CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 13 #97

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 男は静かに佇んでいた。
 目の前の、別の青年の喉笛を掴み上げるかのように伸ばしていた手をゆっくりと放すと、支えを失った青年は前方にふらりと倒れ込んできた。それを、男は力強い腕で受け止める。呼吸すらも乱れがちな青年の耳元に口を近づけて、男は命じた。
「立っていろ」
 自力で立っているだけの余力も既になかったのであろう青年は、しかし、その命令に応え、男の手を放すと、ふらつく足で直立の姿勢を保とうと体勢を正した。
「ウィル……」
 青年の名を、自分の恋人の名を、ソフィアは呼びかけた。いつもなら、すぐに返ってくるはずの返答は、ない。やや俯き加減の彼の表情は、長めの前髪に隠れる形になり、よく見えなかった。
「さて」
 つい先程まで交戦していた敵に警戒心なく背を向けて、ルドルフはソフィアの方を見る。激しい戦闘により、髪は乱れ、上等な衣服にも修復が困難であろう血の染みや破れが目立っているが、それはこの男、ルドルフ・カーリアンの美貌をいささかも減じるものではなかった。氷と言うよりは冷血動物のような生温い冷たさを今のルドルフからは感じるが、しかしそれに対し幾ばくかの恐怖は感じれども醜悪さを覚えないのは、男性として非常に均整の取れたその容貌の所為かもしれなかった。
「お前たちの言葉を借りよう、エルフィーナ。勝負はついた。諦めろ」
 揶揄するでもなく、言う。戦闘を終了させるという意思表示なのか、ルドルフの右腕のダイアモンドの剣が唐突に、霧と化して、消えた。ソフィアが握り締めた槍を手放そうとしない事は、彼には関係ないようだった。生身に戻った右手で、緩やかに背後のウィルを示しながら、彼は微笑んでみせた。
「この男も、殺したりはせぬ。元より、死なすつもりもさほどあったわけではない。次なる暗黒魔導士の器として、これ以上ないほどふさわしいと前々から考えていた大切な人間だったのだからな。ここまで損傷させてしまったのも予定外だが……まあ、魔術能力には無関係なことだ」
「だからね。あたしたち二人だけをここに誘ったのは。他の皆がいれば……特に、リュートさんがいれば、あなたが何を狙っているのか、仕掛けるよりも先にばれてしまうかもしれないから」
 ソフィアが自分に対し口を開いたことが嬉しかったのか、ルドルフは、眉を上げて彼女の言葉に聞き入る。
「これだけ多対一の戦闘に向きそうな能力があるんだもの、普通なら、皆まとめて呼んで一度に始末した方が楽だって思うわよね」
「邪魔な人間を排し、大切なお前たちとじっくりと向き合いたかったのだと思ってはくれないのか?」
「気分が悪いわ」
 どう暴走するか予測のつきにくいこの男にこんな挑発的な台詞は、無駄に刺激する結果にしかならない恐れがあったが、ソフィアは率直に言葉を投げつける。だがルドルフは表面上は極めて冷静に、唇を片方だけ上げて皮肉げな表情を作るという反応を返した。
「手厳しい」
「どうするつもり?」
 続けて、ソフィアは問うた。
「どうする、とは?」
「それであなたはこれから何がしたいのかって聞いてるの。ウィルを暗黒魔導士なんて似合わないものに仕立て上げて、あたしのよく分かんない力を手に入れて。その力でどうしようって言うの? たった三人で、もう一回帝国を作る? あたし嫌よ、そんなあからさまに無謀なことに巻き込まれるの」
 その問いは、ソフィアは知る由もなかったが、奇しくもウィルが考えつづけていた内容と同じことだった。彼女もまた、一連の、皇帝の不可解な行動に少なからず疑問を覚えていた。
「帝国の再興か。それもまた面白い」
「出来るわけないでしょ」
「お前は自分の力を分かっていないからそう思うやも知れんが、あながち不可能なことでもない。リュート・サードニクスよりも強大な魔力を持つ暗黒魔導士もいることだしな。なるほど、その意見も考慮に入れておこう」
 暇つぶしに丁度よい玩具を見つけたような気楽な口振りに、ソフィアの困惑の度合いはいや増した。
「あなたは……何を考えているの?」
 理解出来なかった。この男にとっては、自国の存亡すらどうといった問題ではなかった。それでは、それそのものをかけて今迄戦ってきた自分たちは一体何だったというのだろう?
 いや、それよりも……
 これでは、かつてこの男が各国に対し侵略を始めた、この戦争のきっかけ自体に意味がなくなるではないか。
「こんなの、目茶苦茶じゃない! 大陸中、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、国はどうでもいいだなんて! 何なのよ、戦争の火種をばら撒くことの方が目的だったって言うの!?」
「まさか」
 感情を昂ぶらせ声を荒げるソフィアに、ルドルフはやや呆れた口調で冷静に返す。
「そんな退廃的な結果を望んでいたわけではない。終焉を望んでいたのは、リュート・サードニクスの方だ。我が望みは……生存と存続。この世界に、この大地に、在り続けること」
「矛盾してる! これだけの破壊行為を行ってきておいて、何を言うのよ!」
「矛盾はしていない。己を生かすために、不要なものを排除していったまでなのだから」
 ルドルフ・カーリアンはそこで言葉を切って、ゆっくりとソフィアの方に足を向けた。一歩、二歩。焦燥を感じさせる緩慢さで、歩み寄ってくる。ソフィアは、向かい来る彼に槍の穂先を突きつけたが、彼はそれで歩みを止める事はなく、穏やかな微笑を浮かべる。
「脅えるな。お前に危害を加えることなど、しない」
 優しく告げて――
 ルドルフの身体が虚空に融ける。
「っ!!」
 ソフィアは咄嗟に後ろに跳びながら、今の今迄自分がいた空間を槍で薙いだ。
 空間転移。空間も時間も全て無視して、一足飛びに別の場所へと移る魔術。そんな事が出来るなら、あの男の行く場所はここしかないと思った。彼の求める女神の傍ら。
 だが、ソフィアの槍はただ空気を斬ったのみだった。
(違った?)
 疑問を感じたその瞬間に。
 背中に、気配が触れる。
「後ろっ!?」
「挙動が素直すぎる。もう少し狡さを覚えてもいい」
 声を聞くよりも早く、ソフィアは身体を反転させ槍で視界に映った影を貫こうとした。……が実際には、身体を反転させる、という動作までしか彼女には実行する事が出来なかった。両の腕に力を込めても、槍が動かない。理由は単純だった。振り向いた先にいた男に、槍の先端に程近い柄を掴まれている。攻撃を阻まれたことよりも、ソフィアは、自分の両腕の腕力が、この男の片腕のそれに話にならないほど劣っているという証明に戦慄した。
