CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 11 #76 |
彼女は、自分が最後に見た数瞬をはっきりと思い出していた。 それと同じ光景が、もう二度と見たくないと思っていた光景が再び繰り返される。 魔力で出来た光の剣が、白い霧を貫いてきて―― そのまま、青年の胸に突き刺さる。 勢いに押されるようにして後ろに倒れていく青年の姿を、霧は少女の視界から消していった。 それを最後に、辺りの風景が、次第にぼやけてゆく。それは、霧が濃くなってきたためではなく、少女の存在が、青年の遺した魔術によって徐々に薄れつつあるからだった。 (だめ……) ウィルの手を硬く握り締めながら、ソフィアは囁く。 (ここで終わらせちゃいけない。もう少し、見なくちゃ……) 視界に、暗い色が戻ってゆく。 はあっ、はあっ…… 深い森に、雨が降る。 霧はとうに晴れていた。その場で繰り広げられていた死闘の気配に、森に棲む動物たちは全て逃げ出してしまったのだろうか、そこから感じる生の気配は僅かだった。その中の数少ない一つが、荒い息を上げている。 泥水と、無残に剥がれた皮膚から流れる血とに濡れ、重くなった漆黒のローブを蠢かせ、倒れている老人は顔だけを上げた。 『王……女は……消えた……か……』 途切れ途切れに囁く声には、生気は薄い。だが、彼はひび割れた唇に、満足げな笑みを浮かべていた。 『まあ……いい。最大の……障害となりそうな……男を、消せたことだけでも……皇帝陛下はお喜びになるだろう……』 ぱちゃり、と力尽きた老人の頬が水溜まりの水面を叩く音が響く。その後も、事切れる直前まで彼は笑い声を上げつづけていた。 『……勝手に殺さないで欲しいんですけどねぇ』 辺りに静寂が落ちた頃、小さな声が上がる。 雨水の中に仰向けに倒れていた青年が、天を見上げたまま呟いていた。頬に張り付いた金糸の髪を煩わしそうに指で退け、苦笑する。彼が受けた最後の攻撃は、さすがは帝国随一の魔術士と呼ばれる、暗黒魔導士の名に恥じない強烈な一撃だった。反撃を予期してあらかじめ編み上げていた防御の魔術が、辛うじて彼の命を繋ぎ止めたのだった。 『戻らなきゃ……』 緩んだ地面に腕を立て、彼はよろめきつつも身体を持ち上げた。思う通りに動かすことなど到底出来ないその身体では、たとえ戻っても足手まといになる公算の方が大きいと当人も分かっているだろうが、彼はそのままそこで眠っている道を選ばなかった。 『待ってる……んだから……』 『もう終わった』 唐突に、冷たい声に首筋を撫でられ、彼は即座に顔を城へと続く山道へと向けた。ゆっくりと、夜道を男が歩いてくる姿を瞳に映す。 『……ルドルフ・カーリアン』 青年の、冷え切って紫がかった唇がその名を呪詛のように呟いた。軽装の――というより儀式的なものなのだろう、細かい彫金がなされた鈍い銀色の鎧の男が、一人、雨に濡れながら青年を見下ろしていた。 『全て終わった。貴様の国は滅んだ』 『……嘘だ』 それは誰が聞いても非現実的な言葉だった。城下に放たれた炎に揺らめく、雨に煙る古城を視界の端に収めながら、彼はかぶりを振る。目の前の敵に向け魔術を構成しようとする気配を彼は見せたが、開いた唇から零れ落ちたのは呪文ではなく力ない笑いだった。 『陛下は……どうしました? 殺したのですか?』 『さあ、憶えておらぬな』 感情の片鱗すら見せない男の顔を、青年は強く睨み付けた。呪文を唱えながら、跳ね起きる。 男の瞳に宿る冷嘲が、一瞬見えた。 鎧の男から間合いを取ろうと後ろに下がった青年に向け、男が腕を伸ばしてくる。 『……っ!』 その手に喉笛を直に掴み上げられ、青年は空気だけで悲鳴を上げる。 『下らんはったりは止せ。もう、術を行使する力もないのだろう』 苦悶の表情を浮かべる青年に、冷たくそう告げた。視線を、少し離れた地面に動かして、そこに倒れているものを見る。同じ氷のような目で。 『暗黒魔導士を倒したか。我が最高傑作だったのだがな』 『傑……作……?』 