CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 12 #86

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 待ち受けていたのは、アウザール帝国皇帝、ルドルフ・カーリアンではなかった――
 しかし、その事実がウィルに何かしらの衝撃を与えたかと言われると、別段そういう事はなかった。多少騙されたような気持ちは湧き上がってきたが、それもせいぜいが、皇帝がいるのだと思って放った先刻の台詞が見当違いになってしまったじゃないか、という程度のものでしかなかった。
(物語なんかだと、順当な配置だよな。最後の敵の前にその腹心との戦いってのは)
 子供の頃に誰もが一度ならず聞かせてもらっている御伽噺の一場面を目の前の構図に重ねあわせてしまい、思わず苦笑しそうになってしまったのを、ウィルは何とか堪えた。黒のローブに身を包み、高みから見下ろしてくる男の姿は、見事、子供たちが想像する悪の魔術士の姿に当てはまっている。しかも、あの敵が本当に、ここにいる全員でかかったとしても敵わないような力を持っているとなれば、仮に吹き出したりしてしまったとしても文句を言われる筋合いもないくらいだろう。
 目の前の黒衣の魔術士――暗黒魔導士ラーが、例の魔術障壁を操る皇帝以上に手強い敵であるという事は、ウィルは疑ってもいなかった。あの男の力は、誰よりも――幼なじみである大神官よりも、自分の方がよく知っているという何の役にも立たない自信が彼にはあった。
 とくん、とくん、と、意識しなければ感じない強さで、心臓が胸を打つ。
 恐怖は全くなかった。この期に及んで、平和的に解決する事に望みを持っていたわけではない。これから始まる戦いが、熾烈を極めるものであり、それはもはや回避できるものではないという事は、もう分かっていた。
 それでも恐怖を感じなかったのは、やはり、懐かしさの方が勝っていたからなのかもしれない……
 緩やかな緊張を、先に破ったのは男の方だった。
 その男から見れば侵入者であるウィルたちの方へ向かって、ゆっくりと階段を下ってくる。
 下で待ち受けるウィルと同じ高さに立ち、彼我の距離が十メートルを切った辺りで、男は、目深に被っていたフードを徐に取り払った。
 全員が、息を飲む。
「……………………カイル?」
 やや長い沈黙の後に、ウィルはようやく声を絞り出す事が出来た。
 銀がかった頭髪、そして聖職者とは到底思えない鋭い眼差し。黒布の下にあった顔は、大陸解放軍の重鎮でもある、大神官カイルタークのものであった。
 解放軍の面々が揃いも揃って目を点にする中、おかしな事など砂粒大ほどもなかったかのような平然とした表情で、カイルタークはウィルの元へ近づいてきていた。
「……ええと」
「教会からの指令で本城に潜入した。ローブは着慣れている服が欲しくて借りた。他は?」
「い、いや、まあ、あいつとお前が一緒にいるってのは聞いてたけど……」
「そうだったな。では説明する事もあるまい」
「……ないの?」
 反語のつもりでウィルは尋ねたのだが、カイルタークは本気で何も言うべき事はないという判断を下したようだった。ウィルの隣に並んで、カイルタークは静かに、階段の方を振り返った。
「覚悟は決まっているようだな」
 その言葉は誰に言ったものなのか。分かりかねる声音ではあったが、ウィルは自分に向けられたものと判断して、頷いた。
「あいつを倒さなくちゃ、俺の譲れない唯一のものが護れないと言うのなら」
 ウィルは、何よりも大切な少女を振り返りながら決然と言った。視線を向けられた少女は、こちらの話し声が聞こえていなかったのだろう、少しきょとんとした表情をしたが、すぐにいつもの、周囲までもが華やぐような笑顔になった。
 彼女を護る為なら。彼女を害するものを排除する為なら。敵に回るのが誰であろうと、戦う。
 例えそれが、兄――リュートであろうとも。
「後悔するかもしれんぞ」