 魔術に長けた敵相手にこの槍を手放すことは大きな痛手だった。その事実が彼女を逡巡させなかったわけではなかったが、どの道この状態では、槍を握り締めている意味はない。結果的に、ソフィアは一瞬の間すら置かず武器を手放して、利き手の指先で、躊躇無くルドルフの顔面を突いた。
「ほう」
 仰け反ったルドルフの瞼を、爪が掠める――
「遠慮のない攻撃だな」
 伸ばした腕を引き戻しながら、ソフィアは半歩踏み込んで、全体重を乗せた肘を、ルドルフのみぞおちめがけて撃ち込むが、これもまた彼は、後方へ大きく一歩下がり、躱す。
「的確に急所を突く、実践的かつ効果的な体術。素晴らしい。……ふむ、リュート・サードニクスと互角に近い戦いをする相手と、正面から組み合うのは得策ではないか」
 それは演技であったのかもしれないが、心から感じ入っているという口調で呟き、目をソフィアから逸らさないまま、ルドルフ・カーリアンは彼女の背後に向けて呼び声を上げた。
「暗黒魔導士よ、この者を封じよ!」
「……!」
 歯を噛み締めて、その隙間からソフィアは息を吐いた。ルドルフの声に追従して、微かな、ソフィアには意味の理解できない言語の調べが彼女を包み込む。
「ウィルっ!」
「束縛の鋼線よ」
 だから、その最後の一文句が、暗黒魔導士と呼ばれたウィルの口から唱えられた瞬間も、彼女にはそれがどのような効果を生む魔術であるかは理解することは出来ず、ただ、ウィルが伸ばした腕の直線上から逃れる以外に選択肢はなかった。
 姿勢を低くしたソフィアの頭上を、金の光で出来た何本もの糸が行き過ぎる。
 糸の先端は、ソフィアの上を過ぎてしばらく直進していたが、弧を描くように再び、彼女の方へと戻って来た。
「ウィルっ! 目を覚ましなさいっ!」
 無駄だとは知りつつも、ソフィアは叫ばずにはいられなかった。分かってはいた。仮に彼女が血を吐くほど呼びかけたところで、この魔術が解けることはないだろう。彼の師であり兄である男が、七年もの長い間囚われ続けていた魔術に、そんな奇跡を起こす余地があると信じるほど彼女は非現実的ではなかった。けれど、名を呼ぶのをやめることは、できなかった。叫びながら舞い戻ってきた光の糸から逃げて、冷たい床を走る。ちらりと視線を動かしてルドルフの方を見ると、彼は悠然と腕を組みつつ、逃げ惑う彼女を眺めていた。完全に傍観の姿勢だが、彼女の槍の存在を忘れてはいなかった。組んでいる手の片方に握られている魔術に対する切り札を見て、ソフィアは舌打ちしたくなった。
 伸びる糸。その速度は、ソフィアの走る速度よりもやや速い。
 ――後ろから、ソフィアの身体の両側に、光が差し込む。
 腕で、少女の身体を優しく抱かんとするかのように。
「いやぁっ!」
 その光は穏やかで、自分を害するものであるとはとても思えなかったが、ソフィアは悲鳴を上げていた。腕を、足を、強い力に縛められる。
 視界の外から、近づいてくる足音を感じてソフィアは顔をそちらに向けた。
「ウィル……」
 何度も呼んだその名を口にする。
 ソフィアの自由を奪う糸の一端を右手で握ったまま、ウィルは自分の方から彼女へと歩み寄ってきた。彼の唇から漏れる荒い呼吸がソフィアの耳に届く。やはり俯いているため彼の表情を伺うことは出来ないが、彼が本来は、魔術を使う余裕など既に残していないということは間違いなさそうだった。
「ウィル……っ! お願い、解いて! 目を覚ましてっ!」
「そう、呼んでやるな、エルフィーナよ」
 聞こえている様子すらないウィルに、必死に声を届かせようとするソフィアに向け、優しい声が投げかけられる。その優しさが余計彼女を苛立たせる結果になると、恐らくは気づいているのだろうが、ルドルフ・カーリアンはあくまでも気づかぬふりを装った。
 微笑の下の冷酷な気性が、ちらつく。
「別に、その男はお前の声が聞こえていないわけではない。聞こえていて、返事が出来ないだけだ。そう返事を求めては、酷というものだろう」
「なん……で……!」
「勘違いしてもらっては困る。我がそこまで制限を課したわけではない。応える意志さえあれば、今のその男にもお前の目を見、お前の名を呼ぶことは出来る。応えないのは、その男が応えたくないと思っているからだ」
「だから、どうしてよ! 分かっているんなら……っ」
「リュート・サードニクスも、暗黒魔導士として我が元にいる間、常に自我を保っていた」
 厳かな迄に静かな声に、ソフィアが思わず息を飲む。
 かつて見た、過去の情景――その中で語られた『暗黒魔導士』の術について、この男が口にした台詞を彼女は思い出していた。
「暗黒魔導士とは……意識と記憶をとどめたまま、強力な呪縛によって作り上げる人形。リュート・サードニクスを見れば分かったであろうが、それまでの記憶を失わせ別の意志を植え付けるものでも、ただ与えられた命令を機械的に実行するしかない木偶にするものでもない。ただひとつ、主の言葉に対する枷を課するだけのものだ。主がせよと言った言葉には必ず実行し、するなと言った言葉は何があってもできないようにする枷を。……自分の身体の一部といえども、心臓の鼓動を自身で制御することは出来んだろう? 暗黒魔導士にとって、主の命とはそういうものになる。いや、この場合そういうものでしかないと言った方がいいかな?」
「つまり……それは逆に、しろと言われなかったことならしないでいることも可能だし、するなと言われなかったことならば出来る、っていう訳ね。たとえ、それがあなたの意に反することでも」
「その通りだ。それは、元は命令の解釈機能に柔軟性を持たせるために構築したこの術の特性だったはずなのだがな」
「リュートさんはその僅かな自分の自由を利用して、ウィルをここまで招き寄せた……」
「そうなるな」
 殆ど、気にも留めない様子で、ルドルフはソフィアの言葉を全面的に肯定した。
「奴の挙動全てを縛ることも出来なくはなかった……が、ある程度自由に動けぬのならば、ただの木偶と変わらぬからな。それに、己が意志と行動との狭間で苦悩する姿を見るのも、中々に楽しめた」
 愉快そうに目を細めて、ルドルフ・カーリアンはウィルの姿を見た。
 全ての記憶。彼女に向ける気持ち。何もかもが変わらないまま。
 彼女の敵に回るしか出来ない、自分への苛立ち。自分への呪い。
 だから声を出せない。応えられない。助けを求めることさえ出来ない。助けを求めて手を伸ばした途端、その自分の手が彼女の喉を掻き切ると知っているから。
 暗黒魔導士の――呪い。
