CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 8 #45 |
かつてこの大陸を支配していたのは、連綿たる平穏と、悠久の安寧。 絶えず変わる事のない高く澄んだ空に鳥が舞い、風が優しい囁きの歌を歌う。 それが当然だと思っていた。 そしてそれが、永遠に続くものだと疑いもしなかった。 あの日が来るまでは…… 僕の信じていた『永遠』は、あの時に終わった。 あの夜の、雷鳴のように突然に。 ――ヴァレンディア。聖王国。生まれ育った地。 リュートと初めて出会った場所。エルフィーナと初めて出会った場所。 決戦の地。エルフィーナと別れた場所。リュートの死んだ場所。 断片的な文章の羅列に、ウィルは顔をしかめた。辺りは一面の闇。その中に唯一人、ぽつんの立つ――いや、浮かぶ?――自分。 「夢……?」 それしかあるはずがない。フレドリックの王城にいたはずの自分が、こんな訳の分からない場所にいきなり放り出されている事を説明しうる理由は。 「何なんだ、一体?……疲れてるのかな、俺」 確かに疲れているのだろう。夜を徹して悩みぬいてその上仕事までこなしたのだ。ようやく得たこの仮眠の時間も数刻後にはあっさりと終わり、その後は会議が待っている。ただでさえ人並み程度かそれ以下の体力しかない彼に耐えうる激務ではないはずだ。 「眠ってるときくらいちゃんと休ませろっての。どうすりゃいいんだよ……」 困惑を表情に浮かべて、頬を掻く。夢なのだからここで何かしなければならないという事はないだろうが、何もせずにこんな場所で立っているのも眠った気になれない。辺りをぐるりと見まわして――ふと視界に入った光の所で視線を止める。 目に入った瞬間はそれは単なる一点の光だったが、それに注意を向けた途端、その光は膨れ上がった。 そこにいたのは、一人の少年と、男が二人だった。 少年は血塗れで床に這いつくばり、男二人が足元の彼を見下ろしている。 男たちの方は、一人は二十代前半の青年。もう一人は漆黒のローブに身を包んだ年老いた男――少年も含め、どれもがウィルの記憶にある顔だった。 (って、あのなぁ……) 軽い頭痛を覚えて、ウィルは思わず眉間を指でつまんだ。何のことはない。六年前の自分と、アウザール皇帝ルドルフ・カーリアン、そして老人の方の暗黒魔導士ラー。そして場所は、ヴァレンディア城。忘れもしない、ヴァレンディアがアウザールに陥落されたあの夜の出来事だ―― 少年に向かって、黒ずくめでない方の男――皇帝が喋り出す。それを睨み上げる少年。 「ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディは、この日に死んだのだったな……」 唐突に、記憶にない台詞をしわがれた声が吐く。はっとして凝視すると、少年を見下ろしている皇帝の後ろの暗黒魔導士が――少年ではなく、ウィルの方を向いていた。皇帝や、少年にはウィルの存在は見えていないようだったが。 「暗黒魔導士は逃げ出したローレンシア王女を捕獲すべく、その後を追った。そして傷ついたお前は……」 「……サド皇帝になすすべもなく掴まってアウザールへ連行。以降六ヶ月に渡って執拗かつ残忍極まりない拷問を受ける」 暗黒魔導士の言葉を継いで、ウィルは面倒くさそうに言葉を吐いた。言い切ってから、据わった目つきで男を睨む。 「嫌味ったらしい回想シーンまで用意して、心の傷でも抉ってやろうっていう魂胆なんだろうが、はっきり言っておいてやる。意味ないよ。別にその程度の事、俺には傷でもなんでもないからな。暗黒魔導士ラー……いや」 言いながら、すっと腕を前に突き出す。 「リュート・サードニクス!」 叫ぶと同時にウィルの手のひらから放たれた白い衝撃波が、真っ正面から漆黒のローブを貫いた――が、すぐさまウィルは後ろを向く。その視線の先に、何事もなかったように立っていた暗黒魔導士の姿を、分かりきっていた事のように確認する。 「いつだったか、カイルの奴がお前の事、性悪だって言ってたけど……ようやく納得したよ。精神感応で思念を夢として見させる……随分手の込んだ悪戯だな、おい」 「迂闊でしたよ。こうも簡単にネタが割れるとは思いませんでした」 答えてきた暗黒魔導士の音声は、先程と変わらない老人の声だったが、その口調は間違いなく、彼のよく知ったリュートのものだった。 