CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 10 #71 |
あまりにも心穏やかな自分に、ルドルフ・カーリアンは驚きを感じていた。 長年の望み。それが成就する瞬間を考えるときはいつでも、身体の中をかき乱されるような感情に陥っていたというのに、いざそれが現実のものになろうとしている今の心中は、凪のように平穏だった。 「不思議なものだ……そうは思わんか? エルフィーナ」 白いシーツが緩やかな波を打つ広いベッド。その上に、無造作に置かれた、身体を包み込むほどのクッションに背を預けながら、彼は自分の膝にしなだれかかる少女の頭をそっと撫ぜる。そうすると、少女はとろんとした瞳を彼の方へと向けた。 「ん……ルドルフ……?」 眠そうな声で彼の名を呼んで、彼女は目を擦りながら、ゆっくりと身を起こす。 「あたし、寝てた……? ごめん……」 「構わんさ。眠るがいい。ゆっくりと、な」 微笑みながら呟いて、彼は少女を手招きした。自分の前へと呼び寄せ、その小さな身体を腕で包む込む。 暖かい…… 彼の広い胸へ体重を預ける少女は、やがて安心しきった表情で再び寝息を立て始めた。その表情に、ルドルフは再び微笑する。 いつから―― 自分はこんな表情が出来るようになったのだろう? そんな、考えるまでもない疑問を自らに問う。 「エルフィーナ……」 甘く囁く。神聖なるその名を。ゆっくりと。自分の舌で味わうように。 外は明るいはずだが、厳しい寒気を避けるために締め切ってあるその部屋の、唯一の光源であるランプが、少女の透けるような白い肌を熱を持ったような朱に染め上げる。 「奪わせぬ……終焉など、迎えさせぬ」 囁きながら、彼は唇を、少女の首筋に寄せた。 カーリアン城を満たしていた静穏を打ち破るように、彼らの――大陸解放軍の足音は広い廊下に響いていた。アーチ状の高い天井に、複数の足音が響き、薄暗い非現実的な反響音を撒き散らす。 「不気味……だな」 眉を寄せながら上を見上げて、ディルトが小さく呟いた。天井には、神話の一節だろうか、壮麗な絵画が一面に描かれているが、薄暗さの中にそれはくすんでしまっている。それも、ディルトにそんな呟きを発せさせた一因になっていた。 何者にも守られていない城への侵入は、拍子抜けするほど簡単だった。門扉は固く閉ざされていたが、破壊して、軍を進める。そうしても、城内から兵士が集まってくる気配はなかった。それどころか、城門を開いた瞬間はもちろん、兵を連れて城内を進んでいる今この瞬間でさえ人の気配すら感じないというのはどういったことなのだろうか。 思案しながら、王子は周囲に視線を配った。軍を進める、とは言っても、これだけ相手の出方の分かりにくい敵地に大挙して押し寄せるというのも逆に危険かもしれないという判断から、実際に城内に潜入したのは約百名の小人数になった。だが、彼らは軍内でも選り抜きの騎士や兵士たちである。しかし、その中でも最高に近い戦力を誇ると思われるリタ王女や大神官カイルタークの姿は見えなかった。リタ王女の場合は、彼女の武器である戦竜のバハムートを広いとはいえ室内で戦わせるというのは不可能だからだとして、大神官が同行していないというのはディルトには少し不思議だったが、何か考えあっての事なのだろう。 メンバー選別の際、ウィルは「危険だから」という言葉で説明を済ませたが、その真意は「足手纏いがいるとこっちが危険だから」という意味のようだった。 その点で言えば、ディルト自身もメンバーから外されて然るべきだったのだが、そう告げるウィルに頼み込み、殆ど強引に同行の許可を得たというわけである。 「まあ、足手纏いって言ったら、今の俺だって変わらないですしね」 そう呟くウィルの顔色が少し悪いように見えたのは、緊張の所為ではなかったようだ…… 「ディルト様」 急に小さな声で呼ばれて、ディルトは声をかけてきた青年の方へと顔を向けた。 「何だ? ウィル」 相手に合わせた小声で、彼の名を呼び返す。と、ウィルは更に声をひそめるようにして囁いてきた。 「もしこれから戦いになったら……ディルト様、俺のそばから離れるようにしてください」 「離れる?」 思わずディルトは眉根を寄せて聞き返していた。いつも戦闘中は、彼の傍を離れないように厳命されているのだ。驚くディルトに、ウィルは小さく頷いて見せた。 「今、俺は負傷しています。今の俺にはディルト様を守る力はない」 「負傷って……!」 「カイルがある程度癒してくれたんで問題無いです。だけど、戦うにはまだちょっと支障がありそうなので。ディルト様の護衛は代わりにサージェンさんに頼んでおきましたので、彼の手の届く範囲内にいるように気をつけてください。いいですね」 早口にそう言って話を切り上げようとするウィルを、ディルトは険しい表情で止めた。 「ちゃんと話せ、ウィル。支障があるとはどういうことだ」 「……さっきの魔術に引き込まれた時にへまをしたんですよ。