CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 11 #74 |
第11章 みちびくもの 手を―― 伸ばさなくちゃいけないと思った。 落ちていくあのひとを、自分が捕まえなくちゃいけないと思った。 あんなに離されるのが怖かったルドルフの手を、自分から振り払っていた、そんなことにもその時は気づかずに。 落ちていくあのひとと一緒に、闇の底へと落ちる。 気づいたとき、視界の大半を占めていたのは、紫色の空だった。 夕暮れ時のような透明な紫色ではない。赤みがかった紫と、黒の絵の具を半端に混ぜたような、そんな色だ。ありえないとか不気味だとかいう単語が、曖昧に頭の中に浮かぶ。だがそれを感想として認識することなく、彼――ウィルは、そのまま意識の中の闇に溶かして行った。情報だけが意識の外で交錯する心中は、混乱してはいない。ただ、彼はぼうっとそれを眺めているような心持ちでいるだけだった。頭の中を整理しようという事すら考えつかないまま、ぼんやりと、青年は心持ち上へ上げていた視線を下ろしていく。 ゆっくりと広がっていく、紫の空の下の大地―― 視界の右側に広がる草原。遠くに煙って見える山々の岩肌。点在する樹木。そして、草原の反対側に広がる広大な湖――それすらも、空と同じ濁った紫色だった。紫色のフィルターを目の前にぶら下げているかのように。しかし、どうやらそうではないらしい。たまたま目に入ったディルト王子の金髪や、ブランの陶磁器のような肌は普段と色を違えていない。 (ディルト様? ブラン?) この辺りに至ってようやく、意識がはっきりし始めてくる。 (何だ? 何があった……? 帝国の城に……いたはずじゃなかったか……?) 今度は先程のように流さず、行き過ぎようとする情報を後ろからひっ捕らえるようにして、記憶を手繰る。が、その思考は自らの驚愕によって中断させられた。 簡単に言えば、見るはずの無いものを見てしまったのだ。もしくは見てはいけないもの、か。 紫の大地を踏み締めるディルト王子の見下ろす足元。跪くブランが握るその手。 目を閉じて、静かに横になっていたのは――ウィル・サードニクス。自分だった。 「ちょ、ちょっと待てっ!? これってもしやあれか、噂の臨死体験って奴か!?」 側頭部を手のひらで叩いてウィルは思わず叫んでいた。横たわる自分の所――と言えばいいのかどうか定かではないが――に駆け寄ろうとしたその時に、初めて自分のいる場所が彼らのいる場所と違うという事に気付く。自分が見ていたのは、彼の身長の数倍もある巨大なスクリーンに映った、映像だった。ぐるりと後ろを振り返って見まわすと、そこは果ての見えない真っ暗な闇の中だった。 何も知らない者が見れば、ひどく心細くなる風景だろう。だが、ウィルはこの状況に近いものを知っていた。 「精神……世界?」 眉を寄せて呟く。その呼び方が正式なものかどうかは知らないが、意味合いとしてはその言葉は端的で的確な説明になる。 魔術の中には、精神を直接施術対象とするものがある。例えば、人の精神内に潜り込んだり精神を直接攻撃したりというものである。その場合、精神同士が接触する仮想的な場となるのが、この精神世界だった。実際にそれを体験するのは暗黒魔導士から受けた接触以降二度目でしかないので、実はただの夢か本当に臨死体験なのかもしれないが、取り合えず前に起きた事と似た現象であったので、ウィルは落ち着きを取り戻す事ができた。 「何だってまた。まさかあのタイミングで精神攻撃を仕掛けてきたってわけじゃないだろうし」 独りごちながら、ウィルはスクリーンに視線を戻した。紫の世界の中にいる人物を確認する。そこにいるのはディルト王子、ブラン、それとサージェンに、何故かノワールの四人だった。転がっている自分らしきものはとりあえず除いておく。