CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 9 #58

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 ひゅおんっ……
 紅き竜の翼が、風を切って鋭い音を立てる。
 雨をひとしきり降らせて気が済んだのか、雨雲はヴァレンディアの空から立ち去っていた。鮮明に見渡せる広い世界。眼下に広がる青い草原の真ん中を、ミニチュアのような人々が長大な列を成して一方向へと歩いている。彼らの進行方向に合わせて大地を視線で撫ぜて行くと、彼らの行く手を遮るように横たわる、山々が見える。
 ノースフライト山脈。
 まだ、かなりの距離がある。このペースを崩さず行軍を続けても、一週間、二週間という単位で日程を要するだろう。その向こうまではさすがに視認出来ないが、冷涼で乾いた土地が広がる事は知識として知っていた。
「リタ姫」
 遥か下――地上からの呼びかけに、リタは竜の背から身を乗り出して見下ろした。
「あまり、遠くには行かれぬようお願いします」
「はぁーい」
 丁度竜が形作る大きな影の下にいる格好となっていたレムルスの王子、ディルトの言葉に従って、リタはくるりと旋回するようにして高度を下げた。
 そうしながら、リタはディルト王子の周辺を眺めた。
 若き大陸解放軍盟主のすぐ隣には、ファビュラス教会の大神官カイルタークと、レムルスの老将軍コルネリアスの姿がある。概ね、彼の傍にあってしかるべき顔ぶれではあるが――
 当然いるはずの顔がない。
 遥か高みにいる王女の吐息を聞きとがめる者などいようはずもないが、控えめにリタは嘆息した。もっとも、彼の姿がない事は初めから知っていた。なのだから、今更嘆息するのもおかしな話ではあったが……
「って割り切れるわきゃないでしょーがっ! あーもう何考えてるのよあの馬鹿はぁっ!」
 鬱憤晴らしにだんだんと、バハムートの背を叩く。だが鋼鉄にも等しい竜の鱗は少女の細腕で殴られた程度では痛みなど感じるはずもなく、だが叩かれた感触は伝わったのか視線だけを背中に向けてきた。
「全く、あのジメジメした梅雨時脳みそ、一回奇麗さっぱり煮沸消毒してやりたいくらいだわ。ねえ、バハムートちゃん」
 昨晩のやり取りを思い出し、ぶうたれるように呟いてリタは、バハムートのひんやりと冷たい背に頬を寄せた。

「はぁ。……そう」
 ウィルに――大陸解放軍の軍師である彼に、決戦の地アウザール帝国首都カーリアンに向けての進軍についての詳細な情報が伝わったのは、彼の役職から考えると異例の遅さである、出撃前夜、つまり昨夜だった。
 本来ならば自分自身が考えているはずの作戦を人から伝え聞いて彼が発したのは、そんな気の抜けた一言だった。
「はあそうって……」
 呆れたように絶句する伝令役の騎士の代わりに、こめかみに指で触れながら、リタは呻いた。
「あんたねー、自分の立場分かってるの? 今回の作戦会議、一回も顔を出さなかったでしょう? 軍師がそんなんでいいと思ってるの?」
 腰に手を当て、非難を隠そうとしない口調の少女に、ウィルは薄暗く曇った瞳を向ける。数秒の間、ぼんやりと彼女の姿を瞳に映して、結局何も語らずにそれは逸らされた。一見何の意味も成しそうもない動作ではあったが、それは十分に、リタの怒りを増大させる効果を発揮していた。
「いい加減にしなさいよ、ウィル! 悲しみに暮れて何もかも放棄してるってのも、そりゃしばらくは同情で見逃してもらえるけどねっ、あんたは軍師なの、解放軍の軍師! いつまでも呆けてるんじゃないわよ!」
 気品と優雅さに満ち溢れた竜王国の王女というリタの外面しか知らなかったのであろう騎士は、王女の剣幕にかなりたじろいだようであったが、リタは今更その口調を訂正する気にもなれず、ウィルに対するのと同じような口調で退室を命じた。慌てて駆け出して行く騎士を見送ってから、扉を閉める。
 後ろ手にドアノブに触れながら、リタは嘆息した。
「それだけじゃない。貴方は本来なら、大陸を守護する聖王国の王として、軍の先頭で旗を掲げていなければならない立場なのよ。ディルト様も知っているというのなら、尚更でしょう?」
 自らの嘆息に気力を持っていかれたように声のトーンを落とすリタを、ウィルは椅子の背もたれに体重を預けたまま、やはりまた視線だけを動かして眺めた。何の感慨もこもっていない――ガラス玉のような瞳は、見られているとそれだけで腹が立つ。
 だが今度は、その苛立ちよりもそんな目をした彼を見なくてはいけないやるせなさの方が上回り、怒りを先程のように噴出させたりは出来なかった。
「もう……お願いだから勘弁してよ。ウィルのそういう顔、見たくないよ……」
 吐息と共に小さく漏らすリタから、ウィルは今度は視線を外さないまま、その瞳を陰らせた。陰らせる、というにはあまりにもその瞳に表情はなかったが。
「彼女は……死んでなんか……いない」
 ぼそりと呟かれた虚ろな声音に、リタは思わず息を飲んだ。口を開きかけて――そのまま声を出さずに、唇を噛み締める。
 ――駄目――なんだ。おそらく彼は。もう。
 先日、ブランという名の白騎士と出会ったあの瞬間だけは、ウィルは、せっぱ詰まった様子ではあったが、正気のように見えた。だが――
 彼の心はおそらくあの時に壊れたままなのだ……
 何の前触れも前置きもなく、ウィルがふらりと立ち上がる。
 そのまま、リタの存在など気にも留めた風もなく部屋を出ようとするウィルを、リタは振り向いて呼び止めた。
「どこへ行くの?」
「……ソフィアの所……」
 振り返りもしない彼の呟きにぞっとして、思わず、身体が硬直する。その間に、ウィルは頼りない足取りで部屋の扉をくぐった。
 次の瞬間硬直の解けたリタはすぐさま、扉の外を見たが、もう既にそこには彼の姿はなかった。