「流石は希代の魔術士、ヴァレンディア王ウィルザード……」 「お前が言うとただの厭味だよ、それは!」 目の前の暗黒魔導士を睨み付けながら、ウィルは人差し指で空を横に薙いだ。その指の軌跡に、小さな光球がいくつも生まれ出でる。 「行けっ!」 彼の命に従い全ての光球は、残像を残す速度で一直線に魔導士に向かった。着弾の瞬間、漆黒の空間に白い焔の花が咲く。だがしかし―― 暗黒魔導士の黒い影は、その光の中には映し出されていない。 (もう一撃……) 「無駄ですよ」 皮肉げな声はすぐ傍から――どころか、耳元から聞こえた。背中に氷を入れられたような感覚を刹那覚えたが、ウィルは条件反射並みの反応速度で、身体をそちらへ向かってひねる。 「氷竜の吐息よ!」 だが振り向き様に放った魔術は、やはりその影を捕らえることなく闇の中へ霧散して行くのみだった。 「だから無駄だと言っているのです。……仮に当たったとしてもこれは夢……私の本体には傷ひとつつきません」 「やかましい。分かってるよ。景気付けだ」 嘆息するような口調の暗黒魔導士にウィルが舌を出すと、魔導士はいよいよ呆れた表情を老いた口の端に浮かべた。それを見て、ウィルは一回、はっと笑うように息を吐いたが、すぐに口許を引き締める。 「温厚な俺だっていい加減、怒ってるんだからな。一体何なんだよ。どうしてお前が俺の敵に回る!? どういう冗談だよ!」 「冗談? それは心外ですね。ルドルフ・カーリアン皇帝陛下に仕えるものの端くれの行為としては当然でしょう?」 「いつから皇帝の犬に成り下がったんだよ、お前ともあろう者が、リュート!」 その言葉に、暗黒魔導士の表情が硬くなって行くのを、ウィルは見ていた。目深に被ったフードの為、瞳の表情までは見えないが、噛み締められた奥歯によって頬の筋肉が強張っているのが分かる。 「リュート・サードニクスは殺しました。私が」 「……じゃあ、お前は何なんだよ」 その問いが引き連れてくる答えは、問うまでもなく分かっていた。だが、ウィルは問わずにはいられなかった。 魔導士の唇が、緩やかに釣り上がる。微笑みの形に。 「私は、暗黒魔導士。皇帝陛下の忠実なる下僕……暗黒魔導士ラー」 澱みなく言い切る暗黒魔導士を、ウィルは黙したまま見詰めていた。 二つ三つ、ゆっくりと呼吸するだけの間を空けてから、小さくウィルは舌を打った。 「……その暗黒魔導士が、何の用だ? この俺に」 冷たい声音で言い放つ。と、暗黒魔導士は心持ち斜めに構えていたその身体を、居住まいを正すように真っ正面に向き直らせた。 「……宣戦布告のご挨拶に参るのに、手土産を何もお持ちしないのは、いささか失礼かと考えまして、ね」 「お粗末な土産だったけどな。喧嘩を売るなら全力で来なきゃ買う価値もない」 くだらない、と暗黒魔導士の台詞をウィルは一笑に付したが、強力な魔術士の手にかかれば、今のように『夢』を介して他者の精神内に侵入し、自我を崩壊させる、ということは実は不可能ではない。つまり――剥き出しになった神経に直に触れれば、それが緩やかな接触であっても凄まじい痛みを感じるように、単なる『厭味』でも、心の奥深くで囁かれればその精神的ショックは、人一人の精神を壊すに十分な衝撃になりうるという事である。 無論強力な魔術士と一言で言ってもそれは、一般的に言われる『強力な魔術士』、例えば教会魔術士クラスの術者の話ではない。現代の魔術理論では他者の精神構造を解明することなど不可能である。この術を実際に行使するには古代魔術の知識と膨大な魔力が必要となる。だがどの道、この魔導士には可能な事だろう。 ふっ、と暗黒魔導士が小さく笑う。 「標的を誤りましたね。やはり、レムルスの王太子を先に始末するべきでした」 「カイルと対決したきゃ、やってみればいいさ。どうせあいつの事だ、ディルト様の方くらいは警戒してるだろうよ」 「成る程、大神官も古代魔術を会得している……こちらの思念を妨害する事くらいは訳ないはずですね」 懐かしささえ含んだ口調で呟く暗黒魔導士を、ウィルは鋭く睨み付けた。だが彼は口許に浮かべた笑みすら消さず――つまりはウィルの視線など全く気にしていない様子でくるりと、軽やかに踵を返した。 「もとよりこんな攻撃で貴方を殺せるとは思っていませんでしたからね。さて……ヴァレンディア国王陛下」 暗黒魔導士はウィルに完全に背を向けていたが、そう呼ばれたウィルが不愉快そうに視線を上げたのに気づいたらしい。小さく肩を竦めて見せる。 