『あれは我が研究の集大成だった。意識と記憶をとどめたまま、強力な呪縛によって作り上げる人形、『暗黒魔導士』。古代、数千もの魔を従えた邪術使いの秘術だ。対象を生ける屍にするような傀儡の術などとは格が違う。……それなりに強かったであろう? あれも元はせいぜいが教会魔術士クラスという程度の魔術士だ。『暗黒魔導士』となる事で、あの男は己の力量以上の力を得た』 ゆっくりと語るその口調は自信に満ちていた。口調はこれ以上ないと言う程冷淡で、静かだったが、自慢の玩具を見せびらかす子供じみた喜びを、その声は内包していた。 『貴様も古代魔術を研究していたな。後学の為に教えておいてやる。この術は別に、術者の魔力が対象を強化するのではない』 男は、鋭い双眸に押さえ切れなくなった愉悦を浮かべる。 『呪われ、支配されていると自ら自覚するからこそ、それに抗する為に己が魔力が高まるのだ。皮肉にも、な』 『……残酷な……!』 汚らわしいものに対し吐き捨てるように、青年が呻く。だが相手は怒りもせずに青年を見下ろし続けていた。目を――おそらくは歓喜に――細める。 『残酷? 全くだ』 認めておきながら変わらぬ平然さを纏った囁きに、奥歯を噛み締める青年に向け、男は思い出したように付け加える。 『我がここに現れた理由を、告げていなかったな、リュート・サードニクス』 自分の名を呼ばれた聡明な青年は、瞬間的に男が言わんとしている事の意味を察するが、僅かばかり身じろぎする事しか出来なかった。 その青年の頬に、恋人に触れるかのように男が、優しく、首を掴むのとは逆の手を添える…… 『音に聞こえたルーンナイトは、さぞ強力な『暗黒魔導士』となる事だろう』 首を掴む手の力が徐々に強まる中、意識を必死に保とうと、青年が唇を噛んでいた。男が愉快そうに喉を鳴らす音は、雨の音に半ば掻き消されていたが、青年の耳には届いているはずだった。最後の囁きと共に。 『己を呪え。永劫に』 視界が暗転する。 一つだけあったかがり籠に、炎が灯される。闇に閉ざされた室内を、赤い光が侵食していった。赤く染まった鉄格子。赤く染まった床。赤く染まった石の壁。そこに、赤く染まった少年が、両の手足を縛められ、磔にされている。 少年は、全身に傷を負っていた。切り裂かれ、鞭打たれ、剥ぎ取られた皮膚は、そう清潔とは言えない環境下で雑菌の侵入を許したのか、黄色い膿をこびりつかせていた。何か鋭利なもので抉られたらしい肩の深い傷は、絶え間なく赤い液体を吐き出している。 (やめろ……) はっとして、ウィルは声を上げようとした――が、声は出なかった。先刻までは何の問題もなく動いていた身体が、目の前の幼き日の自分と同様に、動かない。 少年の眼前に立っていた刑吏が、鞭を手に取った。 (……やめろ……彼女にこれ以上見せるな……) 唸り声を上げ、空気を裂いた鞭が、少年の身体を打ち付ける。衝撃を受け少年は身体を揺らすが、それは自律的な動きではなかった。瞳をどこへとも言えない場所に向ける彼は、眉すら動かさない。 その後も幾度か鞭は彼を襲ったが、結果は同様だった。少年の身体には擦り切れたような傷が残る。出血は少ない。鞭は、相手の命を簡単には削らず、長く苦痛を与えるのに適した拷問道具だ―― しばらくそれを繰り返した後に、効果がない事を悟ったか、それとも何かそう言った決まりでもあったのか、刑吏は鞭を置き、別のものを手にした。金属で出来た長い棒で、先にやはり金属製の小さな四角い板がついている。その部分を、かがり火の中に突き入れると、それは炎と同じ赤さになった。 十分に熱せられると、それは取り出される。 「やっ……」 ソフィアが、口許を押さえ、小さな悲鳴を上げる。が、目は吸い付けられたように、瞬きもせずそれを見続けていた。 じゅっ……と、肉を焼く音が耳を裂き、それに続いて焼けこげた匂いが鼻を突いた。既にぼろ布のように引き裂かれている胸に、赤々とした鉄を押し付けられた少年は、痙攣するように、一回だけ顎を上げる。――だが、反応はそれで終わりだった。