CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 12 #83 |
第12章 誰がために彼は祈る どさっ。 と、ウィルの身体は、空中一メートルほどの高さから無造作に地面に投げ出された。しばし痛みに耐えかねて呻いていたが、やがて、諦めというある種の境地に辿り着いて、一言呟く。 「……なんだかなぁ……」 身体を起こしつつ、服についた乾いた砂を手で叩き落とす。彼らの周囲の木々や地面、壁や石畳の歩道――見渡す限りの静穏な街並みには、きちんとした色があった。つまりは、どす黒い紫色ではなかったという事だが―― 「昨日から今日にかけて、なぁんかぺちぺち落っこちてばっかりなような気がするんだけど」 「あー、あたしもそれ、思った!」 唇を尖らせながらぶつぶつと言っているウィルとは対称的に無意味に明るく、ソフィアが答える。空のすっごい高い所から落ちたのとー、闇の獣から逃げる魔術のときとー、などと言いながら、ウィルにとっては思い出したくもないほどうんざりした経験を、楽しかったピクニックの思い出のように指折り数えていたりする。 呆れたようにそれを眺めるウィルの周りで、同じように土埃を払いながら、ディルト王子、サージェン、ブランたち三姉妹――確認するまでもなく居合わせた全員が、起き上がろうとしていた。 彼らはようやく、元の世界に帰還を果たした。 ほんの十分少々、時間を溯る―― 時空の壁を破る魔術。名前はリュートのことだからつけていないだろう。それが、この常闇の深淵から脱するために使わなければならない魔術だった。 この魔術については昔、その師が何故か妙にはまっていたために、とばっちりを受けて研究に付き合わされたことがあった。暗記するほど幾度も魔術の構成図を読まされ書かされ実験させられしくじりかけて危ない目を見させられ。とにかく印象に強く残ってはいた。当時、この術を成功させる事ができなかったのは単純に、魔力量が不足していたためであって、理論面では完成していた。だからこそ、師の知る限り一番魔力の高い人間だった彼に実験台という白羽の矢が当たったわけだったのだが―― 「失敗したことのある術ってのは、もう一回やろうってなるとかなり勇気がいるもんなんだけどな」 しかも失敗した、には散々という接頭語がつく。あわや暴走というか暴走寸前というかプチ暴走という状態にまで陥ったのだ。しかもその時は師という能力の高い魔術士がいてくれたから被害を縮小できたわけで、今回は――ノワールはいるが、さすがにリュートと比べると頼りない気がする。しかも何回も試した事があるとはいえもう七年も八年も前の話で、記憶は曖昧になりかけている。つまりは、不安要素でない点を探す方が困難であるくらいだった。 (魔術を成功させるための心得、その一……) 口に出さず呟く。心得その一。それは、理論部分を完璧に把握しておく事だ。完全に理解していないまま術を行使することも不可能ではないのだが、それでは万が一実行中に何か不具合が起きたときにそれをアドリブで修正することは出来ない。万全を期すなら知識を曖昧にしたままで術を実行したりしてはならない。 (んなこと言っても思い出すのには限度があるわ。よし。思い出した。という事にして、次) 魔術を成功させるための心得、その二。十分な魔力を確保できる状態を整備しておくこと。心身ともに平静を保ち、『自然界の魔力』を無駄なくむらなく集められる状態にしておく。それで足りなければ、魔術紋章や魔力の付加されたアイテムを用いる。今回は、魔力はソフィアが持っている(らしい)ものを使うことになるので、カイルタークたちの言うことを信用するならば、それは十分だろう。 (但しこんなの今迄やった事ないからな。どうなるんだか。でも出来るってことにして、最後) 心得その三。 (信じること) 思考を開始してから初めて、ウィルは瞼を開けた――今迄瞑っていたのだ――。目の前には少女がいる。亜麻色の長い髪の少女。ソフィア・アリエス。