大神官の魔術でも回復しきれないほどの一撃を頂いちゃいましてね。でも大丈夫ですよ。サージェンさんならディルト様くらい守りながら戦うのはわけないはずですから」 「私のことはいい! つまりお前は戦えないという事ではないのか!? お前自身のことはどうする気だ!」 驚愕と、そんな大切なことを早くに言わなかった彼への苛立ちとを合わせて、ひそめた叫び声にして吐き出す。――と、ウィルは何も言わず苦笑して見せた。ぞくりと、戦慄が背筋を走る。 「まさかお前……」 「心配はいりません。別に積極的に刺し違えるつもりなんてないですよ。もう一度でいいから、ソフィアの顔、見たいし」 ディルトを安心させるためのように、何気ない調子でウィルは呟いた。 だが、ウィルは気づかなかったらしいが、それはディルトを安心させるような言葉にはなり得なかった。隠すつもりの本心を、彼はしっかりと言葉に表していたのだから。 もう一度でいいから。 二度目はなくても構わない――苛烈な覚悟を。 満足な明かりの灯されていない廊下を、カイルタークは一人、疾走していた。耳鳴りがするほどの静寂に包まれている中を無音で走る。足元の床が硬い大理石であろうと、走った程度で音を立てることはなかった。今更、そんな初歩的なミスなど、わざとやろうとでもしない限り出来ない。そういう風に身体の方が覚えているのだ。 彼の服装は普段の、大神官の証である深緑色のローブではなかった。何箇所かに小型の武器を仕込んだ漆黒の耐刃服。攻撃性に防御性を兼ね備えた上で、俊敏な活動が出来るよう工夫を凝らされ製作された、隠密行動用の服装である。 (隠密行動用……違いない) 苦笑と共に胸中で反芻する。もっとも、場合によっては派手になることも有りうるが。 このカーリアン城の間取りを頭の中で確認しながら、カイルタークは廊下の真ん中で不意に走る速度を緩めた。その場所に、目的地が近いという以上の意味があったわけではない。呼吸を整えながら、ゆっくりと今迄走っていた方向へと進む。右手を、そっと腰の後ろに回し、剣帯に下げている三本の短剣のうちの一本を抜いた。久しく使っていなかった刃は、新品のように刃こぼれ一つなく、鈍く美しい輝きを放っていた。 武器に愛着を持つ方ではないが、手入れは昔から十分過ぎるほど丁寧にする癖があった。それが、得意の武器であれば尚更だった。十分に自分の魔術の力を信頼しきれない彼が、敵との戦闘において信頼できる唯一の命綱…… そして、彼は廊下の終端で足を止めた。 目の前には両開きの扉がある。天井の絵画同様神話の一節を描く豪奢な彫刻が施されている。厳寒の地域の貴族は、他の地域より必然的に多くの時間を過ごす事になる室内にこだわるという傾向があるが、それはこの帝国の皇帝にとっても例外ではないようだった。――現皇帝の趣味とは限らないが。 短剣を右手に下げ、左手に呪文を唱えず魔力を集中する。 カイルタークは勇者に啓示を与える大天使に向かい、その力を放出した。 爆砕する扉。その破片の間隙を縫い、剣を構えながら、渦巻く風に身を預けるようにして部屋に素早く踊り込む。――が。 露骨に舌打ちして、カイルタークは剣を持つ腕を下ろした。 大いに考えられることではあったが、部屋は無人だった。剣を鞘に納めないまま、彼は廊下同様静まり返ったその部屋を確認した。 今の爆風は、部屋の奥にまで影響を与えないよう気流を計算し放ったので、今カイルタークが目にしている風景が、そのままこの部屋の主が退出したときの状態という事になる。ベッドサイドに置かれた小さなテーブルの上には、水差しとグラスが一組置いてあり、ベッドのシーツが乱れていたが、生活感があったのはそれだけだった。他にもいくつか家具は置いてあったが、そのような芸術品であるかのように几帳面にそこに鎮座している。無駄な物を置く事を、この部屋の主は嫌うようだった。部屋を横切り、シーツに触れる。シーツは外気温の所為かとうに冷え切っていて、ここにいた人物――いや、人物たちが立ち去った時刻を教えてはくれなかった。 「感づかれた……か。忌々しい」 じっと無人のベッドを睨み付けたまま、小さく毒づく。剣を抜き身のまま下げた格好で、そのまま一分ほどが経過する―― と、もう待ちきれなくなったのだろうか、背後の気配が唐突に動いた。 「姫は他の部屋に移しましたよ」 耳に馴染んだ音程に、肩越しに振り向く。予想通りの姿が、カイルタークの十歩程後ろ――粉砕された部屋の扉の辺りに存在していた。 暗黒魔導士。 答えないカイルタークに、暗黒魔導士は更に独り言のような呟きを、からかうような笑みを交えた声で投げかけてくる。 「ヴァレンディア王が来られたとなれば、我が主が御自ら出向かれるのは明白でしたからね……その隙に姫を奪還する。悪くはない手ですが、少々安直です。私がいる事を忘れていたわけではないでしょう?」 皮肉と分かりきっているその言葉に、思わずカイルタークは苦笑した。趣味の悪いこの男に、最大級の返礼の意を込めてその表情を向ける。 