CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 8 #44 |
虚無にも似た広大な闇―― 実際、この謁見の間は、確かに薄暗くはあったが闇に包まれていたという訳ではない。しかし、黒を基調とした内装の所為か、ただ単にその空間の主の持つ雰囲気の所為か、闇という言葉が過不足なくこの空間を説明している様に思えた。 少なくとも、彼には。 とはいえその感想は、ただ漠然とそう感じる程度のものであるだけで、それがいいだとか悪いだとか論じる種のものではなかったが。 いいも悪いもないのだ。――この空間の持ち主は、彼にとって絶対なる者なのだから。 (絶対者……偉大なる皇帝、ルドルフ・カーリアン陛下……) 玉座に向かって歩みを進めながら、声に出さず、その名を呟く。絶対者。故にこそ、自分は今、ここにいる。 いや―― (貴方が真に絶対なる者であれば……私はここにはいなかったのですよ。皇帝陛下) 同じく胸中で呟いたその言葉は、決して皇帝に対する揶揄ではなかった―― 「暗黒魔導士ラー、参りました」 一人の男が座する玉座に向かい、彼は膝をついた。それに声を出して応える事はなく、ただ、玉座の男は注意だけを暗黒魔導士の方へ向ける。しばらく黙ったまま、微動だにしない暗黒魔導士を見続けてから、ルドルフ・カーリアンは小さく口を開いた。 「何故、フレドリックを奴等の手に戻させた? ラーよ」 その唐突な問いに、別段驚きもせず、視界を床で満たしたままラーは返答する。 「申し訳ありません。私の失態にございます。私の指揮能力が至らなかった故……」 「はぐらかせるとでも思っているのか? 面を上げろ」 言われた通りに、ラーは顔を上げた。その彼に向かって玉座を立った皇帝は大理石の床に固い足音を刻みながら真っ直ぐに降りてくる。跪くラーの目の前で足を止め、鋭い刃物を思わせるその双眸で彼を射抜く。 「わざわざ兵士どもに支離滅裂な指示を与えてまで、敵に勝利を与えたその真意はどこにあるかと問うている」 「……そのような事は」 答えかけた瞬間。固い爪先で頬を蹴られた勢いで、ラーは顔を正面から背けていた。だがすぐに、皇帝の方へその顔を戻す。口の端から滲んだ血を拭いもせずに。 「つまらぬ答えを返すな。……そして勘違いするな。我は貴様に怒りを抱いているわけではない……」 ゆっくりと、ルドルフ・カーリアンは腰を屈め、ラーの漆黒のローブの襟首を掴んだ。そして、そのまま彼の身体を引き上げる。立ち上がってみると、ラーとルドルフの肩の高さは殆ど同じだった。暗黒魔導士は、心持ち顔を下に向け、視線を同じ高さに並ばせないようにした。この皇帝は、そんな事に頓着しはしないが。 「怒りは抱いていない。むしろ、楽しんでいるのだ……これでも、な」 冗談を言うにはあまり相応しいとは言えない冷淡な口調と微笑。だがこれは、この皇帝にしては信じられない程の機嫌のよさが作り出す表情であった。 「まあいい。今日はその事を問う為だけに貴様を呼んだのではない」 そう言いながらルドルフは、襟首から手を離す。暗黒魔導士に背を向け数歩、玉座に向かって歩いて――彼は徐に言葉を発した。 「喜ぶがいい、我が下僕、暗黒魔導士よ。我が求めていたもの――この六年渇望して止まなかったものの在処がようやく知れたのだ。素晴らしい知らせであろう?」 玉座の裏に配された暗いステンドグラスから僅かに降り注ぐ、昏い月の光をその身に受けんとするように、すらりとした両腕を広げて見せる。この皇帝がそのような仕草をするところなど、未だかつてどんな側近でさえも見たことがないであろうというくらい、これは珍しい事だった。六年前、かの大国ヴァレンディアをうち滅ぼした事でさえ、彼の表情を変える程の出来事ですらなかったというのに。 その彼をしてここまで心躍らせるのは――どうということはないただ一人の少女の所在が知れたという、ただそれだけの事だった。 闇色の光を背負って、皇帝は暗黒魔導士を見下ろした。 「分かっているな。貴様が何をすべきか」 「委細承知しております」 慇懃に礼をして、暗黒魔導士ラーはばさりとローブを翻した。すう、と空間に溶け行くように彼の輪郭が滲んで、消える。 魔術士の気配が完全に消えた謁見の間に、男は玉座へと着かず立っていた。 静穏なる闇の中に。 「もうすぐだ……もうすぐ、全ては我が手に……」 それは願いだったもの。望みだったもの。