ごと彼の方を向いて、ソフィアは彼の目を覗き込んできた。間近にある瞳に向けて、思わず苦笑する。 「それ、俺の台詞じゃないかな」 「ん、じゃああたしも元気出す」 「それはいいことだ」 言ってから、彼女にこれ以上元気を出されるのもかなり大変なことになるのではという危惧がウィルの心の中に浮かんだのだが、とりあえず忘れておくことにした。彼女に言われたとおり、自分も元気を出すために、彼女の細い腰をもっと近くに引き寄せようと試みたが、不安定な体勢ながらも戦士の力強さで踏ん張る彼女はびくともしない。 「そういう元気は出さなくていいから」 「申し訳ありませんでした」 ソフィアが輝きに満ちた笑みを向ける。但しそれを輝かせたのは、漆黒の空に走った稲光であったが。そうそう何度も彼女の攻撃を防ぐ自信はない。今回は素直に謝罪すると幸運にも恩赦は給えられ、彼女は玉座に女王が座るかの如く再度ウィルの膝の上に落ち着いた。 障壁の内部に、雨の弾ける軽快な音だけがしばらく、続く―― ふと気がついてウィルは首を巡らせソフィアの顔を見た。彼女もやはり疲れていなかったわけではなかったらしい。ウィルに抱かれたまま、何の警戒心もなく穏やかに目を閉じて、少女は寝息を立てていた。 「…………」 瞬時、さまざまな思いが錯綜する。しかし結局の所ウィルが行ったのは、苦笑して、ソフィアの肩に額を寄せるというくらいだった。自分も少し、眠っておかなければいけない。この程度の弱い魔術なら、完全に熟睡さえしてしまわなければ、持続させられるように訓練はしている…… それから幾ばくもしないうちに、寝息の数は二つに増える。 暗雲の緞帳が垂れ込める低い空。世界を濡らす冷たい雨。遠き日に別離の鐘となった雷光は、今は二人の眠りを妨げることすらなく、ただ、闇の中でその姿を彩るのみだった。
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