CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 12 #90 |
鈍い銀色に輝く大剣が、床に、打ち込まれるように振り下ろされる。 「ウィル……っ!」 ちょうど振り下ろそうとした瞬間に、予期せぬ声が耳に届いていた。非難めいた声――これは、昏倒していたはずのディルト王子のものだったが、別段、ウィルを驚かせるものではなかった。カイルタークが治療をしていたのならば、もうそろそろ目を覚ましてもおかしくはない頃ではあった。この瞬間にそこまで思考できたわけではなかったが。 動かすという意識を注ぎ込まれた剣は、使用者の意志に逆らうことはなく、まばたき一つの後には切っ先は、硬い音を立て固い大理石の床を突き刺していた。床は、傷こそついたが、表面で刃を受け止めていた。 それは、感触としてではなく視覚で確認する事が出来た。 剣は、暗黒魔導士の身体を貫いてはいなかったのだ。 漆黒のフードの端と、金色の髪を一房断ち切って、仰向けの暗黒魔導士の耳のすぐ側に剣は制止していた。 「……っ」 それは、今迄止めていた呼吸を再開する音だったのだろう。暗黒魔導士が立てたその音を、剣を振り下ろした体勢のウィルは間近で聞いた。ウィルがそう意図したわけではなかったのだが、裂いたフードは一端がめくり上がり、片方だけではあったが彼の海色の瞳を光の下に晒していた。その瞳――懐かしい色彩が、真っ直ぐに、剣を握るウィルの無表情を映していた。 「……どういうつもりですか」 暗黒魔導士の唇は震え、そこから生み出された声もまた震えた。恐怖などというものであろうはずはない。これは――憤怒か。絶望か。それとも―― 「失望……しましたよ……この期に及んでまだ、敵に情けをかけるつもりですか……?」 ――失望であったらしい。本人がそう言うのならばそうなのだろう。冷静に認めて、ウィルは自分の感情を素直に表情に表した。眉にも口許の筋肉にも力を込めず、目だけを細めて、自分を睨み据えてくる海色に焦点を合わせる。 「罪人を罪を与えるのが、王としての役目でしょう!? それを……何故! 何故私を殺さないのです! どうして……」 涙か何かが喉の奥に引っかかったように、言葉を詰まらせる。子供の頃から口の達者だったこの男にしては、非常に珍しいことではあった。揚げ足を取るようなことを頭に思い浮かべながら、しかしウィルは言葉を発しなかった。眼下の男は、嗚咽こそ漏らさなかったものの、それに近しい声音を吐いた。 「どうして……」 繰り返す。奥の歯を噛み締めて。 出てこないらしいその先を、ウィルは冷ややかな声音で継いだ。 「どうして殺してくれないんだ? か?」 「死ぬべきなのですよ、私は……! この七年の間、私は余りにも多くの命を奪ってきた。自分の手が穢れていくことに気付いていながら、自分でそれを止める事すら出来なかった! ……何よりも……」 声ではなく、感情を絞り出すようにして、呟く。 「……私は、与えられた命令すら全うする事が出来なかった……陛下は、エルフィーナ様を護れと仰せられたというのに……その私自身が危険な目に合わせる真似をして……」 「ふざけるなっ!」 ウィルの咆哮に、暗黒魔導士は瞬時、確かに怯んだ。これも、全くこの男らしからぬ態度だったが、この七年近く溜めに溜め込んだ感情をついに吐露して、心が弱っていたと考えれば不思議ではなかったのかもしれない。しかしウィルにはいたわる気持ちは湧いてこなかった。怒りの方が勝っていた。 胸の最奥から込み上げてくるものを喉元で押し戻してウィルは声を上げた。 「だから何なんだよ、それでエルフィーナが本当に死んでりゃ話は別だけど、今だって無駄にぴんぴんしてるじゃないか! 死んでなきゃ別に俺には関係ないんだよ! そんなもんで死にたいとか抜かすのは、ただのお前の自己満足だ!」 「無駄にって」 ウィルの高ぶった声の間隙に、少女が発したぽつりとした呟きが挿入される。場違いなそれに取り合う者はいなかったが。ただ、その一瞬の間が、耳に馴染んだ少女の声が、ウィルにほんの少しだけ冷静さを取り戻させていた。 