頭が落ちると、それきり少年は動かない。 刑吏の男が小さく舌を打った。彼には少年を殺す事ができないのだ。忌々しげに、牢の外に控えていた兵士に何かを告げて、男も外に出る。 血のように赤い光と、傷ついた少年だけが残される―― いつのまにか、再び彼らは暗闇の空間に戻っていた。そこが元いた場所であるのかどうかはわからない。何もない、果ても見えない暗闇に、発光しているわけでもないのに二人の姿だけが取り残された幻影のように見える。もう映像が浮かび上がってこようとする気配もなく、ただただ静寂に包まれているその場所で、漆黒の地面に座り込んだ少女の肩を、ウィルは固く抱きしめていた。 「あたし……が……」 彼の胸に顔を埋める少女の、か細い声。 「全部の、原因なんだね。戦争が起こったのも、リュートさんが……ああいう事になってしまったのも」 そして、と囁いた瞬間、ぴくりと身体を震わせたウィルに彼女は苦笑して、彼の頬に手を伸ばす。 「貴方を傷つけたのも」 「……ソフィア、それは……」 違う、と言いかけた唇に、ソフィアはそっと指を当てて、首を横に振る。 「大丈夫だよ。あたしが自分で見ておきたいって願ったんだもん、大丈夫」 言って、少女が青年に向けたのは、それがもし強がりだったとしても彼を安心させるに足りる、何者にも怯まない『ソフィア』の表情だった。笑いこそしなかったものの、ウィルの表情から幾ばくか硬さが抜けたのを見て、彼女がにこりとする。 「どっちかって言うとね、むしろ、嬉しいんだ」 そっと、ソフィアはウィルの胸に頬を寄せた。彼女の柔らかな温もりが、かつて焼印を押されたその場所を癒すように包み込む。 「嬉しい?」 「うん。ごめんね、ウィルは痛かったのにね」 「いや……」 答えになっていないソフィアの答えに、曖昧に反応しかけ、ふと、ウィルは重大なことに気が付いて彼女の両肩を手で掴んだ。少し驚いた様子で見上げてくる瞳を、覗き込むように見つめる。 「ウィル、って……ソフィア、君、記憶……?」 「え? ああ、うん、分かるわよ? ある程度。大体思い出した」 「あ、ある程度って」 「んー。……一週間前の夕飯のメニューを思い出せとか言われると辛いけど」 指を自分の顎に当てて考える仕草をしながら呟くソフィアを、ウィルは半ば呆然としながら見つめていた。その視線に気づいてか、ソフィアが不思議そうに首を傾げる。 「何? 変な顔して。元々身分の割に顔の作りが緩いんだから、口許くらいきゅっと締めておかないと威厳がないわよ」 「…………」 彼女の何の悪気も感じられない声にとてつもない脱力感を感じ、ウィルはがっくりと肩を落とした。胸に込み上げてきていた感情も言うべき言葉も一気にどこかへ吹き飛んでしまったが、何とか気力を振り絞り、呻く。 「……身分と顔の作りは生まれつきで俺には如何ともし難いんだけど……」 「それはそうだけどやっぱりね。聖王国の王様がこんなあからさまにぼけっとしてちゃファンの皆様ががっかりするわ」 「ファンって……い、いやそういう事を言いたいんじゃなくて……ああ! ちょっと余分な事言うなよ! もう何言やいいんだか分かんなくなるだろ!」 「怒りっぽいなぁ。カルシウムちゃんと取ってる?」 「だーっ! それをやめいっつってんのに」 取り乱したように髪をわしゃわしゃとかきむしってウィルが叫ぶと、そのせっぱ詰まった様子をようやく汲み取ったのかソフィアが口をつぐむ。何か変わったものを見ているかのような、興味津々の表情で見詰めてくる少女に、ウィルはじろりとした視線を向けた。 (くそっ……) 内心で小さく毒づいたのは彼女に対してではなく、自分に向けてだった。彼女の驚異的なマイペースなんか、最初から知っていることじゃないか。真っ正面からやりあっていては彼女と互角に渡り合う事など出来る訳がない。それは重々承知していたが、だからと言って具体的にどうする事も出来ず、どうしようもない思いが胸の中に蓄積される。天然ぶりを遺憾無く発揮する彼女とこのやるせない気持ちをどうにかする方法を模索して、一つの結論を導き出す。