CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 13 #95 |
その動きに、皇帝は、ほう、と小さく呟いて眉を上げた。 ソフィアの――ではない。 皇帝が驚嘆の呟きを洩らしたのは、ウィルの動きにだった。ルドルフの方へ身体を向けたソフィアの腕を掴んで、よろめきながらも、立ち上がる。 「ウィル……!?」 振り返り、目を見開くソフィアに、ウィルはぎこちなく微笑む。ソフィアを掴んだ右手――怪我をしていない方の手で、彼女を自分の方へ引き戻しながら、彼は毅然と皇帝を睨み付けた。 アウザールの皇帝と聖王国の国王。二人の王の視線が真っ正面から衝突する。 そのせめぎあいのような均衡を先に崩したのはルドルフだった。ふと、視線を細め、彼は唇を動かした。 「無茶なことをしたな」 それは、ウィルが何をしたかを悟った声音だった。 「治癒魔術を正しく学んでいないのに、使用するとは。貴様も魔術士なれば、不正確な術を行使することの危険性は十分に承知しているだろう」 皇帝の言葉に笑みの気配はないことが、ウィルには少し意外だった。淡々とした声は、師の説教のようにも聞こえた。 ……本当の師にも多分、同じ事を言われて叱られるだろうな。そんなことを思う。 「正確な術式も知らぬ身で無理に術を行使すれば、結果を違えぬ訳がない。……そのように、傷口が壊死したりもする」 「……!?」 ソフィアが、ルドルフの指し示す先、ウィルの身体を凝視する。包帯の下の傷口は、そうした所で見えるわけではなかったが―― ウィルは、一度だけ、息を深く吐いた。 ソフィアの止血は的確だったが、応急処置で済ますには傷はあまりにも深すぎた。もっと完全な処置を、すぐにでもしなければならなかった。生命の危険も無論のこと大きな問題ではあったが、彼は何より、戦うのに邪魔な痛みを取り去りたかった。 すべての魔術において言えることだが、正確な知識なくして魔術は実現しない。その知識自体が、ウィルにはなかった。術を組み替えて新しい術を作ることも、過剰な魔力で無理矢理にも術を実現することも、本来ならば基盤となる求めたい結果に似た術の知識を習得していない限り、不可能に限りなく近い作業であった。しかも、このような人体の細胞ひとつひとつにまで働きかけるような芸の細かい術であれば、尚更である。 失敗するのは目に見えていた。そしてその時、どうなるかという予測もついていた。 「細胞組織自体が死んでしまえば、かの大神官でさえもどうにも出来ん。……その左腕は、もう二度と動くまい」 柔らかく、冷たく、否応無しに。宣告は鼓膜を震わした。 誰も気づくことが出来ないほど静かで、かつ、これ以上ないほど致命的に欠落した――。そう、それはまるで、ひびが入ってしまった氷像のような。彼女の表情は、強いて言うなら、そのような感じだった。ウィルを見返している目に、いつもの生気がない。瞳の揺らぎは、状況を把握していない戸惑いにも近い。 「……え?」 戦いの場においてであれば、随分と言っていい時間が経ってから、ソフィアが発する事が出来たのは、そんな呟き一つだった。引き攣って、笑うように端の釣り上がった唇から漏れた自分の声に、彼女は気がついていないようでもあった。 「動かない、って……手……?」 感情の色が薄いソフィアの声を受けても、ウィルは曖昧な笑みを崩さなかった。その反応に苛立ったのか、炎が爆ぜるかのごとく突然に、彼女はウィルの上着を掴んだ。 「ねえっ!? 何それ、どういうことよ!? わ、訳わかんないわよ! 説明してよ!」 「……説明も何も」 呟いた声が少しかすれていたのに気がついて、ウィルは小さく咳払いをした。乾いていた唇を湿らせて、続ける。 「そこのサドの言った通りしか言いようがないんだけど」 「何落ち着いてるのよ!? そんなことさらっと言っていいようなことじゃないでしょ!?」 「だからって焦ってどうするんだよ。そもそも分かっててやったんだしさ。ってそんなこと言ってる場合じゃないだろ」 眉を寄せて、ウィルは顔を上げた。ルドルフ・カーリアンの動きを気にしたのだが、十メートルほど離れた先程と変わらない位置に立つ皇帝には、この非常に大きな隙をつき攻撃しようという意志はないようだった。もっとも、殆ど予備動作もなく攻撃を行える相手にどれだけその予測が通用するのかは、ウィルにも分からなかったが。 沈黙したまま、ただ、突き刺すような鋭い意識だけを向けてきている。 攻撃は、しない。それは根拠のない予感だったが、彼には確かなものに感じられて、ウィルはルドルフから目を離した。 