地面に足を組んで腰を下ろしているウィルの目の前に、少しだけ緊張した面持ちで座っている。ただ、この少女の緊張しているは、わくわくしていると同義語である場合が多いのでくせものだ。 彼女以外の皆は、魔術が完成する直前まで少し離れていてもらうことにしてあった。無論、さほど離れていない場所から二人のことを見守っているのだろうが、目の前の少女以外の何にも注意を払っていない今のウィルには、その気配は感じられなかった。 (魔術を制御するのは精神力。精神力なんてもんは気の持ちようだ。出来ると信じる。心から欲する。絶対実現させてやると意地になる) 「ソフィア」 「何?」 ウィルに静かに呼びかけられて、ソフィアが彼の顔を見た。 「君は、俺のこと、信じてる?」 唐突といえば唐突な問いに。 しかしソフィアはさほど迷うことなく、にっこりと笑った。 「信じてるよ。魔術士としてのウィルも。軍師としてのウィルも。人間としてもね」 「恋人としては?」 敢えてソフィアが口に出さなかった言葉を、ウィルは真剣な面持ちで囁いた。ソフィアはつぶらな瞳をウィルに向けたまま、彼の顔を覗き込むように首を傾げる。 「それなり?」 「それなりですか。しかも疑問形」 変わらない平静とした表情で――こめかみに流れる一筋の冷や汗さえなければ完璧だったのだろうが――答えるウィルに、至上の微笑みを向ける。 「頑張れウィル、負けるなウィル」 「励まされても」 「そんなこと、わざわざ聞くから混乱させてみたくなる乙女心」 「我ながら自信はあったんだけどね。若者の自信は愚にもつかないと先人は言っているからね。用心だよ。特にソフィア嘘吐きだしね」 「うふふふふ。言うわね」 「あはははは。何度も足払い食らわされてるからね」 何故か、爽やかに微笑み合いながら軽い火花を周囲に撒き散らしている恋人たち二人の耳に、誰のものかは分からないが遠くの方から、咳払いが入る。それで我を取り戻したかのように二人は同時に、笑い声を垂れ流す唇に蓋をした。 「ま、いいや。……今は魔術だ。ソフィア。もっと傍に寄って」 「変なことしない?」 「しないよ。ディルト様が石投げて届く範囲にいるってのに」 それで十分に納得したらしく四つん這いで近寄ってきたソフィアを見て、ウィルは飼い主に寄ってきた座敷犬を連想した。思わず頭を撫でてやると、ソフィアは尻尾があったらちぎれんばかりに振っているだろうという表情をした。 (可愛いなぁ……) しかしウィルは、頬がだらしなく緩んできそうになるのを懸命に堪えて、声のトーンを低くする。 「あいつは、どうやってた? ルドルフは」 「あたしの力を使うとき?」 返すソフィアの声からも、僅かに笑みの気配が剥がれ落ちている。 「どうって、見てたでしょう? あんな感じよ。あたしに触って……その上でルドルフがどうしてたかなんてのは、分かんない。あたしは何もしてないの」 「ふむ……」 とりあえず呟いてみて、彼は目の前のソフィアを抱き寄せることを試みた。ソフィアの両脇に手を差し込んで、わぁ、と声を上げるのを無視して引き寄せる。恋人同士の抱擁というよりやはり愛犬家と犬というような状態で、おとなしく彼の膝の上に抱かれているソフィアの身体に腕を回しながら、ノワールやカイルタークに説明された言葉を、確認するように羅列する。 『正確には、空間の壁を破る能力。もっとも、計り知れない魔力が成せる技の、ほんの片鱗にすぎんがな、そんなものは』 『ソフィア・アリエスと、術者が、心を、通わせる』 『ソフィアの魔力をお前が制御し、次元壁を破る魔術を使うのだ』 『彼女が、お前を心から信頼して魔力を明け渡せば……』 多分―― 信頼という事に関しては、問題はもうない。いや、最初からなかったのだ。ウィルの中にあったわだかまりは、ただ、ルドルフに嫉妬していたというだけの話で。思い返すと恥ずかしくて死にそうなのでこれについては忘れる事にしておくことにした。ついでに、図らずしもソフィアに感じたあの欲望も一緒に意識の奥底に封じておく。まあ、こちらはそのうち達成してやるつもりだが。何年先になるか分からないとしても。 ――いつの間にか、余分な雑念が入っている思考を、リセットするようにウィルは軽く頭を振った。しきり直す―― 空間の壁を破る力、これはソフィアの能力だという話だったが、多分、本質はそういう事ではないだろう。カイルタークは、ルドルフがあれを操っていたと言っていた。ソフィアは魔力を提供するだけなのだ。ソフィアに自覚がないということは、何か特殊な術式を使わなければならないのかもしれない。とすると、その術式を解析しなければならないが、手がかりがないとなるとこの作業は解析というより開発に近い。求める現象のシステムを理解していれば、即興で術を作るのは難しくない。が、そのシステム――どういう仕組みでソフィアの魔力を使う事ができるのか、という問題の、「どういう仕組み」という部分が分からない以上はどうしようもない。何だかよくわからないものを魔術でどうこうすることは出来ないわけである。 (……それは無茶だよ) というのがリュートに分からないわけはない。だから――恐らくは、そういう特殊な手段というものは、ない。 さりとて、触れているだけで彼女の魔力を使えるという事もないだろう。知らずとは言え彼女に触れながら魔術を使った事はあるのだ。その時にも変わった結果は生じていない。 加えて、これはある意味それ以前の問題なのだが―― ソフィアから、肝心の魔力を感じないのだ。幼かった頃も、ソフィアと呼ばれるようになっていたときも。そして、無論今も。 あるはずなのに、感じない力。意識しない魔力―― ふと、ある事が脳裏に閃く。 思い付きを確かめるため、乾いていた唇を舐めて、ウィルは、呪文を唱え始めた。 「ウィルザード?」 ノワールが声を上げたのは、彼女には、彼の使おうとしている魔術がどのようなものであるのか、分かったからだろう。だが、彼がそれを使う理由が分からなかったのだ。目的の、空間の壁を破る魔術ではない。どうということのない、ただの攻撃魔術だ。近くに何か目標がある訳ではないが、適当にその辺りに放てばいい。ウィルの考えが正しければ、多分これが一番手っ取り早く効果を確認出来るはずである。 意識を研ぎ澄ませる。魔力を練り上げ一つの形にする。言葉の魔力をそれに上乗せする。 尖らせた意識の先に、十分な力が集まってきていることを、ウィルは確かめた。この魔力を集めにくい空間で、普段と何ら遜色ない魔術が作り上げられる。 (やっぱり……そうだ) 直感が確信に変わる。先程まではやりにくくて仕方なかったその作業が、今は、元の世界にいるときと同じように、いや、それ以上にスムーズにこなす事ができていた。 (……これで八十) 自分の総力に対する現在の力の比率を、頭の中に弾き出す。長年の経験から、ウィルは自分の扱いうる魔力の量は完全に把握していた。そして、何か魔術の暴発に嫌な経験があったらしいリュートに――それがどうやらカイルタークがらみであったことは随分後になってから知ったのだが――、徹底的に制御法を叩き込まれてきた。結果、魔術の制御力は、ウィルがカイルタークに勝る数少ない項目の一つになっていた。普通はやらないが、仮に自分の魔力を百パーセント使って術を構成したとしても、制御しきる自信はある。 普段使う魔力の割合は、特に理由はないが最大で全力の八十パーセントと決めていた。しかし今は、それを超えても魔力を紡ぐことを止めずに、意識の中にあった魔術を外界へ現出させた。可視のエネルギーの塊が、上に向けた手のひらから少し離れた空中に、握りこぶし程度の大きさの光球となって生み出される―― (……九十五、九十六、九十七……) 少しずつ、自分の身体に内在する魔力を引き出していく。そして、それを使って術を行使するための更なる魔力――『自然界の魔力』を集めるのだ。 魔力を魔術に具現化させながら、確信を、胸のうちで言葉にする。 ローレンシア王国に古くから伝わる力。そして、ルドルフが何年もかけて追い続けた、ソフィアの力――いや。 女神の力なるものの本質について。 (彼女は……女神とは……『自然界の魔力』そのものなんだ……) ――百。 