「ウィルを放してっ!」
「駄目だ。お前の願いと言えども、それだけは聞き入れられぬ」
「どうして!? あたしがいれば足りるんでしょう!? ウィルにこれ以上酷いことしないで……っ!」
「足りない。お前が……そうやってその男のためだけに、泣く間は」
 いつのまにか頬を伝っていた涙を指先で拭い取られ、ソフィアは赤面した。
 ウィルと出会ってから、本当に、涙腺が弱くなっている。子供の頃はともかくとして、今迄、これほど涙を流すことなどなかったはずだったのに。ウィルに逢えたことで、昔の、エルフィーナと呼ばれていた子供の頃に退行してしまったのかもしれない。
「暗黒魔導士よ。術を解け」
 ソフィアの両腕を掴みあげて、ルドルフが小さく命じると、ウィルは即座に魔術の縛めを消滅させた。腕を下ろしたウィルと向かい合わせにさせられる形で、ソフィアはルドルフに、背中から抱きすくめられる。
「何を……!?」
 ソフィアの抗議の声など知らぬ風で、ルドルフは、彼女の腕を口元に引き寄せ、二の腕に唇をつける。彼女の白い肌に赤く刻印されている傷口を、柔らかい舌が、つう、となぞる。
「やっ、やだっ! 何するの、やめてっ!」
 ソフィアは身を捩ったが、ルドルフの力は魔術の縛めと同じ位に強く、彼女の力ではびくともしない。丹念に、固まりかけた血痕を舐め落とそうと彼女の肌を男の舌が這う。
 言葉に出来ない感覚に、彼女は身を震わせた。
 自分は、何をされている? この男は、何をしようとしている?
 ソフィアの細い腕を上腕で押さえつけたままルドルフは、手のひらを彼女の上体に這わせる。そして、やがて辿り着いた彼女の胸の膨らみを、彼は強く掴んだ。
「痛っ……!」
 痛みが、意識の奥底に沈めておいた感触を呼び覚ます。唇に触れた、生ぬるい感触。ウィルと交わすことと同じはずなのに、彼が与えてくれるような満ち足りた気持ちなど微塵も感じなかった、この男との口付け。ウィルの目の前で行われた屈辱。
 ウィルの――目の前で。今のように。
「は、放して! いやだ、やめてぇっ!」
 喉の限りに叫ぶソフィアの耳元に、小馬鹿にした笑声が触れる。しかしそれは彼女に向けられたものではなかった。
「目を背けるな、暗黒魔導士。見るがいい。お前の愛しき娘の姿を」
 ウィルの背が、びくりと震える。
 声もなく、ソフィアは強く首を横に振った。見ないで欲しい。見ないで。見ないで。
 しかし彼女の願いよりも、呪いの魔力の方が強かった。ウィルが、ゆっくりと顔を上げ……
 目が合う。
 深い、ダークブラウンの瞳が、彼女の姿を映す。
 何の抵抗も出来ずに男に身体を弄ばれる自分が、彼の網膜に像を結ぶ。
 ……嫌だ……!
 手が震える。噛み合わせていたはずの奥歯がかちかちと音を立てる。感じるのは、嫌悪でも怒りでもなく、ただ、恐怖だった。ウィルにこんな姿を見られて――彼がどう感じるのか、考えるだけで恐い。彼は、他の男とキスをしても気にしないと言ってくれた――けれど……
「おっと……」
 膝に力を入れることが出来ず、その場に崩れ落ちるソフィアを、ルドルフが抱き留める。
「感じたのか?」
 嘲笑の声音が、度し難い侮蔑の言葉を生み出した。あまりの台詞に、目眩がする。心の中に湧き起こった殺意を眼差しに変えてソフィアはルドルフを睨み付けた、が、彼は小さく唇を曲げてなおも言った。
「そんな、蠱惑的な目で見るな。抑制が効かなくなる」
 喉の奥で鳴る笑い声。その響きが、許せない。殺してやる。その想いすら、届かない。
 冷静になって考えれば、それは実に単純な挑発の文句でしかないとすぐに分かったはずだったが、そんな事にすら気づけないほど、ソフィアの心はかき乱されていた。
 腕を強引に引き上げられ、折っていた膝を伸ばされる。
 元のように、固くソフィアの身体を縛め、ルドルフ・カーリアンは視線を、ウィルに固定する。
「さあ、暗黒魔導士。貴様に尋ねる。貴様は、この娘になされるどのような行為に、最も苦痛を感じるか? 答えよ」
 何……を――
 声も出せない。まばたきすら出来ない。凍てつく恐怖に囚われる。
 動くことの出来ないソフィアとは反対に、ウィルの唇が言葉を紡ごうと、震える。抗えない。
「彼女……を、傷つけられる……こと……」
「傷をつけねばいいのか?」
 ルドルフが、自分の求める答えに誘導する。
 ソフィアの、ぼろ布のようになったドレスの裾を手繰り寄せて――徐々にあらわになってゆく太股に視線と指先を落とす。
「我としても、エルフィーナを傷つけるのは本意ではない。他の手段があるのなら、告げるがいい。貴様が選択した手段で、貴様を深淵の底に落としてやろう……」
 ――狂っている――
 恋人に囁く声で、おぞましい呪いの言葉を叩き付ける。
 ウィルが肩をわななかせて、吐き出すように呻く。
「……彼女を……俺以外の、男に…………こと……」
「聞こえぬな」
 冷たく言い放たれてウィルの頬が何かを噛み締めるように動くが、彼に出来たのは命じられるままにその忌むべき言葉を繰り返す事のみだった。
「……俺以外の男に……」
 絞り出す囁きに皇帝は笑みを深くする。
 が――
 次の瞬間、ウィルの口から思いもよらぬ絶叫が迸った。
「俺以外の男に、渡してたまるか馬鹿野郎――!!」
 ――その慟哭が、ソフィアを覚醒させる。
 ルドルフにもそれは予想外だったのか、ソフィアに接触する筋肉が瞬時、収縮するのが感じて取れた。
 運命よりも逆らいがたい男の魔術に、ウィルは、牙を剥いた。
 それがどれだけ困難なことであったかは分からない。どれだけの苦痛であるのかは分からない。分からなかったが、ソフィアは今自分のすべきことだけは理解していた。彼の名を呼び続けること。
「ウィル、ウィルっ!」
 有り得ない反逆に直面した驚愕の所為だろうか。ルドルフが、ソフィアを掴む力は確かに緩んでいた。しかし振り払うにはまだそれは強すぎて、彼女はもがき続けた。
 彼を、連れ戻さないと。あたしが、連れ戻さないと!
 ウィルの足が、床を蹴る。――しかし彼が走り出した先は、皇帝の元ではなかった。
 彼の視線の先には――何もない。いや――
 カイルタークの短剣の一振りが床に転がっている。
「ウィルっ!?」
 ソフィアが叫ぶよりも早く、飛びつくようにウィルはそれを拾っていた。
 何の躊躇もなく、切っ先を自分の喉笛へと向ける。
「だめっ! ウィル――!」
 ソフィアが腕を伸ばす。
 ウィルが自分の喉元に短剣を突き出す。
 そして。
「勝手は許さぬ! 貴様を壊すのは、我だ……っ!」
 悲鳴にすら近い叫びをルドルフが上げる。
 ――三者の三様の行動は、完全に同時に行われた。



