CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 8 #49

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 閉じていた瞼を、ウィルはゆっくりと開いた。
 北から――王都ヴァレンディから吹く風が僅かに目にしみる。風を避けるように眉間に皺を寄せながら、彼は瞳に映る景色を一つ一つ確認していった。
 ヴァレンディ渓谷。国境を山の峰で分けるヴァレンディアとフレドリックを直接繋ぐ唯一の街道があった場所である。何度か――いや、何度も通った事が彼にはあった。両側壁は急峻な斜面であるにもかかわらず、長きに渡って人の手の入っていない森の、複雑に絡み合った根に支えられ、大規模な崖崩れなどを起こした事はない。
(歴史上最大の自然災害……九十年前の大水害のときの大雨でも崩れなかった堅牢な城壁だ。さて……)
 進軍するにあたっての懸念はそれこそ掃いて捨てるほどあった。他に選択肢がないとはいえ、こんな場所を通って進軍するのは、奇襲部隊が敵の城に正門から突っ込むような真似に等しい。馬鹿げている。全くもって馬鹿げているが――
 他にどうしようもないのだから仕方がない。
 だから、考えれば考えるだけ無駄なこの件については、記憶から抹消しようと念じ、ウィルは顎に手を当てた。考え事をするときの癖のようなものだが、別に困りもしないし、直す気もない。特に変な癖という訳でもないだろう。
 さて――
(問題は、そっちじゃないんだ。いや、それも大問題なんだけど。じゃなくて、あー、忘れろこれは。……それより先に考えなきゃいけない問題は、この渓谷がどこまで衝撃に耐えられるかって事なんだ)
 確信があった。絶対に帝国軍はこのヴァレンディ渓谷で仕掛けてくると。自分がその立場でも仕掛ける場所はここしかない。この渓谷に至るまでの平原地帯で、波状攻撃をかけある程度摩耗させ、この渓谷を通過するその時、上方からのえげつない攻撃で一気にけりをつける。馬鹿と悪役は得てして高い所が好きなものだ。
 ――冗談を抜きにしても、根本的な戦法はそう来るだろう。となると、今回の戦闘は魔術の撃ち合いになる。両軍の位置関係、彼我の魔術戦力差、諸々を考慮に入れ――
 ウィルの出した結論は一言だった。
「勝てないわ。こりゃ」
 投げやりな口調のウィルに、ぎょっとした表情でディルトが振り向く。
「……ここまで来て何を言い出す、ウィル?」
 冷静であろうという努力の窺える穏やかな微笑みだが、頬がひくひくと引きつっている。そんなディルトを眺めながら、ウィルは肩を竦めた。
「いや、だって火力の違い以前ですもん。こっちに腕のいい魔術士がいくらいようが、下からじゃ当たんないですよ。こっちは移動しながらだから、紋章魔術も使えないし」
 至って軽い口調で言うウィルを呆然と見るディルトの額から、すっと血の気が引いて行くのが見て取れる。中途半端に開いた唇の間から漏れてきた声はどうにかという感じで意味のある言葉になっていた。
「では……我々は勝つ気もないのに敵陣へ足を踏み入れようとしていたというわけか?」
「まぁ、そうなりますけど」
 あっさりと言われて、怒り出すかと思いきや、ディルトはただただ焦点の定まらない瞳でウィルを見詰め返すのみだった。どうやらウィルが思っていたより、この発言が彼に与えたショックは大きかったようだった。
 ふう、と後ろから溜息を吐く音が聞こえる。
「あまりからかってやるな、ウィル。たちの悪い冗談は好まれんぞ」
「別に嘘をついている訳じゃないんだから、問題ないだろ。ていうかお前に言われたくないな、それ」
 声の主――カイルタークに振り向いて答えてから、再びディルトの方に視線を戻す。
「まあ、ディルト様はあまりお気になさらず」
「……あ、ああ?」
 やや、呆然とした表情に、意識が戻ってきた証拠であろう困惑を浮かべながらディルトが答える。台詞に曖昧な疑問符をつける彼に、ウィルはにやりとした笑みを向けた。
「勝てないからって負けるってもんじゃないんですよ、ディルト様。……それじゃあ、カイル」
「ああ、準備は整っている」
 答えるカイルタークに、ウィルは満足げに頷いた。