実際、この瞬間ウィルはそこまで深く考えたわけではないが、一秒後にはその結論にしたがった行動を起こしていた。 目の前の少女を、身体ごと強引に引き寄せる。そのまま―― びたんっ。 ――口付けしようとしたウィルの額に、ソフィアの白い手が小気味よい音を響かせた。 「…………」 「…………」 お互い、しばし見つめ合って――やがて、ウィルが、地の底に封印された何かが呻いているような怨嗟の声を上げる。 「ソーフィーアー……」 「だ、だってぇ」 憤慨した、とか不服だ、というのではないだろう。ただ少し困ったように柳眉を寄せながら、ソフィアが唇を尖らせる。 「何の前振りもなくキスなんてされそうになったら、驚くじゃない、誰だって」 「驚くなよ、恋人の感動の再会の場面だよ? キスの一つや二つない方が変じゃないか」 「ええ?」 「ええって何だよ、ええって」 思わず低く唸るウィルから、僅かにきまり悪そうにソフィアが視線を外す。それは冗談交じりのような仕草だったが、ウィルは何か閃くものを感じて、あらぬ方を向いた少女に瞳を固定した。 「……ルドルフの方が、よかった?」 少女をじっと見据えながら囁く。と、彼女はばね仕掛けの玩具のように素早くウィルの方を向いた。丸く見開かれた薄い色の瞳が、冷静な青年の姿を映す。瞳もそうだが、花びらのような唇が僅かに強張っているように、ウィルには見えた。 「何を言ってるの?」 「ルドルフにキスされたときは、君、嫌がらなかった」 「な……!?」 彼女の目がより一層大きさを増す。 「あ、あれは、そんな暇なかっただけでしょ、変な事言わないでよ」 「だったら……」 言いながら、すぐ傍にあったソフィアの手にウィルは自分の手を重ねた。思わずソフィアはそちらへと顔を向けたが、すぐにウィルは彼女の頬に反対の手を触れ、自分の方を向かせる。 「何で俺を拒絶する? 俺じゃ駄目なの?」 「そんな……訳じゃ……」 ソフィアは顔を背けようとしたらしい。そんな力がウィルの手にかかった。だが彼はそれを許さず、視線だけを背けるソフィアを隅々まで確認するように見詰めていた。こちらに向けられない瞳。何かを隠しているというのがありありと分かる、ひそめられた眉。緊張に引き締められた口許。そのまま視線を下ろして、ウィルは彼女の頬に触れていた手をどけた。ちらりと目に入ったものを確認するのに、邪魔だったのだ。 「何だよ、これ」 彼女の細い首筋の一点を指で触れながら、押し殺した声で呟くと、え? と、ソフィアが振り向いてきた。彼女もその部分を見ようと視線を下げたが、そこは到底彼女の視界には入らない部位だった。 「な、何?」 逆に問い返すソフィアが、目の前の青年の、訳の分からない威圧感に押されて息を飲む。ウィルはその部分――彼女の首筋に残された赤い小さな痣から目を離さないまま、低く囁いた。 「キスマーク」 「キ……!?」 ぱっと、ソフィアもその部分に手をやって、絶句する。触れても分かるはずのない痕跡を確かめようと指を滑らせているその手を、ウィルは掴んだ。決して強くではない。だが、ソフィアは怒られて親に殴られた子供が見せるような表情を彼に向けた。 「そういうことなの?」 「あ、あたし、知らない……」 ソフィアを怯えさせるのは、その事実なのか、それともウィルの声なのか。知らないというのも、彼女の嘘なのかもしれない。そうだったら、嘘に対する罰に怯えているという可能性もある。それは判然としなかったが、どれであるにしろ、彼女が追いつめられているのは確かだった。珍しくも追う側となっている自分が、微かな愉悦を感じていることに気付いて、ウィルは自嘲の笑みを口許だけに浮かべた。だがそれをソフィアは自分へ向けての嘲笑と取ったのか、目を見開いたまま必死に首を横に振る。 「違う! 本当にあたし、知らないの! 信じてよ!」 「違うって言うのなら、どうして嫌がったの?」 「……! それは……」 キスしようとしたとき――最初はいつものように恥ずかしがっているだけかと思った。だが、違う。どこが違うという訳ではなかったが、そういうものではないと感じたのだ。