それにすがって涙を零すブランを見ると、やはりその青年は絶命しているらしかった…… これが精神攻撃のつもりなら、こういった幻覚を見せるという事も不可能ではないが、それが彼に対しては効果的な攻撃にはなり得ないという事は、ウィルという人間をよく知る相手になら予測できたはずである。確かに驚いたことは驚いたが、精神外傷になる程のものでもなかった。驚愕したのも臨死体験という風変わりな現象にであって、自分の死に対してではない。 何となく自分の身体に触れ、ウィルは吐息した。目の前で横たわる青年にはくっきりとついている、先程から受け続けた傷は自分には見つからない。当然だ。理屈では、精神世界の中では人間は竜にもうさぎにもなれる。たまたま今の彼が肉体と同じ姿を取っているに過ぎないだけで、肉体と精神は等号では結びつかないのだ。 スクリーンの向こうにはソフィアはいない。それが少し残念にも思えたが――彼女までがあの異質な世界に引き込まれなかった事の安堵の方が大きかった。 「さて、でも参ったな。どうすりゃいいんだ? 死神のお出ましまで待ってればいいのかな」 とりあえずやるべき事も見つからず、途方に暮れるというよりはどこか暇を持て余すような心持ちで、彼は声に出してそう呟いた。 自分の死―― いくら覚悟していたと言っても、実際それを目の当たりにしてまで冷静でいられるとはウィル自身、思ってはいなかった。かつてはあんなにも生に執着した自分だ。自縛霊にでもなるくらい必死であがいて生きようとするかと思っていたが、今は、これはこれでいいかなどと思っていたりする。何故だろうか。考えて、まず脳裏に浮かんだのは一人の少女の顔だった。 「ソフィア……」 唇からその名を紡ぎだす。 最も愛しい少女。彼女の姿を最後に見る事ができたからだろうか。だから、未練もなく自分の魂は浄化されるのだろうか? 「未練……考えて見りゃあるかも」 最後に彼女の姿を見たいという望みは叶えられた。けれども目の前で展開されたのはこれ以上ない最悪のシーンだった。最愛の人の唇が目の前で汚されたというのに自分は何も出来なかった。いや、力の足りなかった自分自身も腹立たしいがやはり元はと言えばあんなことをやるあの男の方が悪い。 脳裏で思い出したくもない問題のシーンは、しかし否が応でも鮮明に再現される。今更ながら、沸騰し始めた湯のようにふつふつと、怒りが込み上げてきた。 「あの野郎、嫌がらせのつもりか? あー確かにこれ以上ない嫌がらせだよ。俺を見て笑いやがったしな、くっそ、絶対確信犯だ、あいつ!」 ぶつぶつと、一人文句を呟きながらあの厭味な皇帝の顔を思い出す。彼女の唇を放しこちらを見て蔑むような笑みを浮かべたあの目。全くもって腹立たしい。一発顔面にでも拳を叩き込んでやらなければ、死んでも死にきれない。 「……生きる意志は……持ったか……?」 何の前触れもなく―― 聞き逃してしまうほど静かで、絶対に聞き逃せない美しさを持った声が、耳に触れた。 その声の主を捜す必要はなかった。目の前のスクリーンがいつのまにか消えていて、その代わりのように、少し離れた場所に白いものが見える。闇の中、その暗黒を退け絶対的な存在感を主張する、人型の淡い光。長い、亜麻色の髪を有した少女だった―― 「ソフィア?」 語尾に疑問符をつけて目の前の少女の名を呟く。しかし彼女は、その呼び声が聞こえているのかいないのか分からないような調子で、瞳を閉じた。 「……汝が……生きようと思うならば……道を示そう。ただ一つの道を」 それはいつも耳にしていたソフィアの声そのものだったが、普段の少女らしさは全く感じられない、厳粛な声音だった。古代語の旋律を奏でるかのような、硬くはあるが耳に心地いい声が、ゆっくりと告げてくる。 ソフィアではない。これは、ソフィアの姿を借りた全く別の存在なのだということを、ウィルは悟った。 