CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 8 #53 |
悪寒―― ルージュ・シャルードは認めざるを得なかった。これは戦慄であると。そしてこれを、アウザール帝国軍の精鋭たる赤騎士団を束ねし自分に与えるのは、たった一人の少女であったということを。 どさっ…… 真紅の鎧を纏った騎士の身体が、砂袋のような重い音を立て馬上から落下した。まだ息はあり、かすかに呻き声を上げもがいていたが、自力で動くことは出来ないようだった。 戦闘能力を失った相手には目もくれず、少女――ソフィア・アリエスは視界を広げた。眼前に迫る、二人の騎士の姿を確認して、身体をそちらへ向ける。 明らかに騎士の作法ではない攻撃法だったが、少女は眉一つ動かす事はなかった。馬を操る騎士相手に逃げを打っても無駄と判断したか、彼女は自ら敵との間合いを詰めていた。長大な剣で突いてくる騎士の攻撃を、横に移動して躱す。 「ふっ――」 息を吐きながら、槍の柄で敵の剣を払う。重い剣を槍に絡め取られ、重心を崩す騎士。ほんの僅かなその隙を突くだけの力を、少女は備えているようだった。 騎士に向かって槍を振りかざして―― その瞬間、鋭い衝撃に肩を揺らし、少女は声もなく身体を仰け反らせた。彼女の背を、血に塗れた刃が袈裟懸けに薙ぐ。 「殺った――!」 ぐらり、と揺れる小さな身体。背後から彼女に斬りつけた騎士の表情に喜色が浮かぶ。だが次の瞬間、騎士はその笑みを強張らせた。 力なく倒れかけた少女の、か細い足が地面を踏み締める。ばね仕掛けのようにぱっと後ろを向いて突き出してきた槍を、油断しきっていた騎士が避ける事は出来なかった。鎧の関節部分を正確に貫かれ、どさりと地に落ちる。 「――馬鹿な――」 呻く。呻くしかなかった。 この戦闘を開始してから、それほど長い時間は経過していない。だが、たかだか一人の少女を倒すのには十分すぎるほどの時間はとうに過ぎていた。 だが実際、ルージュの目の前に立っているのはソフィアと名乗った少女であり、地に伏すは精鋭たる赤騎士団の半数だった。残る半数も、及び腰気味に、困惑の表情――というよりむしろ、化け物を見る表情で少女の事を見詰めている。人間業ではない。だが、怖れの対象は、彼女の尋常ではない戦闘能力ではなかった。否。それもある。だがそれよりも―― 「馬鹿な! 何故……何故まだ動ける!?」 ルージュは、引きつった声を上げた。 騎士たちに対し、水平に上げられた少女の腕からは、ひどく大量の鮮血が滴り落ちていた。腕だけではない。戦場に出るにはあまりにも軽装と言えるその身体には、腕と言わず胴と言わず、幾筋もの切創が刻まれていた。そのうちのいくつかは、そうそう放っておいていい代物ではないように見える。 だが。 満身創痍でありながら少女の構えは微塵も揺らいではいなかった。槍を閃かせる速度にも、僅かな変化さえ見られない―― 「はあっ!」 いつまで経っても仕掛けて来ない騎士に、焦れたように少女は息を吐き、真っ直ぐに走り出した。幼げに見えた少女の瞳が、刃物の鋭さで、ルージュを睨めつける。実際にその少女の眼底に映し出されていたのは、その前に立つ騎士たちだったのだろうが、標的たる赤騎士たちは怯み、一歩を踏み出せずにいた。 「退けいっ!」 一声吠え、ルージュは馬の腹を蹴った。眼前の部下を蹴散らすがごとく真っ直ぐに少女に向かって疾駆する。少女もまた標的をルージュ一人と定めたようだった。 直線的な視線上に少女を捕らえる。己もまた彼女の視線にそのように捕らえられている事を意識しながら。ルージュ・シャルードは一対一の試合においては師である暗黒魔導士ラーを除き、他の何者にも負けた事はなかった。自分と等しい立場を有する――帝国軍白騎士団を率いる姉にさえもである。もっとも姉は、戦闘能力は当然ではあったが、何よりもその指揮能力を見込まれてその地位についたのではあったのだが。自分の能力に対する自負はあったが、慢心はしてはいなかった。しようはずもない。相手の実力を見極められないようでは、戦場に出る資格はない。 深手を負っているはずのこの少女は、それでもなお、牙の輝きを減じてはいない。おそらくはルージュ自身と同等の輝きを持つ牙の。 「容赦はしないっ!」 上げた声への返礼は、槍の鮮烈な一閃だった。魔術士の放つ汚れなき白の光条にも似た、貫けぬものなど存在しないと錯覚させるその一撃を受ける事は躊躇われ、ルージュは馬上で半身を翻した。