CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 7 #36 |
目の前の魔術士との間合いは、一瞬で詰められるほどに狭くはなかったが、易々と呪文を唱えさせてやるほど広くもなかった。 だから、ソフィアは臆することなく走り出した。それにしては、相手に命の危機が迫った焦りが感じられなかったが。接近されても何か対処法があるというのだろうか。動きにくいローブを纏った魔術士に。 (その時は、その時よ!) 今はただ、全力の一撃を相手に叩き込む事のみを考える――! しかし、そんな彼女の意志に反して、彼女の身体は突進を中断し真横に跳んでいた。 「――!?」 遅れてついてくる、思考。視界を横切る青白い光の残した熱と衝撃が、髪の数本を焼き切る。 こうっ、という音を立てて、熱も衝撃も一瞬にして消えた。だが、ソフィアの心臓を直撃した物理力を伴わない衝撃は、すぐには消え失せなかった。 (この人、呪文……唱えてない! ウィルと同じ真似が出来るの!?) 殆ど続けざまに放ってきた数条の光線を躱しながら、ソフィアは慄然とした。呪文詠唱を必要とせずに術を行使する魔術士。呪文を唱えようが唱えまいが、魔術の発動には精神の集中という過程がどうしても必要になる。普通の魔術士は呪文を唱えながら徐々に意識を練り上げて行くしかないらしく、それが魔術士の致命的な弱点である攻撃のタイムラグになる訳だが、呪文を唱えずに魔術を使う者にとってはそれは一瞬の作業で済む。 同様の能力を持つウィルを間近で見ていれば、その能力の恐ろしさは理解出来る。が、今相対する魔術士は、その彼女の理解を超えていた。 (冗談じゃないわよ、この人!) 十分、ウィルでも怖い能力だと思っていたというのに、この目の前の女魔術士は。 (ウィルより、速い!) 彼と同じ真似どころの騒ぎではなかったのだ。信じられない事だが、ウィルより遥かに完成度が高い洗練された技を敵は持っている。舌打ちしつつ、ソフィアは後ろへ飛び退った。間合い云々を言っている場合ではない。 ある程度――元の二人の位置関係と同じ程度まで離れたところまで戻ると、女魔術士ノワールは手のひらから光を消した。これだけ離れられれば確実に躱されると読んだのだろう。肩と手のひらの延長線上から彼女の身体を外さぬまま、ノワールはソフィアを静かに見据えてきた。 「避けてばかりでは私は倒せぬぞ」 「分かってるわよっ」 淡々と告げてきたその口振りに少々怒りを憶えて、ソフィアは口を尖らせた。そんな大人げない反論とは裏腹にソフィアは冷静に思考を巡らせていたのだが。 (迂闊には近寄れない。こっちには効果的な遠距離攻撃の手段はない。さて、どーする?) 辺りで燃え盛る炎に照らされても揺らぎもしないノワールの漆黒の瞳を少し羨ましく思いながら、虹彩の色の薄い瞳でソフィアは見詰めていた。 (呪文を唱えずに魔術を発動する……だと?) 膠着状態に陥った女魔術士とソフィアの戦いを傍観しながら、カイルタークは胸中で呟いた。 (あの技は……リュートが独自に編み出し、唯一の弟子であるウィルにのみ伝えたもののはず……何故だ? 何故、あの女が使える?) 同じ手段を彼女も編み出した、という可能性も皆無ではないが―― 「違うな」 ふと、自分がその心の中で読み上げた言葉を、カイルタークは声に出して否定した。違う。そのような偶然などでは決してない。ファビュラス教の教えによれば、この世に偶然なるものはなく、すべて全能神ミナーヴァが創世時に書物に記した出来事という事になっているがそういう事でもない。大神官という教会において最高位にある者が口に出して言える台詞ではないが。 「……成る程、必然か。出会うべくして出会うための」 全てを理解した訳ではなかった。だが、彼には十分だった。今一度の邂逅が用意されているのならば――今慌てて答えを捜し求める事もない。 それよりも今は、やらなければならない事がある。どう考えても厄介になりそうなその一仕事に、カイルタークは小さく溜息を吐いた。 その魔術士の深淵のような瞳に見つめられたまま、ソフィアは一歩も動く事ができなかった。気を抜くと、震えてしまいそうだった。おそらくこれは恐怖。そして――それと紙一重の快感。 (こんなこと思うから、ウィルに暴走馬鹿呼ばわりされるのよね) そう思われるの非常に不本意だが、仕方ない事なのかもしれない。身体中の血が騒ぐ。分かっていれば止められるというものではないのだ。 唐突に、ソフィアは上着の内側に手を差し入れた。すぐに抜き出す。その中に隠してあった小さな物を取り出して。投擲用のナイフ。 