CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 9 #55

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 不意に、甘い花の匂いが鼻孔を満たした。
 ――幻覚だ。
 そう、断じる。ヴァレンディア王城内の中庭。いつでもここは、色とりどりの花に溢れ、かぐわしい香りが充満していた。だが今は手入れを行うものもなく、木々も草花も枯れ果て、風にさらさらと乾いた音を溶け込ませているのみである。
 背後から、視線の先へと伸びる剣を目でなぞりながら、ウィルは後ろを振り向いた。
「……知ってたんですか」
 こちらに剣を向けたまま――そう、たまにこういった妙なことをするのだ、この王子は――鋭く細めた蒼玉の瞳で見詰めてくるディルトに、ウィルは口の端に苦笑を浮かべながら問いかけた。
「誰から聞きました? カイルかリタくらいしかいないですけど」
「初めから気付いていた。トゥルースで……教会から派遣されたお前を初めて見たときからな」
 ウィルの耳元に止めた剣先を微動だにさせずに、ディルトが答える。一見しただけではただの線の細い貴族の青年だが、見た目以上の膂力を彼は備えている。
「あの時は驚いた。憧れて止まなかったヴァレンディア王が、目の前で跪いていたのだから」
「それ以前に、どこかでお会いしたこと、ありましたっけ」
「聖王国で行われた……何かの祭典で、一度だけな」
「ああ……」
 呟きながら、ウィルは身体をディルトの方へ向けた。振り向き様に、刃が頬を撫で――そこに赤い筋が生まれる。
「ミナーヴァ神の降臨祭……五年に一度だか、各国で持ち回りで祭祀を執り行っていた。レムルス王にはそれより前に何回かお会いしたことがあったが、ディルト王子、貴方に会ったのはあの時だけでしたね」
 懐かしげな口調のウィルに、しかしディルトはこれといった反応を見せない。
 ――いや。
 ウィルは目を細めた。反応を見せていない訳ではない。さっきから、ずっと彼は激しい感情を自分に叩き付けてきている。
 ――敵意にも似た怒気。
「殺しますか? 俺を?」
「そうだな。そんな情けない顔で呆けていることしか出来ないのなら、死んでもらった方がいいかもしれんな」
 冷たく言い放つディルトに、ウィルは力ない笑みを漏らした。それが気に触ったのだろうか。王子が、奥歯を噛み締める音が、ウィルの耳にも届く。
「お前は何をしている!? 絶望している場合ではないだろう! 嘆く暇があったら剣を取れ! 仇を討つ為に戦え!」
「仇?」
 聞き返す。仇? 誰の――?
「お前のそのような姿を、ソフィアが見たがっているとでも思っているのか!?」
 ソフィア。
「ソフィアは……死んでいない!」
 叫ぶ。死んでいない。死んでなんかいない。
 耳を塞ぐ。自分の声が反響する。閉じた世界の中に。
「死んでなんかいない! 彼女は――!」
「落ち着けっ!」
 頭を抱えて膝を折ったウィルの腕を力ずくで引き剥がしながら、ディルトも声を上げる。
「見ただろう、お前も。自分が目にした現実くらい受け止めろ!」
「見ていない! だって彼女は……」
 顔を上げて、ディルトを睨め上げながら、叫ぶ。
「彼女は……いなかったんだ!」

 ――――――――
 『それ』が、彼の視線の直線上にあったのは、単に偶然だった。
 ひときわ大きな撒き散らされた血の紅い花が、視線の先の地面に描かれていた。
 ひどく写実的なその絵画を描くには、膨大な量の絵の具が必要だったことだろう。
 そしてその傍らには――
 ただ一つ。ぽつんと無機質な物体だけが落ちていた。
 這うようにして傍に寄って、拾い上げてみる。人間の身長より少し長い棒状の物体。血に汚れているが、見覚えがあった。彼女が愛用するそれは彼女自身が作ったらしく、他に例を見ない、槍斧と槍の中間のような特殊な形状をしている。
 ソフィアの槍。
 だが、持ち主の姿は――なかった。戦場においては肌身放さず持ち歩いているはずのそれだけをその場に残し、彼女は――
「ソフィア……?」
 赤い花の描かれた、乾いた地面。――その中にひとつだけ、違う花があった。白い花。槍を拾ったこの位置から何とか手を伸ばして、届く近さだった。
 ざらり、と地面を撫でる。妙に粒子の細かい白い砂――?
 その、嘘のような白さに気がついた。
 骨。おそらく何かの魔術だろう、超高温で焼かれ、通常なら有り得ない形状に変質させられた、人間の残り香。
 自分の心臓の鼓動が耳につく。
 紋章魔術士? 違う。あの雷くらいでは、人間一人を消し炭に出来るほどの威力は出せない。
 自軍の魔術士の攻撃? 違う。それならその魔術士かその死体がこの場に存在するはず。
 これだけのことが出来る魔術士は、敵にいる。――暗黒魔導士。奴ならば、この場から姿を消すことも可能だ。
 ――だったら、これは誰――?
 白い砂を指ですくうと、固いものに触れた。
 溶けた金属の塊。宝石がついている。指輪だろうか。
 指輪……?
 ソフィアはいない。手放すはずのない武器を戦場に置いて。死体――?がひとつ。
 大地に撒き散らされた血。これだけの出血はおそらく致命傷。
 小さな石のついた指輪。
 これは、だれ……?
 これは――――

