CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 10 #66

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 舌打ちでもしたいような気持ちで、ルージュは暗い廊下の硬い石の床に、苛立たしげな靴音を刻み付けていた。知りたいことが知れない。ただそれだけで何もかもが苛立たしかった。耳に入ってくるのは断片的な状況報告ばかりで、不安や焦燥ばかりが煽られる。
 ノースフライト山脈では、万全の体制で臨んだ白騎士団が敗走し、黒魔術士団が守護していた砦すら、反乱軍に奪取されたという。そして、白騎士団、黒魔術士団に所属していた二人の姉の消息は不明。いや、普通に想像すれば、敗北した部隊の将であった二人が無事でいる確率は限りなく低いだろう。
 叶うのならば、今すぐ戦場に出て、自分の目で真実を確かめたい。
 ルージュ自身は、心の底から軍人であるつもりだったが、肉親の生死がようとして知れない今の状況は、まだ年若い彼女の心を軍人としての判断力を危ぶませるほどにざわつかせていた。もう何もかもが分からない。どうしたらいいのかさえ。
「私は……どうしたら……」
 廊下に小さな弱音を吐き捨てる。冷たくて広大な闇に、それは反響も残さずに散って――
「教えてくれるって。ルージュ・シャルード」
 こだまのように返ってきたのは、うろ覚え程度に聞いた記憶のある少女の声だった。思わず廊下の先、声のした方に視線を向けて、目を見開く。
 全体的に色素が薄い、長い髪に白い肌。そして、たった一度見たきりでも簡単には忘れられない、少々幼げではあるが同性から見ても目を見張るほどに整った容姿。
「ソフィア・アリエス!? どうして……!」
「……?」
 彼女の目の前で胸を打ちぬかれ消滅したはずの少女が、そんな痕跡一つない身体でそこに立っていた。
「……空間転移……か何かの術だったという訳か……」
 魔術の知識を持っていないルージュがその答えに至るには少々の時間を要したが、求める解答に行き当たり、ルージュは小さく安堵の溜息を吐いた。彼女は――彼女ほどの戦士は――失うには勿体無さ過ぎる。たとえ敵であっても。
 しかし、その敵がどうしてここに?
 そう問おうとして再びソフィア・アリエスの方を見て、ルージュは違和感に眉をひそめた。
 何かが違う気がした。それは服装の所為かもしれない。目の前の少女は何故か、ゆったりとした白いドレスを着ていた。戦場で見たときとは確かにイメージが違う。実際の所は彼女のことをよく知っていたわけではないのだから、気の所為であってもおかしくはないのだが、しかし直感が、何かが違うと囁いてくる。
「ルドルフが呼んでるよ、ルージュ。……貴女、ルージュよね?」
 微笑みながら確認してくる少女を見て、ルージュはふと気がついた。
「ソフィア・アリエス……お前……?」
「え?」
 何の飾りもない、あけすけな不理解の表情。彼女は今聞いた名前に全く覚えがないという事を、隠そうともしていなかった。
「お前、記憶……ないのか?」
「記憶? ないって、なんのこと?」
 心の底から不思議そうに聞き返されて、ルージュの方が返答に詰まる。少女を凝視したまま何も言えずにいたルージュを見て、ソフィアは小さく首を傾げた。
「ま、いいや。それより行こうよ。ルドルフ、部屋にいるから」
 言って彼女は、すぐ傍にあった一つのドアのノブに手を掛ける。
「ルドルフ……様がいるって、そこはただの客室……」
 呟くルージュは気にせずに、少女は軽くそのドアを開く。
 その先にあった光景に、ルージュは本格的に硬直した。
 がらんとした空間の真ん中にテーブルと、隅にベッドが一つか二つ。それが本来ならば見えるべき光景だったはずのその部屋にあったのは、黒色の重い木材で作られた大きな机と、それを囲んで、見上げるほど大きな本棚に神経質なまでに整然と並べられた多数の本だった。机の方は、本棚ほどは整頓されておらず、数冊の本と紙切れが無造作に置かれていた。その奥で椅子に座していた男が、ゆっくりと瞳をこちらへ向ける。
「……そう軽々しく力を使うなと言っただろう、エルフィーナ」
「だって、このお城広すぎるんだもん」
 諦め混じりの男――皇帝ルドルフ・カーリアンの声に、悪びれた様子もなく答える少女。彼女は小走りに、皇帝の机の前まで駆けていって、彼の方へ向かって身を乗り出すように手をそこについた。
「ルージュ、連れてきたよ。偉い?」
「ああ」
 皇帝の口から出たのは淡白な言葉だったが、それでも彼女は満足したらしい。少女が満面の笑みを浮かべると、僅かに皇帝の唇に動きが見られた。
(笑って……る? あの皇帝陛下が?)
 自分の目にした光景に現実味がなさ過ぎることに、今更ながらに気付いてルージュは軽い目眩を覚えた。死んだと思っていた少女が生きていて、その敵が上質のドレスを着て自軍の城にいて、客室の扉を開けたら皇帝の執務室で、皇帝が少女に微笑んでいて……!
「どうしたの? ルージュ?」
 きょとんと目を瞬かせて問いかけてくる少女、ソフィア・アリエス。いや――皇帝は、エルフィーナと呼んでいた――?
「自分が何をすべきか……分からぬらしいな」
 その言葉が――
 自分に向けられていたという事に、最初、ルージュは気づかなかった。静かに接近してくる気配にはっと意識を向けると、皇帝ルドルフ・カーリアンは、手を伸ばせば触れられるほどの位置で彼女を見下ろしていた。慌てて床に膝をついて最敬礼の姿勢を取る。
「与えてやろう。ルージュ・シャルード。貴様に、名誉ある任務を」
 氷で出来た刃物のような。誰かが、この皇帝のことをそう形容していたことをルージュは思い出していた。恐る恐る、殆ど義務感だけに駆られてルージュが顔を上げるのと同時に、皇帝は、背後の机のあたりにいたソフィアの方を振り向いた。
「エルフィーナ」
 呼ばれると、少女は飼い主によく懐いた犬のようにすぐに皇帝の隣まで走ってきた。
「なぁに?」
「お前の力を、この女は理解出来なかったようだ。教えてやれ。先程のような遊びではない本物の、女神の力を」
 そう告げて、皇帝は傍らの少女の細腕を強く掴んだ。彼女の柳眉が僅かに歪む。
「や、ルドルフ、痛い……」
「ルージュ・シャルード。貴様を、女神の力をその身に受ける初めての人間にしてやろう。光栄に思いながら……」
 皇帝に掴まれた、ソフィア・アリエスの手のひらが、ルージュの眼前に迫る。
 ただそれだけだというのに何か、とてつもない危機感を感じて、ルージュはその場から立ち上がろうとした――が、身動きが取れなかった。物理的に押さえつけられているのでも、魔術で動きを封じられているのでもない。
 身体が動かない。理由の分からない……しかしながら、圧倒的な恐怖の為に。
 少女の白い手のひらが――
「消えるがいい」
 触れた。

