CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 11 #81

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 草原地帯から、一歩、森と呼ばれるところに入ってしまうと、そこは極相に達した大森林地帯のような様相を呈していた。もともと夕暮れ時のように薄暗い空は、紫の葉に覆われていて、殆ど光を地表へと落とさない。光線を遮られると下草の育ちが悪くなるため、この規模まで成長した森は逆に歩きやすくなっていることだけは元の世界と変らなかったが。これだけの森であれば普通、樹海と言えるほどの広大な面積を有しているものであるのに、ここは、十分も歩けば反対側に抜けてしまう程度の広さでしかない。しかしそれでも、見たところ、この常闇の深淵にしては大きい部類の森であるようだった。
(本当に、変な所)
 どこか薄気味悪さを感じながら、ブランは自分の腕を抱いて独りごちた。自分たちが住まうミナーヴァ大陸とは非常にかけ離れている。常識が通用しないと言い換えてもいい。濁った紫色の空、毒々しい湖、暗い森に生える異常な植物。それに、闇の獣と呼ばれる魔物。先程、姉とウィルザード――ウィルが、魔力の性質が違う、という話をしていた。ブランには、魔術士のように自然界に満ちる魔力を感じ取る力はないはずだったが、ずっと心に巣食い続けている、この訳もなく急かされているような不安な気持ちは、それに起因しているのかもしれない。魔力は精神面に影響を及ぼすという話を聞いた事がある。
 さまようように、森の中を、周囲に意識を配りながら歩く。近くに獣が潜んでいる気配はないが、相手は自分たちの常識の上を行く存在なのである。下手な勘は当てにならないだろう。
 多少びくつきながら周囲を見回す彼女の視界の端を、何か動くものが横切って、彼女は即座に顔をそちらに向けた。
(……ソフィア・アリエス)
 目で確認したものの名を、僅かばかりの安堵と共に胸中で呟く。
 柔らかそうな亜麻色の長い髪の少女が、きょろきょろと左右を見回しながら歩いている姿が、二十メートルほど離れた場所に見えた。手近にあった太い木の幹の影に、思わずブランは隠れる。彼女に見つかってまずい理由など、なかったが。
(彼女も、来たのね)
 多分、来るとは思っていた。具体的に何があったのかなど知る由もないが、ディルト王子が問いかけたときの彼女の思い詰めた表情を見れば、ウィルが思い悩む内容が、彼女に深く関連しているという事くらいは分かる。
 胸の中をざわつかせるものが、その体積を増す。足早に、ブランはその場を離れた。

 両手両足を大きく広げ、身体を枯れ葉の撒かれた大地に預けながら、彼は見開いた目を遥か上方――彼にしてみれば真っ直ぐ前方に向けていた。程なくして見つけたのは、そんな姿の青年だった。
 彼は落ち着くのだろうか? このような不気味な空を見上げて。考えながら、ブランはしばし、彼と同じように天空を見上げていた。が、彼女には分からなかった。彼女にしてみれば、影になり、黒く沈んだ枝葉に埋もれる空は、少なくとも安らぎを感じる類の光景ではなかった。
「薪拾いは?」
 青年を、彼の頭の上から中腰で見下ろして、ブランが呟く。彼女の接近に、彼が驚いた様子はなかった。いくら忍ばせても枯れ葉を踏む音を押さえることなど出来なかったから、驚く道理もないだろうが。彼女の方へ視線を向けないまま、しかし笑いかけるように瞼を下ろして、彼が呟く。
「一人になりたかっただけだって言ったら、折角心配して来てくれた君は怒る?」
「別に」
 それはあっさりと即答できる問いだった。間髪入れずに、答える。
「そんなの、誰が見ても分かることだったでしょうから」
「そうかな」
「分かるわよ。あからさますぎるのよ、貴方は……ウィル」
 青年の名を意識して通称で呼ぶ。本名で呼ばれることに彼が抵抗を示していたというわけでも、彼が通称を使うように推奨したわけでもなかったが、いつのまにかブランも、彼をその名で呼ぶようになっていた。それでも、彼女の思考の中に出てくる名前はまず『ウィルザード』で、『ウィル』ではなかったから、口に出すには自分でも気付かないほどの意識が実は必要だった。今はどういう訳か、いつも以上に自分の口は、その意識を求めていた。
「皆心配してるわ。戻りましょう」
 あの子も。
 告げてあげるはずだったその言葉が、何故か口をついて出てこなかったことに、ブランは少々驚きを感じていた。一番心配しているのは、間違いなく、ソフィア・アリエス、彼女だったのに。