 そしてそれっきり――彼の事は見ていない。
 ヴァレンディ城のどこを探しても、彼はいなかった。ただ、彼と共に馬屋から一頭だけ馬がいなくなっていた。
 そして、解放軍は、彼の行方を探し出せぬまま、ヴァレンディアの城を後にした。

 落とした肩の先の白い手で、リタは硬いバハムートの鱗を撫でた。
 自分の叫びがただの八つ当たりなのは分かっていた。壊れた心にしっかりしろなどと言うのは、両足を失った人に走ってみろと言うのに等しい不条理さだ。
「皆……いなくなっちゃうの……?」
 父。母。フレドリックの城の皆。エルフィーナ。ウィル。皆、自分の前からいなくなってしまう。
 どうして?
 置いていかれるのはいや。傷つくのはいや。悲しいのはいや。
 それなのにどうして、私達は悲しまなくてはいけないのだろう。
 ……戦争さえなければ。皇帝……ルドルフ・カーリアンさえいなければ。
 許さない。絶対に許さない。
 誰も、望んではいまいが――
「仇は、私が取るわ」
 私は、そう望んでいるのだから。



 ――望み――



 ――白き少女の望み。 
 ブランは、純白の天馬に跨ったまま、天空を見上げた。
 白き山脈を覆う蒼い空には、一点の影も曇りも存在しなかった。さして暖かくもない陽光が、ただ鋭さだけは真夏のままで突き刺すように照り付ける。だがそれよりも、地上からの照り返しの方が瞳には辛かったというのは妙な皮肉であったが。
 天空を統べる騎士――天馬騎士。
 それでも、彼女は天馬の翼が空の高みを支配できるほどの強靭さを備えてはいない事を、理解していた。
 自由に舞う事は出来ても、支配しているのではない。ただその巨大な手のひらの上で、私達は踊っているだけに過ぎないのだ。
 なぜなら。
 それが、天馬の定めだから。
 大いなるものの手のひらで踊るが定め。それは私自身も例外ではなく……
 徐に、天馬の羽ばたきと共にやってきた報告者は、彼女に一言二言告げて、所定の位置に戻って行った。
 先程から度々、報告が入るので解放軍がどの辺りを進んでいるのかというのは手に取るように分かる。だが、いかなる知らせが入ろうとも彼女は動かなかった。一面の銀世界である山岳地帯に、雪と同じ色の天馬が密やかに舞っている。敵の到来を待ちながら。
 この地をあの方が戦場と定めたが故に。
 この地をあの人との戦場と定めたが故に。
「……それが……私の望み」
 あの方の為に、貴方と戦って――勝つ。それが私の、最後の望み。



 ――暗黒魔導士の望み。
 光明なき闇の淵。深遠なる虚ろ。
 暗黒魔導士は、一人佇んでいた。
 長い時間を。遠いその瞬間を。焦がれるほどに待ちわびながら。
 待つ事は苦痛だった。だがその苦痛は、真なる望みを叶える為には、望んで受けねばならないものだった。
「私の望むものはただ一つ……すべての終焉……ただそれだけを」
 呟く。長き時間の中で幾度となく口にした呪文を。
 終焉を待つ為の――終焉をもたらしてくれる彼を待つ為の、唯一の呪文を。



 ――皇帝の望み。
 原因は、おそらく些細なものでしかなかったのだろう。
 ほんの些細な歯車の掛け違い。
 あの時……あの少年を見なければ。
 あの時……あの少女を見なければ。
 あの時――
 全てはほんの、針で刺したが如き小さな傷痕で、その全てが致命の一撃だった。
 そして、数々の傷痕によって構築されたのが我……
「くっ……」
 男は、たまらない可笑しさに喉を鳴らした。
「無粋な事よ。今となっては些事に過ぎぬと言うのに……いや、感謝してすらいる。あの男には、な……」
 重要なのは、原因――過去ではない。
「貴様のお陰で我は我が望みを見出せたのだ。礼を言うぞ、ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ」
 必要なカードは揃った。後は、不必要なカードを排除するだけでいい。
「終焉など迎えさせぬ。望みを叶えるのは……我、ルドルフ・カーリアンだ……」
 最も重要なカード……最大の切り札は、今この手の中にある。
 独りごちて、彼はそっと――いとおしげに――『それ』に触れた。



 ――そして、一人の青年の望み。
「約束……したよな、エルフィーナ……」
 全速力で山道を馬を駆って行きながら、彼は囁いた。
「すぐに迎えに行くって……」


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