CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Epilogue #98 |
終章 雷光と…… ばふぉおぉぉぉぉんッ!! うららかな午後の静穏は、突如響き渡った爆音に粉砕された。 「何事だっ!?」 ものの数秒とせず、手に手に武器を取り集まってきた兵士たちの表情は厳めしく引き締まっている。無理のないことだった。終戦を迎え、徐々に平和な元の生活に馴染んできたとはいえ、長年の戦闘状態で染み付いた緊張は簡単には抜けない。未だ、どこかに帝国の敗残兵が潜んでいるという可能性もそう高いとは言えないにしろ皆無ではないのだ。 僅かにも気を緩めず爆発音の発生地点である中庭に集合する兵士たち。しかし、そこで彼らが目にしたのは、その勇敢な兵士たちをして本能的な恐怖の悲鳴を上げさせるほどの存在であった。 顔を仰向かせて見上げるほどの巨躯。隆々とした筋骨は真紅の鋼の鱗に包まれており、瞳は蒼いながらもそれが逆に超高温の炎を思わせる。そこにいたのは、全てを超越した獣、いにしえの魔獣、竜だった。 あまりにも圧倒的なその威圧感に歴戦の勇士たちがおののき、どうすることも出来ずにそれをただ見上げる中、竜は、悠然と巨大なあぎとを大きく開き、鋭い牙の歯列を天へと向け―― ばふぉおぉぉぉぉんッ!! 再度、口内から先のものと同じ爆発を放った。 「うおおお!?」 この獣の持つ圧倒的な殺傷能力の前にはいかなる回避も鎧も盾も無力であろうことは、ただの一見で知れる事実だったが、兵士たちはそれでも反射的に身を護ろうと地面に伏せた。紙人形の如くいともた易く吹き散らされる己の姿を脳内に浮かばせながら、ぐっと目を閉じた。……が、その想像が数秒経っても現実にならず、自分たちの身体が微動だにしないことを不審に思って彼らはそろりと顔を上げた。 竜は、伏せる直前に見た様子と変わらず、蒼天にあぎとを向けている。 声もなく見詰めたまま、一秒、二秒が過ぎ…… じゅる。 竜の、馬の頭が丸ごと入りそうな鼻の穴から透明な液体が流れ出てきた。 鼻水。 「くしゃみかあぁぁぁぁッ!!?」 兵士たちの魂の咆哮が、のどかな庭園にこだまする。 「今日は冷えるわねぇ、アリスちゃん」 階下から突き上がってくる絶叫の唱和を耳に入れながら、バハムートと視線を合わせる高さにある三階のテラスに寄りかかっていたリタは、隣に同じようにして立つ妹にのんびりと語り掛けた。 あれから二週間―― 冬のヴァレンディアの空は、今日も高く遠く澄んでいる。 「ラ……リュート様!」 主人を見つけた小犬のようにはしゃいで走り出したルージュの後ろ姿を、ゆったりと歩を進めながらブランは目で追った。 眩しいほどに明るい光の射す大理石の柱廊に、姿勢正しく歩く長身の青年の姿は遠目にも映える。自分の名を呼ぶ少女の声に応えて、青年は振り返った。金の髪に抱き込まれた光が、露に濡れているかのように煌く。 「リュート様っ」 両手を広げ、一直線に駆け寄っていく妹の意図を察して、ブランは顔面を蒼白にしたが、制止の行動を起こすには遅かった。声を上げた時にはルージュは彼の胸に全力で飛び込んでいた。 「申し訳ありません、リュート様! ……こら、ルージュ!」 「まあまあ、構いませんから」 彼女らの主たる青年――主であった、と過去形で表した方が事実上適切であったかもしれないが――、リュート・サードニクスは楽しそうに微笑んで、ルージュを抱きしめたまま彼女の少し癖のある赤毛を撫でた。主がこれでは叱りようがない。困った挙げ句、とりあえずルージュをじろりと睨みつけるブランを、海色の瞳にからかうような光を乗せてリュートは見る。 「あなただって、少し前までは元気に抱き着いてきてくれたじゃないですか」 「子供の頃の話じゃないですか、それ!」 「やれやれ、娘は持つものじゃないですね。