ノワールの瞳に瞬時に警戒が宿る。 予備動作もなく、手首のスナップだけでソフィアはそれを真っ直ぐにノワールに向かって投げつけた。 「くっ……」 小さく呻いて、魔術士は横に避ける。ナイフを投げるのとほぼ同時に走り出していたソフィアはそれを見てすぐに気づいていた。 (体術は素人だ) ならば、間合いさえ詰めてしまえばこちらのものである。再び牽制するため取り出したナイフをソフィアは投げつけた。が。 ひゅんっ! 突然の小さな乱気流にナイフは絡め取られ、ゆらりと揺れた。そのまま、それはくるりと反転し刃先をソフィアの方へと向ける――ノワールが、にやりと、というには控えめだが、概ねそのような意味合いの笑みを浮かべているのがちらりと見える。 風に乗り、ナイフは一直線に走り寄ってくるソフィア目掛け、真っ正面から飛んで行く。が、次の瞬間驚愕に目を見開いたのはノワールの方だった。 いや、おそらくは、彼女の目ではその瞬間何が起こったのかは認識できなかっただろう。彼女が驚愕したのは、眼前に迫ってきたソフィアにだったようだった。 正面から飛んできたナイフを、槍で叩き落としたのだ。ナイフを落とすのと一連の動作にして、槍をノワールに突きつける。 「チェックメイトよ」 一歩も動けず硬直する彼女に向かって、ソフィアは静かに告げた。 「……大した力だ」 ややしてから、ノワールは自分に刃を突きつける少女の顔を凝視しながらぽつりと呟いた。その瞳に、ソフィアは彼女がまだ諦めていない事を悟る。 「変な気は起こさない方がいいわよ。今の状況なら、貴女が魔術を放つよりあたしが貴女を串刺しにする方が速いわ」 「だろうな」 はっとして―― ソフィアは思わず槍を引いた。唐突に、自らその槍の餌食にならんというように身を乗り出してきたノワールから、穂先を離す。 更にノワールは踏み込んできた。槍の攻撃の間合いよりも更に内側に。この間合いでは、武器は意味を成さない。 (何考えて――!) 相手の武器を封じたところで、形勢が逆転する訳ではないのに。魔術士である彼女にとっても、接近して戦う事はデメリットしかないはずである。魔術を発動する直前の隙を必ず突かれる。仮に発動できたとしても、標的がこんな間近では自分まで自らの魔術の餌食になってしまう―― だが、ノワールはその繊手で、ソフィアの腕を掴んだ。ぎょっとするソフィアに向かって微笑む。先刻のように。 二人の胸の前――丁度間の位置に、瞬時、光が収束する。 「――自爆――!?」 大音声と共に炸裂した白光が、ソフィアの呻き声を呑み込んだ。 ―――――― 「感謝して欲しいものだな」 ソフィアが気づいた時に――と言っても意識を失っていたのはほんの一瞬の事だったのだろうが――耳に滑り込んできたのはカイルタークの声だった。ただし、その言葉は自分に向けられていない。目の前の敵魔術士、ノワールに対して彼は告げているようだった。さっきの光に目をやられたらしく、状況を視覚で確認する事はソフィアには出来なかったが、自分がカイルタークの腕に抱かれるようにして支えられているという事だけはとりあえず分かった。少し離れたところで、小さく、だが荒く息をつく音。これがノワールだろう。 「我が大陸解放軍においてソフィアを失うのもかなりの痛手ではあるが、それ以上に帝国軍が、黒魔術士団の長を失う方がよほど痛いだろう。戦闘に熱が入って周りが見えなくなるのは理解出来ないではないが、少しは自分の立場をわきまえて行動する事を薦める」 厳然と、言い放つ。 と、ただ事実を宣告するだけの感情を含まなかった声に多少、呆れるような色を混ぜ、ぼやくような口調で言葉を吐く。 「奴の弟子は、この系統しかいないのか? 全く……」 やおら立ち上がる気配を見せたノワールを、カイルタークは言葉を切って見詰めた。ソフィアも何とか目を凝らすようにしてそちらに視線を向ける。 彼女は重篤な怪我を負った訳ではないようだったが、強大な魔術を放った疲れもあるのだろう。よろりと頼りなくふらつきながら、しかし眼差しだけは鋭く、二人を見詰め返してきた。 「この借りは必ず返す」 唇から言葉を滑り落として、彼女はさっと身を翻した。そのまま未だ火の手の上がる森の奥へと走り去って行く彼女を、追う事なくカイルタークは見送った。 「あまり、無茶な事はしないで欲しいものだが」 今度は明らかに自分に向けられた言葉を、ソフィアは肩をすぼめて受け入れた。だが、ぼそりと反論する。 「無茶やってきたのは、あの魔術士の人ですよー。あたしはごくふつーの正常で一般的な行動しかとってないです」 「相手の正体を知りながら突っ込んで行く点が既に無茶だ」 帝国軍黒魔術士団。