CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 6 #30

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 第6章 彼女と『彼女』

 ――かみなりがなってて、こわかったの……

 闇の中の燭台に火が点され、壁際の限られた空間だけが僅かに橙色に浮かび上がる。その儚い炎に照らし出された人々が浮かべる表情は、炎と同じように頼りなく揺らめいていた。幼い彼女の中では周囲の人間というものはいつでも堂々としていて、間違うことなく彼女を導き護ってくれるものだったので、そんな彼らが揃ってこのような表情を浮かべる理由を彼女が理解する事は出来なかった。だが、これはもしかしたら彼女にとっては不運以外の何物でもなかったのかも知れないが、彼女は彼らの表情の、その意味すら理解出来ない程の幼子ではなかった。それを表す言葉は知らなくとも、理解する事は出来ていた。それは恐怖。それは焦燥。それは不安。全てが折り重なって表される、それは絶望。
 しかし、彼女の傍に立ち尽くす少年は、与えられた絶望を全て甘受するつもりはないようだった。彼に呼ばれて前に進み出てきた長身の青年に向かって告げた口調は、懇願というよりは命令を与える時の毅然としたものだった。
「頼みがある。エルフィーナ姫を連れて今のうちにここから脱出してくれ」
 言われてその場にいた者たちが一様に驚愕の表情を浮かべた理由も、少女には分からなかった。ただ、青年に手を引かれ、部屋を出るその時に、彼女は少年の方を振り返った。

 ――かれは、わたしにやくそくした。

 謁見の間から奥に入った所に入口をしつらえてあった通路は、頑丈なものであったが、永きに渡って使われていなかったことを証明する埃とかびの臭いと、虚ろな闇に満ちていた。青年は、少女の手を握って小走りに駆けていたが、彼には小走りでも少女にとっては大変な速さであったことに気がついて、彼女の小さな身体を軽々と抱きかかえた。
 通路は、森の中へと通じていた。青年に抱えられたまま、少女は、月すらない夜だというのに昼間のように輝く光を感じ、その光源に目をやった。
 城が見えた。灼熱の光の中に、城の輪郭は黒くくっきりと浮き出ていた。さながら湖に浮かぶ孤島のように。
 そしてあの孤島には。

 唐突に、白い光に包まれた。

 青年は、目の前の黒いローブを纏った老人を一瞬たりとも目を離さずに睨み付けている。

 哄笑。呪を唱える声。火の爆ぜる音。稲妻。白い光。炎の中の孤島。そして哄笑。

 光に包まれた少女。

 ――やだ……よぉっ!

 自分が泣き虫なのは知っていた。父にもよく笑われた。少年にも――彼女が父と同じくらい大好きなその彼にも――、君は泣き虫だな、と言われた。
 彼は頭を優しく撫でてくれた。魔術で花を一抱えも、ぽんっ、と出してくれた時には、あまりにもびっくりして涙は引っ込んでしまった。
 でもその彼と別れたあの瞬間だけは泣かなかった。彼の前では。彼は約束してくれたから。
 だが、青年の死を見た瞬間は、彼女は叫び、泣いた。人の死を目の当たりにしてそれに耐えるには、彼女はまだあまりにも幼すぎた。

 青年の身体に突き刺さる光の剣。消え行く青年。そして自分。

 ――わたしも、きえるの……?
 ――わたしがきえたら、やくそくまもれなくて、こまらないかな?

