CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 5 #26

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「濠に落ちただと?」
 その報告を聞いて、驚愕して叫んだディルトとは全く対称的に、カイルタークは至極冷静に問い返した。
 無論、状況が理解出来ずそう問い返したわけではない。夜のファビュラスは、どのような季節であろうともひどく冷える。真夜中を回ったこの時刻、光明無き深い濠の中に落ちて、無事に済むわけはない。普通なら、の話だが。
「事故……だったのです」
 報告者の顔は、その場からすぐさま走ってやって来たはずであるのに、青く引きつっていた。が、カイルタークそれを一瞥し、小さく息を吐いた。
「事故ではない。あるはずがない」
「ですが……」
「汝らを責めているわけではない。もういい、下がれ」
 言われて魔術士は、がっくりと頭を落とすように下げ、退出した。
「事故ではない、とはどういう事です? 大神官殿」
 蒼白な表情のまま、口調だけは冷静にディルトは尋ねてきた。片腕で頬杖を付き、もう一方の手の指先でこんこんと机を弾きながらカイルタークは呟く。
「重力中和の魔術……何故使わなかったのか、が少々気になりまして」
 大神官の答えを理解出来ず、ディルトは眉を顰めたが、彼はそれ以上説明しようとはせずに、ひたすらに一定のリズムで机を弾き続けた。



