CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 10 #64

←BACK

NEXT→



 第10章 決戦と邂逅の時

 頬に触れる柔らかくて少しひんやりとした感触。
 まず一番最初に少女の意識のうちに入ってきたのは、その心地よさだった。
 次に理解したは周囲が暗いという事。だがすぐに、それは自分が目を閉じているからだという事に気がつく。
 瞼は重くて、開くのが大変そうだったが、何とか少女はその重労働をこなした。身体を起こしながら、淡くて白い光に照らし出される風景を、彼女は寝ぼけたような仕草で見回した。
 大きな窓から降り注いでくる光。その光源は漆黒の天空にぽつんと浮かぶ、満ちた月だった。光に姿を完全に浮かび上がらせる事ができないほどに広い部屋には、いくつか家具が整然と並べられていたが、そのどれもが芸術品のような精緻な細工を施された代物だった。そして、周囲の家具と同じような作りの、天蓋付きのベッド。その真っ白いシーツの中に埋もれるようにある、白いドレスを纏った少女の身体。それが、その部屋に存在する全てらしかった。
 いや――
「気がついたか?」
 暗がりから声をかけられて、彼女はその観察が間違いであったことを知った。光届かぬ闇の中に、佇む一つの影を何とか見つける。
「だれ……?」
 ひどくけだるくて、身体を動かすのは億劫だったが、少女は声の方に顔を向けた。痛むほどに喉が渇いている。そして、いやに感じる違和感――
 近づいてくる硬い足音と気配。次第に、影を覆う闇は薄らいでいった。
 青白い光の中に姿を現したのは若い男だった。背が高く均整の取れた体格と、秀麗と言って差し支えない容貌。すっとした鼻筋にあつらえたような切れ長の双眸が、彼女を見下ろしている。
 吸い込まれてしまいそうな深い色の瞳に、彼女は見入っていた。
「……エルフィーナ」
 男の唇が、掠れた囁きを漏らす。少女は彼を見上げる目を一つ、瞬いた。
「エルフィーナ」
 その男の言葉――彼が青い空気に刻み込んだ名前を、繰り返してみる。
 エルフィーナ。
「あたし……の、名前……」
「そうだ。お前の名前だ。エルフィーナ」
 ぼんやりと呟いた少女の声に、生真面目な硬さで男は答えてくる。
 違和感――はない。その言葉には。
 ドクン……と胸の奥が疼く。全身を、何かが走る。
 違和感。
 ドクン。
 何かきっかけがあったわけではない。だが次の瞬間、魂に感じた落下の感触。
「あ……ああ……っ」
 物理的なものではありえない、背筋の凍るような落下感に耐え切れなくて、少女はベッドの上にへたり込んだまま、抱え込んだ自分の腕に爪を立てた。それでも――腕を掴まえることは出来ても、本当に止めておきたいものは掴まえられていなかった。握った砂が指の間から零れ落ちるように、さらさらとそれは逃げて、虚空に霧散する。
 そして。
 もともと、気がついたときには既に一握しか残っていなかったそれは、うなだれた少女が言葉を発しなくなったときには、もはや完全にどこにも見当たらなくなっていた。
 視界いっぱいに広がる、淡い光に照らし出された、真っ白なシーツ。
 何もかも、真っ更な。
 辺りを満たす青白い光。何の光かなど彼女は知らない。それに照らし出されるものが何かなど彼女には分からない。それすらも……彼女の中から零れ落ちたものの一部。
「エルフィーナ」
 呼びかけには、ほのかに冷たい男の指先が添えられていた。少女の白い頬を、手のひらが包み込む。柔らかく――優しく。
 だがその感触に何も感じることなく、ただ促されるままに顔を仰向かせた少女の唇が、微かに動く。
「だ……れ……?」
「ルドルフ・カーリアン」
 囁きながら男は目を細めた。最もいとおしいものを見る眼差しに。
「ルドルフ・カーリアン。エルフィーナ、お前の……恋人だ」



