CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 13 #96 |
逃げることしか出来ないのは、嫌だった。 護られていることしか出来ないのは、嫌だった。 彼を傷つけることしか出来ない自分が大嫌いだった。 浮かんでくる想いは冷たくて。頬を濡らす涙を凍てつかせていく。 切創のような頬の痛みに、自分が泣いていることを自覚する。 震えるような音が、絶え間なく続いていた。 歌声のようだと、ソフィアは思った。 それが攻撃の応酬がなす音であると、彼女はしばらくの間気づくことが出来なかった。彼女の聞き慣れる剣戟の音とは、その音はあまりにも質を違えていた。ルドルフの腕に同化した澄んだ石の剣と、ウィルの光り輝く盾とが衝突する、鉄琴の音のような鮮やかな響き。そして、ウィルの繰り出す光の珠が、ルドルフが剣を一降りして生み出した虹色の粒子の中に溶ける、森を駆る風のような静かなる囁き。何人たりとも触れることの叶わぬ気高く尊き旋律。輝きと女神の歌に包まれて、二人は幾度も互いの武器を合わせる。 これほど美しい戦闘を、未だかつて人は見たことがあっただろうか。もしこれが遠大な叙事詩の一部であるとするならば、これは血生臭い戦の一場面よりも、巧みな二人の踊り手が、音と光が競演する舞台で舞踊を女神へ奉納するシーンに似つかわしかった。 飲まれてしまいそうだった。圧倒的な波に。 あまりにも現実感のない現実に、意識を全て攫われて。 自分が、何に涙しているかすら知りもしないで。 「くそ、粘りやがるなこのオヤジは」 ウィルの呟きに、ルドルフ・カーリアンは一瞬、未知の言語を聞いたかのように眉をしかめ、その後、小さく苦笑した。 「よく粘るとはこちらの台詞。苦しかろうに。このまま、休んでおればよいものを」 「オヤジって所でなくそっちを突っ込むとは殊勝な心がけだ。自覚があるってのはいいことだ」 「戯れ言を」 輝きの中で交わされていた会話は、美しさとは無縁の内容だった。 唇から言葉を滑り落とし、ルドルフは腕で前方の空間を引き裂く。切っ先がウィルに届くような至近距離ではなかったが――その剣閃により生まれ出でた微細な粒子が拡散し、襲い来るのを止められるほどの遠距離でもない。 何度か自分の魔術をこの物質で止めて見せられて、ウィルはこれをブランの、もといソフィアの槍と同じ、魔力を無効化する術だと判断していた。刹那の間、迷う。防御障壁を破られる可能性を考えたのだ。 だが反応に遅れはなく、すぐさまウィルは後方に飛び退っていた。距離を保てば仮に障壁を破壊されても、再度作り直す時間が稼げる。 新たな障壁の術式を編み上げながら、視界を保つ為透明度の高い盾を眼前にかざしてやり過ごす―― 「…………っ!?」 声なき悲鳴をウィルが上げたのは、その直後だった。 粒子の中に飲まれて。その光の粒に肌を切り裂かれたのだとウィルはその瞬間は思った。全身の痛点という痛点を針で突つかれたような、一つ一つは我慢しきれないものではないながらも十分に強烈な痛みが襲う。 だが、切り裂かれた、というわけではないことに、彼はすぐに気がついた。 (……魔力の無効化じゃなかったのか!) 身体に付着した霜の刺すような冷たさを感じつつ、ウィルは理解した。ルドルフ・カーリアンのこの術は、魔術を無効化するものではなかった。答えはそれよりももっと単純だったものを、深読みしすぎてしまっていた。攻撃に強力な冷気を当てて、魔術に込められた熱量を奪い去っていただけだったのだ。 集中力が殺がれ、手の中の盾も、描きかけていた術式も同時に薄れ行く。 ルドルフ・カーリアンはウィルの目前で剣を振りかぶった。 ――既視感。 『その時』の彼女が、そんな単語を知っていたわけではない。 ただ単純な疑問符を頭に浮かべて、幼い少女は空を振り仰いだ。 