CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 10 #73 |
かっ! 固く冷たい金属同士が衝突する、ごく小さな音。その連続が戦いの舞台を支配する唯一だった。カイルタークが両手の短剣から繰り出す連撃を、暗黒魔導士ラーはたった一つの剣で見事に捌いていた。ローブなどを纏ったままで、である。つくづく、人間を超越していると認めざるを得なかった。カイルタークには未だかつて、自分が二刀を抜き放ってからこれだけの長時間を耐え抜いた相手になど遭遇した経験はなかった。 だが、このとき劣勢であったのは間違いなく暗黒魔導士の方だった。 淡々と、機械的な作業のように刃を滑らせるカイルタークに対し、暗黒魔導士は完全に防御しながらも一度も攻勢に移る事は出来ていなかった。 「……くっ」 戦闘が始まって以来初めて聞こえた剣戟以外の音は、暗黒魔導士の小さな呻きだった。暗黒魔導士の腕にカイルタークの刃が赤い線を引く。掠っただけに過ぎないが、初めて与えた切創は、瞬時暗黒魔導士の気を逸らす程度の効果を確かに持っていた。 カイルタークは握り締めた刃を、暗黒魔導士に向け突き出す。 喉笛を抉り抜こうかという勢いのその一閃は、しかし的を目前にしてその動きをぴたりと止めていた。 「刺せば、終わりなのに」 落胆したようにも聞こえる暗黒魔導士の声に、カイルタークは喉元から皮一枚の位置で刃を光らせたまま、囁く。 「やり方を間違えた。呪文を唱えないお前の喉を潰しても、無意味だった。絶命の間際、私が剣を引き抜く前にお前は魔術を完成させる」 「私を殺す事が貴方の目的だったのではないのですか?」 命綱を完全に相手に握られているという状況下でも、彼の声から穏やかさが消える事はなかった。緊張している様子はない。ただ、ひどく寂しげな声ではあったが。 「貴方が、任務遂行のために命を惜しむとは思えない」 「まだやるべき事はある。だから死ぬ事は許されていない。それだけだ」 「そうですか」 呆気なく納得し、彼は小さく息を吐いた。吐息のため僅かに動いた喉が、刃先に触れる。それほどの距離だった。だが、この近さにしてこの男の心の内を窺い知る事はカイルタークには出来なかった。内心を探るのに最も有効な器官である瞳が――彼の、海色の瞳が――フードに隠れたままなのだ。 際どい体勢のまま、双方動かない。いや、動けない。 だが、唐突に―― 暗黒魔導士が、唇に微笑みを形作った。 「私では貴方には敵わないのですね。暗殺者カイルターク」 それは、自分を動揺させる罠なのかと一瞬カイルタークは思ったが、どうやらそうではないようだった。暗黒魔導士におかしな動きは見られない。何より、知らないはずはない。暗殺者には動揺を誘われるような心はない。心も、魂も全て殺さなければ、暗殺者などと呼ばれる存在にはなれない。カイルタークは、刃を親友であった男に突きつけたまま、微動だにしなかった。 「ファビュラス教会の秘匿する大神官の最重要任務、背約者の抹殺。その任を負った貴方と刃を交えた事などありませんでしたが……見事です。カイルターク。実に見事です」 満足そうに繰り返す。見事です、と。 何が……見事だというのだ? 何かがひび割れてゆくのを感じながら、カイルタークは胸中で囁いた。 この男は、これほど不完全な私を見て、何に満足しているのだろう。 死ぬことは許されていない。そんなもの、自分を庇いだてする言い訳に過ぎない。この男を殺し、そして自らも生き残るすべを、自分は持っているはずだった。この男が魔術をひとつ組む間、こちらも防御の魔術を構成することができる…… 単に、躊躇しただけに過ぎないではないか。 「結局、暗殺者であることも、親友でありつづけることも出来ないこの私に」 暗黒魔導士に突きつけていた短剣を、カイルタークは床へと打ち捨てた。耳障りな金属音が静寂の空間に、悲鳴のように響き渡る。空いた手で、彼は暗黒魔導士の、漆黒のローブの襟首を掴み上げた。 「お前は何を求める? 答えろ。リュート・サードニクス」 「威勢が良かったのは最初だけか?」 