CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 9 #56

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 フレドリック王女リタと入れ違うように、一人の兵士が部屋に入ってきた。ドアの所で、姿勢正しく敬礼をする。
 それを見て、自分は邪魔になってしまうとでも考えたのだろうか、王女アリスも静かに席を外した。
「先日の戦闘において実際に我が軍と衝突したのは、帝国軍白騎士団と赤騎士団の一小隊であったと推測されます。黒魔術士団が動いた形跡はありません。紋章魔術士はその下位に属する部隊で、騎士団と共に早々に退いておりました。そして、敵に与えた打撃ですが、白騎士団、紋章魔術士はほぼ無傷。赤騎士団は、おそらく壊滅したと思われます」
「ご苦労」
 報告した騎士に、短く労いの言葉をかけてから、ディルトは卓上の地図に視線を下ろした。大陸北西部――ヴァレンディア北部、アウザールやローレンシアとの国境付近を描いた地図で、その上にはいくつかチェスの駒が乗っている。そのうちの一つ、ヴァレンディア城の上に乗っていた『騎士』の駒を彼はつまみ上げた。
「ごく一部とはいえ、たった一人で赤騎士団を壊滅させるとはな……」
 小さく囁く。
 静かな雨音。
 嬉しげに口を挟んでくる明るい声ももう、ない。
 沈黙の間を持て余して、ディルトは手の内の、装飾された軍馬を象った白い駒を指で撫で付けた。テーブルから視線を上げ、同じように地図を見下ろしていたカイルタークに蒼い双眸を向ける。
「このまま……アウザール帝国首都カーリアンに攻め上がります」
 断定的な口調で言うディルトを、カイルタークは静謐な瞳の中にほんの僅かに驚きを含ませて見上げた。ディルトは彼が何か言ってくるより先に、言葉を続ける。
「ヴァレンディアでは十分な補給は行えません。先の戦闘による自軍の損害も……さほど多くなかったことですし、一刻も早く進軍を開始すべきだと考えます」
「……いいと思います」
 カイルタークから返ってきた言葉に胸をなで下ろすような気持ちで、ディルトはゆっくりと息を吐いた。一旦伏せた目をすぐに上げ、ディルトは部屋の壁際に控えていた騎士の方へ向き、指示を与える。
 騎士が出てゆき、部屋に残ったのがカイルタークだけだという事を確認してから、彼はテーブルの傍の椅子に腰を下ろし、緩い曲線を描く背もたれに体重を預けた。
 静かな雨音。
 もうかなり長い時間降っているこの雨は、未だ止む気配を見せない。
 白くて暗い空。まとわりつくように重い空気を一瞬にして吹き払ってくれる人ももういない。
「駄目ですね。私も、ウィルのことを怒ることは出来ない」
 テーブルの上で組んだ手に額を預けながら、ディルトは呟いた。
「自分の目の前で、言葉を躱したことのある者が斬り殺される様を見たのは、この戦争に於いてが初めてでした。逆に自分で、人を殺したのも。どちらの日も、その夜は一睡もすることが出来ませんでした。……いつの間に、出来るようになっていたのでしょうね」
 耳に滑り込んでくる自分の声が震えていることに、ディルトはふと気がついた。泣いていると思われるかもしれない。顔を上げて、乱れた前髪を手櫛で簡単に整えた。
「人の死に慣れてしまった。いや、麻痺したというべきなのでしょうか」
 顔を上げても、ディルトはカイルタークの表情を直視したりはしなかったが、カイルタークは彼のことをずっと、食い入るように見詰めているようだった。鋭い、という形容が相応しいカイルタークの容貌は、どちらかというと神官という職業には不向きなようにディルトは思っていたのだが、凝視されても辛くないその視線は、十分に大神官という彼の役職に相応しいものであった。
 口に出してしまってもいいかもしれない。そう思える。
 ディルトは、吐息に言葉を絡ませた。
「いつか……この痛みも麻痺するんでしょうか」
 麻痺して欲しい。胸のうちに残しておくにはあまりにも痛すぎる。
 麻痺して欲しくない。彼女の残してくれた最後の思い出を消したくはない。
 思い。彼女の思いがどこへ向けられていても――自分に向けられていなくても、本当にそれはどうでもよいことだった。
 ただ、彼女が好きだっただけだから。
「……すみません。情けない愚痴を」
「いいえ。人の子の、内なる声を聞くことこそが、我々の役割です」
 詫びるディルトに、カイルタークは首を横に振った。



