CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 9 #57

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 ノースフライト山脈。
 ヴァレンディア北部に位置し、聖王国とアウザール帝国、ローレンシア王国とを隔てる、大陸有数の大山脈である。大陸において、『魔の山』シュワヴィテ山に次ぐ標高を誇るミエスク山を最高峰とし、数多の高峰を擁するその山脈は、年中雪に覆われた、美しくも厳しい自然の障壁だった。

「聖戦の一舞台となるに、何とも相応しい場所ではないですか」
 どこか自嘲めいた声音でそう呟く暗黒魔導士ラーの顔を、ノワールは仰ぎ見た。
 身長差から必然的にいつでも見上げる格好となる主の顔からは、今日もまたいつもの通りに表情を読み取る事は出来なかった。目深に被ったフードが彼の顔を殆ど覆い隠しているのだ。もう何年も――子供の頃、妹たちと共に彼に拾われてから何年も、仕えてきているというのに、未だ彼の素顔は一度たりとも見たことはない。
 否――
 ノワールは、静かに否定した。
 素顔なら『知って』いる。黄金色の髪。深い海色の瞳。それらを完全に覆い隠すほどに、暗黒魔導士の纏うヴェールは厚くはない。
 それでも。
 それは、彼の全てを覆い隠しきるほどには、厚いのだ……
「眩き銀嶺を染める炎と血の赤。美しいとは思いませんか? ノワール」
「……赤騎士団を使いますか?」
 問われた瞬間、蒼い瞳と視線がぶつかって、ノワールは意識してゆっくりと視線を下に降ろしつつ答えた。頭上に、主の思案するように首を傾げる僅かな気配を感じ取りつつ、彼女は瞳を閉じた。
「赤騎士団は……出すつもりはありません。分が悪い」
「分が……?」
 思いもよらない答えに、思わず閉じた瞼を開き問い返す。
「我らがアウザール帝国が誇る、最強の騎馬隊が分が悪いとは……」
「相性の問題です。戦力的には、勝っているのですけれどね」
「……敵の指揮官ですか。ウィル・サードニクス」
 ノワールの指摘に、今度は僅かに暗黒魔導士の方が驚いた気配を見せる。とはいえそれは全神経を彼の方へ向けていなければ気がつかないようなささやかなものでしかなかったが。その証拠に答える口調には驚愕など微塵も滲ませていない。
「そういう事ですね。ルージュでは、おそらく彼には勝てません。ルージュを評価していないわけではないのですが」
 ノワールは静かに頷いた。この偉大なる暗黒魔導士が間違った予測を打ち出す疑念など初めから持ってはいないが、彼女は己の頭の中でこの答えを裏付ける論理を組み立てた。ルージュは指揮官とするにはまだ精神が幼い。幼さは詰めの甘さとなる。詰めの甘い指揮官は際どい所にある勝ちを拾えない。簡単な理屈だ。
「では」
「白騎士団を使います」
 返答は即座に返ってきた。ついでを言えば、彼女には予測できていた答えだった。山岳地帯の戦闘において、最も威力を発揮するのは山地に足を取られない天馬の軍勢であろう事は明白である。
 だが――
 その反論の意を表に出したつもりはノワールはなかったが、主はその気配を察したらしかった。
「分かっています。……ブランは、嫌がるでしょうね」
「そのような事は」
 慌てて首を振った少女に、暗黒魔導士は薄く苦笑した。だが何も言わず、視線をノワールから外し、窓の外へと向ける。
 ようやく、かなりの間降り続いていた雨は小降りになり始めていた。その中を、一頭の天馬が飛行しているのが見える。
「帰ってきましたね」
 暗黒魔導士の囁きを聞いて、ノワールはようやく今、彼がどこへ向かっているのかという事に気がついた。彼が歩むその先にあるのは白騎士団の厩舎だった。

