CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 8 #46 |
「ということで姫様は大変ご立腹なので殺されたらご愁傷様」 時間は早朝――と言う程でもないが、朝食の時刻よりはまだ早い朝。場所はウィルに割り当てられたフレドリック城の個室で。 いきなり、そんな事を言われてウィルは心底悩んだ表情で眉を寄せた。数秒頭の中で、今の目の前の騎士――ライラの発言を整理してはみたが、さっぱりその真意は掴めない。 「え?」 「あ、間違えた。殺されないように気をつけて、だったわ。言いたかったのは」 「えーと……」 呟きながら頬を掻く。確かに何をしでかすか分からない危険なお姫様は二人ほど知ってはいるが、最近はそのどちらにも殺されるほどの怒りを賜った覚えはない。少なくとも記憶の中にある分では。 本気で考え込むウィルを、ライラはきょとんとした目つきで見つめる。 「……何もしてないの? ソフィアちゃんに。昨日、なんだかすっごい表情で刃物振り回してたわよ」 「ソフィア……?」 一瞬ぎくりとしたが、別にライラは彼女の素性を知ってそう言ったわけではないようだった。 ちなみにその名前はウィルが頭の中で候補に上げた二人の姫君のうちの一方のものだったが、それでも納得のいく話ではない。首を傾げるウィルに、ライラは思い出したように告げた。 「ああそうそう、本題はそれじゃなくてね、こっちなんだけど……」 言いながら、ポケットから一枚の地図を取り出す。それはウィルがこれ以降の作戦を立てるのに使って、ディルトに紙の束とともに渡したヴァレンディアの地図だった。 「今後の作戦について、詳しく話を聞きたいのだけど」 「何か疑問点でも?」 「疑問、って訳じゃないんだけど、貴方にしては随分オーソドックスだな、と思って」 ウィルが結局寝入ってしまった為に開けなかった昨日の午後の会議は、その日の夕食後の少し遅い時間帯に開かれた。 その席でウィルが発表した作戦は、簡単に言えば、全軍でまとまってヴァレンディア王都に進軍し、地の利を生かして城を包囲するという、何の変哲もない戦法だった。 「別に奇をてらう必要がない時にまで素っ頓狂な戦法とりゃしませんよ」 「そうなの?」 何かウィルに対して変な先入観でもあったのか、意外そうに目を丸くして聞き返してくる。 「そりゃそうですよ。それに、このフレドリックからヴァレンディアにかけては一部を除いて広々とした草原が広がっている。下手な小細工なんて打ちようがないです」 「へぇ。……一部を除いてって?」 「王都に程近い場所に渓谷があります。このフレドリックからヴァレンディアに向かうにはどうしても両側を高い崖に挟まれたその場所を通るしかないんですよ。まぁ、別ルートもある事はあるんですけど」 「何かそれって、めちゃくちゃ狙ってくださいといわんばかりの状況じゃない? その別ルートとやらは使えないの?」 「アウザール帝国首都を経由するルートですが」 「成る程、無理ね」 あっさり納得し、だが、困ったようにライラは嘆息する。 「崖の上の方に、紋章魔術士とかがいて攻撃を仕掛けてくる、なんてこと、考えられない?」 「はっきり言って大いに考えられます。ってかレムルスで一回やられてる手ですし」 更にその上、レムルスのときとは違って、帝国首都カーリアンから程近いヴァレンディアまでなら、帝国の主力部隊『黒魔術士団』が出張してくる事も考えられたが、それを口に出しても余計気が滅入ってしまうだけだったので敢えてウィルはその事については言わなかった。 「だけど今は、こちらにもいくらか対抗しうる戦力がある。万が一術を食らっても今回は高度な回復の魔術を使える神官もいますしね」 心情的にはあんまり当てにしたくないリタやカイルタークの戦力が、戦略的に見ればかなり有用である事を不承不承ウィルは認めていた。この際、しのごの言ってはいられない。取れる手段は全て取らせてもらうつもりだった。 ライラは、そうね、と一言呟きを漏らして、一旦机の上に広げた地図を回収した。 「その点は納得したわ、一応……それじゃあ」 そう言って彼女は立ち去るものとウィルは思ったが、予想に反してライラは立ち去る気配を見せなかった。何やら興味深げに双眸をきらりと光らせる。どうやら今の「それじゃあ」は、退室の挨拶ではなくて、単なる接続詞だったらしい。 「ソフィアちゃんに何したの?」 「うっ。何でまたそこに戻ってくるかなぁ」 「いいじゃないのよ。別に貴方達の関係を知らない人なんてこの軍内にはいないんだから」 言われて、ウィルは露骨に苦い顔をしたが、反論はしなかった。その皆が知る『関係』とやらは元は単なる勘違いと尾鰭のついた噂で構成されるものだったのだが、今となってはむきになって否定したら嘘になってしまう点もある。