 ざばっ!
 着水時とは比較にならない豪快な水音と共に水面から顔を出して、ウィルは貪るように空気を求めた。散々走り回った挙げ句、最後には水泳までこなすとは、確かに体力をつけたものだと、思わず自分で感心する。彼と同じように一旦沈みかけていたソフィアも、水面に引き上げてやったが、彼女は衝撃で気を失ったかぐったりしている。その方が水を飲まずに済んだだろうとあえて楽観視して、ウィルは辺りを見回した。
 程なくして見つけた陸地にまず自分が上がり、ソフィアを引っ張り上げる。
「ソフィア、おい、ソフィア」
 頬を軽く叩いて呼びかけると、彼女は小さく咳込んだ。
「……っ! ウィル……!?」
 びっくりしたように彼女は目を見開いて飛び起き、彼の名前を呼び返してきた。呆然としたその表情のまま数秒彼の顔を見続けて、それから辺りをぐるりと見回す。
「何、ここ……牢屋……?」
「取水塔」
 ソフィアの言葉を、ウィルは即座に訂正した。とはいえ、ソフィアがそう思うのももっともではある。概ね、印象としてはそのような場所だった。四方を石壁に囲まれた密室。高い天井の近くの壁に、格子のはまった小さな窓があり、そこから月明かりが漏れてくるお陰で、少しは辺りの様子を知る事ができていた。牢屋にしては少々広いし、牢屋に水路が通っている事はまずないだろうが、この肌寒さやじめっとした雰囲気などは似通っている。
 取水塔――さっきの濠はもちろん、教会の生活用水は全て、ここの深井戸からポンプで汲み上げる地下水でまかなっている。水はけのよい土地ではあるが、地下水量は不思議と豊富なことが、このファビュラスの特徴だった。汲み上げられた水は自動的に送水管で各所に送られるため、ここに人が入ってくる機会はそうはないはずである。
「ここなら多少、時間は稼げる……多分しばらくは、こんな場所に入り込んだなんて、気付かないだろうか……ら」
「ウィルっ!?」
 急激に声のトーンを落とすウィルの肩をソフィアは慌てて揺さ振った。そのソフィアの手を、彼は優しく振りほどく。
「大丈夫……ただ、悪い、ちょっとだけ眠らせてくれ」
「何考えてるのよ、こんな所でそんな格好で寝たら、死んじゃうわよ!?」
「そんなこと言われても……」
 困ったように呟く。彼女の言う事は正論だが、襲いくる睡魔は死の恐怖をもってしても抗い難いものだった。そしてそれが分かるものだから、彼女の浮かべる表情にも迷いが生じている。しかしやがて、やむを得ない、と言ったふうにソフィアは息を吐いた。
「……しょうがないわね、ならせめて、服は脱いでおきなさい」
「えっ、へ、平気だって」
 一瞬だけは眠気すらも吹き飛ばし、ウィルは手を振った。が、ソフィアは怒ったように肩を掴んでくる。
「平気じゃないわよ、馬鹿ね! こんな時に何恥ずかしがってんのよ! いいから脱ぎなさい!」
「わーっ、分かった、分かったからっ!」
 危うく衣服を剥ぎ取られそうになって、ウィルは思わず喚いて了承した。ソフィアが何故か監視するその前で、しぶしぶと上着を脱ぐ。シャツに手をかけて、一回だけ溜息を吐いた。
(……まぁ、別に構わないんだけどな)
 諦めて、シャツも脱ぐ。と、彼女の怒ったような眼差しが、戸惑いの視線へと変わっていくのがはっきりと見て取れた。
「ウィル、これ……」
 もっと驚くかとも思ったが、予想に反して彼女は独り言のようにぼんやりと呟いた。
 言われて、ウィルも何気なく自分の身体に視線を落とす。男にしては明らかに華奢であろう腕。鍛えられてはいないが、無駄な部分も特にない胸から腹にかけて。それらはここ六年間、一度も日に晒したことがないだけあって、はっきり言って不健康なまでに白かった。
 そして白いその皮膚は、余すところがないほどに、無数の古傷で覆われている。
 ウィルが視線をソフィアの方へ戻すと、彼女が見ていたのはもう彼の身体ではなく、彼の瞳だった。
「どうしたの――?」
 何か、婉曲な尋ね方をしようとしたが、相応しい言い回しを見つける事が出来なかったらしく、結局彼女はストレートに聞いて来た。彼にしてみればどう聞かれたところで、さほど困ることはなかったが。
「見たまんまだよ。怪我したんだ、昔」
「怪我って……」
 怪我には違いないが、これが普通の状態でつくようなものではないという事は明白だったろう。剣による切り傷、鞭による傷、火傷跡、どうやってついたのだか思い出したくもない、広範囲にわたって抉られたような傷。およそ傷というものの博覧会のようだとウィルは苦笑した。
 これらが、どのような行為によってつけられるものかという事にも、彼女は気付いたようだった。戦いの中でつくような種類ではない。抵抗できない状態で、一方的に嬲られたような傷痕。そう、つまりは――
 ――拷問跡――
 ソフィアの唇が声に出さず紡いだ言葉を見てから、ウィルは瞼を閉じた。口許には苦笑を浮かべたままで。何よりも、今はとにかく休みたかった。少し休んだら、また動き出さなければならない。
 彼女を、護る為に。
「ウィル……」
 暗闇の中――彼が目を閉じているからだが――、ソフィアの声は頭の中に淡く反響した。夢うつつの狭間で、それに答えるように呟く。
「大好きな、女の子がいたんだ。どうしても……僕は、彼女を護りたかった……どこへ行ったとも知れない彼女を……必ず見つけ出して……」
 彼女は、その声には答えない。いや、答えていたのかもしれない。どうでもよかった。どうせ、自分でも何を言っているのかなんて、よく分かっていないのだから。
「六年も経って、やっと見つけたんだ……僕の大切な姫君を。だから今度は、ずっと傍で護り続ける……そう決めたのは、僕の方が先なんだ……から……」
 昏くて深い海の底を漂っているような感覚。だけど、苦しくはない――むしろ、今の彼には素晴らしく心地よく感じられていた。がんじがらめになっていた意志が、理性の束縛から不意に抜け出したような、そんな感覚。
「エルフィーナ……僕は君を……」
 何もかもが心地よくて。
 だから、彼には自分が眠りに落ちか瞬間がどの辺りだったのかすら、分からなかった――


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