年頃になると、女の子はお父さんの相手もしてくれなくなるんですから」 「そそそそういうのとは違いますがっ」 慌てふためくブランにリュートは目を細めた。それは実に、父親が子供を見るような眼差しだったが、ブランは、気恥ずかしくて頬を赤らめ俯くことしか出来なかった。 「リュート様、ノワール姉の所に行くんですよね? 私も一緒に行っていいですか?」 再度、ルージュがやはり元気のいい声を上げる。その時にはもうさすがに彼女はリュートに抱き着いてはおらず、横に並んで視線よりもかなり高い所にある彼の顔を見上げていた。 「ええ、もちろんですよ」 手に提げていた大きな花束を抱え直して、リュートは肯いた。 やや西に傾いた日差しを正面に受けながら三人は歩いていた。城を出て庭を横切った先の小高い丘が目的の場所だった。僅かに黄色みを帯びた光の中に目をすがめて主の背中を仰ぎながら、ブランは、今にも解けてなくなってしまいそうだ、と思った。あまりにも光は明るすぎて。神々しいまでの輝きは、彼の存在すらをも全て飲み込んで、どこかへ攫っていってしまいそうだった。 白い石碑の立ち並ぶ、静寂に満ちた空間――丘の上の墓地で、彼らは足を止めた。 入り口に程近い場所に、真新しい墓標がある。その墓標の前からは、それが作られてからまだ一日たりとも花が欠かされたことはない。 そっと花束を置いて、リュートは物言わぬ石碑に向かって深く頭を下げた。 「……済みませんでした」 小さな――それ以外に言いようのない、謝罪。 頭を上げることも、それ以上言葉を述べることもなく、彼は祈りを続ける。 あの日からずっと、彼はこれを繰り返してきた。そしてこれからも、続けていくのだろう。 いっそ泣いてしまった方が楽であろうというのに、彼は涙を流さなかった。ただ、自分の罪といういばらの鞭に打ち据えられながら、届かぬやも知れない祈りをただ、捧げつづける。その姿は、教会黎明期の修行者がしたように、ひたすら自らに苦難を科しているかのようだった。 深い悲しみを、苦痛を涙で流してしまわずに。永劫の、贖罪の道を歩むことを彼は望み続ける。自らの終焉という望みを失い、咎を背負いながら生きることを決めたその瞬間から、彼の覚悟は決まっていたのだ。恐らくは。 長い懺悔の最後に、花束を置き空になった手でファビュラス教会の神官が使う、祈りの印を切り、リュートは少女たちを振り返った。 「行きましょうか。ブラン、ルージュ」 振り返った彼は、二人に向かって微笑して、言った。 「今度こそノワールの所に」 白い壁と白いカーテンに、清潔な白いシーツ。全てが白で統一された中で、唯一、その部屋の主だけが、自分の存在を主張するかのように漆黒を保っている。 「お見舞いに来たよ、姉さん」 窓際のベッドで穏やかな寝息を立てる姉にブランが静かに語りかけると、その脇に立って紙に何かを書き込んでいた白い神官服の男が、視線だけを入り口の三人の方へと向けた。服装がいつものものと違ったので気がつかなかったが、よく見ればそれは大神官カイルタークだった。素っ気なくすぐに視線を紙に戻し、あと何単語かを書き付けた後に、彼はペンをバインダーに挟んで再度顔を上げた。 「様子はどうですか? カイル」 「見ての通り。眠り姫は今日も元気そうだ」 二週間前――あの日より、彼女は今も夢を見続けている。外傷はほとんど確認できなかったのだが、どこかを強く打ったのか、発見されてより彼女は未だ一度たりとも意識を取り戻していない。原因不明の昏睡に陥る彼女は、しかしながら、自発的に呼吸をし、脈も打っており、眠っているのと大差ない状態であると大神官は初めに彼女らに告げた。 いつか、何事もなかったかのように目を覚ますかもしれない。このまま、寿命の尽きるその日までこんこんと眠り続けるだけかもしれない。