「お前が重ねた罪って言うのだってそうだ。お前は、自分が死ねば自分の殺した魂は救われるとでも思ってるのか? おこがましいにも程がある。お前の生死なんてたかだかそんなもの、死んでしまった人間には詫びの品にも何にもなりゃしないんだよ! 殺された奴の家族だって、殺した相手を自分の手でくびり殺してやるくらいしなきゃ気なんか晴れねえよ! 取り違えるんじゃない。お前がやりたかったのは贖罪なんかじゃないんだ。お前はただ罪から逃げたかっただけだ! 自己満足のために、お前は……俺に自分と同じ業を、一生消えない罪を課そうとしていたんだ!」 「…………!」 打ちひしがれたような感情をたたえ、リュートはウィルを見上げた。兄のそんな表情を直視し続けることはウィルにとっても辛くないとは言えなかった。それでも、その視線から逃げる訳には行かなかった。 これは、彼との戦いなのだ。 「だけど、それは分からないことじゃなかった。辛いことから逃げたいと思うことは、正常なんだ。だから、俺だって悩んだんだ。それが分かってなけりゃ、ぶん殴っててめえで勝手に死ねって言って終わりにしてたさ。悩んで、迷って……戦っている間だってずっと考えてた。一度は、それでお前が解放されるならそれでもいいとも思ったんだ。自分の兄貴を殺した罪悪感は一生俺を苛むだろうけど……俺には、支えてくれる人がいるから……死ぬ以外の道を選べるだろうから……」 人に支えられてもいいのだということ。 全てを一人で背負う必要はないのだということ。 多分この強靭な兄は教えてもらう機会がなかったのであろうそれを、自分には教えてくれた人がいた。 「だから、替わってやろうと思った。替わってやれると思った。俺にしか替われないと思ったんだ!」 だけど。 ――違う―― 『だから』 この男が、そこまでしてもいいと思えるほどだったから。 殺せる訳がないと、分かった。 「……リュート」 彼はずっと、目の前のウィルの姿を瞳に映し続けていた。だが、呼ばれてはじめて夢から醒めたような表情で、苦渋の表情を浮かべる弟の姿を見上げた。 「お前は祈ったな。あの時……『暗黒魔導士』と戦った時」 不意にウィルは、異世界で見た過去の幻影を、思い出していた。 「お前は何のために祈った? お前の捧げる祈りは誰のためにある?」 あの時に与えた命を未だこの男が引きずっているのなら。あの頃からの思いが今もずっと変わっていないのなら。 「今もまだ、誰かのために祈る言葉があるのなら、お前は、自分のために祈るにはまだ早い」 目の前に差し出されたウィルの手を―― 一瞬とは言い難い間彼は見続けてから、その視線を動かして、ウィルの顔をもう一度見上げた。青年の、唇が震える。 「だけど、私は……」 「だけどもくそもない。あー面倒くさいなーもう」 まだ何か言いそうだった青年の声をうんざりした声で遮って、ウィルは彼の目の前に掲げた手をひらひらと振った。 「早く起き上がれよ。いつまでも甘ったれてんな」 自ら助け起こそうとは決してせずに、呆然とした表情を消せないでいる青年を、ウィルは睨み付けながら待った。 時間が――流れる。だが、もうウィルは何も言わなかった。待つだけで、もうよかった。 刺し貫くようなウィルの視線を受ける瞳が、やがて、柔らかく細められる。 「……そんな台詞、陛下に言われるとは私も老いたのですかねぇ」 苦笑。そして皮肉な声。これは馴染んだものだった。 ウィルの手に触れて、起き上がった瞬間。青年の金色の髪を覆っていた黒いフードがはらりと彼の背中に落ちた。 解放できる窓もない密閉された空間に、突如起こった気流―― 周囲の変化に敏感な猫のように、いち早くそれに感づいたのはソフィアだった。 「……何……?」 緊張を声に宿し、視線を巡らす。四方を囲むのは、一方だけにステンドグラスのはまった石壁で、他に特筆する点はない。 その壁が、突如明るい白色に、光り輝いた。 「なっ……?」 「……しまった……!」 ソフィアには訳が分からなかったが、ウィルにはこれがどういう事なのか理解出来たようだった。