 ブランの声に促されて、しぶしぶといった感じでウィルが上体を起こす。だが、立ち上がる気はなさそうだった。足をだらりと伸ばしたまま、腕を身体の後ろについて、面倒くさそうな表情で座り込んでいる。あまつさえ、彼が呟いた言葉は――
「やだなぁ」
「……?」
 完全に、意表を突かれた心地で、ブランは青年を見た。彼は、ブランと目を合わせようとしないまま――さりとて意識的に目を逸らそうともせずに――ただ、無気力を身体全体で表していた。
「疲れた。もう何もしたくない。このまんま寝てたい」
「……ウィル?」
 声をかけてみる。が、彼はぴくりとも反応しない。
「何があったの? ……連絡があったんでしょう? 元の世界に戻る方法について。何か、まずい事があるの?」
「まずいこと、ね」
 こちらを向かない彼の声に混じっていたのは苦笑だったが、本当に彼が声と同じ表情をしているのかというのは疑わしかった。静かに、枯れ枝を踏んで彼の正面へと回り込む。目の前に立った少女に、青年は無理をしたようににこりと目を細めた。
「そうだよね。嫌だからって避けてちゃ、君たちまで戻れないんだもんな。それじゃまずいよな」
「……そんなのは」
 僅かに、答えた自分の声にいらいらとした感情が混じっていたことに、ブランは声に出してから気がついた。はっとしたが、口に出した言葉を回収出来るはずもなく、しかし続く言葉からはそのような気配はなくそうと一旦言葉を切る。ちらりと目に入ったウィルが、驚いたように、或いはこちらも意表を突かれたように、何かを呟こうとしたまま、呟けずにいる表情をしていた。
「いいのよ。別に。……どういうことを言われたの?」
「ソフィアの力を使えってさ。ソフィアが俺のことを信頼すれば、彼女の魔力を引き出せるから、それで魔術を使って戻ってこいって」
「それのどこが問題があるの?」
 眉をひそめて問う。喉に、少しだけ引っ掛かりを憶えたが、彼女はそれを無視した。
「あの子は貴方の……恋人でしょう?」
 それを言葉にしてしまった瞬間に――
 ブランの感じた引っ掛かりは、明らかな後悔へとその身を変じていた。痛烈に、自分の言葉が胸を突き刺す。そして、それを言われて彼が見せた、深い苦悩の感じられる、だがそれだけではない、何とも表現のし難い表情も別の方向から、彼女の心臓を抉っていた。
「恋人か……そうだね、そうだったら、何の問題もないんだろうね」
 この森と等しい暗さで呟かれた声音は、何かを諦めた響きすらあった。しかし、もどかしそうに自分の胸元を掴む手は、どうしても手放してしまえないものを掴もうとしているかのようだった。ブランは漠然と思っていた。相反する感情の中で彼が見せた苦悩は――苦悩ではなく、単純に混乱だったのかもしれないと。
「分からないんだ。どうしたらいいか。……ルドルフは、今でも彼女の中で大きなウェイトを占めている。そんな中に無理矢理割り込んで奪ってどうする? それじゃ意味がないんだ。俺が欲しいのは、奪おうとして奪えるようなものなんかじゃないのに」
 寒さに震えるような声で、ウィルは囁いていた。
 目を見開いたまま。固く爪を身体に突き立てて。口早な口調は恐れおののき、何かから必死に逃げているようでもあった。さすがにそれを正直に表に出すつもりはないようだったが、彼をよく知る者であれば、分かるだろう。そして。
 逃げ切れずに、追い込まれている。
 あの少女に。
「もう……やめちゃえばいいのよ」
 ブランの声に、ウィルが顔を上げた。
「やめちゃえばいいのよ。彼女一人のためにそんなに苦しむくらいなら、いいじゃない。諦めれば。忘れればいいのよ」
 座り込んだ彼の前の地面に、ブランは膝をついて、彼の顔を覗き込む。まばたきもせず、彼はブランを見詰めていた。
「苦しいことに自分から執着する必要なんてないじゃない。あの子を想う事がそんなに難しいなら、やめなさいよ。つまりは、貴方、その子のことを信じることができないんでしょう?」
「信じることが……できない……?」
 返ってきた言葉は余りにも呆然としていて、隙だらけだった。そこに付け入るようで、ブランは自分自身を嫌悪したが、言葉は止まらなかった。
「信じてたらそんなに不安がる事があるの? ……私だったら……好きな人にそんな不安を憶えさせるような真似は絶対にしない」
 彼女は、戸惑いの表情を浮かべる青年の胸に、そっと手を置いた。そして、そこに顔を埋める――
「好きなの……私、貴方のことが好き……ウィルザード」