 闇に紛れる漆黒のローブ姿。確かにこの、ノースフライト山脈の森林地帯において人の目でそれを探し当てるのは容易なことではないだろう。
 だが――天馬の目は欺けない。
「間違いないわ。黒魔術士団は、山すその砦から一歩も動いていない。やはり待ち伏せて迎え撃つつもりなのね。警戒を怠るような人ではないもの、攻め込む時期を模索するのは時間の浪費だわ。こちらが高所にある分、いくらか楽になるでしょうし、早いうちの攻撃開始が得策ね」
 確信を持った口振りで報告した少女――ブランの顔を見詰めながら、ウィルは指の腹で音を立てずに安っぽい作りの木机を叩いた。
 拠点としていた砦を発ってしばらく。ようやく大陸解放軍は山脈の峠を越え、逆に下りの方が怖い凍り付いた山道を進んでいるところだった。このあたりには拠点に使えそうな建造物はないので、雪の降りしきる針葉樹林に仮設のキャンプを張っていた。無論万全以上の防寒対策はしてきたつもりで、今のところ凍傷などという被害は出ていないが、少しでも油断をしたら帝国軍と本格的な戦闘を開始する前に全滅の憂き目に遭いかねない。
「大自然って怖いよねぇ……」
「ウィルザード、聞いてないでしょ、人の話」
 呆れた声に、彼はとぼけた視線を送る。
「聞いてるさ。待ち伏せてるんだろ、君の姉さんが」
「……ええ、そうよ」
 やや躊躇いの間を置いてから、ブランは呟いた。何重にも底に敷物がされたテントの中は、簡単な作りの折り畳み机が一つ置かれ、ちょっとした司令室のような場所へと変貌している。本当にちょっとしたもの以外の何物でもないが、概ね実用に耐えうるのであれば問題はない。
 大陸解放軍の最前線の指令本部。
 そこに今いるのはウィルと、帝国軍白騎士団長という肩書きから捕虜になり、何故かうやむやのうちに解放軍の偵察係に(ウィルに)まつり上げられてしまったブランの二人だけだった。もっともブランとしても、もう帝国軍になど戻れないのだから、身の振り方の残された選択肢の中ではもっとも居心地のいいものに落ち着かせてもらったことになるのだが。
「でも、先の小さな砦で待ち伏せてたって、俺らがここを迂回していっちゃったら元も子もないと思うんだけど」
「迂回する道がないとは言わないけど、距離的、時間的にかなりのロスになる事は否めないわ。今の貴方に、そのロスを受け入れてまで安全策を取る余裕はないっていう読みなんじゃないかしら」
 小さく、嘆息。
「なんて言ったって、たった一人で帝都に向かうような馬鹿をやらかす人間だから」
「軍師としての仕事に私情は挟まないよ、俺は」
「なら、安全策を取って迂回する?」
「しない。このまま最短距離でゴー」
「入りまくってるじゃない……私情……」
「いやー。自然環境の厳しさと補給についてを考えるとだな、ちょいときつくてもさっさと行っちゃった方が兵士の士気も下がらずに済むと思うんだ」
 ウィルの顔を見るブランの目が如実に、嘘ばっかり、などと語っているが気にせず、彼は真面目な表情を作った。
「それより、熱は下がったのか?」
「ん……まあ、大丈夫よ」
 王子への謁見以降から、ブランは少し、体調を崩していた。完治しきっていない怪我が原因の微熱だろうが、赤味が差す少女の顔を見ながら、やはりこんな状態で偵察など頼むんじゃなかった、とウィルは舌打ちした。
 椅子から立って、彼女の額にそっと手を触れてみる。
「やっぱりまだあるな。もういいから、今日は寝てろ」
「大丈夫よ。砦方面は見てきたけど、付近の探索とか大まかにしかやっていないの。途中でちょっと寄っただけで……」
「駄目。命令だ」
 言いながら、軽くブランの額を小突く。痛かったというわけはないだろうが、額に手を当てる少女の顔をまじまじと見て、ウィルは首を傾げた。
「何か、また熱上がったんじゃないか? 顔赤いぞ」
「……なんでもないわよ」
 少女は、つっけんどんにそう言うと、ぷいと顔を背けた。