手のひらの上の球体は、たまに火花が散るような音を立てはしたが、非常に安定した状態でそこに具現していた。 魔術――己の魔力と、呪文の魔力を用いて『自然界の魔力』を集め、その力でもって強制的に物理法則を歪め生じさせたエネルギー。魔力で生み出されたエネルギーは、本来なら物理法則に作用しないはずの精神の力で纏め上げられ、制御される。物理法則を超越した魔術としてそこに存在する以上、その法則に縛られることはない。魔術が解放されて、物理的に世界に作用した結果は――つまり、そのエネルギーによって燃えたり壊れたりしたものはその限りではないが。 この小さな球体には、街の一区画を一瞬にして消滅させる事ができるほどの熱量が凝縮されている。百を数えて、しかしウィルはまだその力を解放しようとはしなかった。 自分の魔力は全てこの術に注ぎ込んでいた。正確には、『自然界の魔力』を集めるための『餌』にしてしまったわけだが。『餌』がもうない以上、さらなる出力は望めない。『自然界の魔力』はその名の通り、自然界に尽きることなくいくらでも漂っているというのに、魔術の行使に人それぞれの限界があるのは、個人の持つ『餌』の量――魔力量に差があるからである。 だが―― 今は違う。『自然界の魔力』は、ここにある。わざわざ『餌』をばら撒いて呼び集めなくてもいいすぐここに。本来の『自然界の魔力』には意志の介在する余地はないはずなのだが、彼女の意志がそれを使える条件に、信頼という文字を絡ませるのだろう。そして、彼女から魔力を感じなかった理由は――普段、魔術士が『自然界の魔力』を意識しないのと同じ理由ではないだろうか。 (……百一。……百二。……百三) 百を超えてなお、彼は数え続ける。 後は自分の精神力との戦いだった。未だかつて試したことのない力を、暴走させることなくねじ伏せなければならない。数字が百を十超えると、手のひらの上の球体が、火花の音を絶え間なく放つようになった。だが、ウィルはまだやめない。 ノワールが、皆をもっと下がらせているようだったが、心配せずとも暴走させるつもりはなかった。しかも今は本番ではない。実験をしているだけである。暴走させるつもりはないが――その寸前まで出力を上げ、限界を知っておかなければならない。そうでないといざめいいっぱいの事をやらなければならないとき、判断を誤る事になる。 球体に向けていた視線を、ウィルは僅かに動かして、膝の上に抱きかかえているソフィアへと落とした。手を伸ばせば届くほどの位置にある、とてつもない破壊力を秘めた光球を、彼女はもの珍しげにじっと見ている。魔力を感じる事は出来なくても、それの持つ圧倒的なエネルギーは肌で感じているとは思うのだが、間近のそれに怯えるような様子はなかった。他人事だと思っているのか、それとも―― (俺を信頼してくれてる、って事なのか……ね) 百二十。 数え上げていた数字を、ウィルはそこで止めた。おそらくこれが限界だろう、と何となく気づく。昔、散々暴走寸前の辛酸を舐めさせられていた利点が、思いもよらないこんなところで見つかった。踏み越えたらいけないライン、というものが分かるようになっていたらしい。 手のひらの上のエネルギー球を、ウィルは真っ直ぐ前、誰もいない方角に向けて撃ち出した。 自分の腕の先から光球が離れた直後に、彼は即座に頭の中を切り替えた。別の魔術――防御障壁の魔術を、着弾までの数瞬で、最大威力で編み上げる。 張られた障壁の向こう、遥か遠くで小さな光球が着弾する。 瞬間―― 耳に届いた爆音は、威力と共に障壁に阻まれ、大分くぐもっていて、威力のほどを認識し難かったが―― 「……よし。実験おしまい」 軽く声を上げるウィルの視界いっぱいに広がる扇状のクレーターもどきが、その実験の成功を証明していた。 「ってな訳で割といけそうなんで、本番の魔術を始めよーか」 くるりと後ろを振り返ってウィルは皆に呼びかけたが、ノワールを始めとしてその誰もが、唖然とした表情でその爆砕跡を眺め続けていた。 そして。 彼らはようやく、元の世界に帰還を果たした。 |