だが――そう。もうすぐそれは現実となる。 「女神の……力……」 真に絶対なる者へとなれるその瞬間が。 コイビト。 結局、明け方まで一睡も出来ずにその単語と格闘し続けて……胡乱な視線で今、ウィルは誇らしげに上り来る太陽を睨み付けていた。 もういい加減眠い。早く寝たい。というより寝なくてはまずい。明日にはこのフレドリックを出発する為、今日中にやれるべき事をやっておきたいのだ。 やらなければいけない事、考えなければいけない事は色々ある。まずすぐにでも補給作業が終了しているか確認しなければならない。ここからの作戦も練りたい。軍編成も組み直さなければ。結局ついてくる気らしいリタはどうするか。ソフィアは…… ――恋人。 「だぁぁぁっ! そうじゃなくてっ!」 頭を抱えながらもんどりうってウィルは叫んだ。一晩中これをやっているのだ。誰かが見ていたら気でも違えてしまったのかと思われる事間違いない有り様だが、本人にそんな事を考えるような余裕はなかった。その代わり、次に彼の頭に浮かぶのは。 (恋人って……キスも簡単には許してくれないような関係で……これってほんとに恋人って言えるのか……!?) そしてまた悶々とした悩みの渦だか沼だかにはまって行く彼など放っておけと言わんばかりに、闇夜は明け――世界は光に満たされ始めていた。 「あっ。こんにちは、ディルト様」 食事時間。娯楽の少ない軍内で、殆ど唯一といっていい皆の楽しみはどうやら共通してこれのようだった。ソフィアにしても例外ではなく、昼食の準備をするいい香りに引かれ、配給場所の大食堂に時間よりかなり早めに顔を出してみたそんな時、まだ人もまばらな座席の中にぽつんと座る見なれた顔を発見したのだった。 「何してるんですか、こんな所で」 彼の正面の席に着きながら問いかける。さすがに王太子である彼が他の兵士たちと共に食事を取ることはない。これは、彼が気にしてのことではないだろうが。だから、そのディルトをこんな場所で見るのはソフィアは初めてだった。不思議そうに首を傾げるソフィアに、ディルトは苦笑する。 「どうも、狭い部屋で一人でいるのは落ち着かなくてな。……ウィルもどうやらまだ眠っているようだし」 「えー? まだ寝坊癖直ってないんですか? もー、しょうがないなぁ」 彼の寝顔など今まで何度も見たことがあったので、すぐに脳裏にその映像は浮かんできた。可笑しそうに笑うソフィアを、苦笑したままでディルトは見詰める。 「だが、昨日は遅くまで部屋の灯りが点っていたようだったからな。今日ばかりは大目に見てやるべきだと思って……」 「おはよぉございます……」 唐突に、ディルトの台詞に割って入ってきた覇気のない声に二人は同時に顔を上げ――同時に目を点にした。 「……なに?」 ぼさぼさの髪を無造作に掻きながら声の主――ウィルは言ってくる。その辺りまでなら概ね普段と変わらないのだが、ウィルの目の下に、明らかに一睡もしてないであろう事が窺える酷いくまがあるなどというのは、これもまたソフィアには初めて見たものであったのだ。 「ね、寝てないの……?」 「ん。生まれて初めて貫徹した……って、別にそんな驚いて言うことじゃないだろ」 「いや、ウィルって一日十時間は寝ないと身体もたない人だとばっかり思ってて」 「もってないよ。見りゃ分かるだろ」 完全に疲弊しきった表情と口調でそう呟きながら、ウィルはディルトの隣の椅子にどさっと腰を下ろした。と、同時に、ばさりと手に持っていた紙の束をテーブルの上に投げ出す。 「新しい編成表、全員分の配属振っておきましたので目を通しておいて下さい。それとヴァレンディアへの進軍経路と今後の作戦についても考えがありますので、昼食後に会議を開きます。リタ王女の方に話をお願いします」 半ば眠っているような声音で、だがしかし内容だけは的確に告げてくるウィルを唖然と見上げながらディルトはこくりと頷いた。 「まさか、一晩かけてやっていたのか、これを? ……言えば私も手伝ったのに」 「いや……これにかけたのは結局ラスト数時間……だけだし……」 ぼそぼそとしたウィルの声はディルトには聞き取れなかったらしく、ん? と聞き返していたが、ウィルは答えなかった。どうやら脳細胞は既に異世界に突入しているらしい。頼りなさげに彼の頭がゆらゆらと揺れ始めて―― いきなり、びくんっ、と身を震わせて顔を上げたウィルに少し驚いて、二人は思わず身を引いた。 