「腕が動かなくても、魔術を使う分には差し支えないから」 再度向き直ったソフィアに対して告げると、彼女の瞳は攻撃的なまでに険しくなった。彼女が、呼吸と言うには大きく息を吸うのを見て、ウィルは片方だけでも耳を塞いでおこうかと思ったが、桜色の唇の奥に吸い込まれた空気は大音声として吐き出されることはなかった。 「そういう事を言ってるんじゃない……っ!」 その代わりに、歯を砕かんばかりに噛み締めて、ソフィアは呻いた。 出てこないものを無理矢理に吐き出したような、苦しげな彼女の声は、ウィルの胸をきつく締め上げる。 「……うん。ごめん。分かってる」 頭をそっと撫でると、ソフィアは嫌がるように首を振った。そのまま、ウィルに背中を向ける。小さな肩を震わせる彼女を、彼は右腕だけで後ろから抱きしめた。 左手は、指の先すら微塵も動かない。そこに感じるのは、氷水に腕を何時間も漬けていたような感覚だった。痛いようで、でもそれすらも気の所為で。ただ単純に、何も感じない。 「ごめん、ソフィア」 彼女の髪にひたいを押し付けて、もう一度、小さく謝罪する。彼女からの返事はなかったが、ウィルは滑らせるように手を離した。 そして彼は、足を進める。 「別れの挨拶は済んだか?」 揶揄の口調で、ルドルフ・カーリアンは言った。この場面でそういった、勇者に敵対する悪役の台詞を吐いてくるとは、この皇帝は案外にも洒落の分かる人間なのかもしれない。 (けど、残念なことに、勇者って柄でもないんだよな、俺) そんな冗談めいた感想で作った苦笑を、口許に飾る。 「月並みな返答で悪いけど、これでソフィアとさよならするつもりなんて全っ然ないから」 「その状態で、我に勝てると言うか。なめるのも大概にしておけ」 「なめてなんかないさ。あんたの力はいやってほど分かってる。……けど、勝つのは俺だから。これ以上、他の何を捨ててでも、あんたには負けない」 今、恐怖を感じずに済んでいるのは、勇気があるからでもなんでもなく。 ただ、それ以上の恐怖から逃れ得るためならば、傷つくことも身体を欠損することも、さほど怖いことではないという事だけ。 彼女を奪われる。 それ以上の恐怖が他にあろうはずがない。 そしてその逆に、彼女さえいれば、出来ないことなんて何もない。 ウィルは右腕を身体の前に掲げた。普段、魔術を放つときと全く同じように。そして、脳裏に複雑かつ精密な術式を描き出してゆく。彼の腕になる、彼の剣になる、彼の最も強力な武器を躊躇うことなく紡いでゆく。 身体はとうに、限界を迎えていたはずだった。それでも、その限界を超えて魔術を紡ぐことに、ウィルは苦痛を感じていなかった。彼の決して逞しいとは言えない肉体から、絞り取られるように魔力が生み出される。巌をも砕く力、人の身体など、一瞬にして粉塵に帰することの出来るエネルギーが、目に見ることすら出来ない意志の力によってひとつ所に凝縮する―― ルドルフは笑みの形に口角をつり上げた。それは、感嘆のようであり、嘲笑のようでもあった。いや、恐らくは、その両方であるのだろう。魔術を使うにはあまりにも適切でない体調ながら、これほどまでの力を制御する魔術士への感嘆。そして、己が身体を損じてまで無謀を繰り返す若者への嘲笑。 瞳に昏い炎を灯し、ルドルフ・カーリアンは、王者たる獅子の如く吠えた。 「よかろう、聖王国の王よ。アウザール皇帝ルドルフ・カーリアンが貴様の剣を受けてたつ。此度こそ、完全に討ち滅ぼしてくれるわ……っ!」 皇帝は、利き腕を床と水平に上げた。舞を舞うようなゆったりとした仕草で動かされたその腕の肘から先が、見る間に氷結していく。 いや―― 「またお得意のダイアモンドか」 小さく呟いたウィルに、皇帝は、言葉では応えず、その問いが正しいことを態度で示した。ダイアモンドの結晶で覆われた腕の先をウィルに向けると、その先端、清冽な刃が、正面の魔術の光を眩く照り返す。その輝きはまがい物に出せる代物ではない。 素手である方の手をダイアモンドの刃を纏った腕に添え、ルドルフが初めて、本格的な攻撃態勢を取る。 「火霊乱舞っ!」 先手を打ったのはウィルだった。高エネルギーの圧搾魔力が、炎にその状態を変ずる。間欠泉のように吹き上がる火炎柱がルドルフ・カーリアンに襲い掛かった。 だが―― 「甘い!」 鋭く吐いて、ルドルフが前方に駆ける。的を外した魔術はルドルフ・カーリアンの後方に爆炎の塊を生み出した。 「…………!」 広範囲殲滅型の攻撃魔術。本来ならば、走って避ける、などと言うことの出来る術ではない。移動とともに、熱量を受け流す防御力場を生成したのだろう。 攻撃に転じたルドルフを迎撃するため、ウィルは身体の前に数個の光り輝く魔力の白球を生み出した。 「行けっ!」 