全てが見上げる所にある世界は広い。彼女には、降り注いでくるものを短い腕を伸ばして受け止めるので精一杯だったが、それを受け止める為に彼女は空に向かって、両の腕を掲げた。 青のキャンバスに、小さな白い手が二つ描き出される。 その両手に、上から別の手が、手のひらを合わせるように被さった。 その、少女のものよりも大きな手の持ち主の顔は、彼女には見えなかった。けれど、笑っているのが見えた。見えなかったのだけれど、見えた。嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに。 少女は、一心に優しい愛情を降り注いでくれる彼が大好きだった。 だから、強くなりたかった。 彼が愛してくれる自分を誇れるように。 ――触れられた手のひらは、片方だけが冷たくて。 彼女は思わず手を引いた。 怖かった。悲しかった。辛かった。痛かった。 手を引いてから、しまった、と思った。彼を余計悲しませてしまう。 けれど、彼の微笑みは変わらなくて。 彼を傷つけても、変わらなくて。 高々と掲げられた皇帝の剣の切っ先が、ウィル目掛けて振り下ろされる。 ウィルは回避行動を起こさず、敵を睨み付けたまま攻撃魔術の術式を纏め上げていた。 防御は間に合わない。だから、剣が自分の身体に食い込み、その動きを止めた一瞬に、それ以上の打撃を見舞う。いくら消耗しているとはいえ、至近距離から魔術を撃ち込めば、確実なダメージを与えられるだろう。目の前の敵を倒すための手段を選ぶ必要もない。 鋭利な輝ける刃とウィルの腕とが交錯する、瞬間―― 微かな、全神経を相手に傾けていなければ知覚できないほどの音に続いて、唐突に皇帝の剣がぶれる。 「……っ!?」 微かに動揺の気配を表に出したルドルフに、ウィルは機を得たと感じたが、判断の後の動作は僅かに、皇帝の次の挙動に遅れていた。自分の攻撃が何かに阻害されたことを知ったと同時に、皇帝は身を翻し、ウィルの攻撃を避けうるだけの距離を取った。目前の敵から目を離し、ある方向のみに彼は意識を向けていた。 「……エルフィーナ……っ」 右腕の、剣と同化していない生身の上腕を左手で押さえ、押し殺したような呻きで、ルドルフは少女の名を口に上らせた。左手の指の間からは、生々しい鮮血が溢れ出てきている。 ルドルフの声に呼応して、ウィルも少女に視線を向けた。――元より、この室内には彼ら三人しかいなかったのだから、横から何かを仕掛けてくるのであれば、彼女以外の仕業である訳がなかった。 今は多少距離を置き対峙する二人を頂点にする、正三角形を描く位置にソフィアは立っていた。手の中に、いくつか小石のようなもの――砕けたダイアモンドのかけらを握り締めている。この砕片をつぶてにしていたのだ。行為自体は子供の喧嘩だが、人間の皮膚と筋肉を、あれだけの出血を引き起こす深さで切り裂けるものであるとなれば、それは立派な武器である。 「……ソフィア」 呟いて、ウィルは彼女の顔を見た。瞳を涙で潤ませて、唇を引き結んで。堪えきれない鳴咽で小さな肩を、全身を震わせている。かつては、呆れるほどに見慣れていた彼女が目の前にはいた。 「泣いてるの?」 無意識のうちに口を衝いて出た自分の言葉に、驚きと同時に懐かしさを覚える。現在自分が置かれている状況も忘れ、ウィルはいとおしむように呼びかけた。 「ソフィア」 「……許さないから」 ちょうど呼び掛けに対する返事のようなタイミングでソフィアは口を開いた。しかし、返事というにはあまり噛み合っていない、そしてそれ以上に場にそぐわない台詞に、ウィルは少女を凝視する。 「許さないから。そうやって無茶ばっかりやって傷ついて。とうとうそんな取り返しのつかない怪我までして。ウィルが怪我するたびあたしがどれだけ困ってるか考えたことある? 庇ってもらってばっかりなのって、すっごく嫌なんだからね! わかってるのっ!?」 