CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 9 #61 |
沈黙の時間は、優に十秒近くあった。だがその間、双方とも一回たりとも呼吸をしていなかった。出来なかったのだ。追いつめる者と追いつめられる者の緊張。どちらが勝るとも劣るともいえない危うい均衡が張り詰める。 その均衡を先に破ったのは追いつめられる者――少女の方だった。 「はったりだわ。いくら時間を得たとはいえ、呪文なしでこの『ホワイトウィンド』の護りを貫ける魔力を練れるわけはない」 「そう思うなら、やってみればいいだろ。迷わずにさ」 言って、彼は差し伸べるように手を翳した。上に向けた手のひらから二十センチほど上のあたりに、透明な球体に閉じ込められたような小さな稲妻が音を立てて現れ……消える。 魔術士の微笑に、白騎士の少女は何を感じたか。 無言で――ブランは槍を構えた。天馬の巨大な翼がゆったりと開かれ、空を打つ。 「いいわ、受けてたちましょう」 天馬の蹄が地面を離れる。地上の魔術士を見下ろす少女の髪が風に遊ばれ、天をつく炎のように不規則に揺らめく。 「我が最速の秘儀でもって、貴方を貫く」 少女の眼光と、向けられた槍の放つ煌きが、真っ直ぐにウィルを撃った。 ざわり。 風が針葉樹を揺らす。 ――風は彼女の味方だ。瞬時にウィルはそう悟った。 旋風を身体に纏って――いやむしろ、それと一体となるように、地上へ向けて、一直線に少女が滑空する。 それを、ウィルは冷静に考えていた。 正確に言えば、冷静に物事を考えられるほどの時間がその時にあったわけではないのだから、それは『考えた』のとは違うのだろう。反応する事はおろか、知覚する事すら容易でないはずの彼女の攻撃の辿る道筋を――読む。 恐ろしく高速な、そして、直線的で貫通力の高い一撃。話に聞いた事があった。帝国軍白騎士の奥義、『彗星』。 向かいくる彗星に向かって、ウィルは魔力を解放した。 無数の光弾が弧状の軌跡を描いて虚空を踊る。 「成る程ね!」 その狙いを察して、ブランが声を上げた。 魔術を『切り裂く』事によって攻撃魔術を無効化するという、彼女の槍の性質を見切り、到底捌ききれないほどの数を四方八方からぶつける――それを実行する為に敢えて彼女を挑発し、スピードはあるが直線的で魔術を放つタイミングを掴み易い『彗星』を使わせたのだ。 「だけど……それは読み違えよ!」 そう言いながら、ブランはウィルに向けて構えていた槍を一閃させた。槍から放出された魔力が、正面の光弾のいくつかを打ち落とす。 しかしその程度では焼け石に水――のはずだったが。 天馬と少女を包むように、何かが収束した。そして。 炸裂。 圧倒的な爆圧が、人の一生よりも長い齢を重ねた辺りの木々を弓のようにしならせる。 風の塊だった。正しくは、物理的圧力を伴った魔力である。その爆発が、ブランを爆心としてあたりにそのエネルギーを惜しげもなく撒き散らす。 その魔力に打ち負かされた全ての光弾は少女には掠りもせず、空中に溶けるように消失する。 「貴方の負けよ、ウィルザード」 眼前に迫った、武器を失った魔術士に、ブランはとどめの槍を突き出した。 彼の腕を―― 槍が抉るように貫いて、血飛沫が舞った。 ……違う! 少女は叫んだ。私が狙ったのは、心臓だった! 驚愕と同時に。 肩に焼けるような痛みを感じて、少女は思わず手綱を放した。 黒にも近い深い緑の隙間から、蒼い空が見える。 仰向けに横たわったまま、ブランは、その澄んだ色に釘付けになっていた。 その視界に、すうっと影が差す。彼女を見下ろす男の顔―― 「ウィルザード……」 少女は呟いた。少なくとも、呟いたつもりだった。が、聞き取れるだけの音量になったかは定かではない。