いやな予感が少女の全身を総毛立たせる。説明を求めてソフィアはウィルを振り返ったが、ウィルは答えずに、広間の入口を指差した。 「走れっ!」 同時に、ソフィアの腕を誰かが強く引っ張った。負傷し、今目覚めたばかりのディルトだった。 「ディルトさ……」 「いいから! 走るんだ! あれは皇帝の魔術だ!」 ディルトにすら分かるということは、彼らは皆、少なくとも一度はこの力を目の当たりにしたということだろう。その上で、有無を言わせず逃げることを選択しているのだ。これ以上、ソフィアが迷うことはなかった。逆に、体調が万全でないディルトを庇うようにしながらソフィアは指し示された出口に向かって走った。 ブラン達姉妹も、大神官も、リュートもウィルの言葉に従い、一目散に駆ける。広大な広間ではあったが、扉に到達するまでそう時間がかかることもない。怪我人を抱えていたとしてもせいぜい十数秒あればよかった。が―― 「!!」 十数秒よりも遥かに早い時間で、皆が注目している扉は見る見るうちに閉まっていった。しかも、それは普通の扉ではなかった。元からあった扉は、ここに入室する際にウィルが破壊している。その残骸は周囲に撒き散らされたまま、黒い半透明の、魔術の障壁の様なものが扉のあった位置を覆っていたのだ。 「何で、これ……!?」 「あのサドこんな仕掛けまでしてたのかよ! ……ソフィア!」 ソフィアの、別の場所への道を作る能力を思い出したのだろう。叫ぶウィルに、しかしソフィアは首を強く横に振った。 「あれは、扉がないと出来ないの!」 「何でそんなややこしい制約が!?」 「知らないわよ! 自分の空間転移は!?」 「出来りゃ言う前にやってる! 出来ないから聞いてる!」 「もー! 根性ないわね!」 「確かに根性ないけどそういう問題じゃない!」 「そんな事言い合っている場合じゃないでしょう!」 最後の、子供を叱るような声はリュートのものだった。広間の端に寄った全員に背を向けて、部屋の中央に向かって両腕を伸ばす。 「障壁を張ります。陛下、ノワール。部屋の壁を破壊するくらいなら出来ますね。……カイルはそろそろ危ないので使わないで下さい」 「リュート!」 非難するような声をウィルは上げたが、リュートは言い終わるとすぐに呪文の詠唱に入っていた。短く唱えて、数秒後にはかなり大きな魔術の壁を目の前に完成させる。 が、ウィルはそれを見て、すぐに首を振った。 「それじゃ……弱い!」 「今の私にはこの程度が限界です。無理に強い障壁を試してしくじるよりはましでしょう。……それより、自分の仕事の手を抜かないで下さい」 舌打ちをして、ウィルは石の壁に向かい合った。至近距離から光線の魔術を放つ――が、厚い石の壁はびくともしない。ノワールの方も同じだった。 「何だよもう! こんな所にまで魔術防御仕掛けるなよな!?」 「退け!」 リュートの忠告を無視して、カイルタークも魔術を解き放つ。が、彼の術ですら、壁は破壊できなかった。 本来なら、ウィルの力をもってすれば、ちょっとした建物であれば丸ごと破壊することができる。カイルタークはもちろん、ノワールにしろ、それは同じだろう。その三人が、堅牢な城塞のものとはいえ、一枚の石壁を前に、立ち往生していた。ウィルの言うようにこの壁に対魔術の防御構造が組み込まれているという理由はあるのだろうが、何よりやはり、この一戦で――というより、ソフィアを押さえるので、魔術を使いすぎた所為なのだろう。その一件の記憶はソフィアにはなかったが、想像はついた。そうでなければ、傷ひとつつけることなく彼女を正気には戻せないはずである。 じわりと、視界が滲んでくる。 (泣くな! 泣いてる場合じゃない! 考えろ!) 涙腺を湿らせてきた水分の流出を、ソフィアは固く目を閉じて必死に堪えた。何か、方法は残されているはずだ。ひとつくらい、何かが。 不意に、背筋に電撃が走るように思い付く。 「ブラン! 槍!」 はっと顔を上げたブランの手から、彼女の槍を半ばひったくるようにして受け取る。 魔術を防ぐ、特殊な魔力槍。