下手な嘘をついて、またソフィアに変な誤解を与えるのは面白くない。 「だから、何もしてないですって」 「嘘ぉ。だってあれはかなり怒ってたわよ? ……ああそういえば、寝ぼけて、とかなんとか言っていたような」 「寝ぼけて?」 思わず繰り返しながら、昨日の事を頭の中に思い描く。貫徹して、書類を書き上げて、それをディルトに渡した辺りでそろそろ体力がつきかけて――それから―― 「えーと、部屋に戻って……仮眠した……って事実は何となく憶えてるけど……そういやあの時ソフィアもいたような……?」 どちらかというとその後に見た夢の記憶の方が鮮明で、その直前の記憶はあまりにもおぼろげだった。眉間に皺を寄せながら考え込むウィルの前で、ライラが得心したように手を打つ。 「成る程。そこで眠気のあまり理性を失ってソフィアちゃんを押し倒しちゃったと」 「そんな事する訳ないで……しょう……」 大声から始まったその台詞の語尾が、殆ど無意識のうち、穴に落ちて行くようにフェードアウトする。口を半開きにしたまま、魂の抜けかけた表情で凍り付くウィルを、ライラは面白そうに下から覗き込んでくる。 「あらあら?」 にんまりと笑いながら首を傾げるライラに、ウィルは、きっ、と視線を向けた。 「用事が終わったんだったら出てってくださいっ! 今日中にはフレドリックを発つようにしたいんですからっ!」 ライラの背中を押して、残念そうな表情をする彼女を部屋からたたき出してから、ウィルはばたんと扉を閉めた。閉ざした扉に、よろめくように寄りかかる。 ようやくぼんやりと、それこそ忘れかけた夢の内容が何となく呼び覚まされたような曖昧さで、触れた身体にソフィアの柔らかい感触が蘇ってくる。 「うわーっ! めちゃめちゃとんでもない事してんじゃないかっ! 俺!」 がばっと頭を抱えて、ウィルは絶叫を上げた。 「そういうわけで」 完全に上の空の口調で、霞がかかったような瞳のまま虚空を見あげながら、ウィルは誰ともなしに呟いた。 斜め上四十五度に首を上げたまま、ウィルは器用にも馬の手綱を操っていた。 フレドリック王城を、次なる目的地ヴァレンディア方面に向けて発ってから数刻、視野の下の方に緑がちらほらと映りはするが、ここは木々に囲まれた森の中というわけではない。むしろ開けた草原地帯だった。フレドリック王都以北からヴァレンディアあたりにかけては標準的な地形である。乾燥地帯のファビュラスとは違い、雲一つない快晴、というのはこの辺りではあまりお目にかかれない。多分に漏れず、今日の青空にも白い雲がいくつか浮いていた。 青と白と緑の絶妙なるコントラスト。この豊穣の大地においては大自然は危険極まりない人類の敵対者ではなく、生けるものの生命を支える揺りかごだった。 馬の歩みのなすがままに緩やかに身体を上下させるウィルをも、自然は分け隔てなく抱いてくれてはいたが、今の彼にはその温もりを感じる余裕はなかった。 「何だかソフィアは俺と目を合わせようともしてくれません」 「……誰に言っているんだ、ウィル?」 ぽつりと、すぐ横から声が聞こえる。何時の間にか馬体を合わせてきたディルトに、ウィルはぼんやりとした視線を向けた。 「ヴァレンディアに進軍しようとしているこの重要な時に、軍師がそのように上の空では困るのだが」 「はっはっは。上の空だなんて、そんな。全然オッケーですよ? 俺的には」 乾いた笑いを唇から垂れ流すように漏らすウィルに、ディルトは深く嘆息する。 「私の気の所為かもしれないが、どうにもお前はソフィアを困らせて楽しんでいるように見えてならないのだが」 呆れた口調で呟くディルト。だが、ウィルは一見その何という事のなさそうな彼の口調の中に潜むある意味冷たい部分を感じ取っていた。波間に漂っていた思考が瞬時に戦闘時のような鋭さを取り戻す。おそらくそのウィルの状態の変化はもとより、自分の口調さえもディルトは気付いていなかっただろうが。 「もう少し大切にしてやって欲しいものだ。少なくとも私だったら……愛する女性は絶対に傷つけない」 「分かってますよ」 視線を通常の高さに戻してウィルは応えた。ディルトの横顔を盗み見るように横目で見ながら、ウィルは胸中で舌を打つ。忘れていたわけではないが、まだ彼は、ソフィアの事を―― 「そうだ」 ふと、徐に顔を上げ呟いたディルトを、ウィルはやや不審げな目で見つめた。だが彼はその視線に気付いた様子もなく、朗らかに手を、胸の前でぱんと打つ。 「よい事を思い付いたぞ」 「何です?」 何か奇妙な予感を覚え、しかめた顔をウィルは向けたがやはり、ディルトはウィルの方を見向きもしなかった。だが言葉だけはウィルに向かって告げてくる。 「よい事だ、よい事。