「危ない危ない。寝るところだった」 「あのさ、もう無理しないで寝たら?」 ソフィアの言葉に、ウィルは首を横に振る。 「今寝たら絶対ずっと寝ちゃうから、全部終わるまでは……」 呟いてふらふらと立ち上がると、ウィルはそのまま食堂の出入り口の方へ歩き出した。その足取りがあまりにも危なっかしくて、ソフィアは慌てて彼を追いかけていた。 「ウィル! ちょっと待ってよ!」 後ろから、何回か呼びかけてようやく彼は呼ばれていた事に気づいたらしくソフィアの方を振り返った。 「…………ん?」 「ね、ねえ本当に大丈夫? 目の焦点合ってないよ?」 「おう。男は五時からさ。ははは」 「あーあ。本格的に駄目だこの人」 眠気のあまりか人格崩壊しかけているウィルの腕を支えながら取り合えず、ソフィアは彼を部屋まで引っ張って行く事にした。この辺りで倒れられでもしたら手に負えない。 「全くもう、お酒とかなら強いくせにたかだか一晩徹夜したくらいで自我飛んでっちゃうなんて」 「全然平気だってば」 「……ちなみにウィル、自分の部屋と逆方向歩いてたからね。今」 言って、ソフィアは深々と溜息を吐いた。世話の焼けるこの男は、彼女が手を引いていてくれるのをいい事に歩きながらうつらうつらとしている。この状態で何か話しかけて彼が覚えているとは思えなかったが、文句の一つくらいは言っておこうと口を開く。 「徹夜できないならわざわざそうしてまで仕事する事ないじゃない。もうかれこれ一週間もここにいるんだから、あと数日くらい滞在日数延長したって変わらないでしょうが」 「俺だって……そう思ってたけど……どうせ眠れなかったし……そのうち悩むのも馬鹿らしくなってきて、何となく仕事でもしようかと……」 「悩むって何を?」 思わず聞き返したが、返答はなかった。――いや、もごもごと何か言っているような気配はあるのだが、よく聞き取れない。仕方なしにソフィアはそれ以上聞き出すのは諦めた。 何とか彼が完全な眠りの世界へと旅立つ前に到着した部屋のドアを開け、とりあえず一眠りさせておいた方がいいだろうとベッドを見ると、使ってはいないはずなのにシーツが何故か乱れていた。何だかよく分からないが、使った、というよりこの上で暴れたんじゃないかというくらい小気味よくめちゃくちゃになっている。 「しょうがないなぁ」 このままでは寝るにも寝られない程の状態だったので、直してやろうとソフィアがベッドの上に上がりかけたところで―― 「ぶっ――」 いきなり、後ろから突き飛ばされて、彼女はベッドに顔面から突っ込んでいた。 「あ……あのねえ」 怒るというより呆れて振り返ると、今彼女を突き倒したウィルはぼんやりとベッドの脇に立っていた。が、次の瞬間には――と言っても緩慢な動作ではあったが――彼自身もベッドの上に這い上がってくる。ぎょっとするソフィアを組み敷いた体勢で、ウィルは彼女を見下ろした。 「やだ、何……?」 声を上げながら彼の顔を見上げた瞬間、ソフィアは自分の心臓が高鳴ったのを感じていた。 彼の瞳が何時の間にか、先程までの寝ぼけ眼から、間違いなく理性の光を宿したものに切り替わっていた事に初めて気がつく。 それも――昨日彼女に向けていたような、どこか剣呑な雰囲気の。 「さっき、俺に聞いたよね、ソフィア。何で悩んでたかって」 しかし彼女が何か言うより早く、ウィルは言葉を口から滑り出していた。 「君のこと……だって言ったら、君は怒るのかな?」 「え……?」 眼差しと同様に明瞭だった彼の言葉に彼女が返せたのは、そんな呟きだけだった。だが、ウィルは彼女の声を無視するように、更に問いを重ねて来る。 「なあ、ソフィア。俺と君って一体何なんだろうな?」 今度は、声すらも出なかった。ソフィアが呆然としていると、何事もなかったようにウィルは身を起こし、彼女の上から退いて、そのままベッドの中に潜り込んだ。 「やっぱりちょっと寝るわ。昼食終ったら起こして」 「え? あ、うん……」 ソフィアが慌てて頷くのとほぼ同時に、彼は寝息を立て始めていた。 「……えーと……やっぱり、寝ぼけて……た?」 しばらく呆けたようにただベッドの上にへたり込んだまま、ソフィアはすぐ横で規則正しく呼吸するウィルを見下ろして―― 自分でも何故だか分からないが無性に腹が立って、彼の頭の下から引っこ抜いた枕を、彼の顔面に、ぼすん、と落としてやったが、泥のように眠りこけるウィルはぴくりともしなかった。 |