誰にも彼女がどうなるかは分からなかったが、ブランもルージュも焦ったり嘆いたりすることは最初の数日で止めていた。 どうせ待つしかないのなら、ただ信じて待っていればいいことに気がついたのだ。 「……リュート、先程花を持って廊下を歩いていなかったか?」 ふと思い出したように、カイルタークは手ぶらのリュートに視線を向けた。彼の持っていた花束は一つで、それは先程墓前に供えてきてしまっている。 「ああ。あれは戦争で亡くなった皆さんへ、共同墓碑に。ノワールは花粉アレルギーなので」 「そうだ、リュート様! いっそのこと花いっぱい持ってきて、むずむずさせてたたき起こしてみるっていう手はどうですか?」 「ははは、いい考えですけど、それで万が一ノワールが起きたら今度はあなたが瞬殺される番ですよ、ルージュ?」 さも名案が思い付いたように手を挙げる妹の将来にブランは姉として一抹の不安を感じずにはいられなかった。 「そうだ、カイル。これからお茶にしようと思ってたんですけど、一緒にどうですか?」 「ああ。……いや、後でもらう。もう一つやることがあった」 バインダーを小脇に抱え退室しようとするカイルタークに、得心が行ったようにリュートが肯く。 「あー……」 それを口にしようとしたその時、廊下の遥か遠くから何やら激しくせわしない足音が聞こえてきたので、彼は思わず言葉を止めてドアを見やった。 ぱりーんだとか、きゃああだとかいう不穏な音すら引き連れてやってくる騒音の主は、その姿は見えずとも明らかにこの場所に近づいてきているのが分かった。室内の全員が外で繰り広げられているであろう惨事を脳裏に描き瞠目する中、まさにノワールも驚いて目を覚ましてしまうかという程の勢いで盛大にドアは開け放たれた。 「ウィルが逃げた! また!」 弾丸のように飛び込んできた騒動発生源――亜麻色の髪の美少女は、皆の顔を見るや否や、しかし彼らの唖然とした表情など気にも留めず、一声張り上げてそう告げた。 風。雲。光。空の蒼さ。大地の緑。この城で一番それらの恩恵を十分に受けられる場所のことを、この城で生まれ育った彼が知らないはずはなかった。肌に当たる風は厳しいほどに寒く、普段ならば決してこんな場所に来ようとは考えなかっただろうが、それでも血眼になって自分を捜しているであろう追跡者の目から逃れるメリットはあまりあると言えた。 「……寒」 ウィルは、その場所に寝転がりながら普段より五枚ほど多く着込んでいる上着を胸元に手繰り寄せ、寝返りを打った。 と―― 斜めになった視界の中に斜めに立つ二本の足を間近に認めて彼はそのまま視線を上げた。 「みーつけた」 惜しむことなく向けられるソフィアの砂粒ほどの邪気もない微笑みとは対照的に、彼は精一杯陰鬱そうに溜息を吐いた。 「リュートさんに聞いたら一発だったよ。ここ」 言いながら、仕方無しに身を起こすウィルの左隣にソフィアは腰を下ろした。それから彼女はゆっくりと周囲の景色を見渡す。大陸屈指の景観を誇るヴァレンディ城において、その中でも随一の眺望を占有できる場所というのが、城中で最も高所に位置するこの場所――すなわち、天守最上階の屋根の上だった。 「いい眺め。……でもちょっと寒いね」 「冬だからね」 「風邪治ったばっかりなんだから、あったかくしなきゃだめだよ」 「そうだね」 勧めに生返事で答えると、ほんの一瞬彼女は唇を尖らせたが続けて何かを言うこともなく、視線を遠くの方へと向けたまま押し黙った。怒ったのだろうかと横目で彼女の顔をウィルは盗み見てみたが、見る限りはそういう訳でもないように感じられた。もっとも、彼女が本心では何を考えているかなど、それこそ神のみぞ知る、というようなものだが…… ――神―― ウィルは内心で首を振り、視線だけを彼女から外した。 彼は、どうして自分があの状況で助かることが出来たのか、知らない。 