「彼女はいなかった。だから死んでいない」
 虚ろな声音でウィルは呟いた。
「ウィル……」
「だって、あれがソフィアだっていう証拠、あるんですか? ねえディルト様。ソフィアじゃない。ソフィアな訳がない。ソフィアじゃ……」
 指輪。小さな石のついた指輪。
 フレドリック城下で買わされた――
「違う!!」
 何が違う? 何も――違いやしない。いくら熱で変形したとしても、自分があげたものを――彼女が薬指にはめていた指輪を見間違えたりなどしない。
「違うっ……違う、ソフィアは……」
 呟きながらかぶりを振るウィルの肩を掴もうとしたその手を、ディルトは拳にして引いた。
 ゆっくりと息を吐いて、彼は膝を地面につけたままのウィルに背を向けた。

 空が白く濁っていた。
 ぽつり、と、小さな雨粒がディルトの頬を打った。



 雨。
 ヴァレンディアは冬でも比較的、温暖で雨が多い。
 丁度、ヴァレンディアの北部、ローレンシア王国やアウザール帝国との国境であるノースフライト山脈を挟んで南北では、気候はがらりと変わる。外海沿いのローレンシアは雪が多く、内海沿いのアウザールは乾燥しているという違いはあれども、どちらも冬の寒さは有名である。
 雨。白いのに暗い空から静かに降る、雨。
 安定した気候のヴァレンディアも、春と夏の境目には度々嵐に見舞われるが、今はそういった時期ではなかった。
 数時間前から降り出した、穏やかな――だが、冬の女神の到来が近いことを知らしめる冷たい雨は、しばらく止みそうになかった。

「駄目ね。あれは」
 椅子に反対向きで座り、背もたれの上に腕を組んでカタカタと前後に揺らしながらリタは小さく呟いた。普段ならば、一国の王女たる彼女がこんなはしたない格好をしていれば誰かが何か文句を言ってきそうなものだが、今は誰も構ってこなかった。
 部屋中をぐるりと見まわす。隣に、涙を浮かべ肩を震わす妹のアリス。テーブルに、憔悴しきった表情のディルト。順に眺めて、壁によりかかって立っていた、唯一普段とさほど変らない表情をしていたカイルタークの所で目を止める。
「大神官さん、貴方友達でしょ、ウィルの」
「ディルト王子でも駄目なら私が何を言った所で無駄だ」
 視線も向けられずに答えられ、リタは小さく肩を竦めた。
「……まったく……」
 盛大に、溜息を吐く。
「ウィルもウィルよ。ショック受けてるのが自分だけだなんて思わないで欲しいわ」
 今は、彼は部屋で眠っているらしい。彼のことだ。夢の中で自分を苛んでいなければいいが。
「……仕方ないですよ」
 俯いたままぽつりと呟いたディルトをちらりと見て、リタは頭をぽりぽりと掻いた。
「どの道、このままではウィルは使い物にならない。当面は彼は戦力から除外してこの先の作戦を考えましょう」
 事務的な口調で言うカイルタークに、ディルトは「ええ」と小さく頷いた。
(駄目ね、こっちも)
 息を吐いて、リタは席を立った。作戦について考えるのならば、自分はお呼びでない。ついて来ようとするアリスを制して、リタは一人で廊下に出た。

 床の絨毯に小さな滴が落ちた。
 頬を手のひらで拭い、絨毯を爪先で擦って、リタは雨の降る外に向かって歩き出した。そろそろバハムートちゃんの御飯の時間だ。



 彼女はいなかった。
 どこにもいなかった。
 叫ぶ。彼女の名を呼んで。子を捜す母猫のように。
 見つからない仔猫。母猫の捜すその子は、もうこの世にはいない。しかし母猫はそれを知る事すら出来ず、幾日も幾日も呼び続ける。
 忘れてしまうまで。
 それは本能。だから呼び続ける。母猫には仔猫の死が理解出来ない。だから呼び続ける。見つかるまで。見つけられないことを知らないから。
 いつか母猫は呼び声を上げなくなる。我が子のことを忘れて。それも本能。
 憶えていたら――永遠に呼び続けなければならなかったら――母猫は壊れてしまうから。

 壊れてもいい。

 彼は、膝を抱えて小さくうずくまった。前も後ろも上も下も分からない一面の闇。辺りの空気は張り裂けるほどに冷たくて、震えずにはいられなかった。
 彼女の声。微笑んだ瞳。乾いた地面。紅い花。白い花。槍。溶けた指輪。
 浮かばない映像。流れない涙。護れなかった約束。彼女のいない世界。
 ――違う。
 ないのは彼女の存在だけ。

 叫ぶ。彼女の名を呼んで。
 壊れてもいい。
 彼女を護れなかった自分。
 彼女のいないこの世界で自分の存在以上にいらないものなんてないから。

 ――ほんとうにそれでいいの?
 からかうような甘い声音。見慣れた微笑み。
 暗い意識の淵。澱んだ眠りの中。更に深く、彼は堕ちていった。


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