 喪失感に気付いた瞬間。そのことの方が、少女には気になっていた。



 珍しく、寝汗をかいていたことに彼女は自分で驚いた。ファビュラスの早朝。この地方はいかなる季節でも、昼間は気温が高いが夜から朝方にかけては毛布が必要なほど冷えるというのに。
 毛布を跳ね除け、額の汗を拭って起き上がりながら、彼女はサイドテーブルの上に置いてあった鏡に、自分の顔が写るのを見た。
 見慣れた顔がそこにはあった。亜麻色の髪。色素の薄い瞳。――ソフィア・アリエス。今更確認するまでもない自分の名を心中で唱える。
 その愚かしさを意識の端で感じて、小さく苦笑する。そんな、生まれた時から変わっていない事を今になって意識するなんて、どうかしているんじゃないだろうか。ふと、彼女は自分の頬に左右一筋ずつの涙の跡があることに気がついた。それも、汗と一緒に拭う。
「……変なの」
 苦笑するように、ソフィアは呟いた。
 そう言えば何日か前も、涙を流した。それは本当に、久々の涙だった。少なくとも人前で泣いたことなど、それ以外には記憶にない。記憶にも残らないようなもっと昔に溯れば、ないはずはないが。
(……顔、洗ってこよう)
 寝起きの所為だからだろうか。どうにもはっきりしない頭を覚醒させようと、彼女はそう考えた。その前にまず、寝間着を着替えなければならない。寝間着と言っても普段着と大差ないようなタンクトップにショートパンツだが、さすがに洗面所に行って誰かと顔を合わせたらその格好ではまずい。困ったことにこの教会の宿泊施設の洗面所は男女共用なのだ。
 のそのそとタンクトップを脱ぎ捨て、別のタンクトップに変える。ショートパンツはスカートに履き替える。戦場に出る時でさえ彼女はこの格好だった。もちろん、スカートと言っても丈が短く、足回りに不自由のないものである。中にスパッツも履いているから問題はないだろうと彼女自身では認識していた。洗面用具を持ち、上着を羽織って、彼女は部屋の外に出た。
 まだ教会の廊下は静かだった。
 起床の時刻にはまだ時間がある。その時間を過ぎてしまうと少々洗面所が込み合ってしまうので、彼女は早めに起きて、身支度を整える事にしていた。朝早く起きるのは、さほど苦ではなかった。朝特有の新鮮な空気は何度味わっても飽きる類のものではない。
「よう、ソフィア」
 後ろから唐突に呼ばれて、彼女は顔を上げた。
「あ、ウィル。おはよう」
「おはよう。洗面所行くのか?」
 見ると彼も、洗面用具を持っていた。入れ物にも入れずに歯ブラシとタオルだけ。おまけに、寝間着の上に丈の長い上着を羽織っただけといういでたちである。ウィルらしいと言えばウィルらしい。ソフィアは笑って彼の隣に肩を並べた。
「珍しいね、こんなに早く。ウィルは朝弱かったんじゃなかったけ」
「そうだけど、ほら、ここんとこずっと寝たきりだったからかな。あんまり眠くないんだ」
 洗面所は横に長い流し台に、水道の蛇口がいくつもついているというものだった。ファビュラス教会は上下水道が完備されている。蛇口をひねればすぐに奇麗な水が出てくるというその設備は、ソフィアは話には聞いていたが見たのは初めてだったので最初はかなり驚いた。蛇口のうちの一つをひねり、そのから出て来た水に彼女は手をさらした。
「冷たいねー。気持ちいい」
「冬場なんか最悪だけどな」
 呟きながらウィルも水に手を浸し、上着の袖を捲りもせずに顔を洗い始めた。ソフィアは首を傾げたが、ふと気付いて呟く。
「傷、見られるの嫌なの?」
 言われてウィルは眉根を寄せた。彼女が何を言っているのか分からなかったらしい。数拍おいてから納得したように、ああ、と漏らした。
「別に。ただ面倒だっただけ」
 あっけなく言って、彼は肘の辺りまで袖を折った。身体ほどではないがいくつもの古い傷痕がそこには残っている。ソフィアがじっと見詰めるのでウィルも確認するように撫でてみて、再度呟く。
「確かに、あんまり見せない様にはしてるんだけどね。見られて特に嫌っては思わないけど、見てて気持ちいいものでもないだろ?」
「ウィルが?」
「いや、俺じゃなくて、他の人が。見苦しくない?」
「そんな事ないよ」
 思いがけず即答されて、ウィルは驚いたように目を見開いてから、微笑んだ。ふわり、と彼女の頭を撫でつける。まるで自分の子供にそうするような優しい仕草で。
「ありがとう」
「何か、子供扱いしてない?」