万が一の賭けにしか過ぎないけれど、もしかしたらこれなら。 「お願い……!」 全身全霊を込めた祈りと共に、槍を、半透明の黒い壁を張られた扉にソフィアは投げつけた。 がしゃあぁん!! ガラスが割れるのに似た鋭い破砕音が響く。 「やった!」 黒い障壁は、粉塵のような破片に砕け、宙に舞い、部屋を満たす白光に光を返しながらやがて虚空へと溶けた。砕けたのは槍の突き刺さった部分であったが、一部が崩壊すると人間の身長よりもずっと大きな扉全体の障壁が、道連れにされるように消えていた。 「リュート! 逃げるぞ!」 振り返って、ウィルは兄に呼びかける。だが、リュートは、自分の魔術を解除しようとはしなかった。 「リュート!」 「行って下さい。皇帝は、この城の地下にある研究室で待っています。……万が一この城が消し飛んでも、無事に残るように作られています。場所は、丁度、この広間の真下です」 「何言ってるんだよ!? お前も来いって言ってるだろ!?」 「いえ。これだけの時間が発動までにかかるということは、障壁を解除したら、多分逃げても無駄な威力でしょうから」 「……でも……駄目だ! もう少し離れて、全員で障壁を張ればなんとかなるかも……!」 ウィルは兄の言葉に従うことを、頑なに拒んだ。その態度で、魔術に明るくないソフィアでも、理解する事が出来た。 恐らく、このままリュートを残していけば、彼は攻撃に巻き込まれてしまうのだ。 そしてそれは間違いなく、彼の―― 「……皇帝との対戦の前にこれ以上無駄に力を使うつもりですか、陛下。そこまで甘い相手ではありませんよ。……この私がその程度の相手に長年操られていたとでも思っているんですか?」 諌めるような厳しい声。だが、ウィルがリュートに瞬時飲まれて言葉を失うと、すぐに柔らかいものへと戻っていた。 「そう怒らないで下さい。別に、さっきまでみたいに、無駄に命を散らせようとしているわけではないんです。ただね」 急激に、リュートの障壁の向こうの風の流れが変わった。輝きが、一層増す。 「あなたを護る為なら何でも出来るんですよ。私はあなたの兄なんですから」 「リュ……」 再度、ウィルが上げようとした声は、彼の背中を押した強い衝撃に遮られていた。 突き飛ばされ、よろめいたウィルの横を、小柄な黒い影が駆け抜ける。 「ノワール! 来てはいけない!」 その影の正体を認識し、咄嗟に叫んだリュートの声すらも無視して、彼女は彼の元へと駆け寄っていた。そして、唐突に、自分が走りながら生み出した魔術の突風で、障壁を張り続けているリュートを吹き飛ばす。これには、意識を殆ど魔術に取られていたリュートはひとたまりもなかった。ソフィアも一度、ウィルが使ったのを見たことがあったが、この魔術は対象を吹き飛ばす方向を任意に定められるらしく、リュートの身体はノワールが走り込んできた方向――皆のいる方へと投げ飛ばされていた。 「……何を……!」 床を何回転かしてようやく止まったリュートが、頭を押さえつつノワールの方へと視線を上げる。リュートが作っていた障壁は、術者が消えても消滅してはいなかった。 今迄、リュートが立っていた位置に立ち、今度はノワールが障壁に腕を掲げていた。 「ラー……リュート様が作られた術を、引き継ぐことは……慣れてますから」 平然と、さもこれが当然とばかりに言ってのけるノワールに、リュートは立ち上がって近づこうとした。――が、振り向きもせずに放ったノワールの風の魔術に再度、転がされる。疲労度の差だろうか、ノワールの力でも、今のリュートを近づけないことは十分に可能であるようだった。 「失礼を致します。けれど……どうか、ご理解ください。私も、あなた様と同じなのです」 黒髪の女魔術士は、ゆっくりと振り返ってきた。 そうして、笑顔を浮かべる。普段の彼女の殆ど大部分を構成する皮肉など微塵も感じられない、無邪気で純粋な、童女のような笑顔を。 「あなたを護る為なら何でも出来るのです」 光が―― ノワールの身体にのしかかるように、襲い掛かった。 濁流のような轟音と、眩い白の洪水の中に、一人の女の黒い影は皆の目の前で、消えた。 |