「ブラン……?」
 ゆっくりと、彼を見上げてきたブランに対し、ウィルは、うわごとのような声を上げた――

 どのくらいの時間、彼女と見詰め合っていたのだろう。ウィルは静かな気持ちで自問していた。時間にすれば数分程度だっただろうが、それは、微動だにせず同じ体勢を取り続けるには長すぎる時間だった。鼻先が触れるほどに近いところにある、儚げな少女の顔。睫毛の長い瞳が、涙にしっとりと濡れてウィルの顔を見上げ続けている。
「ブラン……」
 その少女の名を、ウィルは再び呟く。間近で見て初めて気がついたが、彼女の瞳は、青みがかった灰色で、不思議な色彩をしていた。自分を主張しないその色は、深く、穏やかに彼の顔を映している。
 その瞳をすっと閉じて、彼女は再びウィルの胸に額を寄せた。
「ずっとね」
 微風に青葉がそよめくような、そんな囁きが、ウィルの耳を撫でる――
 その感触に、彼は素直に心地いいと感じた。ソフィアが照り付ける夏の太陽だとしたら、彼女は雲間から射し込める陽光だった。慈しむように、触れてくる。
「貴方がアウザールで捕らえられていた頃から。……最初は同情だった。何で、こんなに傷つけられなくちゃいけないんだろう、この子は……って」
 シャツの上から、ウィルの胸をブランは指で一本、線を引くようになぞった。その下には、彼女がなぞった通りの古い切創がある。
「……よく憶えてるな」
「そりゃあ。半年も、ずっと貴方の看病続けてたんだもの。……いえ、看病なんて言わないわね。ただ、生き長らえさせていただけ」
 より苦痛を与えるために。
 唇でそんな言葉を形作るブランに、ウィルは叱るような眼差しを向ける。
「君の所為じゃないって言ってるだろ」
「……ふふ」
 吐息するような笑い声を漏らしながら、ウィルの身体や腕に、そっと触れて行く。
 太い錐で貫通するほど抉られた傷痕……ただれた火傷痕……肉ごと削ぎ落とされた皮膚……それらは、もう疼くことも少なくなっていたが。
 少女は下を向いたまま小さく、すん、と鼻を鳴らした。泣いているらしい少女に何か声を掛けようと、ウィルは思考を巡らしたが、結論が出る前に、ブランが再び話し出す。
「貴方の身体の事はきっと、あの子よりも知っているわよ、私」
 存外と落ち着いた――どころか、余裕すら感じられるからかいに、ウィルは頬を染めて横を向いた。
「……あの子ってのがソフィアのことだったら、彼女は知らないよ。一回しか見せたことないから」
「あら、一回はあるのね」
 思いもよらないほど艶っぽい声に、ウィルは顔を紅潮させたまま低く唸る。
「君の思ってるのとは別件でね」
 彼の声は、再び彼女に笑顔をもたらしたようだった。ほろ苦い笑顔。ウィルは、彼女の表情は見ていない。そんな感触が、服越しに胸に触れてきたのだった。
「……ごめん」
 ――口をついて出た言葉は、彼自身、意識していないものだった。
 あまりにも唐突な自分の言葉に、何よりもウィルの方が慌てた。反面、相手の少女には、変化どころか反応すらなく、変わらない調子でウィルの身体を撫でている。鼓動が伝わる程、密着しているのだから分かる――彼女の心は、微塵も揺れていなかった。
「そう……」
 淡白な声。それが、彼女の答えだった。しかし彼女の指は、名残惜しそうにウィルの服の皺を掴み取る。
「……生まれて初めて男の人に告白なんてしたのに……」
「ご、ごめんっ……」
 思わず声のトーンをあげたウィルに、少女は目を向けた。けろっとしていて、今にも吹き出してしまいそうな、そんな形で。
「冗談よ」
「……ごめん」
「もう。それしか言えないの?」
「あー……うん」
 呻きながら急いで考えて、今一番相応しいと思った言葉を付け加える。
「……ありがとう」
「まあ、いいわ」
 彼女がそう言って、身体を離したのは、今の貴方にこれ以上気の効いた台詞を望むのは無謀だって分かっているわよという意思表示ではないかと、ウィルは勘繰っていたりした。本当の意味など、座り込むウィルを残してさっさと立ち上がった彼女しか、知らないことではあったが。
 不意に。
「あ」
 ウィルの頭の上を越えて彼の後ろを見ていたブランが声を上げる。それに、がさり、という音が続く。
「?」
 ウィルが後ろを振り向いたときには、そこにあったのは黒々と生い茂る木々のみだった。
 もう一度、正面のブランの方に向き直って、ウィルは彼女に問いの視線を投げかけた。
「何だと思う?」
 聞いているのはこちらだというのに、首を傾げて問いを返される。ウィルは、面白がっているような彼女の口調に少し不安になりつつも、それを表に出さないように気をつけながら呟いた。