問題があるなら解決すればいいだけという事だ」 「……はぁ?」 少しも説明になっていないディルトの言葉に、ウィルの奇妙な予感は確実に、嫌な予感に進化していた。 そしてそれからまた数刻が経ち―― 日は、遠くの山間に既に落ちていた。落日の放つ赤い光も既に大地に飲まれ、濃紺の天空にあまねく星が瞬いている―― この日の解放軍の進軍も、太陽が地平に帰するとともに終了していた。フレドリックを発ったのが昼頃で、たった半日の行軍だったが、その分を取り返そうと夜間の強行軍などという危ない真似をしたりするのはよほどの馬鹿がやる事である。それならば次の朝早めに進軍を再開する方がまだましというものだ。 殆ど日課になっている、寝る前の作戦の練り直しをウィルは一人、キャンプの設営を終えくつろぎ始めた皆の輪から離れて行いながら、ふと、自分の手もとのランプの光が届くぎりぎりの位置に人影を認めた。 顔を上げると、その影は橙色の光の中に入り込んできた。 「ディルト様」 その名を呼びかける。呼ばれたディルトはにっこりとした微笑みをウィルに向けてきた。 「作戦を考えているのか。感心だな」 「大した事ないですよ。変更すべき点がある訳でもないんです。単なる暇つぶしですよ」 「そうか……だったらよりよい暇つぶしの方法を教えてやろう。散歩でもしてくるといい。あちらの方に美しい泉があったぞ」 そんな事を言ってくる。ウィルは数刻前に感じたのと同じ嫌な予感を胸によぎらせながら、ディルトの顔を見上げた。と、ディルトもその警戒心の強い視線に気付いたらしい。僅かに表情に苦笑を浮かべる。 「そう嫌そうな顔をするな。お前の為を思って言ってやったのだ」 「で、泉に何があるんです?」 警戒を解かず、ウィルが聞き返す。するとディルトは口許に、笑いを堪えるように手を当てた。 「敵わんな。……まあいいか。実は先程、ソフィアも泉の方に散歩に出たらしくてな……」 「『出た』んじゃなくて、『出した』んでしょ、どーせ」 迷惑そうな半眼でディルトを睨み付けると、彼はわざとらしく視線を明後日の方へ向けた。 口笛でも吹き出しそうなディルトをじっと見ながら、やがてウィルは苦笑とともに息を吐いた。 「はいはい。ご厚意感謝します。さてと、じゃあ散歩でも行こうかな」 わざとディルトにそう見せ付けるようにだが、億劫そうに立ち上がって、ウィルは先ほど彼の指した泉の方へと歩き始めた。 「あー、本当だ。奇麗な泉」 明るい声を上げながら、ソフィアは辺りを見回した。 草原の広がるこの地域、その地平線まで見える草原の真ん中で野営しても別に構わないといえば構わなかったのだが、解放軍は水源となる泉の湧く森の近くにキャンプを構えた。余分に食料や水は持ち合わせているが、それでも現地で調達出来るものはその場で間に合わせようというウィルの考えらしかった。 そして、その泉の在処を先程ソフィアはライラに聞いて、こうしてやってきたのだった。 「ライラさんの言う通りだ。水も澄んでる。これなら飲み水にもなるわね」 言いながら、ソフィアは泉のほとりにしゃがみ込み、その繊手で清水をすくった。ひんやりとした感覚が心地よい。不意に、その水の中にソフィアは入ってみたくなった。水浴びには少々冷たすぎる感じだが、半日ほどとはいえ歩き通しだった足には丁度よさそうに思えたのだ。 靴と靴下をその場に脱ぎ捨てて、足の指先を水面に触れさせる。瞬時走った冷たさは想像以上で、思わず爪先をあげてしまったが、思い切って一気に水の中に足を沈める。 もう一方の足も同じように水中に沈め、ひゃあ、と目をつぶる。だが、頭の先にまで響くような冷たさは、数秒で我慢しきれないものではなくなった。 「冷たぁい」 幼い子供が発するようなそのままの感想を、ソフィアは歓声として上げた。ぱしゃりと足先をあげると水の飛沫が水上に舞い上がる。月光を受け、それは白く幻想的に輝いた。 その光景に素直に感動しながら、ソフィアはもう二、三度同じような仕草を続けた。 「ふふっ」 自然と、頬が緩む。何となく、彼女はこの場所をウィルにも見せてやりたいような気になってきた。きっとこんな風に水の中で遊ぶ彼女を見たら彼は、子供っぽい、とでも言って笑うのだろうが。彼に対して抱いていた怒りさえ、もう半ばどうでもよくなっていた―― そんな事を考えながら、ソフィアは水をそっとかき分けるように、泉の中心にある岩のあたりに向かってゆっくりと歩いていた。自分の蹴る、心地よい水音に耳を傾けながら―― だからだった。 視覚、聴覚を目の前の光景に傾けすぎていたからだった。 彼女が珍しくも、自分に徐々に接近する、複数の気配に気付きもしなかったのは。 彼女にその気配を悟られないまま、ソフィアを遠巻きに取り囲んでいた黒ずくめの集団は、その彼女を中心とした輪を徐々に狭めつつあった―― |