 ああ。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう……?



 渇いた記憶。
 どこまでも、渇いていた。幼年時代を回想しようという努力の結果は、常にそんな記憶だった。酷く渇いていて、常に飢えを感じていた。
 それは記憶に限りなく等しいイメージだった。生活は貧しかったわけでは決してない。皇位継承権が高いわけでもなく皇帝に疎ましがられるばかりの庶出の皇子とはいえ、皇家の血筋を引く男子には変わりなく、座する場所が王宮内で最も末の席であったとしても、平民の価値観と比較すればそれは十分に裕福な生活であったはずだった。
 それでも、満たされたと感じたことは一度としてなく、その希望が満足される日は永遠に来ないと知りながらも、常に満たされたいと願っていたというのは――
 単なる、子供の我が侭だったのだろうか。

 他の兄弟たちのような後ろ盾を持っていなかったことは、一つだけ利点をもたらした。この世で信じることが出来るのは自分の力のみだという真理に早くから気づくことが出来たことだった。時間も体力も全て、自分の能力を磨き上げるために費やした。寝る間を惜しんで学問を修め、武芸の鍛練を続け、十五を過ぎた頃には、皇帝の公務に付き従うことも多くなっていた。
 立場を軽んじられることは変わらなかったが、それは逆に自信に繋がった。生い立ちというマイナス面を差し引いても側に置くべきだと判断させる能力を自分は持っている。それを自覚してからは弛んだ豚どもの戯言など、気にもならなくなっていた。

 自分は、勝てる人間だ。
 力ある人間だ。
 いつか必ず――満たされる。

 まるで絵画のようだ。それが、その国の第一印象だった。
 世界の色がまるで違った。蒼いものだと知っていたはずの森も草原も、自分の思い描いていた色は紛い物であったのかと思う程純粋に蒼かった。果てしなく遠い空を渡る風には湿った土の匂いと花の香りが溢れて、むせ返った。気分は悪くなかった。ただ、単純に大らかな自然の気配に圧倒されただけなのだということには、少し後にならないと気づくことが出来なかった。
 祝福された大地。聖なる王国。
 初めて足を踏み入れた異国は、彼の、自分では完全だと思っていた知識を片端から塗り替えた。