「……ルドルフ……?」
 呆然と呟きを漏らした少女を、ルドルフ・カーリアンは静かに見下ろした。
 少女は、自分の小さな手のひらと、目の前の何もない空間を、順にたっぷり十数秒ずつも眺めてから、最後に彼の方へ顔を向けた。
「ルージュ、消えちゃった……どこへ行っちゃったの……?」
「どこへでもない。あれは、完全に消去された」
 簡潔に、真実を告げる。少女は、彼を見上げたまま、不安げに唇を震わせた。
「消去って……死んじゃった……の?」
「死とは違う。死は生の痕跡を残す。今は、痕跡を残さず『消去』したのだ」
 少女はやや視線を俯かせて、小さく首を振った。怯えるかのように。
「理解出来ないか? エルフィーナ」
 そっと、少女の肩を抱く。彼女の反応は過敏だった。肩を強張らせ、固く目を閉じる。ルドルフは、肩に触れた手を滑らせて、少女の頬の上で止めた。
 手のひらから柔らかな触感と少女の体温が心地よく伝わってくる。こればかりは、彼女が拒絶したところで伝達を不可能にすることなど出来ない。ルドルフは指先で弄ぶように彼女の肌をなぞった。滑らかな頬。柔らかな耳朶。白い胸元。そして、簡単に手折れそうな細い首。彼女は瞳を背けたまま、しかしぴくりとも抵抗しなかった。少女の顎に手を掛けて、そっと自分の方へ顔を向けさせる。
「何を怯えている。素晴らしい力ではないか」
 彼女の瞳が、一瞬物言いたげに揺らいだ。首も、横に振りたかったに違いない。だが、彼女は首を振らなかった。振れなかったのだ。そうしてしまえば、顎に触れるルドルフの手を振り解くことになってしまうのだから。
 彼の手が離れてしまえば、もう彼女を掴むものは何もなくなる。この孤独な少女に、それが耐えられるはずはない。今、彼女の孤独を包み込んでいられるのは、彼しかいないのだ。
「エルフィーナ。我が愛しの女神よ……」
 囁いて、まだ強張りの解けない少女の身体を、ルドルフは限りなく優しく抱きしめた――


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