CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 10 #72 |
いつのまにか、傍にいたはずの気配がなくなっていた事に気がついて、少女は目を覚ました。 「ルドルフ?」 不安げな声で、捜し求める人の名を呼ぶ。だが、いつもならすぐに返ってくる答えは返ってこない。見回すと、部屋も先程までいた場所とは違うようだった。城内にいくつもある客室のどこかだろう。見慣れない風景ではなかったが、場所が変わっていた事は、少女の不安を煽った。 目を覚ますと、そこは全然知らない場所だった―― そんな夢を、このところ幾度となく見る。つい先日も、真夜中にその夢を見て目を覚ましてしまった。その時は明け方までルドルフに傍にいてもらって、ようやく眠る事ができたのだ…… 「寒い……」 呟きながら、彼女は自分の腕を手のひらでさすった。この部屋は一人でいるにはあまりにも広くて、寒い。 捜さなくちゃ…… このままじっとしている事はどうしても出来そうになくて、少女はベッドから足を下ろした。 薄い笑みを浮かべ、傲然とした視線で見下ろしてくる男に対し、ウィルは身体の中で煮えくり返る衝動を押さえるのに必死だった。放っておけば有らん限りの罵詈雑言を無意味に並べ立ててしまいそうだったが、そんな事をしたところで目の前の男は何ら痛痒を感じないだろう。 声に出さず、その感情だけを短い吐息にして外に出し、ウィルは男――アウザール帝国皇帝ルドルフ・カーリアンを睨みあげた。 「ソフィアが……ここにいるはずだな? 彼女を返してもらいに来た」 「ソフィア? 知らぬ名だな」 すぐさま返ってきた、静かな声音に苛立ちを増幅させつつ、しかしウィルもまた静かに言葉を吐く。 「とぼけるな。エルフィーナだ。……お前と問答などしたくもない。力ずくでも返してもらう」 片腕を上げ、玉座へと手のひらを向ける。身体の奥の神経繊維が僅かに引き攣った感触を覚えたが、そちらには意識を払わず手のひらに力を集中する。すぐに十分な魔力は集まった。いつでも力を解き放てる。しかし、その標的とされている皇帝は眉一つ動かすことなく、余裕の体でウィルを見下ろしていた。 魔術士の力を知らない訳はない。また、自身も魔術士の素質を持つというのなら、この間合いがいかなる結果をもたらすかが理解出来ないはずはない。双方の距離は多少あるが、指向性の高い術であれば十分に届く。 何か策があるのだという事は考えなかったわけではなかったが―― (かまうもんか!) それが、ウィルの結論だった。腕に溜めた力を、彼は一気に全て解放した。迸る閃光。瞬時、意識が遠のいてしまうほどの魔力の奔流を、無理矢理意志の力でねじ伏せて、純粋なエネルギーへと変換させる。 一条の光の槍が、標的へと突き刺さった――と思ったその瞬間。 焼けた石に水をかけたような音を残し、魔術の熱線は周囲はおろか標的すらにも何の被害ももたらさないまま消え去っていた。ただ僅かに、皇帝の目の前の空間が、水面に石を落としたかのような丸い波紋を広げるのだけは見えた。 「障壁か……!」 吐き捨てるように呻くウィルに、男が、喉を鳴らすような笑い声を上げる。 「違うぞ、ウィルザードよ。単なる魔術障壁にこのような真似は出来ぬだろう?」 「何――?」 言われた意味が分からず、男を見上げたウィルの、視界の端が光で満ちた。 純白の、数秒前に彼自身が放ったものに全く等しい光で、広間中の壁が照り輝く。 「――――っ!」 悲鳴よりも速く、四方八方から降り注がれた白光の雹に、広間に入りかけていた解放軍の一団は激しく打ち付けられていた。 「ふむ……」 熱と光が収まったその攻撃地点を見下ろして、ルドルフ・カーリアンが考え込むように小さく呟いたのが聞こえたのは、奇跡のようなものだった。今の衝撃と爆音に鼓膜をやられなかった。それが奇跡だった。 「これだけ拡散させてしまえば致命の一撃にはなり得んか。タイムラグもまだ大きい。まだ改良の余地は多分にある」 息を喘がせながら、淡々と男がそう呟くのだけを耳に入れる。