暗い階段と彼女の手のぬくもりと後ろから迫り来る水流の音。彼の意識はそこで一旦終わり、清潔なベッドの感触と高熱くしゃみ鼻水せき喉の痛みのフルコースから再開された。その間の出来事は、全く記憶していない。 否―― 知らない、ということもない。聞くことの出来る全ては、ソフィア本人に聞いたと言えば聞いた。いわく…… 「ああ、あのときね。とにかくもう逃げらんないと思ったからしょうがないんで素直に水の中に飲み込まれてやったわけなのよね。上の方にそのまま流してくれればそれでよし、もし万が一下の方に流されていっちゃったら、その時はその時って思って。……で、飲み込まれてみると、何か中では水流が変な具合になっちゃってたみたいで、下の方に流されて行くのよね。これはやばいなって思ったんだけど、一応そんなときの手も考えてあったわけ。覚えてる? あの部屋の入り口に扉があったでしょ。扉を通る瞬間なら、あたしのあれ、ええと空間転移って言うんだっけ? 別のところに行く奴が使えるから、その瞬間を見計らってえいっ! と。そーしたら何と出たところが謁見の間でさー。ほら、リュートさんと戦ったところね? 瓦礫で埋まってるのをがらがらと積み木のおもちゃでも崩すように破壊して出ていっちゃったわけ。丁度みんなその真ん前にいるしさー。まあそれでついでにノワールまでごろごろ転がり出てきちゃったんだから最高のラッキーだったと思うけど。いやーもうあの時のみんなの顔、特にディルト様とか? ウィルにも見せたかったなー」 ……実に簡単にやってのけたことのように、彼女はあっけらかんと笑って説明した。聞いて、どれだけ彼が自分を責めたか、彼女は知る由もないだろう。 彼女は微塵も見せなかった。 意識を失った仲間を抱えたまま、暗闇で一人取り残されて、自分らを飲み込む濁流を前にしていた瞬間の絶望は、どれほどだっただろう。 想像を絶する極限の状況の中で意識も理性も投げ出すことを許されず、最善の道を模索続けることはどれほど苦痛だっただろう。 どれだけ冷静であったとしても、ほぼ完全な暗闇の中あれだけの濁流に飲まれれば、自分がその時流れている場所はおろかその流れの方向すらも把握することは困難だったはずである。計り知れないほどの苦難の中、自分と仲間の生命を倍率の高い賭けに挑ませなければならなかった彼女の恐怖はどれほどだったことだろう。 そんな事も知らないまま、早々に意識を手放していた自分が心底情けなく、腹が立った。 「ねーウィル」 擦り寄るように顔を近づけてきたソフィアに目だけを向けると、彼女は少し驚いたような顔をして飛びのいた。 「ごめん、嫌だった?」 「えっ?」 言われて、自分の形相に気づく。 「いや違う全然違うこれは」 「だよね。いくらなんでもそうだよね」 心からほっとしたようにまなじりを下げて息をつき、僅かに開いてしまった距離を再度詰めてくる。 「そんな凄い顔してた?」 「ん。何て言うか憎しみあまってお釣が来るような……ルドルフに向けてた目、だった……」 ためらいがちに、囁くように告げる彼女に、ウィルは思わず苦笑した。 「君がたとえどんな人の道に外れたことをしたって、俺がそれほど君を憎むようなことは絶対にないよ」 「ウィルは……」 「ん?」 声をかけてしまって、逆にその所為で彼女の言葉を止めてしまったことに、ウィルは気がついた。なので、後を続けないソフィアに促しの言葉をかけることをせず待つと、数秒置いてから彼女は小さく首を傾げるようにしながら呟いた。 「ウィルはまだこないだのこと考えてたの?」 「そりゃあ、ねえ」 やや呆れたような声で言うソフィアに多少拍子抜けした気持ちになって、ウィルも肩を竦めて素直に認める。 「そんなシリアスに考え込む程のことじゃないのに」 「いや考え込むだろ普通」 「何で?」 