 普段、したこともない散歩などをしようと思ったのも、それが、この場所だったから以外にはなかっただろう。重要な会議の行われているさなか、折りを見ては城内の庭を散策した。庭園という程手の加えられていない、極力自然の状態を保とうという意志の感じられる作りは、自国の流行とは対極に近い様式だったが、元々そういったものに敏感なたちではない彼には、逆にこの雑然としたと言ってもいい風景は心を落ち着かせるものになっていた。
 その日も彼は、木立の合間を縫って歩いていた。客人として招かれる自分の行動を縛る者はこの国にはいなかった。己の国にいる間よりもより自由を与えられているというのは何とも皮肉だったが、今は素直にその恩恵に預かることにした。誘惑には勝てなかった。己の故郷とは遠く離れたこの土地で吸う空気は、今迄知らなかったほどに清廉で、それでいて甘く彼を魅惑した。
 目を閉じる。静寂の中に、囁きが満ちている。それは普段願いもしないのに耳に入ってくるような欺瞞に汚れたけだものの鳴き声などではなく、意志も意図もない、風と葉と小枝が発する無声音だった。林中に澄み通る生命のざわめきは彼の耳から体内に入り、忘我の中に在る身体を内から圧迫し続けた。

 目を開けると、彼は自分の目の前に、自分の手のひらよりも大きな葉が何枚も落ちているのに気がついた。
 身を起こす。どうしても、この場で休みたい衝動に駆られ――こんな野外で乞食のように眠ろうなどと考えたことも、初めてのことだったが――、一抱えほどの太さの木の根本を借りていたのだ。髪に手櫛を通して軽く整えてから、その緑色に瞳の焦点を合わせる。寒冷な自国ではあまり見られない品種だが、この近辺では観葉植物としてよく栽培されているものだ。が、この周囲にはその木は植えられていない。
 拾い上げて、この不可思議な物体を眺めているうちに、足取り軽く下草を踏む音がその解答を抱きしめてやってきた。
「あ」
 大きな葉を胸に何枚か抱え込んで、自分を見上げていた男に幼い少女は声を上げた。

 それが――その出会いが――
 踏み外した階段の一段目、だったのかもしれない。

「おはなしごっこね」
 二言目は、この台詞だった。先程の、軽い驚きの様子は先の一言を放つ事で簡単に霧散させて、それが当然であるかのように、少女は彼の傍らに座る。
 生まれてこのかた、幼年者と接する機会が殆どなかった彼には、この少女の発言の真意が全く読めず、また、どのように相手をすればよいかも分からなかったので問い返す事も出来ずに顔を見たが、少女は注視されている事にすら気づかず、せっせと大きな葉を小さな手に集め、重なりを整えていた。
「何のお話がいい?」
「…………え?」
 彼は、自身の頭脳が明晰であると信じていた。いかなる問題をも己の知識と知恵によって解決できると確信していた。だがしかし、今まさにその事実に程近い自信が音を立てて瓦解していく場面に彼は直面していた。彼は、思わず問いを返していた。
「何だって……?」
「私が、お話を読むの。あなたは子供ね。お母さんがお話聞かせるから、寝るの」
「…………」
「じゃあねえ、『白うさぎと王子様』のお話。むかーしむかし……」
 やはり答える事が出来ずにいると、少女は一方的にそう言い切って、絵本に見立てているらしい葉に目を落とし、架空の文字を朗読しはじめた。

 ――どうして、自分はこの娘の言葉を聞いているのだろう。
 話す言葉の拙さの割に、物語は歌声のようによどみなく進んでいく。幾度も同じ物語を、恐らくは今の自分と同じように枕元で聞いてきたという事なのだろう。しかしだからと言って、子供の遊びに付き合う事が有意義であるというわけはない……
 ――だというのに、どうして、このまま、ずっとこの声を聞いていたいと思うのだろう。
 声はひどく優しくて、静かで、時に感情的で。白兎に導かれ、悪しき魔術士に攫われた王女を救出に行く王子の冒険譚を紡いでゆく。彼女が語る通りに、深い森を魔術士の塔を目指し一路進む青年の姿を脳裏に描きながら、考える。これは、子供ならば普通の事なのだろうか? 母親に、物語を聞かせてもらい、空想の翼を広げながら眠りに入る事は。城の敷地内とはいえ野外で寝入っていた男を捕まえて、遊びの相手にする事は。
 こんなにも穏やかな声で、目で、人を捕らえる事は。

 知らなければよかった。
 後に、彼はこの一時を後悔する事になる。
 知らなければよかった。
 どうせ、知ったところで手の届かぬものであるなら。
 人を満たす欠片の行方など知ることなく、ずっと冷たい海の底で、硬い殻で身を守っていればよかった。

 ローレンシア王女エルフィーナ。
 隣国の姫君の名は、顔を見てしばし記憶を辿ればすぐに思い当たった。
 それ以来、式典や宴席が催される度に、一人の少女の姿を目で探すようになっていた。幼い姫は、大きな式であっても招かれる事はそう多くはなかったが、それでも幾度かは、その姿を目にする事が出来た。
 いつでも笑っていて。たまに泣いて。
 少女の隣という定位置に立つ人間は決まっていた。幼いながらも一国の王たる身分を持つその人物は、本来なら、自分も仕事で来ているのだから、姫の世話をしている場合ではなかったのだろうが、それでも見るたび、約半々くらいの確率で傍にいるという事は、そこが彼のポジションだという事を誰もが認めているという事なのだろう。

 彼女の傍は、暖かそうだった。
 初めは、あの輪の中に混じって、笑い合ってみたいと思っただけだった。
 だが、移ろわぬ想いは凝り固まる。
 欲しかった。
 微笑みを向けられるその場所が。小さな手のぬくもりが。母のような声が。
 かの国には王家創設の神話があるという。かの国の祖は天から降嫁した女神であるのだと。
 女神を、手に入れたかった。

 毎日、山を一つ越えて、使者を向かわせるようになった。
 まだ幼い姫であったが、妃という名で手元に置いておきたかった。そうすれば、誰の手にも渡らず必ず手に入ると思った。自分を満たす、最後の欠片。
 城内で囁かれる下賎な噂など気にもならなかったが、提示した最良の条件にも頑として首を縦に振らない隣国の王には苛立ちばかりが募る日が続いた。

 欲しかったのは、本当にそれだけだった。

(……やめて……)

 いくら望んでも叶わない望みなど、無数にあるという事くらい、物心つく前から刻み込まれていたはずなのに。

(……やめて、もうやめて、見せないで……)

 手に入らない、ただそれだけの絶望が、魂を焦がす。
 壊れていく。
 もう生きることすら出来なかった。半身が欠けたままでは。手に入れなくては。
 他の全てを手に入れれば、本当に望むそれも、手に入る。
 妄想が、確信に変わる。

(もう、彼に見せないで……!)