「……え?」 「だって言うのに何よ、もうちょっと手段選んだらどうなの!? 自分一人で戦ってるつもり? 自分が負けたら後がないとか思ってるわけ!?」 ウィルが問い返しても、ソフィアはかまわず言葉を続ける。涙をぽろぽろと零しながら、かんしゃくを起こした子供のように噛み付いてくる彼女が、つまり何を言いたがっているのかもわからないままウィルはただその様子に目を奪われていた。拭うこともされずに彼女の頬に彩りを添える雫は、彼女の幼さを際立たせながらも、反面、えも言われぬ色香をも醸し出していた。 「あたしは、ウィルに護ってもらわなきゃいけないほど弱くない! 一緒に戦うこともできない、お姫様なんかじゃない!」 ――理解は唐突だった。 喉元に詰まっていた食べ物がすとんと胃に落ちるかのように、呆気なくウィルは納得して、苦笑した。彼女が怒っている理由。彼女が泣く理由。 大切なエルフィーナ。自分の身体を傷つけても、彼は、彼女を護りたかった。彼女さえいれば、自分すらも必要ではなかった。 だけどそれは、彼女の望みの対極にあることで。 それは多分、子供の頃――あの時からずっと続いている想い。 自分の為に戦い、人が傷つくことに我慢できるほど、彼女は冷酷ではないから。 無条件に許されることに痛みを感じない程、彼女の誇りは安いものではないから。 彼女の望みは、どんなことよりもシンプルで一番我が侭なこと。 一緒に、戦うこと。 「……だったら、そんな危なっかしいもの、こっちに向かって投げるなよな。ちゃんと見えてないだろ」 瞳一杯に涙を溜める彼女に、ウィルはからかいの声を投げかける。と、ソフィアはふいと彼から顔を逸らして、腕で乱暴に目元を拭った。 「当てないわよ」 すっと、腕を下ろす。涙の跡が残る頬に、しかし、泣き顔の余韻は既にない。 「当てるわけないじゃない。あたしを誰だと思ってるのよ」 「……いい答えだ」 苦笑に似た微かな笑みは、生涯で唯一のパートナーに捧げる最大級の賛辞。 何を思い違いをしていたんだろう。 彼女は、こんなにも強いのに。 彼女を傷つけたくない、その想いは変わらないけれど。 傷を受けるのなら、共に。 彼女がそう思うなら、多分それが、一番正しい。 ソフィアの集中力が、空間に一本の線を引く。刃のような鋭い意識が、やや顔を俯かせ立ち尽くす皇帝へと向けられる。ウィルも、彼女に従うようにそちらへと視線を戻した。 「エルフィーナ……」 俯いたままの皇帝の唇が、その名を形作り、大気によどみを作り出す。 皇帝は、動かなかった。 ただ、低く、鋭い吠え声のみを上げていた。 「エルフィーナ……エルフィーナ、エルフィーナァ……ッ!」 地鳴りのように深く、大気を揺るがす。 ルドルフを見ていたソフィアが、思わずびくりと身体を跳ねさせる。 異様な、儀式のようだった。呪文のように、目に見えない力が纏わりつく呼び声を上げるそのさまは、凄絶ですらあった。明らかに、それまでのルドルフとは違っている。 いや。 (こっちが、本性だ) 冷徹な仮面の隙間から垣間見えていた、狂える獅子の気性。 ルドルフ・カーリアンは繕うことを止めた。 がくんっ! 何の前触れもなく、唐突に床が振動する。ルドルフ・カーリアンの周囲の床がせり上がり、何本もの錐を形作る。 舌打ちして、ウィルはすぐさま後退した。瞬間、ウィルが一秒前までいた場所を、ダイアモンドの錐が四方から突き刺してくる。 「とうとう本領発揮か、御大」 嘲るように叫んで、ウィルは魔術を構成しはじめる。 複雑な数列、文字、文様――それらがない交ぜになったような術式を脳裏に描き出して、それに自らの魔力を乗せる。 そんな慣れた作業を、密かに、歯を食いしばって続ける。 (くそ、何かもう本格的にヤバいな。気力でどうこうって言う次元超えてるぞ、これ) 無視できない魔術の乱れを結局無視する形で、腕を振り上げる。 