「何でって君ね」 どう言ったものかとソフィアの方を見ると、彼女もまた覗き込むように彼の顔をじっと見ていたので思わず喉まで出かけていた言葉を彼はそこで見失ってしまった。 そんなウィルのちょっとした狼狽を見てだろうか。彼女はウィルを見据えたまま、紅を差しているわけでもないのに艶やかに赤い唇の端をひょいと引き上げて、思わず視線をそこから外せなくなるような笑顔を形作った。 「認めるわ。怖かった」 さらりとそんな事を言う彼女に、ウィルは単純に驚いて目を丸くする。 「怖かったよ。手とか震えたもん。でもここで何とかできないようじゃ駄目だなあって思ったから。死んじゃうからじゃなくて。……ああ、それももちろん重要だけど。ウィルを護るべきところで護れなきゃ意味ないじゃない、だから」 「ソフィア?」 彼女の、定番になりつつある解読の難しい文句を読み解くべく、ウィルはその名を呼びかけた。それに答えるかのごとく、ソフィアが堪えきれないとでも言うように、満面の笑みを零す。 「やっと対等になれた」 喜びと、誇りに満ちた声で告げる彼女をウィルは抱きしめようとして、彼女の側の腕が負傷した左であったことに気が付き、彼は身体を反転させて右の手で彼女の肩を引き寄せた。 何の抵抗もなく額を胸に押し当ててくる彼女の感触を味わってから、どちらからともなく視線を絡み合わせ、唇を合わせる。冷たくなった互いの唇に熱を呼び戻そうと深く交わらせるその合間に、ウィルは、このヴァレンディアで目を覚ましてからずっと考えていたことを、意を決して言葉にした。 「ソフィア」 「……ん?」 「今日の、夜。寝る直前の時間。一階の礼拝堂まで来て。大切な話があるから」 「え……?」 ウィルの声の緊張に気づいてか顔を上げようとしたソフィアの頭を押さえることでそれを押しとどめ、彼は彼女の華奢な身体を強く抱きしめた。心なしか、彼女の挙動にも動揺が現れているように感じられた。彼が何を言おうとしているのか、早くも悟られてしまったのかもしれない。 「あ、あの」 ウィルの服の胸元をきゅっと掴んで、小さくソフィアが呟く。 「その約束を護るためには……ね、ウィル、このまま今すぐ下に降りないと」 「え?」 唐突に言われたその言葉の真意は今日の発言で一番わかりにくく、ウィルもさすがに問いを返さずにはいられなかった。 「話……してる間にね、大神官様がウィルの怪我の診察の準備終わらせてるはずだから。今日の分の診察が終わらないと落ち着いて話も出来ないでしょ、だから」 「…………。」 寒風吹きすさぶ中、それでも暖まりかけていた空気が、微妙に冷えてゆく。 「それから逃げてたんだけどぉぉっ!?」 「あーうん知ってた。でもあとで話あるって聞いたらからには逃がせないし。ていうか最初から逃がす気はなかったけどね?」 ごめんね、というように眉を寄せた微笑みを見せられながら、手はどう考えても恋人というよりは罪人を捕らえる強さで掴まれて、ウィルはとりあえず、絶叫した。 几帳面に並べられた長椅子の合間を、岩間を伝う清水のように縫って、彼女はその一室の丁度中央にまでやってきた。そのまま視線だけを前方にゆっくりと辿らせる。通路の中央でもあるその場所からは彼女の視界を遮るものもなく、正面に鎮座する女神像の爪先までもが、祭壇や壁の燭台に掲げられた数十もの蝋燭の灯火に揺らめいているのが彼女の瞳に映った。 女神ミナーヴァは絵画や彫像に、常にたおやかな妙齢の女性の姿として描き出される。その似姿は名に違わず神々しいまでに美麗に仕上げられていたが、その技を成した古今の芸術家たちはどこまでそのあまりにも繊細な体躯のいずこに、何千何万もの人間の命を、運命を、死を司る程の力を収めるのかということを考えて造形していただろうか。 「かような夜更けに礼拝か?」 落とされた雫から広がる波紋のように、静寂の中を声はこだました。