帝国に存在する主力三部隊の一つ。その長ともなれば無論、帝国内、ひいてはこの大陸屈指の魔術士という事になる。魔術士に魔術士でない人間が立ち向かうこと自体、普通に考えれば無茶だというのに、そんな魔術士を相手に一人で突っ込んで行くなど無謀にも程がある、と言うのだ。 カイルタークの言いたいことは分かるが、ソフィアは両手を握り締めて叫んだ。 「だって、楽しそうじゃないですかっ。そんな凄い魔術士なら是が非でも対戦してみたいって思うのが人情ってもんですよ!」 「確実に君だけだ、それは」 「ええっ!? どうして?」 驚きのあまりよろめくソフィアに、何故かカイルタークは嘆息を漏らしていた。 「それはそうと、ソフィア、目は平気なのか?」 思い出したように言われて、ソフィアもまた思い出した。全く見えないという状態からは回復しているが、まだ視界に多少もやがかかっている。もっとも、自然回復する種のものであろうが。 「診よう」 ソフィアを引き寄せ、カイルタークは彼女の瞳を覗き込んだ。髪の色と同じ、金がかった茶色の瞳。宝石の煌きをそのまま封じ込めたかのような。 瞼を閉じさせその上から指先で軽く触れる。それで終りらしかった。 「どうだ?」 「見えます……」 瞼を開いて、あたりの風景がその一瞬で嘘のようにクリアになったのに心底驚いて、ソフィアは呆然とした呟きを発した。 「ふむ、成功か。魔術を考案したはいいが今迄丁度よい被験者がなく困っていたのだ」 「実験台ですかあたし」 頬を引きつらせてソフィアが呟くと、カイルタークは気配だけで笑って見せた。今のは彼の冗談だったのかもしれない。ふと、そんな事に気がつく。 「大神官様も、使わないんですね」 「?」 「呪文」 何気なく聞いたソフィアの顔を、驚いたような瞳でカイルタークは見詰め返す。逆にソフィアの方がそれに驚いていた。 「ああ、たいした術でなければわざわざ唱えるまでもないからな」 「ふーん。結構誰でも使ってる技なのか……」 「そういうものでもないのだが」 独り言のような呟きに言葉を返されて、ソフィアは首を傾げながらカイルタークを見上げた。 「呪文抜きでの魔術の発動には……特殊な制御法が必要で、これはリュートが独自に編み出したもので一般に公表されているものではないから、知る者は少ない。よしんば知っていたとしても……誰もかれもが簡単に使えるようなものでもないしな」 彼は難しい理屈抜きでソフィアに説明しようと言葉を選んだようだった。それゆえかなり漠然とした返答だったが、詳しい理論を聞いたところで理解出来る訳がないので、ソフィアはそれについては聞き返すのはやめておいた。 ただ、一つだけ気になった名詞を繰り返す。 「リュート?」 幾度か、彼やウィルの口から聞かされた人名。――ウィルの兄。 カイルタークはソフィアから目を逸らすようにしながら、小さく頷いた。 「そうだ。だから私やウィルはその方法を知っている。私は奴の弟子という訳ではないが」 「だったら何で、さっきの女の人も使えたんですか?」 ソフィアから返ってきた至極当然の問いに、カイルタークは苦笑の吐息を漏らした。しばし、顎に手を当てたままノワールの走り去っていった森の奥に目を向ける。 ソフィアもつられて同じ方向に顔を向けたが、最早彼女の影は全く見えなくなっていた。手傷を負った状態で別の相手と戦闘を開始するなど思えないから、そのまま逃走したのだろう。そう言えば、他の遊撃隊のメンバーはどうしたのだろうか。黒魔術士団長を敗走させたくらいだから、奇襲作戦は成功したのだとは思うが―― 「おーいっ!」 少し離れた距離から、大声で呼ぶ仲間の声にソフィアはその方向――やはり森の奥の方に目をやった。 「部隊長を捕縛した。始末はついたぞ」 「オッケー。撤収ね?」 言ってきた剣士に手を上げてソフィアは応えて、小走りに皆が集まっているらしきそちらの方へ駆け出した。意図的に放った火も、本格的な山火事にはならないよう場所に気を使って放っただけあり、もう既に大方消し止められている。一日後、この場を通る予定のウィルはこの有り様にさぞ肝を冷やすだろうが、それはまあ、後で元気な顔でも見せて安心させてやればいいことだ。 「疲れたねー。今日ってどこでキャンプ張るの?」 「さーな。とにかくここから離れなきゃまずいだろうけどなぁ。もうしばらくは休めないぞ」 「やっぱり?」 戦闘に勝利した後の軽いノリでそんな会話を交わしながら、その場を後にして―― ソフィアが、カイルタークに尋ねた問いの答えを聞いていないことに気がついたのは、それから数時間後の彼女が寝床につく直前になってからだった。 |