「火霊乱舞っ!」 炎は―― 出ない。 「あっ……?」 重要な場面における再度の失敗に、思わず間の抜けた声が漏れる。間違えようがないほど、今まで何度も編んだ魔術だというのに。 「ふぅ――ッ!」 幾度もその機を見逃すほど、ルドルフ・カーリアンは愚かではなかった。気合と共に息を吐き、腕の剣を構え、ウィル唯一人を目掛け突進してくる。その動きを目で追うことは出来ていたが、肝心の身体の方が、咄嗟には動かない。 「ぼさっとしてんじゃないわよっ!」 そんなウィルの横を激しい叱咤の声が通過する。声の主はそのまま、ルドルフに走り寄りそのまま槍を突き出すという直線的な攻撃を仕掛けた。小ぶりな影に視線を移したルドルフの剣にいなされて、銀の軌跡は歪むが、剣に比べ長大な武器であるにもかかわらず、彼女は、追撃が来る前に素早い挙動でそれを再攻撃出来る位置へと引き戻していた。 たん、と軽やかな音で、少女の足が床を蹴る。淡い髪が、光の中に踊る。金属と石とが噛み合い、硬質な音を立てる。負傷しているにもかかわらず、ルドルフの剣はその威力を微塵も減じてはいなかった。肉体の限界を精神の力が凌駕している――ウィルと同じように。耳で、目で、彼女と戦いを共有しながら、彼は再度魔術を編みはじめる。 (ルドルフ、の、望み) 本来ならば、魔術を行使しようという時に、その魔術について以外に意識を払うことはタブーだったが、術式の僅かな合間に、ウィルは考えずにはいられなかった。 何故、彼はエルフィーナを得ようとするのか? ――それは彼女の中に眠る、女神の力を手にするため―― では、それを手にして彼は何をしようとしているのか? 一度は大陸を制覇した王が、無理を通してまで更なる力を求めた理由は何なのか。 初めは力で全王国を陥落したとしても、その後、安定した形で全土を統治することは、時間がかかるにしろ出来るだけの能力がなかったとは思えない。だというのに、この男はその後も、女神の力を欲して戦い続けていた。もう既に逆らえるものもないのに、力を欲していた。まるで、神すらも殺せるほどの力を求めるかのように。それが、今ここにある現実のように、自らの破滅を導く可能性があったと気づかないわけではなかっただろうに。 何故、彼は力を求めた? 何を、手に入れたかった? ――意識の中に、力が集う。考え事をしていた割にはその力は十分すぎるほど大きくなっていて、ウィルは、冷や汗のようなものが背に伝うのを感じていた。 (カイル化してるな……) つまりはあの大神官並に、制御力が落ちているという自覚をそう内心で冗談めかして表現する。実際の所、それは冗談で済む事態でもないのだが。カイルタークとウィルの攻撃能力には通常かなりの格差があるが、それには、制御能力に欠けるカイルタークが自身の魔力を適度に押さえられないという皮肉な理由もある。カイルタークとウィルの身体に内在する魔力の絶対量には全くと言っていいほど差異はなく、カイルタークの魔術に言える危険性は、本来は同時にウィルにも言えることだった。その危険性を、ウィルは幼少の頃からリュートに施されていた訓練の成果によって最小限に押さえているが、今のように極度に疲労すれば、その限りではない。 (けど……あと、一回でいい) 目を細めて、まばゆい右腕の先の輝きを瞳の奥に映しながら、ウィルは願う。 どの道、これが限界だろう。これでこの長い戦いに幕が引ければそれでよし、もし仮に出来なかったとしたら…… ウィルは誰にも気づかれないように、小さく笑った。出来なかったら、あとはソフィアに任せておけばいい。彼女ならきっと何とかしてくれる。 女の子――しかも、恋人である女性に最後の戦闘を委ねようだなんて、もし後世の吟遊詩人がこの対戦を歌にしようと考えたとしたら、慌てて修正せずにはいられないだろうが、ウィルは気にも留めなかった。