「……多分ね」
 微かに笑って、ウィルは答えた。自分でもその決断は残忍に思えたが、決してそれは自嘲の笑みなどではなかった。
「ならばもう何も言う事はない」
 言って、カイルタークは玉座の裏のステンドグラスを見上げるように顎を上げる。
 ――玉座の正面、神話の一節を象る光が、最も強く落ちる場所に。
 虚空から産み落とされるように。黒衣の魔術士は、その姿を現した。

「お待ち申し上げておりましたよ、陛下」
 広間に、朗々として澄んだ声が、聖歌のように響き渡る。
 仰ぎ見るように見上げた、漆黒のフードに顔の半ばを覆い隠した青年は、歓迎の言葉を紡いだ唇に、それは形ばかりのものではないのだという事をわざわざ示すかのように聖者の微笑を浮かべた。
 答礼の言葉でも述べてやろうかとウィルは考えたが、暗黒魔導士の絶妙な皮肉の前には、それに勝るような気の効いた言葉も思い浮かばず、ただ黙ったまま漆黒の魔術士の姿を見つめ返していた。しばしの間、無音の空間を視線だけが交錯し続けたが、柔和な声で暗黒魔導士はその沈黙を断ち切った。
「本当に長いことお待ちしていました。貴方がたなら必ずここまで辿り着くと確信していました……」
 皮肉――
 最初にウィルは、暗黒魔導士の言葉をそう解釈したのだが、彼はそれを改めた。
 皮肉ではない。その声は淡々としてはいるものの、心からの喜びに打ち震えていた。
 この邂逅こそが、そしてこれがもたらす結末こそが、彼の真なる望みだったのだから。
 常闇の深淵に落ちて、精神世界の中で見た過去の情景をウィルは思い起こしていた。皇帝の魔術に囚われ、呪われて生きる『暗黒魔導士』。真実を知ってしまえば、彼の魂の中だけで保たれる自我が望む願いがいかなるものであるかなどということは、想像に労力を要するものではなかった。
 魔術士であるウィルを庇うように、彼の前に位置取っていたソフィアを軽く退かして、彼は前に進み出た。暗黒魔導士と彼との間を遮るものは何もない。
「終わりにしてやるよ。もう」
 望んだ最後通牒を告げられた暗黒魔導士は、口許を、小さくほころばせた。
 優しく笑んでいるであろう、海色の瞳は――結局見る事ができなかった。

 微かな潮騒のような、音の連なり。
 耳に心地よいその音は、暗黒魔導士が小さく呪文を唱えはじめた声だった。誰にも聞かれず、胸のうちで捧げる祈りのように静かなその声は小さすぎて、ウィルにはそれが何の呪文であるかは聞き取れなかったが、カイルタークには僅かに伝わってくる韻で判断できたらしく、それに抗するための呪文の詠唱を開始していた。彼が使おうとしているのは、最上位と言っていいランクの魔術防御障壁だった。攻撃に対する防御魔術を構成する時は、その攻撃の威力に見合った術を適切に使う事が求められる。攻撃よりも防御の方が弱ければ効果がないのは当然であるし、逆に上位過ぎる防御術を張ることは、呪文詠唱時の隙が大きくなり、また精神力を無駄に摩耗させる結果になる。
 二人の魔術士の長い詠唱の間、ウィルは視線は前に向けたまま三姉妹の長姉であるノワールに意識を向けた。
「君たちは? 戦う義理はないはずだよな?」
 その言葉で初めて思い出したかのように、後方に下がっていたディルトがはっとした表情で彼女らを見た。
 常闇の深淵では共闘してきたが、元々は帝国軍の、それもラーの部下であった彼女らに、このまま暗黒魔導士と戦う義理も義務もない。どころか、立場的には暗黒魔導士側につくのが妥当なのである。彼女らにその意志があるのであれば、今の形勢は戦闘開始直後に敵に挟み撃ちを食らっている形となる。
「私の主は暗黒魔導士ラー様、唯一人だ。ラー様が攻撃せよと仰せられれば後ろからでも私はお前を撃ち抜く」
 ノワールの迷いのない声が、後ろからウィルの首筋を撫でる。それに冷や汗をしたのはディルトばかりでなく、ブランもであったが、肝心のウィルは振り向きもしなかった。気を揉んで、ディルトはせわしない視線をウィルに投げかけた――が、心配するまでもなく、ノワールはウィルの無反応に満足したかのように、声を少し和らげた。