ウィルの指図に従い、こぶし大の球が光の尾を引いて飛ぶ。 「甘いと言っておろうが!」 ルドルフ・カーリアンは剣を振りかぶり――球が到達するよりも早く、それを一閃させた。 剣の軌跡を虹の煌きが彩る。 「なっ!」 刹那の後にその地点に届いた白球は、輝きの中に飲まれ――溶解するかのごとく消滅した。 「魔力の無効化!? あの槍と同じ事が出来るのか!?」 ウィルの叫びを耳に受けて、皇帝は小さく笑った。 迫り来る敵に、ウィルは舌を打つ。左腕も動かず、武器を所持していない今、接近戦でこの男と勝負するのはあまりにも分が悪い。強制的に間合いを開けようと、再度、攻撃の魔術を紡ぐウィルに、皇帝は、遅いと言わんばかりに輝ける剣を突き出した。 「……のやろっ!」 咄嗟に生み出したのは――突風だった。 幅広で、恐らくかなりの重量があるのであろうルドルフの剣に、生み出した風を横から叩き付ける。 剣の扱いにはウィル以上に長けているのであろうルドルフの力をもってしても、それでなお本来の太刀筋を保つことは難しかったようだった。剣は僅かに逸れて、ウィルの身体の横を突く。返す刃から逃れ、ウィルは床に転がるようにして距離を取った。それを追って、再度皇帝は剣を振ろうとしたが、その時にはウィルが既に魔術を一つ編み上げていたことを察し、不用意な追撃は控える判断を下していた。 互いが互いを牽制する形で、膠着する―― ウィルは魔術を放つ直前で保持しながら、上がった心拍数と呼吸を調えようと試みた。心臓が、口から吐き出してしまいそうな程に強く自己を主張している。その割に、身体全体への血の巡りが悪い。脳への酸素供給が足りず、意識を暗く蝕んで、思考を阻害する。原因は単純だった。先程多量の血液を失ったためだ。大神官の技ならば、失った血液すらも再生することはある程度可能だが、比較的魔術治癒が容易であるとされる、目に見える部位の傷すらも不完全な修復しか出来ないウィルに、そのような高度な術を行使する事は出来なかった。 (全く、どうもこいつとは相性が悪いな。能力自体はリュートのがよっぽど上なんだろうが……) 小さく舌打ちをしながら、意識の奥底で毒づく。感覚などないはずの左腕が、凍り付くように痛い。自分の意志ではぴくりとも動かすことが出来ず、ただ苦痛だけを与えてくるようなものならば、いっそのこと千切れてしまえばよかったのに。苛立ちに混ぜて、そんな軽い憎しみを自分の身体に向け、それに続けて意識を、反対の腕の先にある魔力の塊に向けた。 この時ウィルが保持していたのは光線の魔術だったが、目で敵との間合いを計りながら、彼は脳裏に浮かびあがる術式を変化させ、手の中の力の方向を変えた。攻撃の熱量は物質の通過をも遮る力場――障壁に。形状も、無形から有形に変化させる。 ウィルの腕に添うように、ラウンド・シールドに似た魔術障壁が再度出現する。 「守りに入るか? 止めた方が懸命だ。貴様の現在の余力を考えれば、持てる力を全て攻撃に使い、短期決戦を狙う方がまだましというもの」 ルドルフの勧告は決して相手を惑わすためのものではなく、実に適正な判断であるという事は、ウィル自身にも分かっていた。戦いを長引かせたところで、先に尽きるのは間違いなくウィルの方だろう。力でねじ伏せる事が出来る確証はないが、基本的にはそれを狙う方法で攻めた方が良いとは彼自身も感じるところであったが、ウィルはあえて防御の術を生み出していた。 確かめておかなければならない事がある。どれだけそれが重要であるかは分からないが。 ウィルの心に浮かんでいたのは、ソフィアの言った言葉だった。 ――ルドルフは、何かを狙っている。いやな感じがする―― 彼女にしてみれば、何気ないただの胸騒ぎだったのかもしれない。だがウィルにはそれがどうしても無視できない重さに感じられていた。それが、あたかも重要な警告であるように思えて仕方がなかった。 まさかルドルフの狙いとはウィルの腕を奪うことではなかっただろう。むしろこれは、皇帝にしても予想外の出来事であったはずである。 むしろあの、ウィルの肩を打ち抜いた攻撃は、その前の……ソフィアを自身の元へ呼ぶための布石であったようにも…… そこまで考えて。 不意に、新たな疑問が、ウィルの頭を掠めていた。 (ルドルフ・カーリアンはソフィアを求めている……) 「……攻めて来ぬのか? ならば、こちらから行くぞ……」 盾を生み出したまま動こうとしないウィルに痺れを切らしたか、唐突に攻撃の宣言をして、ルドルフは、己の影を躍らせた。 再び始まる激しい交戦に、ウィルは思考を一旦中断せねばならなかった。最後に、一言だけ胸中に呟きを残す。 (ソフィアを求めている……だがそれは、何のために?) |