教師の声を伝えるのに適した音の反響しやすい作りの天井と夜のしじまを考慮に入れれば、至極当然の結果であったはずだったのだが、呼びかけられた彼女よりもよほど、呼びかけた男の方が己の声に驚いていた。それを表に出すことは、いつものようになかったが。 少女は振り向きもしない。肩を動かすことすらしなかった。 ただ女神像の光を目に灯したまま、背後の男の接近に応える。 「いいえ、待ち合わせです。大神官様」 朗々と、少女の声が聖歌のように響く。 「ウィルと?」 「ええ。……大神官様は、お祈りですか?」 「そのようなものだ」 会話を交わしながら、カイルタークは楽な姿勢で立ったまま目の前の女神像を見上げ続ける少女――ソフィアに一歩ずつ近づいていった。さながら、振り向かない彼女の背後を取るように、息すら潜めて静かに歩み寄る―― 意味のないことだ。彼はそう思わずにはいられなかったが、習性にも近いその足運びを止めることは出来なかった。そして今が、大神官としてでもこの少女の恋人の友人としてでもなく、本来の職務を全うするために自分がいるとしたなら。 喉元まで出かけた嘆息を飲み殺し、重くなった腕の筋に僅かに力を入れる。 カイルタークの手には、抜き身の短剣が一振り、下がっていた―― 「ウィルには何となく聞きそびれちゃったんですけど……」 ――不意に―― 声をかけられたようにカイルタークは感じたが、思ってみれば今の今迄会話を交わしていたのである。彼女にしてみれば単にその続きであろう気安さで発せられた声に、カイルタークの背筋は一瞬、緊張を感じて小さな気にも留めないほどの痛みを覚えた。 「ウィルの腕って、やっぱり治らないんですか?」 「言って……いないのか?」 顔を上げて、少女の小さな背中を見る。ソフィアは女神像に対し頷いて見せるような形で頭を振った。 「……大元の、ルドルフ・カーリアンから受けたという上腕の傷自体は、外科手術と魔術治癒を行いもうさほど問題はない。……問題なのは、ウィルの行った治癒魔術の方だ。本来の治癒の術式を知らなかったのだろうか、身体の組織を殺すことで鎮痛と止血を行っていたようだった。それの影響が左肩から先全てに渡っていて、言うなれば、左腕は全て死んでいるような状態だ。単純な外傷でない以上、これは治癒魔術でどうこうすることは難しい」 淡々と語る真実に、少女の肩は明らかに小さくなったようだった。取り乱したりすることはなかったが、彼女の落胆は分かり易かった。 少女のそんな後ろ姿に、彼は小さく吐息して、続けた。 「但し」 途端、ぴくりと猫が物音に反応するように彼女は顔を上げる。 「本当に死んでいるのならとうに腕ごと腐り落ちてなくなっているだろう。リハビリを続ければ、ある程度機能を回復することも出来るかも知れん。それを面倒がって、あの馬鹿は散々逃げているのだが」 「……あの馬鹿……」 ぼそりと、安堵が過ぎて憎しみすら混じった声でカイルタークの言葉を繰り返したソフィアに、意図せず彼の口元がほころんだ。――浮かんだ笑みは、すぐに消滅させねばならないものだったが。 (分かっている) 己を律する呪文のように胸の中で唱えて、短剣を握り直す。 しかしふとその時、カイルタークはそれまで何故か気づかなかったあることに、ようやく気づいていた。 彼女は、カイルタークとこれだけ会話をしながら、まだただの一度も振り向いてはいなかったのだ。 「……エルフィーナ・ローレンシア」 カイルタークは、厳粛にその名を口にした。己の名を呼ばれて、振り返るのではなく、耳を後方に傾けるように、ソフィアが顔を動かす。 「エルフィーナ・ローレンシアは、七年前に死亡していたという事実に変わりがないことを、ファビュラス教会は発表することを決定した」 少女は何も言わない。大神官は続けた。 