「あれ?」
 バハムートにあげようと、調理場からバケツいっぱいに貰ってきたりんごを抱えながら、リタは声を上げた。
 ヴァレンディア城にいくつかある中庭を横切る柱廊の、その端に腰を落としてぼんやりと空を見上げる彼の姿は、おおよそこの王城の主に相応しからぬ姿であるというのはどうしても否めない――
(……ってか、怖いよこの人……)
 思わず眉間に皺を寄せる。薄暗い雨の日、無人の城の一角――それも元戦場という場所で、幽霊のような顔をされて座り込まれていれば悪いが怖いとしか言いようが無い。
「ウィル」
 恐る恐るのリタの呼びかけに、その白い顔は彼女の方を振り向いた。
「何だ、リタか」
 ぼそりと低い声音で呟く。彼の瞳は真っ直ぐにリタの事を見つめてはいたが、彼女の姿を本当に網膜に映しているかどうか疑わしい程に虚ろで、リタは思わず、後に続けるべき言葉を飲んだ。知った顔でなければ、絶対幽霊だと思い込んでバハムートで全力攻撃を浴びせている所である。
(まさか本当に……幽霊じゃないでしょうね……?)
 ありうる――かもしれない。このままウィルの部屋に行ったら首吊りでもしたウィルの死体がひとつぶら下がっていたりするのではないだろうか。まるっきり怪談の世界だが。
 だが、それにしては目の前のウィルの幽霊――?には現実感があるように思えた。
「ね……眠ってたんじゃなかったの?」
 引きつりながらも何とか笑顔を浮かべ問いかけるリタに、ウィルは曖昧に首を振る。
「寝てた……ああ。寝てたのかも。よく分かんないな」
「よく分かんないって……」
 呟きながらリタは床を確認した。本来は真っ白であるが薄暗さのため灰色に沈んだ大理石に、ウィルの影がほのかに描かれている。どうやら彼は本当に幽霊ではないらしい。馬鹿馬鹿しいとリタは自分でも思ったが、ひとまず安心する。
「ええと……大丈夫?」
 何を言うべきか悩みに悩んで結局口にした、何のひねりも無い言葉に、しかしウィルは意味を測り兼ねたかのように眉を寄せる。
「大丈夫って、何が」
「何がって……ウィル、ショック受けてる……でしょ?」
 さすがに、直接彼が沈む原因――ソフィアの名を口に出す事は憚られて、出来る限り遠回しに囁く。
 その瞬間。
 不意に、がばっと勢いよく顔を上げたウィルに驚いて、リタは首を竦めた。
「ご、ごめ……」
 思わず謝りかけて、気付く。――彼はリタの方に意識を向けたのではなかった。リタが声をかける間もなく、ウィルは柱廊の屋根の下から庭へ飛び出し、大きな雨粒が止めど無く落ちてくる白い空を睨み付けるように見上げる。
「どうしたの?」
「リタ」
 彼の声は、リタの呼び掛けに応えるには早すぎるタイミングで返ってきた。訝るリタに、険しい視線を真上に向けたまま、ウィルが視線と同じような声で呟く。
「バハムートを呼べ」
「え?」
 思わず問い返す彼女に、ウィルは苛立たしげに視線を向けた。
「早くしろ! 行っちまう!」
 何かいるの――?という台詞が喉元まで出たが、彼の切迫した表情に慌ててそれは呑み込んで、代わりに大声を上げる。
「バハムートちゃーんっ!」
 数秒もせずに白い空から舞い降りてきた赤き竜に、ウィルは有無を言わせずリタの襟首を掴んで飛び乗った。