「が、あのお方はそれをお望みではないようだ。……ルージュ。下がるぞ」
 妹のうちの一人の襟首をひょいと掴んで、ノワールは解放軍の輪の中から走り抜けた。いきなり戦線離脱した姉に、ブランは戸惑いを見せたが、彼女にしても、ノワールの行動の正当性が理解できなかったというわけではないだろう。
「……君は? ブラン」
 ウィルがそう問う瞬間まで、彼女は自分も、ノワールと同じ行動を取ってもよい立場であったということを忘れていたに違いない。思いもよらない事を尋ねられた目をしていたが、すぐに彼女は首を振った。
「私の、ラー様の救いかたは、多分こっちだと思う」
「そっか」
 一言だけ呟いてから、ウィルもまた呪文を唱えはじめた。

 シャボン玉のような虹色の障壁に直撃した光線が、飛沫のように輝きを散らして四散する。
 最初の攻防はカイルタークの防御術に軍配が上がった。――と、誰もが思った瞬間。
 障壁に向けて腕を突き出していた黒衣の魔術士が、ローブをはためかせ、何かを掴み上げるようにこぶしを握り、腕を振り上げた。それを合図に、障壁に吹き散らされた光の粒が、旋風のように円を描いて舞い上がる。
「…………っ」
 カイルタークが小さく舌を打つ。つむじ風に巻き取られ、彼の障壁が消え去った。
 それで持ちうるエネルギーを使い果たしたのか、光の粒も同時に消滅する。
「猪口才な」
 元から鋭い眼差しを更に凶悪に細めながらも、カイルタークは次なる魔術の為の意識を纏めはじめていた。その後ろから、術を完成させたウィルが声を上げる。
「戦神の怒りと嘆き以下略! 天鳴よ!」
 声と共に指先から迸った雷の枝が、絡み合いながらも標的へと突き進む。が、こちらもまた暗黒魔導士の作り出した障壁に阻まれて霧散した。
「略すな」
「間に合わないと思ったんだもんしょうがないだろ! ってか略しても間に合ってないけど!」
 カイルタークは再度障壁を張ろうとしていたようだったが、両脇から走り出していった影を認めて途中で構成しかけていた術式を攻撃魔術に変更させた。左右に分かれ、鏡合わせのように剣を構えて、ソフィアとディルトが走る。
 ウィルの術を相殺した直後の暗黒魔導士は、魔術行使後の隙もあってか、瞬時、迫り来る二人の剣士のどちらを迎撃するか迷ったように見えた。下手な攻撃の通用しないソフィアに構っていればディルトの剣を受け、ディルトを先に狙撃すれば、その間にソフィアが到達する。
 結局二者択一で暗黒魔導士が選択したのはソフィアの方だったが、少々タイミングを逸したその一撃は彼女の足をほんの僅かに遅らせる事しか出来なかった。
 ディルトが、ソフィアに向けて魔術を放ったばかりの暗黒魔導士の間近で剣を振りかぶる。
 瞬間の判断の遅れは致命的な隙になった。ウィルも、恐らくディルトもそう判断した。が。
「離れろ!」
 カイルタークの珍しい怒声が響く。普段、彼が大声を出す事など滅多にないが、喋る事を商売にしている大神官だけあって、その声は向けられた相手――ディルトの元までよく通った。しかし、反射運動が間に合うかどうかは別問題である。
 ばぢゅっ!――と、何かが弾けるような音がして、今まさに暗黒魔導士に斬りかかろうとしていたディルトが、殴り飛ばされるように倒れ込んだ。
「腕を掲げなければ魔術は放てないというわけではないのですよ、王子?」
「ディルト様!」
 ウィルが叫んだ声に被って、カイルタークの放った白光が唸る。
 それは明らかにディルトへの追撃を防ぐための牽制だったが、暗黒魔導士はそれよりも先に、至近まで迫っていたソフィアに意識を向けていた。
「やあっ!!」
 勇ましい掛け声と共に、ソフィアがウィルの貸した剣を振り下ろす。
 それに対し、暗黒魔導士はあろう事か何も持っていない左手を、手のひらで剣を受けようとするかのような形で振り上げる。
 内心は躊躇したであろうが剣を振るう速度は落とさず、ソフィアはそのまま一気に刃を振り抜き――
 ぱきいぃん!