「ローレンシア王国は後継者不在により一旦ファビュラス教会の統治下に置かれ、王政を解体されるか、国内の有力な貴族から新たなる後継者を選択することになるか、もしくは他王国に組み込まれるか。それは今後の会議で決定される」 「へー」 本来ならば全て自分のものになっていたかもしれないという自覚があるのかないのか、あまり興味のなさそうな相づちを彼女は打つ。まさか自分の立場が分かっていないというわけではないだろうが――彼女の興味は、今ここにある何かではないように、カイルタークには感じられた。 「それは、エルフィーナの力が危険なものだから? だから教会は、その秘密を隠蔽することにした?」 鋭角に切り込んでくる問い―― 唐突に、言葉の刃はカイルタークの至近にまで突きつけられていた。 彼女は思考よりも行動を先に起こすタイプではあるようだったが、決して愚鈍ではない。愚鈍ではないが、危険領域に踏み込む台詞を躊躇無しに口にする危うさは、行動の前に思考が立つウィルにはないものであった。それを浅慮と取るか彼女特有の利発さと取るかは場合次第になることだろう。 「……端的に言えばそうだ」 「それはその事実のみを? それとも存在ごと?」 剣の握りを掴む手に力が入るのを、カイルタークは自覚した。確信が持てた。彼女は、カイルタークの殺気に気づかず振り向かないわけではなく――全て気づきながら、最後の最後まで殺戮を開始する一歩手前で踏み止まっていられるように、あえて振り向かないでいるのだ。 振り向いたら、彼女は死を甘んじて受け入れることはしないだろう。 顔見知りと戦うことを望むわけではなくとも、自分を害するものに容赦はしないだろう。 彼女と戦えば―― カイルタークは想像する。 彼女と今ここで戦えば、負けることはないだろう。彼女の戦闘能力は十分驚嘆に値するが、戦場ではなく限定された空間内で、しかも得意の武器を自分だけが手にしているという現状況でならば、間違いなく凌駕できる。それは彼女の方とて分かっているはずである。分かっていながらも、彼女は牙を差し出して従順になろうという逃げ道に、自ら訣別するような態度を取っている。 (……本当に……) 軽く息を吐いて、腕から力を抜く。 (好戦的というか……たいした娘だ……) どっと疲れが降りかかってきたような感じのする肩を軽くほぐし、カイルタークは彼女に――そして祭壇の女神像に背を向けた。 「教会のなすべきことは、大陸と、そこに暮らす人々の安寧のために、平穏の基盤を形成すること。それは通常祈りにおいて。そして秘密裏に実力で以って。ルドルフ・カーリアンのような明らかな危険分子があれば排除も厭うことはないが……多少暴力的なだけの姫君一人を武力排除することはない」 言い残して、彼は真っ直ぐに引かれた絨毯を踏みしめて歩いていく。 「…………何か、今さり気にひっどい事言われたよーな気がするわ……」 彼女の小さなぼやきは、無論大神官の耳には届かないことになっていた。 礼拝堂の入り口の脇に人影があったということには、彼はさほど驚きを感じなかった。気づいていたわけではなかったが、彼女と待ち合わせをしていた当の本人がいつまで経っても姿を現さなかったのはやや不自然と感じていた。カイルタークの持つ剣にすら視線を落とさず、たまたま廊下ですれ違った相手に送る程度にしかすぎない注意深さで、ウィルは退室してきた彼を見た。 「ここからでは、私の初撃より先んじて動くことも叶わぬだろうに」 揶揄するようにカイルタークが言うと、ウィルはさも面倒くさそうに壁につけていた後頭部を上げて手で掻いた。 「ずっと注視してる俺よりも、後ろ向いてるソフィアの方がよっぽど反応速いからね」 「成る程」 笑い出してしまいそうな解答に、声を上げて笑うことだけは何とか堪えてカイルタークは頷く。ウィルが軽く舌打ちをしたが、それを無視する形でカイルタークは足を進めた。そこを遮るように、声が続けてくる。 