彼は――気づかなかったらしい。紙一重の差で弱いながらも何とかこちらが魔術の防御障壁を形成していた事に。そうでなければ、ここにいる百人のうち三分の一は消し炭と化していただろう。どうにかその惨劇だけは免れ、死体と化すはずだったその三十名強は、ウィルの防御の魔術に熱を奪われ弱められた爆風にあたかも塵のごとく吹き散らされた程度で収まっている。弱められたといっても武装した騎士を軽々と吹き散らすほどの威力である。風の赴くままに散らされた身体は石の壁に打ち付けられ、或いは地面に激しく叩き付けられていた。 「ぐ……っ!」 苦痛に呻きながら、ウィルは身じろぎする。例に違うことなく、かなり派手に壁に衝突させる羽目になった背中が、僅かに身体を動かしただけで、まるで電撃が走ったかのように痛んだ。悲鳴を喉で殺し、壁から背を離す。頭は打ち付けていないはずだが、分からない。痛覚が痺れきり、身体中、どこが負傷していてどこが無事なのか、感覚だけでは最早確認出来そうにない。壁という支えを失うと、彼は力なく冷たい床に崩れ落ちる事しか出来なかった。 彼と同様にして、殆ど身動きもとれない者がかなりいた。そうでない者も、木偶人形のごとくその場に棒立ちになっていた。視線をやれば、大陸一と目される剣士、サージェン・ランフォードでさえもディルト王子を背後に庇いながら、呆けたような表情を見せていた。更にその向こう側ではブランが、か細い腕を小刻みに震わせている姿も見えた。 意識ある者全てが、一瞬にして受けたその悪夢のような一撃に虚脱していた。 それはルドルフ・カーリアンにしてみればまたとない好機であったはずだったが、彼は追撃を仕掛けてくることはなく、ただただ思案顔でその光景を見下ろしているのみだった。 研究者がモルモットを見つめる目。まさにそれはそうだった。 「魔法文字構成をもう一ランク上げてみるか。いや、精度の低下は避けられんな。再計算を行い早急に改善策を打ち出そう」 「な……にをぶつぶつとさっきから……! 反吐が出るんだよ!」 絞り出すような声に、視線が集まる。皆の視線の先、ゆらりと立ち上がったウィルは、射抜くような瞳を玉座の前の男へと向けた。それを受け、ふっと、玉座の男の鋭い表情が、緩む。嘲るように。 「噛み付くな。怯えが……見えるぞ?」 「誰が……っ!」 枯れた自分の声に喉を傷めつけながらの叫びに、ルドルフ・カーリアンは氷のような微笑を表情に刻む。それを睨み据えながら、ウィルは振り上げた腕を背後の石壁に叩き付けた。 皇帝の指摘はまさに図星だった。 自分の放った魔術を吸収、無効化するだけではなく、増幅して反射させたのが、今の攻撃の正体だろう。 魔術の増幅―― それは魔術士にとって古来より錬金術に等しいと言われていたものだった。 千年以上にも溯る魔術研究史上、いかなる偉大な魔術士といえどもそれを実現しえた者は一人もいなかったにもかかわらず、追う者が絶えない神秘の学問。その理論をもし完成させれば、無限の魔力を得られるとも言えるものであったが、それはいわば…… 「夢物語だ……あるはずがない……」 「貴様の兄の研究成果だけが最高峰だとは、思わぬ事だ」 淡々と告げた男に、ウィルは唇を噛む。 「リュートは、やってない。魔力増幅の研究なんて無駄だって……」 「そのようだな。そして彼奴の判断と我が判断、勝利を得たのは我の方だったという訳だ」 静かに、だが、十分な満足を覚えているという事の分かる声で男は呟いた。その台詞は、魔術士であるウィルに対して痛烈な宣告になる事を、彼は承知し、喜びを得ているのだ。 更に、続けてくる。 「この障壁の機能は反撃だけではないぞ。障壁の内側から魔術を放てば、増幅され標的に降り注ぐ。我の如き、貴様から見れば取るに足らない術者の技であっても貴様らを屠るのに数度も魔術を編む必要はない」 次の一撃で、確実なる死を与えよう―― ゆったりと、皇帝、ルドルフ・カーリアンは自らの腕を突き出した。眼下の解放軍に向けてではない。ウィルは唯一人、自分だけが攻撃目標に捕捉されている事を悟る。 