「己が望みを……今一度、叶えたいと願うならば……方法を提示する。……汝は望むか?」 「……望む」 迷いも疑いもなく、ウィルは答えた。 「俺は戻りたい。教えて欲しい」 「よいだろう」 そう返答し、少女は目を開いた。瞼の奥に隠されているのは、元から淡い茶色をした瞳だったが、じっくりと見ると、今はその色が殊更淡く見える。 (いや……淡い、というよりこれは……) 金だった。 荘厳な黄金色に輝く瞳が、何気ない様子で、しかし息を飲むほどの威圧感を持ってウィルを見据えていた。 「人の子よ」 柔らかな赤味を帯びた唇が繊細な歌を紡ぐ。金の瞳をウィルへと真っ直ぐに向けた少女の、髪と白いドレスが闇に光を撒く。 「全てを見よ。そして……汝の魂と身体を繋ぐ糸となる娘に……全てを知らせよ。それが汝を……現世へと帰還させる道と……なる」 「魂と身体を……繋ぐ糸?」 理解出来なかったその言葉を呟くと、少女は再び瞳を閉じた。何かを深く考えているらしい少女を見て、彼女が言葉を紡ぐには多少の労力がいるのだということに、ウィルは気づく。やがて少女は再び瞼を開いた。 「汝が魂の糸は……非常に細くなっていた。放置すれば自然に切れると感知した娘は……それをあがなう糸と自らなった。汝の……精神内に肉体ごと入り込む事によって」 「精神内に肉体ごと……って」 思わずひっくり返りそうになる声を押さえて、ウィルは中途半端な叫びを上げる。理解出来る範疇を超えていた。 「って事は何? ええと、ソフィアがそこにいないのは、俺の中に、身体ごと入っちゃったからってわけ? 俺の命を繋ぎ止めるために?」 「然り」 あっさりと答えられて、ウィルは絶句した。だが、さも当然のように少女は続けてくる。 「汝らと異なり……我らは肉体と精神の境界を持たぬ。……正統に血を継ぐかの娘も然り。他者の精神内に……肉体ごと入り込む事も容易い」 「そ、それって」 呻きかけて、ウィルは口を閉ざした。質問すれば特に隠すことなく何でも答えてくれそうだが、聞けば聞くほど訳が分からなくなりそうな気がする。リュートあたりなら喜んで自分の知識欲を満たそうとするだろうが、ウィルは必要最低限を理解するに止めておいて、別の事を尋ねることにした。 「ソフィアを、もう一度俺と分離させる事って出来るの? もちろん、俺を殺さないって前提で」 「可能である。だが……」 とりあえず最良の返答だったことに、ウィルは息をついた。「だが」以降に不安が残るが、どういった条件であろうとも諦める気はない。自分の生命だけではなく、ソフィアの命までもがかかっているのだ。 「始めに言った通り……知る事が……必要となる。汝らは今、ほぼ一体となっている。闇に沈んだ記憶を見よ。互いの思いを一つのものとせよ。ひとたび完全に一体となる事で……汝は娘の魂より、自立して生きるだけの力を借り受ける事が出来る……」 囁いて、少女はまた、目を閉じた。緩やかに息をつく。少し、疲れているようにも見える。 「……汝らの言の葉は我らのものと異なりすぎて、上手く説明する事ができぬ。……理解せよ。愛しき……我らが子らよ」 少女を包む光が一瞬、強まる。そして。 ぷっつりと、糸が切れたように少女はその場に崩れ落ちた。同時に輝きも失われる。 「ソフィア!?」 走り寄って、地面に完全に倒れる前に、その小さな身体を支える。 「おい、ソフィア! 起きろ、目を覚ませ!」 肩を揺さ振って呼びかける。と、案外あっさりと、少女はその細い眉を寄せた。 「うーん……?」 小さく呻いて、少女が瞼を開く。さっきまで金色に輝いていた瞳は、普段の淡い茶に戻っていた。 寝ぼけたような眼差しで、自分を抱きしめる青年の顔をまじまじと見て――第一声に内心緊張を高まらせていくウィルに彼女が向けたのは微笑みと、底抜けに明るい声だった。 「あ、さっきの人だぁ」 「……で、ここどこ?」 