「前に、皆の前でソフィアがエルフィーナだってこと、俺言ったことがあったはずだけど。それもなかったことに出来るわけ? 教会は?」 「出来る。……というより、もう出来ている。その場にいたもの全員にその日のうちに術をかけた。お前が、自分がヴァレンディア王であるなどという更に衝撃的な事実を語っていてくれたからな。意識をそちらに向かせるだけの簡単な催眠でよかった」 「あっそ」 「私からも尋ねる」 「何?」 警戒心からではなく、単に面倒そうに目を細め聞き返してきたウィルに、カイルタークは鋭い瞳を向けた。 「何故、お前は私に嘘を付いていた?」 「……嘘って?」 小さく唇を微笑みの形に曲げながら問い返すウィルに、カイルタークは更に瞳を厳しくする。 「とぼけるな。昔、子供だったお前をヴァレンディアで保護してすぐに聞いた時の事情と、後になって、この大陸解放軍でお前に聞いた事情は大きく異なっている。……主にエルフィーナの関連する部分だ。かつては、エルフィーナ姫はヴァレンディアに疎開し、聖王国侵攻の際の混乱で行方不明になったと聞いていた」 「合ってるじゃないか」 「それだけだと聞いていた。……だが、蓋を開いてみればどうだ。始まりも……そして終わりも。全て関係していたのは彼女ではないか。何故それを隠していた。場合によっては教会は、ヴァレンディア王の罪をも問わねばならんことになる」 鋭くウィルを睨めつけながら告げるカイルタークに、しかしその視線と正面から戦っていたウィルは、やがて白旗を上げるように手のひらを軽く振って見せた。 「それだけじゃないよ。ルドルフが昔、散々ローレンシアに恋文を送ってたのも教会は知らないだろう。色々報告してない情報はあるんだ。これに関することじゃなくったってね」 「何故」 「リュートの入れ知恵、かな? 教会と言えども、本当に大切なものを護るためには利用しても利用されるなってね。ここまで予見してたとなりゃたいした判断だ」 「……あいつは」 カイルタークは溜息を吐きながら腕を振り上げた。彼の手から離れ飛んできた何かを、ウィルは右手で受け止めると、その小ぶりな外見にそぐわない重量に思わず眉を寄せた。 今迄カイルタークが持っていた短剣だった。 「愛用の三振りのうち二振りもなくされたついでだ。それもくれてやる。代々の大神官が『仕事』に使ってきたいわく付きの品だ」 「怒られるぞ」 「このところの任務は失敗してばかりだからな。今更ネタが一つ増えたところでどうということもない」 「あんたさ、教会の意向無視してばっかでいいわけ?」 問い掛けるウィルに、カイルタークはじろりとした視線を向けた。 「お前に言われたくはない。……それに、クビにしたいと言うのなら喜んで辞めてやる」 それより、と、カイルタークは鼻先で、礼拝堂の中を指し示して見せる。 「いい加減、姫君が待ちかねて暴れ出すぞ」 「いけね」 どういう時間に待ち合わせていたのかはカイルタークは知らないが、彼女はもう既にかなりの時間、待っている。慌てて駆け出したウィルを、カイルタークは小さく笑って見送り――彼らを視界の外に出して、再び歩き始めた。 後ろから近づいてきた気配に、彼女が髪をたなびかせて振り返る。 数多の燭台の光に彩られて微笑む彼女はとても美しく見えた。彼女の後ろに立つ女神の像も、彼女の前では色褪せてしまったかのように思えた。 ずっと。 心の中に暖めていた、大切な言葉。 唯ひとり。君に伝えるためだけに生まれてきた言葉を。 今夜、贈る。 「ソフィア」 呼んで。それに答えるように見上げられる瞳に、笑顔を返してやらなくちゃいけなかったのに、そんな余裕すらなく、告げた。 「結婚しよう。俺は君と一緒がいい。一緒にいたい」 この時は、それで本当にいっぱいいっぱいで。 次の日に彼女がいなくなっていることなんて、頭の隅にも全然考えていなかった。 |