 手に入れた全ての力は、この時のために。
 彼の能力を認めない者はもはやいなかった。あとはきっかけさえあれば、掌握できる。

 暗い一室に、充満する生々しい匂い。
「情けないお姿だ。……父上」
 実の父親であった肉塊を刺し貫いた剣を、男は抜き出した。
 鮮血が散り、最後の足掻きとばかりに、彼の頬を、濡らす。
「そうだ、あなたは他国と同盟関係を築きつつも、その背後では貪欲に、国土の拡大を狙っていましたね。私という存在をこの世に生み出してくれた礼と、死地への餞に、まずはあなたの望みを叶える事にしましょうか」

 あの出会いを後悔したのはこの瞬間だった。
 後にも先にもこの瞬間、ただ一度きりだった。
 自分を縛り付けていた父や臣下、全てに憎しみを。
 御する事の出来なかった自分自身に憤怒という名の憎しみを。
 欲しかった場所を何の苦労もせず得ていた少年に羨望という名の憎しみを。
 ぬくもりを教え、同時に孤独をも教えた少女に愛という名の憎しみを。
 己の感情を一度だけ悔やみ、憎悪だけを心に残す。

「先ずは、ローレンシアだ」



「……満足か? エルフィーナ」
 ルドルフ・カーリアンの声が聞こえて――ソフィアはようやく、元の場所に意識が戻ってきた事に気づいた。
 実際の時間の経過は数秒と言ったところだったのだろう。瞬間の、意識の交錯だった。どうしてこのような事が起きたのだかはソフィアには分からなかったが、そもそも彼女には、魔術と超常現象の区別さえよくわからないのだから、その思案自体が無駄であるとも言えなくはなかった。
 過去。彼女にしてみればごく普通の、この男にしてみれば全てを物語る、接点。
 ウィルに伸ばしていた手を収めて、彼女は背中を丸めて膝をつくルドルフを見下ろした。彼女の手には、銀の刃が握られていた。先程まで、ウィルが握り締めていた短剣だった。気がついた時には既に、彼女はそれを握っていた。彼に近づいてもいないはずなのにどうやったのかは分からないが、確かに自分がウィルからそれを奪ったという事だけは分かっている。ウィルも、ルドルフと同じような体勢でひざまずいていて、意識があるのかないのかすら分からなかった。数秒短剣を見下ろしてから彼女は視線をルドルフに戻したが、ルドルフの方はまだそちらに関心を抱いているようだった。彼はすぐに、彼女の注意が自分に戻ってきた事に気づいて、唇を僅かに歪めるだけの苦笑を見せた。
「何をした、などとは今更聞かぬよ。女神の魔術を用いれば、その程度、奇跡にもならぬ。……今の、過去の幻影すらもな」
 その声はけれん味のない、実に愉快そうなものだった。彼が何に満足しているのかを知ることは彼女には出来なかったが、彼女が目を細めたのは、それに対する疑問の為ではなかった。
「あれは、あたしが見たいって思ったから、見えたって言うの?」
「それ以外になかろう? 我がお前に見せたところで、我が利になるものでもあるまいに」
 からかうように、笑いながら答えは返ってくる。
「もっとも、優しいお前にならば、抗いの手を封じるいい手段になったかも知れんがな。……ああ。誤解をせんように教えておいてやる。我を動かしていた全ては憎悪。親愛や羨望は、確かに初めのきっかけではあったが、最早過去の話。お前を含め、全てを憎んでいるからこそ、こうなった。なあ、暗黒魔導士?」
 皇帝の呼びかけに、とても動ける様子ではなかった様に見えたウィルが、立ち上がる。
「貴様はひときわ憎かったよ、ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ。何の努力もせずに得るものだけは得ている人間というものの価値は、犬畜生に並ぶ。……それを人は羨望と呼ぶのだろうがな」
 ――来れ――
 囁くようにルドルフが告げると、ウィルはその命に従い、ゆっくりと足を進めてくる。ルドルフは、全くの無傷というわけではなかったが、ウィルのように生命に支障があるほどの傷を負っているわけでもなかった。そして、己の過去を目の当たりにしても、先程と全く同じように術を操る。
 ルドルフ・カーリアン……
 その名を、唇に乗せかけて、ソフィアはふと、先程までと一つだけ違う点に気がついた。思わず、言葉を飲み込む。
 皇帝の元に向かうウィルは、顔を伏せてはいなかった。
「愛情を騙ってエルフィーナの力を使い、当初の目的であった『全て』とやらを手に入れてみようと考えていたが……肝心の小細工が明かされてしまってはそれもこれまで。この期に及び新たに策を弄するのも、無粋というものだろう」
 ソフィアのすぐ傍を抜け、まっすぐに正面を見ながら皇帝の元に辿り着いた暗黒魔導士は、主の目前で身体を反転させ、彼女と対峙する。
「我が持ちうるこの最大の武器、暗黒魔導士で、お前に挑もう。……ソフィア・アリエス」
 足を軽く開き、片腕のみで戦闘態勢を作る暗黒魔導士に向かって、ソフィアは短剣ひとつを手に、走り出した。