 他馬を気遣ってかブランは、僅かな音さえたてずに自分の馬を厩舎の中に引いてきた。天馬の羽根も白騎士団の純白の鎧も濡れそぼっている。彼女が外出していた事にノワールは気がつかなかったが、相当長いこと雨の中を飛行していたであろう事は疑うべくもない。
「お帰りなさい、ブラン」
 唐突に呼びかけられて、ブランは驚いたように、即座に後ろを振り向いた。その拍子に鎧のパーツがこすれ合って、がしゃりと音を立てる。
「ラー様」
 慌てて雨水にぬかるんだ馬屋の中で膝をつこうとしたのを制止されて、ブランは兜を取って小脇に抱えた。鎧の邪魔になるからと、肩の辺りで切り揃えた髪も、僅かに濡れて鈍い光沢を放っている。
 ブラン・シャルード。ノワール・シャルードの実の妹。
 もう一人の妹、ルージュと三人並べて、暗黒魔導士ラーはよく言ったものだった。貴女達はあまり似ていませんね、と。
 確かに、彼女らは顔立ちも性格もまるで似通う所のない姉妹だった。母親は同じだが、父親がそれぞれ違うので仕方のない事だったのかもしれない。
 ブランは、どちらかというと母親に似ていた。どこか儚げで、吹けば飛んでいってしまいそうな雰囲気の、少女然とした姿。人のことは言えないが、小柄な身に帯びる重厚な鎧は――帝国軍白騎士団長などという仰々しい肩書きは、妹には似合わない。
「どこへ行っていたのですか?」
 暗黒魔導士の問いに、ブランは元々大きくない背をより一層縮めたように見えた。
 それでもややして、おずおずと唇を開く。
「偵察に行ってまいりました。南まで……」
「ご苦労です」
 暗黒魔導士はそれ以上は問わなかった。彼女の嘘に気づかないわけはないはずだが。
「戻ってきて早々済まないのですが、白騎士団にはこれから出撃してもらいます」
 告げられて、ブランの瞳に翳りが見えた。その瞳のまま、だが犬のような従順さで主を仰ぐ。
「ノースフライト山脈……南部一帯。どこから反乱軍が侵入してくるかはまだ分かりませんが、敵の動きを察知してからでも貴女がたなら十分に先手を打つ事が可能でしょう。その地帯の守りを任せます」
「来るの……でしょうか」
 暗い瞳で呟いてからブランは、はっとしたように目の焦点を合わせた。自分が外出していた本当の理由を知られたくないのならば口に出すべきではなかった――とはいえ、言わなかったとしても聡い主に悟られずに済むはずはある訳がなかったが――失言に、それを撤回するすべも持たないブランはただ、小さく唇を震わす。
 そんな彼女に、暗黒魔導士は穏やかに視線を向けた。
「彼は来ます。必ず。ヴァレンディアからアウザールへの最短距離で」
 深い海色。瞳と同じその色を連想させる声音で、暗黒魔導士は断言する。
 ――逡巡は許されない。
「……はい」
 僅かに一呼吸分だけの間を置いて、ブランは頭を垂れた。
「よい知らせを期待しています、白騎士団長ブラン・シャルード。全ては偉大なる皇帝陛下の御為に」
「心得ております」
 生真面目さを絵に描いたような、一言一句いつもと違わない応答をそう締めくくると、ブランは踵を返して厩舎の入口へと戻り始めた。
(ブラン……)
 胸のうちで、ノワールは妹の名を囁いた。
 妹にとってこの出撃が意味するものは、知らないわけではない。
 だが、その言葉を口に出す事はしなかった。これを口に出すという事は、絶対である主に異を唱えるという事になる。暗黒魔導士ラーの言葉より重いものは何一つ、この世には存在しない。例えそれが実の妹であっても。
 だから――
「済みませんね、ノワール。貴女の妹には辛い役目を負わせてしまった」
 そう言われて、ノワールははっとして暗黒魔導士の顔を見上げた。
「勿体無く存じます」
 慌てていた為、咄嗟に言うべき言葉が思い付かなかったが、案外台詞はすんなりと口をついて出てきた。
 恭順の眼差しで、暗黒魔導士の蒼い瞳を見上げる。
「私達は貴方様の駒。貴方様の大望を叶える為の捨て石です。どうぞ、お気になさらぬよう」
「……ありがとう」
 微笑みの形に細められた目には、しかし、微笑とは別の何かが潜んでいた。
「黒魔術士団も……後方待機の形で出撃して下さい。それと、赤騎士団には帝都を守護せよ、と」
「仰せのままに」
 最敬礼の姿勢でノワールは静かに応えた。

「あと……少しだけです」
 暗黒魔導士は、静かにノワールに囁いた。――もう彼女は、彼の命を受け、とうにこの場を離れているが。ノワールだけではない。彼が巻き込んだのは彼女ら姉妹を始めとする多くの人間だった。
 多くの血。多くの命。そして。
「あと少しで、私の望みは叶えられる……」
 ――私が生きてきた理由。ただ一つの望み。
 あと少し。そう、あと少しで私の望みは叶えられるのだ。
 あの方の手によって――


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