「だからこそ私が来た。忘れていたわけではないのだろう? 私の役目を」 「そうですね、大神官カイルターク・ラフイン」 カイルタークの、彼の事をよく知る者にしか分からないような微苦笑とは違う、誰の目にも明らかな笑みを口許に浮かべて暗黒魔導士は、黒装束に身を包み、白銀に光る刃を携えた目の前の男を大神官と何の迷いもなく称する。 当然だった。彼は、歴代の大神官を除き唯一、知っているのだから。 ファビュラス教会大神官の、秘匿された任務を。 「エルフィーナ様を助けるのは貴方の仕事ではなかったですね。姫はきっと、あの方が御自分の手で救出される。例え御自分がどのような事になろうとも」 祈りの言葉のように、静かに、暖かく囁く。愛おしささえ感じているような声で。 暗黒魔導士の望み―― 特にきっかけがあったわけではないが、カイルタークは思い出していた。彼が何を望んでいるのかを。 自分に微笑みかけるこの男の、おそらくは叶えられないであろう望み。 「今回の貴方の役目は、私をおびき出し、暗殺する事なのですか? カイルターク」 「暗殺者の役目が、それ以外にあるというのか?」 答えながら、カイルタークは二本目の短剣を鞘から引き出した。 最後の大扉を前にして、ウィルは足を止めた。 圧倒されそうなほど大きな、閉ざされた扉の奥にあるのは、広々とした謁見の間である。大陸が平和だった頃に数度しか訪れた事がない場所だが、その記憶が間違っていたり大幅な改装をしていたりしなければ、百人程度の兵士が雪崩れ込んでも、十分に戦闘を繰り広げられるだけの面積はあるはずだった。とは言え、百人がかりで戦闘をするという事態になるかは甚だ疑問ではあったが。 この中で待ち受けているのは、皇帝ルドルフ・カーリアンか、暗黒魔導士ラーのどちらかのみであろう。 ノワールを連れてくれば分かりそうなものだったが、彼女はまだブランとは違い捕虜の扱いだったので、外で待機する騎士たちに監視するように言いつけて来ていた。第一、彼女を同行させていたら、敵に後ろを取られているような気がして落ち着かない。ブランの方は、天馬を連れてくる事はもちろん出来ないが、それでも戦力としては十分に役立ちそうだと思い同行させていた。 そのブランが、いつのまにか自分の傍に近づいてきていた事にウィルは、呼びかけられてようやく気づいた。 「大丈夫? 傷、痛まない?」 心底心配そうに尋ねてくるブランに、ウィルは微笑みを向けた。 「平気だよ。まだここに来て何もしてないんだから」 「無理はしないでね」 少し、視線を厳しくして囁いてくる。 「貴方が傷を負っても治せる人は今はいないんだから」 「心配しなくても神官は数人連れてきてるよ」 「明らかな致命傷まで治せるのは大神官くらいだわ」 固い口調のブランに、しかしウィルはとぼけたように視線を逸らして見せた。確かに先刻の傷は、カイルタークがいなければ命を落としてもおかしくないものだった。ノワールや暗黒魔導士に本気で殺意があった訳ではないらしいのは分かっていたが、死んでも構わないくらいの事を思っていたのか、カイルタークがいるから死にはしないと踏んでいたのかは少々微妙だった。 その傷のお陰で、今、彼の身体は剣を素振りする事すらままならない程の状態にある。 ディルトやブランには強がって見せたが、ただ城門からここまでゆっくりと歩いて来ただけでもう既に、身体が悲鳴を上げている。 (……まずいかも知れないな) 表情には欠片も出さず、内心で呟く。 さっきから、酷く気分が悪い。刺された腹の痛みの所為ではない。胸の中に何かが巣食っているような、そんな気分の悪さだ…… それは、予感というものだったのかもしれない。最悪の結果の、予感。 頭を掠めるそんな考えを、払拭するように左右に振ってウィルは目の前の扉に手を触れた。 と、力も込めなかったその接触を合図にしたかのように、その扉が自動的に左右に開いて行く。 もったいぶるように開けて行くその視界は、廊下と同様十分な明かりに満たされてはいなかった。ウィルの記憶では、大陸に存在する王国の王城にあるどの広間よりも広い、アウザール帝国の謁見の間。扉から真っ直ぐに伸びた絨毯は、広間の最奥に存在する階段を緩やかに上り、その頂きに存在する玉座を指し示している。 玉座の奥のステンドグラスは、その玉座とそこに座する人物のみを、光で彩っていた。 玉座の男が、立ち上がる。 謁見の間の入口で険しい表情で睨み付けてくる青年を見下ろしながら。 「待ちわびたぞ……ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ。再び貴様とまみえるこの瞬間を」 男の声は、静謐な歓喜に満ちていた。きつく噛み締めていた奥歯を離して、ウィルはその男に言葉を吐く。 「俺はお前の顔なんかもう二度と見たくなかったけどな、ルドルフ・カーリアン」 その返答を聞いて、男――アウザール皇帝ルドルフ・カーリアンは、満足そうに双眸を細めた。 |