とは言え、一度その力が放出されれば被害は彼一人では済まないだろう。 「退避! 魔術士は対魔術障壁!」 指揮官のその声に、はっと我に返ったように、無事だった魔術士たちは呪文を口早に唱え始めていた。だが、退避の命令には従ってはくれなかった。退避しその後に防御を行えば、自分たちの被害は軽減するが、未だ動けずにいる仲間は確実にやられると分かりきっているからだ。 舌打ちして、ウィルは先程の攻撃で取り落とした剣を掴もうとした。が、その腕を逆に誰かに捕まえられる。 「やめるんだ!」 いつのまにか傍に来ていたのか、険しい表情で、ディルトが声を荒げてくる。しかしウィルは今の自分に倍する握力の王子の手を、いとも簡単に振り払った。 「貴方じゃ俺を止めるには役者不足ですよ……まだ、ね」 剣を握り、彼はディルトから目を逸らした。背後からのディルトの叫びは、呪文の唱和に掻き消される。その中には、ブランの物だろうか、高い女性の叫びも混じっていた。 床を蹴る足が、身体が、案外軽かった事に彼は自分自身で驚いていた。指先を動かすのも苦痛で、身動き一つ取れないと思っていた身体は、一旦動かしてしまえばどうということはなく通常通りの機能を果たしてくれていた。痛みもない。感じない。昔にも、こんなことはあった。どうして何も感じなくなるんだろうかと考えた事もある。脳が処理できる痛みの限界を超えたのだろうか。それとも―― ルドルフ・カーリアンの呪文詠唱が終わった。だが、まだ撃っては来ない。魔術増幅障壁を通した術でも命中精度に関しては術者自身の射撃能力に関係があるようだった。狙いを澄ますように厳しく目を細めて睨み据えてきている。この程度の距離であればウィルならば造作もなく標的に命中させられる。先程、こちらが使った障壁に彼が気づかなかったときにも思ったが、やはり彼の、魔術士としての能力は特筆するほど高いものではないようだ。 玉座へと続く長い階段を駆け上がる。先程、ウィルの魔術を受け空間が歪んだ地点、つまり障壁の位置は階段の中程だった。この魔術障壁が、物理攻撃まで防ぐという証拠はないが、だからと言ってためしに体当たりしてみるわけにもいかない。 皇帝の漆黒の瞳に光が点るのを感じた。彼が撃つ。 (今だ!) 胸中での叫びを合図にして、ウィルは魔術を発動させた。 姿が―― 掻き消える。 「――!?」 無言の驚愕を発したのは今度はルドルフの方だった。 そして刹那の間を置き、再びその姿を、ルドルフ・カーリアンの目の前に現したウィルに向けて、彼は魔力を解き放った。 「うわぉう!?」 そのまま皇帝に斬りかかろうとしていたウィルは悲鳴を上げ、進行方向を九十度変える事を余儀なくされた。真横に避けたそのすぐ傍を、白い衝撃波が行き過ぎる。 「くっそ、撃たしてから斬り込む予定だったのに……やっぱ、リュート程上手くはいかないか」 足を止めたウィルは、弾ませた息の合間からそんなことを呟いた。 ルドルフ・カーリアンが視線を向ける。 「空間転移か。貴様は使えんと聞いていた」 「魔術は頑張りゃ不可能も可能になるんだよ、魔術士なら覚えとけ」 ウィルの毒づきに男が返してきた答えは苦笑と剣の煌きだった。ウィルには、彼がどういった意味で微笑んだのかは分からなかったが、皇帝は何も言わず、大振りな剣を楽々と抜いた。それを見て、ウィルが面白くなさそうに目を細める。 「ふん……魔術ほどへぼくはなさそうだな、剣の方は」 「ほざけ」 ルドルフ・カーリアンが両手で持った剣を、地面と平行にし、切っ先を標的へと向ける、アウザール帝国に伝わる剣法独特の構えを取った。それに、ウィルは腕を少し下げた位置で構える、ヴァレンディア王宮騎士団の、幼い頃から叩き込まれた型で応じる。 「行くぞ、ウィルザード。我が宿敵」 「ああ」 早く始めたい。そう思っていたウィルは短く返答した。 少しじっとしていたら、意識の外に放り出していた身体の中の悲鳴が、再び聞こえ始めてきていた。脈拍に合わせて轟くその絶叫は、彼の時間が残り少ない事を知らせてくる。 冷たくなりかけている自分の指先に力を込めて、ウィルは剣を握り直した。 |