「そうだ、戦うがいい! 滅びを甘んじて受けたくなければ!」
 皇帝の哄笑が、冷たい石の空間に、満ちる。高らかな声を聞きながら、ソフィアは短剣を両手で保持し、ウィルとの距離を狭めていく。
 ふと、この場所が研究所という名目であったということを、ソフィアは思い出した。
 何を研究していたというのだろう?
 この光輝に満つる石櫃は、何のために作られていたのだろう。

 右腕を前にした半身の構えの中に、彼女は飛び込んだ。
「その身体で、あたしと格闘でやりあおうっての? なめんじゃないわよ」
 ソフィアの脇腹に向け繰り出されてきたウィルの手刀を、腕で防護しながら彼女は笑う。
 殴り掛かるように振るった短剣を、ウィルは動作にはさほどの苦も見せず、躱す。
「終幕だ、暗黒魔導士! 全て、終わらせよ!」
 哄笑は続く。
 その声に応じて、ウィルは鋭く腕を突き出してくる。
 それが、答えだった。

 ――ねえ。
 頭のいいあなたのことだから、分かってやってることだと思うけど――

 伸ばされたウィルの手を短剣で串刺しにしたように一瞬は見えたかもしれない。
 だが、実際には彼の手は刃に貫かれることは無く、その代わりに前の瞬間までソフィアの手にあったそれは、次の瞬間には彼の手の内に移っていた。
 そのまま、大きく一歩分下がりながら、ウィルは上体を捻る。