頭上から吐きつけられてくる嘲笑を、ウィルは地面に片膝をついたまま聞いていた。 何かしら言い返してやりたい気持ちはいまだ薄れないが、自分の呼吸がそれを許さなかった。いや、まだ呼吸をしていられるということだけでも、ありがたいと思わなければならないのかもしれない。 不規則になりがちな呼吸を制しながら、彼は視線を上げた。見下ろしてくる男と目が合う。アウザール皇帝、ルドルフ・カーリアン。 彼はこちらが地に這いつくばっている時に攻撃してくることはなかった。喜悦の色が浮かぶ瞳でじっと見下ろしてくるのみである。 (……このサディストが……) 口の中で小さく毒づくのが、ウィルの精一杯だった。際限なく鳴り響く身体の中の警鐘に、気分が悪くなってくる。 (次、立ったら、もうラストかな) 血を失うのと同時に、感情の熱さえも奪われてしまうのか、妙に冷めた状態の頭でウィルはそんなことを考えていた。 ゆっくりと息を吐いた。折り曲げた膝を伸ばす。感覚が曖昧な手で、剣を握り締める。 「ふっ……」 生気の失せた肌の色で、それでも剣を構えてくるその姿がおかしかったのか、ルドルフ・カーリアンは小さく笑った。 「死に急ぐか。それもよかろう」 ウィルに剣先を向け、構える若き皇帝。 真っ直ぐに、それだけを見つめて、ウィルは足を踏み出した。 風を叩く鋭い音に乗せ、剣を振り下ろす。刺突の構えを見せていた皇帝は、突き出した剣でウィルを射るのではなく、彼の剣を捌きにかかっていた。お互いの武器が噛み合うその一瞬は、お互いに攻撃の手を封じられる形になる。 (……ならないよ!) ウィルは、剣を掴んでいた手を片手だけ離す。剣を絡め合わせたまま、身体だけもう一歩、ルドルフ・カーリアンの元へと踏み込ませる。 「!?」 予期せず懐に入り込まれ、彼の表情に驚愕と戦慄が走る。慌てて身体を仰け反らせようとするが―― 「遅いっ!」 叫んで、皇帝のみぞおちに差し込んだ腕から爆音を響かせた。 ルドルフ・カーリアンが、数歩後方に、たたらを踏む。 ――が、それだけだった。 数メートルの距離を置き、どうという事のなさそうな……いや実際、どうという事もないのであろう表情で、皇帝はウィルを眺めていた。その結果に難しい理屈があったわけではない。魔術が不発に終わったのだ。単にそれだけだ。 考えもしなかった結果に、当人であるウィルが何より唖然とする。習い始めの時期に覚えた単純な爆砕の魔術である。今更失敗することなど考慮に入れていたはずがない。 「それだけ無理をした身体で、魔術を行使できると考えるお前が愚かなのだ」 憐憫すら含めた声で、ルドルフ。だが無論、それは表面的なもので、内から滲み出る歓喜は抑えようともしていなかったが。 迫りくる死の恐怖のためなどではなく、純粋に体力の限界を迎えたことにより震える膝を、ウィルは両手で押さえつけたが、一向に収まる気配はなかった。全身が震える。意識が遠のく。内臓に傷を残し、肋骨を数本やられ、大量の血を失わせた身体はもとより戦うことの出来るものではないというのは分かっていた。それでも、ほぼ全ての対抗手段を失った今でさえも、絶望を受け入れるつもりにはなれなかった。 (対抗する手段を、何か考えろ、このまま死ぬ気か俺は! 違うだろ!) 「せめてもの情けだ、聖王国と呼ばれた国の王よ」 かつん、と、硬い足音が、床に反響する。すらりと優雅な振る舞いで剣を振り、一歩進み出てきたアウザール皇帝を、ウィルは目に映した。 「これで、終いにしてやる」 ゆっくりと振り上げられる、華麗な装飾を施された大剣―― (違うだろ、そもそもルドルフなんかと戦いに来たわけじゃない、俺は……) 俺は…… 銀の刃が、ステンドグラスから入り込む暗い光に鮮やかに煌く。 それがウィルの首を切断しようと振り下ろされる、一瞬前。 ばんっ! 激しい音がして、玉座のすぐ脇の通用口の扉が、開いた。 ウィルから意識を逸らし、振りかぶっていた剣を下ろしてルドルフが扉の方を向く。それと同時にウィルも重い頭を動かした。 