空の蒼さに見とれるあまり忘れていた熱さがぶり返す。口の筋肉を動かすだけで、肩もそれと連動しているかのように痛む。どくどくと脈打つ耐え難い痛みに、目に涙が浮かんだ。 その痛みの理由は分からない。彼女が思ったのは、 (駄目……敵の前でなんて、泣いちゃ……) そんなことだけだった。それの方が、大切なはずだった。軍人として。 無事な方の手で、顔を擦ろうとして、その腕を押さえられた。 「悪いけど、ちょっと動かないでて」 低く呟いて、彼はブランの鎧の肩当てを外しにかかる。 「…………?」 訝しんでブランが見ている間にその作業を終えた彼は、その下を見て、眉間に皺を寄せた。 「まずいかなこりゃ。カイルに見せないと……ったく、予定が狂うが仕方ないか」 独り言のように呟いたまま、ブランの戸惑いなどお構いなしに、彼女の身体を起こす。彼の視線を受けているその部分から何かを突き刺されて抉られたのではないかという程の痛みを憶えるが、その痛みが彼女を無抵抗にさせた。 しばし、何かを探す動作をしてから、彼は脱いだ自分の上着の端に剣で切り込みを入れた。そのまま引き裂く。 「……何……してるの……?」 「手当て」 痛みを必死で堪えての問いかけに返ってきたのは、そんな聞かなくても分かる一言だった。 「……そ、そうだろうけど……だから……」 「なるべく見ないけど緊急時なので許すように」 「え?」 まったく噛み合わない会話に、再度問いの声を漏らす。 と―― 鎧の下に着ていたチュニックを、襟元からいきなり引き裂かれる。 「…………!!」 思わず身を捩って、走った激痛に顎を仰け反らせた。 「だから! 動くなっての!」 露になったブランの胸を手早く覆い隠しながら、彼は傷口に布を巻き付ける。激痛の余韻がとりあえず消え去る頃には、その作業は終わっていた。脈拍と同期している痛みは、さすがにいつまでたっても取れなかったが。 「これはあくまでも応急処置だ。先に言っておく。今すぐ命の危険って事はないと思うけど、すぐにちゃんとした治療を受けなければ二度と腕が動かなくなるかもしれない。……分かるな?」 有無を言わせぬ口調に、思わず頷きかけて、ブランは思いとどまった。正直なところ、全然分かっていないからだ。無言で顔を上げる少女に、青年は「何だよ」と言った視線を返す。 「どういうつもりなのよ……」 その何気ない表情から視線を外し、呻く。 「情けをかけるつもりなの!? 見くびらないで、私は……」 「情け?」 ひんやりと、言葉が返ってくる。 先程までの、友人に話しかけるような気安い声音が、がらりと変わった。そう、その前の――戦闘中と同じ薄寒さを憶える容赦のない『敵』の声に。 「誤解してもらっちゃ困るね。俺だってそこまで甘くはないさ。ただ、君の身柄を押さえておく事は、うちの軍にとって多大な戦略的価値がある。とりあえず無事でいてもらわなきゃまずいんだよ」 ――と、冷たく呟いて、彼は頬を引き締め口を閉ざした。ゆっくりと、少女の背中と膝の裏に腕を回す。そのまま抱き上げられても、彼女はもう何も言い返さなかった。 小さく嘆息して、ブランは話題を変える事にした。もちろん、黙ったままでも問題はないが、引かない痛みを紛らわせるには喋っていた方がよさそうだったのだ。腕を固定されたお陰で、喋ることでより引きつるという事もなくなっていた。 「さっきの、よく分からなかったんだけど」 「何?」 視線と共に、声の調子も普通の状態に戻って来た。触れてはいけない話題に触れなければ、別に邪険にする必要はないらしい。 (器用……よね。不器用とも言うけれど) 自分でもよく分からない呟きは喉の奥にしまったままに、ブランは青年の顔を見上げた。 「絶対、仕留められたと思った。