「解放軍総指揮官殿とお呼びした方がよかったですか? ……貴方がたはこれより帝国領内ヴァレンディアに侵入してくるのでしょうね。覚悟なさった方がいいですよ。ようやく、皇帝陛下が重い腰をお上げになられましたから」 「お遊びは終わりってわけか」 呟くウィルの方に僅かに顔を向け、魔導士は微笑する。ほぼ全面的な肯定に、小さな否定の影が差している――その中身を、暗黒魔導士は言葉にした。 「そうでしょうね。彼は宝石の在処を見つけられましたから」 「……っ!」 その台詞に、思わずウィルは息を飲んだ。口の中が乾く。我知らず、彼は拳を強く握り締めていた。その様子を満足げに見た暗黒魔導士は、 「……そういう事です。今日のところはこれでお暇させて頂きます」 そう言って、己が纏うローブの裾をばさりとはためかせた。それを合図にしたように、彼の輪郭が闇に溶けるように滲んで行く。 「リュート!」 ウィルが、自分でも気付かない間に上げていた声に、暗黒魔導士はちらりと振り返った。 「彼女に手を出してみろ……例えお前でも、絶対に許さないからな」 押し殺したウィルの声に、魔導士は小さく微笑む。 「私は暗黒魔導士ラー。リュート・サードニクスは……死にましたよ。六年も前に」 ふっと、暗黒魔導士の気配が闇から消える。 それと同時に――唐突に、闇の中に光の粒が拡散した。 うっすらと、ウィルは目を開けた。 周囲の光に目を馴染ませる為に、数回まばたきをする――が、あまり必要ないようだった。もう既に日は半ば沈み、部屋を満たすのは夕焼けの赤い光だけで―― 「って……おいっ!?」 思わず、がばっと上体を起こす。そうしてから、ウィルは確認するように窓の外に目をやったが、やはりその先にあるのは天頂から地平線に向かう、濃い紫から赤のグラデーションである。 どうやら、昼食直後頃まで仮眠を取るつもりで、この時間まで爆睡してしまったらしい。 「何だよー……起こしに来てくれたっていいじゃないか……」 毒づくように呟いてはみたが、それが王子なりの思いやりであろう事は分かっているつもりだった。 「まぁ、いいか。明日の昼頃には発てる準備は出来るだろ」 数十枚にも及ぶ走り書きはディルトの手に渡した事だし、任せておいてもそれなりの事はやってくれるだろう。 その事は一時頭の片隅に追いやることにして、ウィルはひとつ息を吐いた。 「宣戦布告、か」 炎のような――それこそ、あの夜に故郷を包んでいた劫火のような色の空を陰鬱に眺めながら、ウィルは小さく呟いた。 「あれ?」 夕焼け色に染まった柱廊から、城の中庭をかなりの速度で駆けて行く小柄な少女の姿を目にして、ライラは先程、王太子ディルトから手渡された新しい編成表をめくる手を止めた。 「ソフィアちゃん……」 彼女がいたのは少し離れた場所だったがライラは構わず呼び止めようと、手を軽く上げて――思わずその形で硬直する。 何故か彼女は抜き身の剣をその細い腕にぶら下げていた。 彼女が刃物を振り回しているのは、まあ概ね日常茶飯事だが、さすがにこんな場所ではそのような姿は不穏当である。瞬時、敵の刺客の侵入があったのかという事すら考慮に入れて、声を上げようとしたその時。 「ウィルの馬鹿ぁぁぁっ!!」 ざんっ! 泣き声にも近い叫びとともに、ソフィアは剣を、地面に立てた丸太に布団を巻き付けたようなものに向かって振り下ろしていた。布団が割け、中に詰まっていた羽毛がほんの少し舞い上がる。――どうやら中身の大部分はもう既に外に飛び出してしまった後らしい。 よくよく見るとその人形と思しきものには、藁か何かで作ったらしい、長い髪を後ろでひっつめにしたかつら――なのだろう、おそらく――が乗っかっている。言うまでもないが、彼女が叫んでいるウィルの姿を模しているようだった。 「ああっ! 何か腹立つすっごく腹立つよく分かんないけど腹立つーっ! そんなのあたしに聞かれたって分かるわけないじゃないぃっ!」 何か第三者にはよく理解しきれない事を叫びながら、ソフィアは人形に連撃を浴びせ掛け――不意に、その腕を止めた。 太い丸太が、すっぱりと彼女の最後の太刀筋通りに斬れていた。 八つ当たりする先を唐突に失った為か、ソフィアはよろりとその場に崩れ落ちた。 「うー。ひどいよぉ。あたしみたいなか弱い女の子を……それも寝ぼけてっ!」 少々己が耳を疑う台詞を聞いた気はしたが、ライラはそれをも含め何事もなかったことにしてその場からこっそりと立ち去った。 |