扉から出てきたのは一人の、煌くような長い髪の、美しい少女だった…… 「エルフィーナ」 しかしその姿を見て先に呟いたのはルドルフ・カーリアンの方だった。ウィルに背を向け、緩やかな白いドレスに身を包んだその少女の方に歩み寄る。彼女も、その姿を認めてにこりと笑った。 「こんなところにいたのね、ルドルフ。よかった。いなくなっちゃったかと思った」 「そんなことが、あるはずはなかろう?」 それは、実際に聞いても信じられないような優しい声だった。アウザール皇帝、ルドルフ・カーリアンという男を少しでも知るものならば、余りの非現実感に目眩を起こしても不思議はない光景であった。それもその相手というのが…… 「ソフィア……」 我知らず漏らしたウィルの声に、少女が反応する。 「……貴方は誰?」 人見知りをしない、愛しい声。 不思議と、その言葉にショックは受けなかった。誰でもいい。覚えていなくてもいい。だから、もっと声を聞かせて欲しかった。もっと姿を見せて欲しかった。 だが、恐らくウィルの願いを知った上であろう、皇帝は、彼の視界を遮るように立ち、ソフィアの姿を背後に覆い隠した。 「エルフィーナ。もう少しで終わるから、しばらく向こうで待っていろ」 「う、うん。でも……あの人、怪我してる……」 「彼奴は今から処刑する。下がっていろ」 「処……!?」 息を飲んで、彼女は引き攣った叫び声を上げた。慌てたように、ルドルフとウィルを繋ぐ直線の上に立ち塞がってくる。 「何で処刑なんて!」 「その男は重罪人だ。さあ、下がっているんだ、エルフィーナ」 「駄目っ!」 頑なに首を振り、その場を動かない少女。その彼女に、ルドルフ・カーリアンは穏やかだった瞳に少しだけ冷ややかなものを混ぜて呟く。 「何故だ? お前に、その男の生死など、関係あるまい?」 一言一言明瞭に区切ったその言葉は、暗に、少女の後ろのウィルに聞かせたものだった。 お前と彼女には、何もつながりなどないのだと―― (分かってるよ……分かってる……) 呟いた言葉が声になっていたかどうかは定かではないが、ウィルはそう答えた。 彼女の記憶が封印されるなり壊されるなりされているのは、予想の範疇だった。そして、彼女は以前に一度記憶を失っている。そんな人間に再びまたそのような処置を施せば、記憶の修復はより困難になるであろうことも。 だけど、それでもよかった。記憶を失っても、昔も今も輝きを失うことなどなかった彼女。未来もきっと変わらない。これは確信だった。 「……それでも……」 真っ直ぐに、ルドルフに向けられる瞳。彼女は、頭一つ分以上高い男を見上げながら、はっきりとした声で言った。 「駄目なの。この人は、駄目なの」 瞬間、ルドルフ・カーリアンの暗い色の瞳に、炎のような激昂が宿る。 振り上げられた腕に、反射的に身を竦める少女。しかしその手は少女を打ち付けることなく、彼女の肩を強く掴むにとどまった。それを―― 強引に、引き寄せる。 「――っ!」 少女の、塞がれた唇から声にならない声が漏れた。 彼女の肩を掴み頬に手を触れ、慣れた仕草のようにルドルフ・カーリアンはその口内を舌で舐る。やがて、少女の頬に熱が帯びてきたのを確認すると、名残惜しむようにそっと唇を離した。 「ルドル……フ……?」 吐息とともに少女が出した震える声には答えず、男は、視線をウィルの方へと向けた。 剣を杖代わりに立ち上がりかけていたウィルが、体勢を崩して再び膝をつく様を、冷笑を浮かべ見下ろす。 「ち……くしょ……っ」 目の前で、ソフィアがあんなことをされたというのに、立ち上がれもしなかった。泣き声に近い微かな叫びも、歯を軋る不快な音も、ルドルフ・カーリアンには悦楽の美酒になったようだった。目の前の少女の細い肩を抱き寄せ、彼の方へと向けさせる。 「無様な姿だ。そうは思わんか、エルフィーナ?」 少女は怯えるように小さく首を横に振る。だが、ルドルフ・カーリアンにとっては彼女の否定などどうでもよいことであったらしい。首筋に這わせていた手を、少女の白い指先へと滑らせた。 「此奴は赦されざる罪を犯した。優しきエルフィーナの心に、影を落とすという大罪だ。