次の瞬間にはあっさり興味を別方面に移し、彼女はきょときょとと周囲を見回し始めた。思わず脱力して、唸る。 「あのな、ソフィア……」 「ソフィア?」 「じゃない。エルフィーナ」 言い直す。彼自身としてはどちらでも構わなかった事だし、簡単に説明できることではない。それこそ全てを話さなければならないだろう。 (全て……か) 全てを見よと、あの女性は言った。そして、全てを知らせよ、と。つまりは、彼女の記憶を――子供の頃のものも全て――取り戻させろということなのだろう。 (……どうやって、ってのが問題なんだけどなぁ) 今のソフィア――エルフィーナが、どれだけの記憶を持っているのかは定かではないが、おそらく、彼女が攫われる以前の記憶は全て抹消されていると考えていいだろう。その後、ルドルフが不必要な情報を与えるとも思えない。つまりはまるっきり真っ白な、生まれたてのひよこのような状態であると考えられる。そんな彼女に、一から十まで口頭で説明したところで……どれだけの意味があるのだろうか。 (記憶封印の術を解呪するにしたって、それも難しいしな……そもそも、こんな悪条件でなくたって、術式も分かんない術なんて簡単に解けるもんじゃないし。調べるにしたって触媒とか器材が必要だ。……こんな所でどうしろってんだ?) まさに手詰まりとしか言えない状況にウィルは頭を悩ませるが、当のソフィアはそんなことはお構いなしのようだった。興味深そうに、精神世界の漆黒の床をぺしぺしと叩いて何かを調べているような仕草を見せる。忘れているはずのトレジャーハンターの血でも騒ぐのだろうか? 「おーい、エルフィーナ、あんまり遠くに行くんじゃないぞ」 「あれ?」 ウィルから五メートルほど離れた場所で、上質のドレスのまま這い回っていたソフィアが唐突に声を上げる。 「どうした?」 気になって、傍によるウィルに、少女は床の一点を指し示して見せた。 「ここ、変」 「変って何が」 細い指の先をたどってみる――が、ウィルには他と変わらないのっぺりとした黒い石の床にしか見えない。 「この下空洞なの。あっちの方から音が違ってて。ここが一番薄そうな感じがする」 「空洞?」 どうやら本気でトレジャーハンターとしての技能を活用していたらしい。一度身に付けた技能は忘れないのか、はたまた彼女のさがなのか、さすがにソフィア、記憶を失おうが逞しいなとウィルは少し感心してしまった。しかしそれよりも―― 「空洞も何も、精神世界だぞここ? そんなもんが……」 呟いては見たが、ものは試しである。ソフィアを下がらせてウィルは魔術のために意識を集中し始める。 (これだって俺の精神の一部だろうけど……ま、ちょっと位なら穴開けたって大丈夫だろ。……多分) 振り下ろした手のひらから、小さな白い光の弾を発射する。それがソフィアが示したその地点に着弾した、瞬間。 どぉんっ!! 「!?」 予想よりはるかに大きかった爆音に、ウィルは仰天した。 殆ど足元の着弾地点から吹き上げるような爆風と、床の一部が飛んでくる。 正直――全く予測していなかった質量で。 ちょっとひびでも入れてやる程度の加減で放ったはずの術は、床にこれでもかという程の大穴を穿っていた。 「ちょ、ちょっと待てぇい!?」 がらがらと崩れた床が、天地を逆転したかのように下から上へ『落ちて』ゆく。そしてその崩壊は、驚異的なスピードで同心円状にその範囲を広げてゆき…… 二人の足元の床も、当然の如く細かく砕けて飛んでゆく。 「きゃー♪」 「きゃーって嬉しそうな声を出すなせめて悲鳴にしろ悲鳴にーっ!!」 唯一神に感謝すべきと思えたのは…… 自分たちの身体の落下方向だけは、常識通り上から下だった、という事だろうか。 (嬉しくない……全然嬉しくないよ神様) 至極平凡な声を内心で上げつつ、とりあえずウィルは、重力中和の魔術を頭に描き始めた。 |