「ソフィアか?」
「大当たり」
 にっこりとそう返されて。
 その、完璧な――完璧すぎる笑顔を見詰めたまま、ウィルはしばらく動く事ができなかった。
「早く行きなさいよ。逃げられるわよ」
 気丈にも、そんな事を言ってくれた彼女の、笑顔の仮面の下の表情には気付かない振りをして、彼はブランに背を向けた。

 ウィルは、一直線に走っていた。
 余程慌てているのだろう。とにかく彼から距離を取ろうとしているらしい彼女の足取りはいつになく全く洗練されておらず、その後を追うのは、ウィルにはさほど難しいことではなかった。姿はまだ見えないが、一定の方向から、時たま、がさがさと草を分ける音がする。普段の彼女ならば、多少走る速度を落とし注意を払えば、ウィルになど悟られず逃げおおせることは可能なはずだが、そんな事も考えられないほど、彼女は必死なようだった。
 程なくして、木々の向こう側に、亜麻色の頭髪をなびかせる白い影が見える。
「ソフィア!」
 黒に近い紫色の木の群れの奥で目立っているそれに、怒鳴り声に近い音量で叫ぶと、彼女の髪が、その音波に震動させられたかのようにびくりと震えた。走り去っていく速度が、にわかに上がる。
「あっ……このやろっ!」
 同じように足を速めて、ウィルは地面にうねっていた大木の根を飛び越えた。
 いくら体力に難があるとはいえ、短距離走で、女の子に追いつけないわけはない。彼女の後ろ姿を発見してからは、一歩毎に、確実にその差は狭まってきていた。十数メートルあった差が、十メートルを切った辺りで、ウィルは視線の先で無我夢中な走りを見せている少女に、再び声を張り上げた。
「こら、ソフィア! 逃げるな! 止まれ!!」
 だがその忠告は功を奏さなかった。どころか、先程より近くなった声に危機感を憶えたのか、限界かと思っていた彼女の走る速度がまた更に上がっていた。腕を振り上げ、ドレスのまま腿を高く上げて、こちらとの差を開きにかかってくる彼女に、ウィルは彼女にも聞こえるほどあからさまに舌打ちをした。
「にーがーすーかぁぁぁっ!!」
 襲いくる魔王のような根の深い声音に、さすがにぎょっとしたのか、ちらりと彼女は後ろのウィルを振り返ってきていた。そのため彼女は僅かに減速し、その差が一気に詰まる。そこへ、ウィルは飛びつく勢いで跳躍した。
「捕まえた!」
「……っ!」
 丸くなった少女の瞳が、すぐ傍で見える。だからこそ、手が届く前にウィルはそう確信していたのだが。
 指先だけをかすらせて、ソフィアはするりと彼の手から逃げていた。
 上へ。
「なっ!?」
 枯れ葉を撒き散らしながらどうにか着地して、即座に視線で彼女を追う。体勢が崩れていて、すぐに追う事が出来なかったのをウィルは悔やんだ――が、実際体勢は関係なかっただろう。ウィルが跳んでも触れないような位置にある木の枝に、ソフィアは造作もないジャンプで手を引っかけて、ひょいと飛び乗っていた。
 そしてそのまま、木の枝伝いに跳ねて、瞬く間に暗緑の闇の奥へと消えて行く。
「…………」
 サルか君は。
 彼女の消えていった先に目の焦点を当てたまま、ウィルは声を出せなかった。いや。出さなかった。
 暗い森の中に一人取り残されたウィルは肩を震わせる。僅かな痙攣だったそれは、やがて、目に見えて分かる大きな震えとなっていった。それと同時に、ウィルは自分の喉がくつくつと連続した音を上げているのに、他人事のように気がついた。肩と喉、そのどちらの痙攣もが止まらない。
 とうとう我慢しきれなくなって、ウィルは、胸を反らせてその喉の震え――つまり、忍び笑いを高らかな哄笑へと変化させた。
「逃がさないって言ってるだろ……?」
 にたり。そんな擬態語のよく似合う笑みで口を割いて、意識を彼女の方へ飛ばす。
 次の瞬間、彼はその表情のまま、空間から湧いて出たように――まあ、事実そうに違いないのだが――ソフィアの目の前に現れていた。
 木の枝に飛び乗った直後だった彼女が、恐ろしい物を見た表情で、一歩足を引く。が、無論、そこに踏みしめるべき地面はない。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」
 甲高い悲鳴と。
 ずざざざざっ、という茂みの中を突き進むような激しい音を身に纏い、彼女は、三、四メートル下の地面へと直滑降していた。


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