そしてかまかけ程度の意味合いで出したルドルフの名前に対する彼女の反応で、確信した。彼女の心変わりに、奴が関係していると。 「……らない」 ウィルの小さな呟きに、ソフィアは声に出しはしなかったが疑問を投げかけた。聞き取れなかったらしい。再び呟く。 「俺だって、知らない。君が、あいつと何をしてたとしても、俺は知らない」 二回目はきちんと聞き取れたようだった。だが、表情が変わっていないのは、意味が理解出来なかったからだろう。ウィルにはそれを言葉で説明する気はなかった。ソフィアの頬に、両手で包み込むように触れる。 「君が俺の方を向いてくれなくたってどうでもいいんだ。先に約束したのは俺なんだから、今更後になんて引けない」 ゆっくりとソフィアの方へ近づけた唇を、ウィルは、彼女の唇にではなく首筋の痣に落とした。 「きゃっ!? 何する……」 押し返そうとするソフィアの手を、さほどの苦もなく封じつつ、彼女の肌を少しきつめに吸う。唇を離すと、痣の赤味がより一層増していた。陶酔した表情で、ウィルは自分のつけた跡を見下ろした。 「や、やだっ! やめてよっ! 何考えてるの!?」 「一生離さないって、約束しただろ? 憶えてる?」 「お、憶えてる……けど」 くすり、と笑うウィルに、恐々とソフィアが応える。もう一度、ウィルはソフィアの肌に唇で触れた。今度は優しく。触れた唇で、くすぐるように囁く。 「君がルドルフを好きだろうが何だろうが、約束は遂行させてもらう、ってことだよ」 「ちょっ――」 何か、言いかけようとしたソフィアを無視し、ウィルは彼女の身体を床に押し付け、その上から覆い被さった。床に倒れた時の衝撃の所為か、瞬時無抵抗になっていたソフィアが暴れ始める前に、両の手首を掴み上げる。その体勢が出来上がった頃にようやくソフィアが声を上げた。 「こ、こら! 何するのよウィル! ちょっとこんなの駄目だってば!」 「駄目なのは分かってるよ。でも知らないって言っただろ」 「なっ……!? ちょっと、何、分別なくしてんのよ!? きゃあっ!?」 耳元を撫ぜた彼の吐息がくすぐったかったらしく、ソフィアは悲鳴を上げた。言葉を失ったソフィアの唇に、ウィルが自分の唇を寄せる―― それが触れる、一瞬前。 「……っ!?」 突如、体内に感じた脈動に、彼は思わず胸を押さえた。 「ウィル?」 表情を歪める彼を見上げて、ソフィアが呟く。今は自分の身体をかき抱いているウィルから解放され、彼女は慌てて身を起こした。 「どうしたの!? どこか痛むの!?」 襲われかかった事も忘れたように、ソフィアが鋭く叫ぶ。それに対してウィルは小さく首を振った。 「痛みじゃ……な……い……。ただ……」 「ただ?」 聞き返したソフィアは、答えを待つまでもなく気づいて目を丸くした。ウィルの、自分の胸を押さえる指先が、半透明になっている。そう思った次の瞬間には腕までそれが広がってきていて、指先は消失しかけていた。 「な、何これっ!?」 「多……分、戻るだけだと思う……現実世界に」 途切れ途切れではあるが冷静な声で、ウィルが呟く。もう身体の半分以上は消失していた。胴などは見た目では完全に分断されていたが、上半身が落下したりすることは幸運にもないようだった。ソフィアはと思って見ると、言葉を信用してくれたのか取り乱したりはしていなかったが、見た目のインパクトの所為か今にも卒倒しそうな表情である。彼女の頬に手を触れてやりたいとウィルは思ったが、生憎ともう両腕とも消滅していた。もっとも、今の今迄あんな事をされていた相手に優しく触れられても反対に怯えさせる事になるかもしれないから、それで正解だったのかもしれない。 「ごめん、どうかしてた。忘れてくれ」 とりあえず、またすぐに会えるだろうとは信じつつも――もしくは願いつつも――、一言、消える前に謝っておく。ソフィアが慌てて二、三度頷くのを最後に、何も見えなくなった。おそらく、目が消えてしまったのだろう。 すぐに意識も消えた。これはきっと脳が消滅したのだ。 |