鎧の胸当てを穂先が掠め、キッと音を立てる。それは勝機だった。紛れもなく全力で放ってきた一撃。それを躱したのだ。自信はあった。少女を倒す自信ではなく、少女が、己の攻撃が躱された事――そして敵の追撃を受けた事を気付く間もなく、このか細い首を胴体から分離させる自信。 即座にルージュは剣を振りかぶった。 瞬間。 目が合った。 噛み締めていたはずの奥歯が、離れる。少女は、じっとルージュの瞳を見つめていた。ただそれだけだった。それは――あれだけの鋭さを持った槍などただの余興で、その瞳が本命の一撃であるというくらいの力を備えた、だが、空虚な――視線だった。 すれ違い様に一撃を入れる事は容易だった。彼女はおそらく、避けようとさえしないだろう。 だが、ルージュの剣は少女の白い肌に食い込むことなく、振り上げられた形で彼女の通過を待っていた。実体すらも持っていないように、現実感のない軽さで少女は、ルージュの背後で足を止める。振り向くだけの間はあった。つまり、彼女は追撃をしてこなかった。彼女程の戦士が、呆然とした敵の隙を突けないはずはないのに。 振り向いたルージュの視線の先に触れた少女の肌は、血に塗れてはいたが、体温を感じさせない白さだった。棺の中に目を閉じて横たわっていても、何の違和感もない…… だが、少女は――ソフィアは、緩慢な動きで槍を持つ腕を上げる。地を蹴る。生きている。 (幽霊……?) 馬鹿げた発想だった。だが、馬鹿げているのは、理屈が通用しないのは相手の方が上であるように思えた。馬鹿な。何故動ける? 何故あれだけの傷を負って、生きていられる? ソフィア・アリエスの一撃。それを、恐怖に震える腕の先の剣が、受ける。 と。 殆ど意識せずに振っただけのその剣に、少女の槍はあっさりと弾かれ、ずるりと滑り落ちる。 「……!?」 驚愕に目を見開きながらも、ルージュはようやく、この当たり前の事に気付いていた。 ソフィア・アリエスは無敵でも、不死身でも、ましてや幽霊でも何でもなかったのだ。ただ、凄まじい能力を持った人間に過ぎないのだと。生きているのだから、血を失えば力は衰える――命を失う。生命力以外のものが今の彼女を突き動かしていたとしても。 だが彼女は槍を手放さなかった。柄を握るそこだけに残る力を集約させたかのように、血の気のない両の手で、掴んでいる。槍の先端と、少女の顔がルージュの方を向いたのは、同時だった。もう、表情を作る筋肉を動かす力すらないのだろうか。無表情という以外他にない、精緻で美しい顔をした人形がそこにはいた。 こちらに向かって駆け出してきた少女に、ルージュは目を見開いた。驚愕? 恐怖? 戦慄? ……違う。おそらくは、その全て。だが、口から漏れたのは場違いな叫びだった。 「動くな、死ぬぞ!?」 自分で殺そうとしておいて、何を言っている? だが、ソフィア・アリエスから向けられた視線に含まれていた言葉は、ルージュの内心の呟きとは全く異質のものだった。 僅かに、眉をひそめただけのような。それは苦笑だった。蒼白な肌とは違い、未だ青みがからない美しい色の唇が、小さく言葉を刻む。 「……死ぬ……?」 囁くようなその声は、何とか意味を解することの出来るだけの音量で、ルージュの耳に届いていた。 「死なないわよ、あたしは……」 少女は、槍を横に薙いだ。僅かに後ろに下がれば躱せるほどの、全く、的外れの位置で。だが、それが躱された事にも、もう彼女は―― 「……と、約束したから……ヴァレンディアに着いたら、教えてくれるって……」 少女の、恐ろしくゆっくりとした槍の穂先が、ルージュの顔面に迫る。だが、ルージュは目を見開いたまま、動く事ができなかった。 ――こうっ! だから、突如降ってきた音と閃光が、ソフィア・アリエスを貫くのも、ルージュはただ呆けたように見る事しか出来なかった。 少女の、おそらく見た目通り軽いであろう身体は、上から降ってきた衝撃に胸を貫かれ、爆圧に一旦浮かび上がり、絵に書いたような放物線を描いて地表に落下した。続いてようやく手放された槍も。安直だが、その弛緩しきった少女の身体は、うち捨てられる人形以外の何にもルージュには見えなかった。 ひどく呆気ない終焉。 殆ど無意識のうちに、ルージュは後ろを――光線が降ってきた、崖の上を見上げる。 「……ラー様……」 震える唇で、ルージュは視線の先の、暗黒魔導士の名を囁いた。 「……帰って……行く……?」 呆然と、リタは呟いた。 