 聖王国ヴァレンディア首都ヴァレンディ奪回、及びヴァレンディ渓谷攻略にあたっての作戦。
 部隊編成は前回のフレドリック奪回作戦時までとは大幅に変更が加えられた。小規模な魔術士、騎士、戦士の混成部隊を多数編成している。その部隊毎に前から並べたものが、今回の全軍の隊列の大まかな形だった。つまり、魔術士も騎士も関係なくまぜこぜに配置した形で進軍しようという訳だ。
「戦力を……分断された場合の予防線か?」
 問いかけてくるディルトに、ウィルは少々驚いたような表情をする。
「ああ、成る程。その事についても考えていた方がいいのかな?……いや、いらないか。戦力が分断された時点で、予防線を張るまでもなくアウトだな」
「いや、自己完結するんでなく」
「大丈夫ですよ。一応先頭としんがりには能力の高い者を配置していますし。ちなみにソフィアはしんがりに置いてますよ。先頭に置くと好き放題切り込んでいっちゃいそうで怖いからあの子」
「まあそれもそれなりに気になってはいたがそれでもなく。では、どういった理由でこんな編成に」
「今回の主役は、魔術士たちなので」
 言いながら、ウィルは空を見上げた。太陽が中天に達しようとしている。そろそろ頃合いだろう。それを告げようとしてウィルはすぐ傍のカイルタークの方へ視線を向けたが、彼は言われる間でもなく察していたらしい。カイルタークは既に、呪文の詠唱に入っていた。そして同時に、周囲にいたウィル以外の魔術士たちも彼とは異なった呪文を唱え始める。いや、ほぼ同時に全軍の魔術士全てが呪文に入っているはずである。
「ウィル?」
 ディルトが小さく呟いて視線を向けてきたが、ウィルはそれには答えず、真剣な表情でカイルタークの方を見詰めていた。
 徐に、カイルタークが指先を虚空に走らせた。滑らかに動く指先は、魔力を貯えた白い輝きを帯び、その軌跡は複雑な紋様になって彼の目の前に浮かび上がる。
 そして、その作業の終わりを告げるように、ぴたりと指を止めると同時に、紋章はゆるゆると上昇を始めた。皆の頭上――馬上の騎士が手を伸ばしても届かないほどの位置まで上昇したとき――
 目を焼くほどの閃光とともに、それは弾けた。
「もういい。進軍を開始しろ」
 静かに呟くカイルタークに、ウィルは目を閉じたまま無言で頷いた。――だが実際の行動は起こせない。
「……直視したのか? 間抜け」
「間抜けじゃないだろ! 予告してから発動しろよ!」
 毒つきながらようやく、視力の回復の兆しを感じてそっと目を開く。眉間に皺を寄せたまま当りを軽く見まわすと、すぐ隣のディルトも、付近にいた大多数の兵士たちも何気なく彼の方を見ていたらしく、同じような表情をしている。呪文詠唱の途中だった魔術士たちは、術に集中していて同じ目には合わなかったようだが。そちらの方の呪文も既に終わり、全ての準備が整っている。
 見た目には先程と全く様子の変わっていない空を見上げながら、ウィルはカイルタークに問いかけた。
「行けそうか? カイル」
「思っていたより少々弱い。魔力の総和に対して範囲が広すぎる」
「俺も加わった方がいいかな」
「そう……だな。大概の術なら耐えられるとは思うが」
「……あの」
 不意に、横合いからかかってきた遠慮がちな声に、ウィルは顔を向ける。ディルトだった。
「何だかよく分からないのだが」
「あー」
 妙に納得して、答える。そう言えば、この大陸解放軍の盟主に対して、今回の作戦を全く説明していないという事を思い出した。
「軍内の全魔術士の魔力を全て合わせて、巨大なひとつの魔力防御障壁を作ったんですよ」
 言いながら、人差し指を上へ向ける。それに倣うようにディルトは視線を上に向けたが、今一つ飲み込めない表情をしている。
「見えないですけどね。今上空にある障壁は、上から降ってくる魔術を防ぎます。予定では完全に。こちらからも魔術攻撃の手段がなくなってしまう事になりますが、デメリットを補って余りあるメリットです」
「成る程……だから、勝てはしないが負けない、か」
 防御に徹し、攻撃を仕掛ける事をしなければ勝ちはない。だがしかし、こちらも決して倒れない――
「そういう事です」
 そう言って、ウィルは小さく呪文を唱え始めた。
 この魔術の制御自体はカイルタークが行う。彼以上に回復や防御に関する術を使いこなせる者はこの軍内にはいない。他の魔術士たちが使った術、そしてウィルが今使おうとしている術は、いわばそのカイルタークに己の術式の断片を送るためのものである。皆の術式を纏めて制御し、ひとつの術として再構成する力量を持つ者も、彼しかいない。
 どうしてこんな、一見完全無欠な作戦が敵の妨害無しで成り立つのかという理由は簡単である。こんな大技は常識では考えられないからだ。一つ一つでも難解極まりない術式を百の単位で同時に読み解き、己の術にパーツとして組み込む。――人間の成せる技ではない。
(こいつを頼るのは無茶苦茶腹立つんだけどな……)
 呪文を唱えながら、こっそりと舌を打つ。と。
 すぱぁん。
 後頭部を小気味よくひっぱたかれて思わず一瞬呪文への集中が途切れる。
「魔術を使う際に余計な雑念を入れるな」
「そっちこそ」
 頭を押さえながら陰険な目つきで睨んでやったが、カイルタークはかけらも動じない。飄々としたものである。
(これだけの魔術を一人で支えながら、よくもまぁ余裕ですこと)
 実際、表情ほどは余裕ではないだろう。でなければ彼が自分の力まで借りようとするはずがない。だが、実際はどうであれ、表面上は全く平然としていられる程度であるというのは確かである。
(やっぱり、あいつと戦う時の切り札の一つだな……気は進まないけど)
 すぱぁん。
 再び、軽快な音が響く。
「雑念」
「分かってるっての!」
 一声叫び返してから、ウィルは真剣に精神集中を開始した。


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