 ――あなたに比べればあたしは馬鹿だけど。
 あなたのやってることの矛盾に気づかないほどではないわよ、ルドルフ。

 ウィルの腕の先の剣が、ルドルフ・カーリアンの胸に埋まる。



 口を開いた瞬間。皇帝の薄い唇からは大量の鮮血が逆流してきていた。
 聖戦という名の戦いが、今まさに終わりを迎えようとしていた。
 一人の男の命の灯火とともに。
「馬鹿。一突きで殺ってやんなさいよ、せめて」
「そんなこと言ったって」
 距離もあったし振り向きざまに急所って難しいだろ、などと言い訳をしてくるウィルを尻目に、ソフィアは仰向けに倒れたルドルフの傍へと寄った。顔を横に向けて、口内の液体を流してやる。今更こういう事を気にかけるのも何だが、窒息死は苦しいだろう。
「……解けていた……か……暗黒魔導士……の……」
「さあ、な」
 切れ切れの男の声に、ウィルは曖昧に返答する。
「解けていてもいなくても、結果は同じだったんじゃないか?」
 ウィルがそう言った瞬間、ルドルフはまた少し血を吐いた。笑ったのかもしれない。
 皇帝は終わらせることを願った。暗黒魔導士はその願いを叶え、終わらせた。
 確かにそう、取れなくもなかった。
 しばし、沈黙の中に細い呼吸音だけが響いてから、再度――恐らく最後になるであろう動きを、ルドルフ・カーリアンは見せた。
「……なら、ば、暗黒魔導士よ……今一度、命を下す……」
 黙ったまま、ウィルはその姿――暗黒魔導士の主の最期を、見つめていた。
「エルフィーナと共に去れ。今すぐに、二人とも我が前から消えよ。永遠に」
 最後の命令――
 それを耳に入れて、ウィルは事務的に呟いた。
「……仰せのままに」
「ウィル」
 応え、腕を掴んだウィルが手を引くのに抗ってソフィアは彼の名を呼んだ。
「あたし、もう少しだけ、ここにいたい……」
「駄目だ」
「お願い、少しだけでいいの。ルドルフは」
「駄目だ!」
 懇願にも強く拒絶の返事を返され、ソフィアは瞬時口をつぐむ。苦い表情で彼女を引き寄せるウィルの腕を、ソフィアは振り払った。
「あんなこと言ってるけど、ルドルフは、最期までここにいて欲しいに決まってるもの! こんな寂しがりに、一人でいることが耐えられるわけないでしょ!? こうなってまで意地の悪いことしなくたっていいじゃない!」
「そういうんじゃないんだよ! 手間かけさせるな!」
 ウィルが苛々と叫ぶのと時を同じくして、ルドルフが弱々しく咳き込む。
「ルドルフ……っ!」
 しかしウィルは、ルドルフ・カーリアンの手を取ろうとするソフィアの邪魔をあくまでもした。肩を掴んで引き寄せて、体勢を崩したところを抱き込む。しかし、彼女の女性としても軽い部類に入る体重すらも支えきれずに、彼はソフィアもろとも床に倒れ込んだ。
「ウィルっ!?」
 さすがにこの時はウィルもまたかなりの重傷を負っていたことを思い出し、ソフィアは彼の方へと顔を向けた。が、彼は軽く頭を振って、即座に怒鳴る。
「いいから、行くぞ! あいつの努力を無駄にするなっ!」
 立ち上がろうと、ウィルが右手を床に突き立てると、床の水溜まりから氷のように冷たい水が跳ね上がり、二人の顔を濡らした。
「……水……?」
 呟いて、見下ろす――今の今迄こんな場所に水溜まりなど存在しなかった。気がついて周囲を見回すと、いつのまにか、同じような水溜まりが周囲の床に無数に存在しているのが見えた。
「だから、言ってるんだ」
 ウィルが呻きながら、立ち上がる。その足取りはおぼつかないが、ソフィアの手を強く握り締め、一歩たりとも休むことなく、最初に下ってきた階段の方へと向かっている。
「ダイアモンドを変形させる魔術。攻撃を見てるときから気がついてはいた。この石の本来の形は液体で、ルドルフの魔力で固形を保ってたんだ。だから、あんなに自由な形に変化させることが出来てた」
「液体の、ダイアモンド……?」
 ソフィアが繰り返すと、ウィルは小さく頷いた。彼女の常識では信じられないことだが――というより、それは魔術士たちの常識にもない物質だったのだが――、徐々に染み出すように、或いは溶けるようにその面積を増してゆく水溜まりを見ていれば、それが嘘ではないということは疑う余地はなかった。それに、この部屋へ入る前、長い階段を下っていたときに、彼女は確かに、この部屋から流れ出てくる風に湿り気を感じた。その割にはこの部屋には水気がなかったので、気の所為だったのかとも思っていたのだが、そうではなかったらしい。
 ……ルドルフの、そしてウィルの告げた言葉の真意をようやく察して、涙が出そうになった。
 つまりは、ルドルフが力を失えば、その瞬間に、液状と化した床や壁材の中に、この地下室は水没する――
 だからこそ、ルドルフは自分の命が尽きる前に、自分の意志とは真逆の台詞を使ってまで彼女らを脱出させようとしたのだ。
「ソフィア」
 ウィルが、彼女の名を呼んだ。それは、先程までとは打って変わって、とても優しい声だった。
「ソフィア。走れ。いくらなんでも、その階段全部……いや、半分でも上り切っちゃえば、大丈夫だから」
「馬鹿言わないで。ウィルも来るのよ」
「いやー……俺、多分怪我してなくてもあの階段駆け上がるのは無理かなーと……」
「つべこべ言わない! 走った方がいいなら走るわよ!」
 それまでウィルに引かれていた手を逆に引く形で、ソフィアは前に出た。ウィルが後ろで絞め殺されるかのような悲鳴を上げるがそれは無視する。
「悲鳴でも文句でも、後で好きなだけ言いなさい! ほら気合入れて走るっ!」
 ルドルフ。
 冷たい水浸しの床で一人、暗い眠りを待つ彼のことは、痛いほどに気になった。
 けれども、彼女は振り向かなかった。
(……さよなら、ルドルフ)
 ――爆発音――
 鼓膜に与えられた振動は、それに似ていた。
 もっと近い音を上げるなら、洪水で堤防が決壊する音だろうか。彼女に、それを聞いた経験があったわけではなかったが、多分そうなのだろうとは、思う。
「ソフィア」
 雪崩のように鳴り渡る轟音と、喘ぎとのはざまで、ウィルが吐息に彼女の名を織り交ぜる。
「後で聞くわ」
 盤石の地下室を、輝石の渦が揺るがす。ウィルに比べればたいした怪我や疲労などないソフィアでさえも、走るのが困難なほどに石段は鳴動した。揺れに一度ならず足を取られるが、歯を食いしばって体勢を立て直す。ウィルの手を、強く掴んだ。あれだけ護られるだけなのは嫌だと言ったのに、人の気も知らないで平気で命を投げ出そうとするこの連続式阿呆のことだ。少しでも気を抜いたら、またこの手を振り払いかねない。
 ウィルの言葉をソフィアは拒否したが、ウィルは笑ってその拒否を拒否して、続けてくる。
「……ソフィア。ありがとう」
「柄にもないこと言わないでよ」
「君じゃあるまいし、お礼の言葉くらい言うよ俺は」
「……どーいう意味よ……」
 階段の先を見据えたまま、ソフィアは頬を膨らます。元より薄暗く、恐ろしく長い階段は、どれだけ目を凝らしても彼女の目に終着点を見せてくれることはなかった。
 二人の背後から、その姿を追いすがって駆け上ってくる濁流。それが自分たちを飲み込むのが一秒後なのか一分後なのかは分からなかったが、それでも、この階段の半分を二人が上り切るよりも先に、冷たいダイアモンドの洪水がその地点を通過するであろう事は疑う余地もなかった。
「で、何がありがとうなのよ」
 こんな時、すべきではないと思いながらも、ついそんな事を聞き返したのは――
 ただ、彼の声を聞いていたかったからだった。
「俺を置いて行かないでくれて」
 その言葉が彼の口から出たのは、少し意外だった。彼だったら、逃げなかったことを怒るかもしれないと思っていた。
 ソフィアのそんな思考がウィルに伝わったというわけではなかっただろうが、おそらく想像はついてしまったのだろう。くすりと小さく笑う声が聞こえた。
「君を護りたいのは本当の気持ちだけど……逃げてくれた方が絶対によかったんだろうけど……君が行っちゃってたら、俺、泣いてたかも」
「…………!」
 ――もう、どうしてこの人は、こんな時にそんな台詞を言うんだろう。
 前を向いたままの瞳に、また、水分の膜が張ってゆく。
 鳴咽しそうになる喉元に力を入れて、震えのない声を努力して生み出す。
「たまにはウィルも泣いてよ。あたしばっかり泣いてて凄い恥ずかしいんだから」
「泣き顔も可愛いよ」
「……いや……だからってそんな百万倍恥ずかしい台詞吐かれても困るんだけどさ……」
 呟いた瞬間。
 唐突に、後方に強く引かれて、ソフィアは一段、階段を踏み外した。
「ウィルっ?」
 握ったままの手に呼びかける。階段に崩れ落ちるようにして、彼は倒れていた。……死んではいない。気絶しているだけだ。だけだが……
 地底から流れ来る、凍てつく程の冷たさが、ソフィアの全身を撫でる。ウィルは決して大柄ではないが、気絶した大の男を担いで階段を上るような体力は、万全の状態でも彼女にはない。
 目を閉じて、大きく息を吸って。迫りくる抗うことのかなわないうねりを、ソフィアは不敵に笑って、見据えた。
「大丈夫だから。女神がついてるのよ。大丈夫じゃないわけなんか、絶対にないから。安心して寝てなさい」
 闇の中に沈む黒々とした激流に飲まれる刹那。
 彼の身体を抱きしめて祈っていたのは、もう二度と、彼と離れ離れにならないように。
 それだけだった。


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