いや、少し前なら多少は気にしただろうが、今はただ、母を信じる赤子のように、無心に彼女を信頼していればよかった。 皇帝と刃を合わせていたソフィアが、強く槍を振り抜く。 ソフィアの攻撃と、自身の武器の重量に重心を奪われ、僅かにルドルフ・カーリアンの身体が傾ぐ。 ソフィアが淡い茶の瞳だけを、彼の方へと向けた。 ウィルは右腕を、振り上げる。 「ソフィア、下がれっ!」 光が、爆ぜる瞬間の果実のごとく、刹那、膨らむ。 その光の先で―― 皇帝は、不意に振り返り、ウィルの目を、見た。 口許に、蛇のような笑みを浮かべて。 何の前触れもなく、その場に立ち上がったリュート・サードニクスを、ブラン・シャルードは元は門扉の一部であった瓦礫に腰掛けたまま見上げた。 「ラー様?」 問い掛ける声は、ルージュ。彼らは、先刻死闘を繰り広げ、最後は皇帝の魔術により破壊された謁見の間の前で再度、合流していた。 「どうかなさったんですか?」 妹の視線を受け、本来ならば姉の役割である問いかけを、ブランは行った。そんな彼女に、フードを取り払い、金の繊細な髪をあらわにした、あまり見慣れない姿の彼女の主は細い眉を寄せた視線を向ける。 「魔術が、解けました」 「……魔術……って言いますと……?」 「私の、暗黒魔導士の呪いです。それが解けました」 「……えっ?」 あまりにも淡々と言うので、ブランにはそれがどれだけ重大なことであるかすぐには理解できなかった。曖昧な反応しかできない彼女の代わりに、大神官カイルタークがリュートに足早に近づく。 「どういうことだ? ウィルたちが、皇帝を倒したということか?」 「……かも、しれません……」 否定の意味合いの方が強い口振りで、肯定の答えを返すリュートに、カイルタークは目を鋭く細めた。 「他に考えられる原因はあるのか?」 「術者……皇帝が、そう望めば……」 小さく、軋るように囁いてから、リュートは秀麗な容貌を歪める。 突然、握り締めたこぶしを、強く壁に打ち付けるリュートに、ブランもルージュも、驚いて目を丸くした。何年も彼の側に仕えているが、彼のこんな姿を彼女らが見るのは、初めてだった。 「……だから、か……! だから、皇帝はお二人だけを……!」 絶望を声にすれば、それはこんな音だったのかもしれない。押し殺した悲鳴をリュートは上げた。 空間転移。 魔術を放とうとした瞬間、十メートル以上離れた位置にいた標的が、一瞬の後に目と鼻の先に存在していた理由は、それ以外に説明がつかなかった。 膨大な魔力と深い魔術知識が必要なその術は、今やリュートとウィル以外には使い手がいなかったはずだったのだが、確固たる事実の前にはそのような仮定は些細なものだった。 発動の直前で中止を余儀なくされた魔力が、周囲に、押え込みきれなかったエネルギーの欠片を撒き散らし、床と空気と彼の肌を焦がす。 霞む視界――もしくは意識の中で、ウィルは、自分に向けて伸ばされる腕に気がついた。 男の硬く、大きな手。それでいてすらりと上品に長い指先が、優雅に伸ばされ、喉元に冷たい感触を与える。 気道が塞がれ、息が詰まる。 脳裏にどこかで見た映像が走った。 雨の中。嵐の夜。燃ゆる古城と、深々とした森。金色の髪の青年の首に、手を伸ばす、銀の鎧の男…… 一人の魔術士が、皇帝の下僕と堕とされた瞬間。 目の前には薄く笑む、冷えた美貌。そして迫り来る、黒い津波のような何か。 それは、魔力の見せる幻覚のようなものだったのだろうとは思う。 しかし彼にはそれに抗う力はなく、なすすべもなく飲まれる他に道はなく。 「ウィル――……っ!」 魔力の熱風の外から響いた、ソフィアの甲高い絶叫が、痛いほどに耳を突き刺す。 「来れ」 皇帝の、歓喜に満ちた呼び声に応え、意識の中の黒い翼が蠢く。 「来れ、暗黒魔導士よ」 ――頼む、ソフィア。もっと呼んで。でないと、俺は―― |