 涼しげな音を立て、細身と言えども鍛え上げられた鋼は、丁度暗黒魔導士が素手で触れた位置――半ばほどから真っ二つに折れていた。
「嘘だっ!?」
 無意識のように叫ぶソフィア。その彼女の死角に当たる位置で、暗黒魔導士はへし折った剣の先半分をやはり素手で掴み取った。そしてそれを、ソフィア目掛けて突き刺すように振り下ろす。
「っ!!」
 ソフィアは視界の外での敵の動きを察して、驚愕と恐怖の入り交じった眼を見開いた。渾身の一撃を外されて、やや前傾した不安定な姿勢では避けようもない。ウィルの魔術もまだ間に合っていない。
 だが――
 常人ならどうやっても対応できる訳がないその体勢から、ソフィアは背中に折れた剣を素早く回し、鍔で鋭い刃先を受け止めた。元は一つであった金属同士が噛み合い、敵の動きが止まった刹那の隙に、ソフィアは転がり出るように暗黒魔導士の足元から離脱した。
 ここまで人間離れした芸を見せられては当然かもしれないが、彼女を油断のならない敵と見た暗黒魔導士は退避するソフィアに、呪文詠唱なしの魔術を放つ。
「ひゃっ」
 背後からの射撃にさすがにソフィアは悲鳴を上げる。が、これはソフィアを庇って飛び出してきたブランが、魔力槍の力で無効化させていた。
「ラー様……」
 苦しげに眉を寄せて呟きかけたブランから、暗黒魔導士は何も言わず目を逸らした。

 頬を笑うように引き攣らせ、ウィルは息を吐いた。格の違う相手だとは分かっていたはずだが、いざその違いを見せ付けられてみると戦慄や恐怖を通り越して、失笑が漏れる。十数秒の出来事とはいえ、五対一の攻防で相手に掠り傷すらつける事ができなかった。剣を受け止めた左手も傷はついていない。剣を握り締める技など聞いた事はないが、障壁の魔術を応用した術であろう。
 対してこちらは、少し間違っていれば二人は死者を出す所だった。ソフィアは難を逃れたが、ディルトの受けた傷は深刻だった。これでも、牽制用に編んだごく威力の小さい魔術であったらしく、命に別状はなかったが、直撃した上半身に酷い火傷を負っている。魔術による治癒は体表の傷を治す事は比較的容易なので、しばらくすれば意識を取り戻せるだろうが、その後戦闘に加わることは難しいだろう。
「あーもうすっごい怖かったぁ」
 暗黒魔導士を警戒しながらブランと共に後退してきたソフィアは、ウィルの目の前に到着するや否や、胸に手を当てて早口で感想を述べてきた。衝撃が冷めやらないらしく目を見開いているが、そこに感動にも似た輝きが宿っているのを見てウィルは、引き攣り気味だった自分の頬に更に力が入るのを感じた。
「……見てるこっちが怖かったわ」
「あはは、そう?」
 ソフィアは何がそんなに気分がいいのか、実に楽しげに笑って頭を掻く。いや――何がも何も、つまりは今の命のやり取りが楽しかったのだろうが。許されるならこの少女をみの虫のようにぐるぐるに縛り、猿ぐつわをかませてどこかの物置の奥に放り込んで施錠しておきたい所だったが、今彼女に抜けられるのは非常に痛いのでウィルはその案を捨てざるをえなかった。
「それはともかく、真剣な話、どうするのよ? かなりいい感じにピンチよ」
「全然いい感じじゃない」
 憮然と訂正を求める。が、ソフィアは素知らぬ振りをした。
 こちらの作戦がまとまるまで猶予を与えてくれるつもりなのか、暗黒魔導士は、こちらを向いてはいたが魔術を編もうという様子は見せていなかった。いつ不意打ちをくれてくるかわからないので十分に警戒しながら、ウィルは一瞬だけソフィアに視線をやった。
「カイルがディルト様の容体を落ち着かせるまで数分は必要だ。とりあえずその間をどうにかしないと」
「そうね……」
 ウィルの言葉に同意してから、ソフィアはまだ握っていた折れた剣を見下ろした。
「折っちゃった。ごめん」
「それはいいけど」
 ウィルもまた、ちらりとだけそれに目をやってから、眉根を寄せた。
「ディルト様の剣……は」
 暗黒魔導士の傍に落としっぱなしだった。ブランは後退しつつ王子は回収してきてくれたが、剣まではさすがに気が回らなかったらしい。
 思案していると、カイルタークが治癒魔術の手を一旦止め、着ているローブの内側をまさぐった。
「使え」
 言って、ソフィアに投げて寄越したのは二振りの短剣だった。
「そこのなまくらとは物が違う。簡単に折れたりはせんだろう」
 物問いたげな表情を浮かべたソフィアが何かを口にするよりも先に、カイルタークはディルトへの治癒を再開していた。ソフィアは頷きで答えて、鞘を払った。鍛え上げられた鋼鉄が、二筋の鈍い輝きを放つ。
「ソフィア、近接戦闘で何とかしてみてくれ。魔術さえ使われなければ、五分で勝機はある。間合いが開きそうになったら俺が魔術で牽制する。……多分このフォーメーションが一番勝てる確率が高い」
「私は?」
 遠慮がちな声で問いかけてきたブランに、ウィルは一瞬口ごもった。咄嗟に出しかけた言葉を口の中で反芻して、慎重に声にする。
「……本当に戦えるのか? あいつと」
 決意を問う二度目の問いに。
「出来るわ」
 ブランは、黙って真正面――戦闘開始時から半歩ほども動いていない暗黒魔導士を見つめたまま、震える鈴のような、しかし決然とした声音で答えた。


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