 ほんの少しだけ不服を孕んだ声をソフィアが上げると、ウィルは微笑んだまま首を傾げた。何か面白いこと、もしくはよからぬ事を思いついた時のような雰囲気を、微笑みに混ぜる。
「それじゃ、お望み通り大人扱いしてあげよう」
 楽しげに言うと、彼はソフィアの腕を掴んで自分の方へ引き寄せる。突然のことに、抵抗する暇もなくあっさりと彼女の身体は彼の胸に抱かれていた。
「こら、ウィル! 急に何をっ」
「騒ぐな。人が来るぞ」
「あのねぇ、それって痴漢のせりふ……」
 呆れたように呟くソフィアの唇に、ウィルは指でそっと触れた。その指に声を封じられてしまったようにソフィアは言葉をのみ、顔を赤らめる。すかさず彼女の唇に自分の唇を重ねようとしてきたウィルを、寸前でソフィアは押し戻していた。
「もー、何で誰もかれもすぐキスなんてしようとするかなあ、男の子はっ!」
「男ってのは、好きな女の子にはいつでも触れていたいもんなんだよ」
 真顔で言ってのけるウィルに、さすがに呆気に取られてソフィアは絶句した。そんな彼女にウィルはにやりとした視線を向ける。
「こないだはソフィアだって目、閉じたりして結構乗り気だったじゃないか」
「あれはっ! その場のノリって言うか……」
 ごにょごにょと語尾を濁しながら、ソフィアが呻く。何か言い返してきそうだった彼の機先を制して、彼女は、怒ったような呟きを漏らした。
「ウィルがこういう人だなんて思ってなかった。ついこの間まで、手をつないだくらいで赤くなってなかった?」
「何だよ、分かっててやってたのか。性格悪いな」
「どうしたんだろ、ってくらいに思ってたのよ! ……それが、何で、急にこんな風にできるようになってるのよ」
 言われて、ウィルはしばし考えるように虚空を見上げた。んー、と呟いて、ソフィアの方に視線を戻す。
「ディルト様を見習うようにしたんだ。実は凄いよねあの人。直情的で素直で」
「だからって欲望に素直になるってのはどうかと思うんだけど」
「後手に回るといい事ないって分かったんだよ。これからは欲しいものは初っ端から奪う」
「最低……」
 呆れて呟くソフィアに、ウィルは満足そうな笑みを向けた。彼女の髪を撫でながら、僅かに口調に満足とは違った意味を含ませて、呟く。
「ディルト様は、大切なものがいくつもあっても、どれかを諦めたりはしなかった。俺は、出来なかった。多分怖かったんだ。全てを失うかもしれなくて。だから、最初のたった一つの約束だけに……それだけに的を絞ってたんだ」
 ソフィアはウィルの瞳を見た。彼の瞳はこちらを向いていた。だが、そこには今、彼女の姿は映っていない。そのことは別に悲しくはなかった。ただ、彼の言葉を聞くのは何故か少し悲しかった。黙っているのが辛くなって、思わず尋ねる。
「エルフィーナって人のこと?」
 ソフィアの言葉に、ウィルはかなり驚いたようだった。息を呑んだその表情のまましばし彼女を眺め、呻くように呟く。
「……誰に聞いた?」
「誰でもないわ。ウィルが……言ったのよ。覚えてない?」
 ソフィアが答えると、ウィルは幾分安心して息を吐いた。瞼を半分下ろして、いとおしそうにソフィアの髪に指を絡ませる。
「うん、覚えてないな……いつ言ったっけ」
「取水塔で。半分、寝てるみたいだったから寝言かとも思ったけど」
「何て?」
「大好きな女の子だって。彼女を護りたかった、って……」
 消え入るような声でソフィアは呟いた。
 大好きな女の子。その言葉は、奇妙に彼女の心に重くのしかかっていた。
 そして、彼には告げなかったが、彼はこうも言った。
 六年も経って、ようやく見つけた――と。
(誰を?)
 エルフィーナの……代わりの女の子?
 ちくり、とどこかが痛む。
「ソフィア?」
 唐突に、俯いたままのソフィアに肩を押されてウィルは怪訝そうな声を上げた。彼から逃げるように、ソフィアは一歩、後ろに下がる。
 視線を冷たい石の床に向けたままで彼女は小さく呟いた。
「……だから」
「え?」
 聞き取れなかったのだろう。聞き返してくる彼に、ソフィアは顔を上げて、言った。
「嫌だから……あたし、代わりなんて嫌だから」
「なっ? ちょっと、おい!」
 慌てて呼び止めようとする彼を振り返りもせずに、ソフィアはその場から駆け出した。


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