「ちょっと何なのよ? 一体何がいるの?」
 バハムートの飛行速度と同じ速さで顔に当ってくる雨粒を、殆ど効果はないと分かりながらも手で遮りつつ、リタはウィルの顔を見上げた。
 ウィルに言われて即座に飛び立ったが、弱くない雨脚に、視界は一面真っ白に塗りつぶされていた。十メートルも離れれば何があった所で見えそうにない。こんな条件でこの広い空で何かを探そうとするなど、ファビュラスの荒野のどこかに落としたコインを見つけだそうとするようなものだ。だが、どういう訳かウィルは目標を見失ってはいないようだった。
 ショックのあまり、幻覚でも見たのだろうか。
 一瞬、そんな考えがリタの頭をよぎったが、ぴくりと顔を上げ、進行方向に真っ直ぐ目をやったバハムートを見て、そうでない事を悟る。
 唐突に、バハムートが自ら速度を落とした。白い雨粒のカーテンの奥に、更に白い影が移っているのが、ようやくリタの目でも確認できた。
 静かに、こちらを向いて空中に佇んでいるその姿に、リタは見覚えがあった。――とは言っても、見覚えがあったのはその人物自身にではなかったが。
 純白の大きな翼の生えた白馬。その背に跨る、翼の白さに劣らない純白の甲冑を身につけた一人の騎士。
「白騎士!?」
 そう。それは昨日相対したばかりの、帝国軍の天馬騎士――白騎士の姿だった。
 それが、こちらを待ち受けていたとでも言わんばかりの風情で赤き竜と二人を見詰めているのだった。否応なく、心臓の鼓動が早くなる。当然といえば当然だった。昨日、死すら覚悟した相手なのだから。
(でも……一人だわ。たったの……)
 ぐっと力を込めたリタの肩に、ウィルの手が触れる。顔を上げたリタに、ウィルは目も向けずに囁いた。
「止めとけ。落とされるぞ」
「でも……」
 しかし、ウィルはリタの反論を聞き入れるつもりはないようだった。目の前の騎士に視線を固定したまま、バハムートの背中の上で僅かに腰を上げる。あまり意味は為しそうにないが、いつでも魔術を放てる態勢を取ろうとしているのが、リタの目にも分かる。
「何の用だ? 単なる偵察ってわけでもないだろう。わざわざ気配を悟られるような飛び方をしておいて」
 白騎士に向けて放たれた声は、いつにない厳しさをはらんでいた。
 ウィルの声に応えるように、ゆっくりと、その騎士が意識を彼らの方に向ける。――フルフェイスの兜に覆われていた為断言は出来ないが、目の前の騎士は、その視線をずっとこちらに向けていたようだった。しかしこの時改めてその騎士が、意志のこもった眼差しを二人の――いや、ウィルの方に向けてきた事に、リタは何となく気づいた。
 小さく唾を飲む。騎士の動き出す気配を察して。
 だが、リタの予想に反して騎士の取った行動は一言呟く、ただそれだけだった。
「……アウザールには来るな」
 兜と雨音の幕とに遮られ、ともすれば聞き逃しそうな、か細い声音。紛れもない、それは女の声だった。だがしかし、その声に含まれる意志は、儚げな印象のある声に反した、決然としていて揺るぎ無いもののように感じられた。
 リタはその内容よりもむしろ声と姿と口調のギャップに驚いたが、ウィルには少なくとも、見た目には驚愕の色は現れてはいなかった。
「どういう意味だ」
 押さえた声で、聞き返すウィル。しかし騎士は、ウィルに向けていた意識をついと逸らした。用は終わったとばかりに、天馬を反転させる。
「待て!」
 叫ぶウィルを無視し、騎士の足が天馬の腹を叩く。
 しかし――
「待ってくれ、ブラン……」
 ウィルが口にした名に、騎士の鋼鉄の鎧に包まれた肩がぴくりと揺れる。
 やや躊躇うような間を置いて、彼女は、肩越しに振り返った。
「憶えていたの……」
 兜の奥から、僅かに震えた女の声が囁いてくる。それに小さく頷きを返してから、ウィルは意を決したように視線を上げた。
「忘れるわけ、ないだろ。……君の事を」
「…………」
 ウィルに対する騎士の返答は沈黙だった。無音の言葉。
 白騎士は、視線を前に戻した。完全に、ウィルとリタの二人に背中を向ける。
「……なら、忠告を理解して。アウザールには来ないで。ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ……」
 囁くように告げて。
 白き天馬の翼は雨に煙る空を切った。

 視界から、天馬の姿が消えるのにはさほどの時間を要さなかった。
 しかし彼はいつまでも、白騎士の消えていった白い空を見詰め続けていた。
「ウィル……」
 硬い表情を崩さないウィルに、心配になってリタが呼びかけると、彼は小さく、だが深く息をついた。
「戻ろう」
 彼の呟きに慌てて頷いて、バハムートの首の辺りに触れる。
「……リタ」
 続けて呟かれたウィルの声に、リタは即座に顔を上げた。彼の声音と表情からはまだ硬さが抜けきってはいない。
「何?」
「今見たことは……誰にも言うな」
「え?」
 考えもしなかった台詞に、リタは思わずぽかんとウィルを顔を見上げた。それと同時にウィルは彼女から視線を逸らす。
 一瞬だけ、ひどく思い詰めたようなウィルの瞳がリタの目に入った。


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