「信用できるのか? あの女は」
「え?」
 いつものことながら唐突にやってきて唐突にそう問いかけてきたカイルタークをウィルはちらりと視線だけで見上げた。すぐに、視線を机上の書き物に戻す。
「あの女って、ブラン? 信用してるよ。あの子、嘘つけない子だし」
 紙の上でペン先を、最も慣れた形で躍らせる。自分の本当の名。ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ。昨日辺りから署名はこちらの方で記すことにしていた。ばれてしまった――というか潮時だと判断して自らばらしてしまったのだが――以上、偽名を使い続ける理由はない。
 偽名。
 とは言っても、別にウィル・サードニクスを偽の名と思ったことなど一度もない。ウィルという愛称は元々使われていたものだし、何よりも、十二歳から十八歳――教会魔術士ウィル・サードニクスを名乗っていた間に出会った多くの人々にとっては間違いなく自分は、聖王国の王ではなく、一介の魔術士に過ぎなかったはずだ。
 おそらくそれはソフィアにとっても。
 ふと――
 気付いて、ウィルはペンを止めた。
(ソフィア……ソフィアはエルフィーナだ……)
 エルフィーナにとっての自分はウィルザード。
 ソフィアにとっての自分はウィル。
 あまり、可能性の高いことではないが、もし、彼女がエルフィーナの記憶を取り戻したら――?
(彼女にとっての俺って……一体どうなるんだろうな……)
「ウィル」
 降ってきた声に、我に帰って顔を上げる。
「何だよ、カイル」
「書類」
 言葉と彼の手元を指し示す人差し指に促されて目を落としたそこには。
「……うぎゃあ」
 紙の上に止めたままにしておいたペンの先には、その先端を源とする黒い泉が湧き出でていた。間の抜けた悲鳴を上げてから、紙を指先で持ち上げてみたが、すぐに諦めて放り捨てた。自分の署名の末尾に親指大の黒い染みのある手紙など、いくらなんでも使えたものではない。
「あーあ。よりにもよってこれかよ。内部文書ならこのまんま使うところなんだけどな」
「何だ、それは」
 ゆらゆら頼りなく空を舞う、丹精込めて書き上げた紙切れを、床につく直前でカイルタークは捕まえていた。
 その文章に目を通し始めたカイルタークの眉が、程なくぴくりと動く。
「……どういうつもりだ」
 紙を持つ手も身体すらも微動だにさせず放ってくる鋭利な眼光を躱すかのようにウィルは手を振った。
「見ての通りさ」
 言いながら、カイルタークの手から紙――手紙を抜き取って、ひらひらとやって見せる。
「この先の砦の責任者である帝国軍黒魔術士団長ノワール・シャルードへの、ヴァレンディア王ウィルザード・アルシディアスからの降伏勧告だ」
 聖王国ヴァレンディアは、大陸解放軍に協力するという意思の表明。程なく、解放軍はその全軍でもって帝国軍の砦を包囲、攻撃開始する準備が整う事。こちらの挙げるいくつかの条件を飲めば、降伏を受け入れる用意はあるという事――
 そしてその条件。
 砦の無条件解放と、黒魔術士団長の身柄の引き渡し。
 一枚の紙にまとめられるにはおおよそ盛り沢山な内容ではあったが、それを無理矢理詰め込むように押し込んだのがその手紙であった。
「このような脅しが効く相手とも思えんがな」
「あー。実はブランにも反対された。無駄だって」
 呟きながら、手の中の紙をくしゃっと丸める。
『彼女は脅しになど屈しない。絶対に、ね。彼女は任務遂行の為なら自分の命だって惜しげもなく使ってしまえるのよ』
 それが彼女の評だった。
『というかそれ以前に、これ、脅しにすらなっていないわ。いくら白騎士団が戦力から抜けたとはいえ、黒魔術士団だけでも勝てる公算は大きいと彼女は考えているもの。数の面では解放軍は、黒魔術士団のそれこそ十倍以上だけれど……まがりなりにも帝国軍の精鋭黒魔術士団にとっては、一人当たり十人の兵士を倒すことくらい、不可能なことではないわ』
 その事は、魔術士である彼自身が一番よく理解していた。魔術士の戦闘の本質は多対一。魔術とは、大勢の敵を少数で蹴散らす為の、生身の人間が使いうる最強の――というより唯一無二のすべである。
 正直、相手の力量を考えると十倍という数は微妙なところだった。正面からぶつかり合って消耗のさせあいという戦法を採れば、という場合の話だが。
 無論、馬鹿正直に真っ正面からやりあうつもりなど毛頭ない。被害を最も少なくするのであればこちらも少数精鋭の策を採るべきだろう。
「実の妹に言われてるようじゃ、意味ないだろな。まぁ、戦いの場における礼儀だよ、単に」
 新しく取り出した白紙に、先程と同じ様な文面を再びウィルは記し始めた。

 だが――
 誰もが立てたその予想は、あっさりと裏切られる結果になった。
 勧告書送付の翌日、唯一人で解放軍の野営地にやってきた、あまりにも一方的な要求を承諾する旨の書状を携えた使者は、黒魔術士団長ノワール・シャルード当人だったのだ。


←BACK

NEXT→


→ INDEX