死罰すらもこの罪、そそぐには温過ぎる」 腕を掴む力に少女は抗ったが、それをものともせず、ルドルフ・カーリアンは彼女の手のひらをウィルへと向ける。 「よって与えよう……消滅を」 「いや、ルドルフ、やめて! 駄目っ!」 ウィルのぼやけた視界を、近づいた彼女の手のひらが覆い隠す。 「ソフィア……」 呟きは、自然だった。耳に馴染んだ音。唇に慣れた言葉。消滅、というその言葉が意味するところは分からなかった。だが、受け入れてもいいとは思った。どうせ命が尽きるなら、彼女が与える滅びに身を委ねた方がいいに決まっているじゃないか。 「愛してる」 どうしてももう一度伝えたかった言葉を囁いた瞬間、やわらかい彼女の手のひらが額に触れた。 低い、深い音が鼓膜を振るわせた。そして、水の中を漂うような、身体と精神が遊離するような感覚。闇に包まれていく。決して悪い気分ではなかった。ただ…… 最後に、彼女の姿を見ておきたかった。もう何も見えなくなっていた目が、腹立たしかった。 何か、酷いだるさのような異様な感触を突然感じて、カイルタークは無意識にその原因を探るべく、自分が掴み上げている暗黒魔導士から視線を逸らした。が、すぐに視線を戻す。と、一瞬前までこちらを向いていた暗黒魔導士が、口をぼんやりと開け、顔をあらぬ方へと向けていた。彼らしくないその表情を訝しく思っていると、開いた唇から、か細い声が漏れてきた。 「まさか……」 「まさか?」 茫然自失とした声音に面食らいながらも、聞き返す。彼の、その次の瞬間の動作は、一瞬前とは対照的に非常に迅速だった。カイルタークを押しのけて袖の辺りから手のひら大の水晶玉を取り出す。短い呪文を口早に唱えると、それは淡く輝きだした。 それは、遠見の水晶玉のようだった。現在別の場所で起こっている事象を映し出すものである。透明な水晶玉の中の映像は、このカーリアン城の謁見の間だった。解放軍と対峙しているのは、皇帝一人……いや。 状況を把握すべく、カイルタークはさほど大きくない水晶玉を覗き込んだ。謁見の間の最も奥まった場所、長い階段を上りきった玉座の前のスペースにいた人間は三人。皇帝と、ウィルと、ソフィアだった。 皇帝に引きずられるようにして、動けないらしいウィルにソフィアが手を触れていた。丁度その部分から、黒い何かが、触手を伸ばすようにウィルを包み込んでいく。その触手はウィルを飲み込んでなお伸びてゆき、階段を半ばまで上ってきていたディルト王子と、何人かの兵士を飲み込む。 そして、階段の頂では、皇帝の腕を振り払ったソフィアが、触手に、おそらく自らそう望んだのだろう、飛び込むようにして絡め取られ消えていく姿が見えた。 「何だ……あれは……?」 訳が分からず、呻く。そのうちに、暗黒魔導士は再び水晶玉に呪文を唱えると中の場面は転換した。今度は城のすぐ外が映る。解放軍の残りの部隊が待機している姿が、上空から見下ろすような形で見える。 「ノワール! いますね、そこに! ……ええ、皇帝が、あれを使いました。そうです……ええ」 カイルタークには聞こえなかったが、外で捕らえられているノワールとかいう帝国の黒魔術士の女と会話をしているようだった。会話が終わり、すぐさままた暗黒魔導士は画面を切り替え謁見の間を映したが、その時にはもう先程の光景は嘘であったかのように、何もなくなっていた。 そう、何も――今触手に飲み込まれた数人が、すべていなくなっていた。 水晶玉を握る手を下ろして、はあ、と一つ大きな溜息を、彼は吐く。 「リュート」 カイルタークの呼びかけに、言い逃れをする事すら忘れたのか、素直に顔を向けた彼は、 「……カイルターク」 悪夢にうなされたような声音で、名を呼び返してきていた。 「何が起きた? 言ってもらうぞ、全て」 言われて一度だけ、躊躇うように視線を落としてから再びカイルタークを振り仰いだ暗黒魔導士の声音は、もう弱々しい物ではなかった。毅然とした決意を秘めた声で、請う。 「……助けて下さい。カイルターク。私一人では、手に負えない事態になりました」 |