なのにどうして……」 「ああ……」 何だそんな事、と言わんばかりに彼は肩を竦めた。彼女を抱きかかえている為、僅かに揺れただけにとどまったが。 「君があの技……ええと、『彗星』?を使うのは、君も気付いてたと思うけど、分かってたからね。それを魔術で迎撃して……」 「そこまでは分かるわ。でもその後、気付いたらこの状態だった」 「あの術で倒せるなんて最初から思ってなかったさ。というより、多分どんな手を尽くしたところで魔術で君を仕留めるなんて出来ない。切り裂くという形で魔術を無効化しているように見えるけど、結局は斬撃と同時に放出される魔力の干渉が……ああ、まあとにかく、切り裂くっていう動作をしなくても防げるもんなんだろ?」 それをやって見せておいて、今更隠してどうなるものでもないので、ブランは素直に頷いた。 「あの魔術の狙いは、君に防御の力を使わせる事。人間誰だって何かやった直後は反応が鈍るもんだから、あとはそこに飛び込んでいって、そこの剣でグサリで終わり。大した事はしてない」 あっさりと言い放たれて、ブランは愕然とした。 そんなに簡単な事ではない。最高速度に達し迫りくる天馬の一撃を躱し、なおかつそれに向かって飛び込んでくるなんて――相対速度で考えたらもはや人間の知覚できる速度を確実に超えている。道理で覚えがないはずだ。 「……って……いくらなんでもそんな事、出来る訳ないじゃない! 知覚すること自体もそうだけど、身体能力がついて来ないわ!」 思わず叫ぶ。と、彼は僅かに顔をしかめた。 「ま、君もあの槍の性質を教えてくれたし、種明かししてもいいか。迎撃の魔術を放った瞬間、同時に別の魔術も使ってたんだ。俺自身に。重力制御の魔術の応用みたいなもんで……まぁ、簡単に言えば、自分の能力以上の速度で行動できるってやつだな。で、知覚の方はだけど……来る方向さえ分かってて気を抜かなけりゃ、とりあえず何とかなるだろ?」 「そ、それで何とかなってたら、白騎士団なんてとっくになくなってると思う……」 くらくらして来て、ブランは額に手を乗せた。出血の所為なのだろうか。 急に寒気と眠気が催して来て、ブランは目を閉じた。 「ブラン? おい、馬鹿、こんな所で眠るな!」 ぼんやりと声が聞こえる。頬を張られた。でも、目は開けられない。眠いものは眠い。クリーム色に混濁した意識が渦巻く。 ――何を必死になってるのだろう、この人は。敵じゃないの、私なんて。 ――どこの世界に捕虜をお姫様抱っこで連行する人がいるのよ。 ――自分だって……私の槍を受けて怪我してるんじゃなかった? だんだん、声が遠くなる……静寂が、雪の大地の上に寝そべっていた為芯まで冷えた身体を満たす。だが、苦しさはなかった。人肌の温もりをすぐ傍に感じていたから。 ――もしかしたら。この人ならば……もしかしたら…… あの方を……救ってくれる……? 一頭の天馬が、戦場に滑り込んでくるように舞い込んで来た。 だが、その上に跨っているはずの騎士の姿はない。その事に対する驚きようは、解放軍の面々より、白騎士達の方が格段に上だった。 その天馬の白い羽根には、遠目にも明らかな赤い染みがついていた。 「ブラン……様?」 白騎士のうちの誰かのものであろう、呆然とした呟きが空気に絡む。 ざわり。 だが、それに続いた音は、動揺によるものではなかった。迷いなく、白騎士達は判断を下していた。 瞬く間に、白の軍勢は蒼穹の空に舞い上がる。 そして、直滑降による攻撃を警戒し身構えた大陸解放軍を尻目に、その姿を徐々に小さくして行った。 勇猛な帝国軍の騎士団の行った呆気ない撤退―― 「……これは……一体……?」 その理由を、ディルトは数時間後、深手を負った少女を連れて帰営したウィルから知る事になる。 |