白騎士団を前に、決死の覚悟を決めたその瞬間。天馬の軍勢はくるりと百八十度進路を変更し、撤退を始めていた―― 「……何で……?」 まさか竜の力に怖れをなしたわけではあるまい。確実に勝ちを収められるのはあちらの方だったのだから。 何かが。手から滑り落ちた。 突如ウィルは力を失って膝を折った。唐突に肩に全体重をかけられ、支えていたディルトが僅かによろめく。今迄張り続けていた障壁が、音もなく消えていた。 最初に気づいたのは魔術士だった。魔術士でない者には、不可視の障壁が消滅したことに気づくことはできない。どよめきと共に視線を持ち上げる。だが―― 「案ずるな。敵は去った」 ふわりと、羽毛のように軽く崖の上から降りてきながら言うカイルタークに、一同の視線は集中した。しかし当人はその視線を全く意に介さず、真っ直ぐにウィルの傍へ歩み寄る。 「……気を失ったか?」 「うっ……」 下から覗き込むように言ったカイルタークの声に応えるように、小さくウィルが呻く。うっすらと、ウィルの目が開いた。 「そのまま休んでいろ」 カイルタークは言ったが、ウィルは苦痛に歪ませた顔を、小さく横に振った。 「ウィル?」 「……ソフィア、が……」 その瞬間。 何の前触れもなしに、ウィルの身体がその場から掻き消える。 「なっ!?」 思わず声を上げるディルト。カイルタークも、声すら上げなかったが、驚愕したのは同様だった。だが、ディルトとは違いこの瞬間何が起こったか、というのは把握している。 「一体……!?」 「……空間転移」 呆然と呟くディルトに、カイルタークはぽつりと呟いた。 「古代魔術の中でも特に高度な魔術です。……心配ない、彼自身が使ったのです。おそらく、無意識でしょうが」 「無意識……?」 「ここまで複雑な術式はウィルには意識的に構成することはできない。私でさえも使えない術です。ただ……ウィルの場合、知識はないわけではないので……」 言葉を濁す。一種の、魔力の暴走と同じ現象だった。通常使えない術でも、真に欲したときに突如発動する事がある。術に対して正確な知識があり、なおかつ本当に、心の底からその必要性を感じれば。精神論的だが、魔術など極論すれば皆そのようなものだ。当然その現象は、己の能力の限界を超えた術を扱う、という事になるのでかなりの危険が伴うが、見たところ今のウィルの術には何ら欠陥が無かった。 (これは……まるでリュートの術そのものではないか。この力を普段から出せばいいものを) 「大神官殿」 不安げな表情を瞳の中だけに浮かべ、カイルタークの方を向くディルトが小さく呟く。 「それでは、ウィルはどこへ行ったのでしょうか」 「ソフィア、と言っていた。……おそらくは彼女の所でしょう。彼女は隊列の後方ですね?」 ディルトが頷くと、カイルタークはちらりと後方へ視線をやってから、再び王子の方へ目を戻した。 「構いません。攻撃が止んでいる今の内です。我々はこのまま一刻も早くヴァレンディへ向かいましょう」 そうカイルタークはディルトに言った。だが―― (おそらくは、もう攻撃はあるまい) 内心で暗く呟く。敵の気配は――竜使いの王女と戦っていた白騎士団はおろか、紋章魔術士さえも――完全に消えていた。それはどういう意味なのか。 (目的を……達成した?) 再び、カイルタークは視線を、見えるはずのないウィルの方へ向けた。 崩れ落ちるようにウィルは地面に手足をつけた。 言うことを聞かない全身に叱咤して、無理矢理顔を上げる。そこは――全くの無人だった。解放軍の気配もかなり遠い。今の彼では察知しにくいほどに。 「ソフィア……」 乾いた唇に、その言葉だけを乗せる。他はどうでもいい。今はただ、彼女だけが…… ――目に入ったのはまずは干からびた地面だった。そしてそのまま這わせていった視線の先には―― ひびの入った地面に赤い斑点がいくつも……一面に存在していた。そしていくつかの大きな斑点。その真紅の水溜まりは水分を地に吸われ、染みだけを今はそこに残していた。まるで大輪の、美しい花のように。 『それ』が、彼の視線の直線上にあったのは、単に偶然だった。 ひときわ大きな、鮮血で描かれた紅い花が、視線の先の地面に咲いていた。 ひどく写実的なその絵画を描くには、膨大な量の絵の具が必要だったことだろう。 そしてその傍らには―― 聖王国ヴァレンディアにおける戦闘は、静かに終焉を迎えようとしていた。 アウザール皇帝、ルドルフ・カーリアンが本懐を遂げた事によって―― |