CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 5 #24

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 ――どうしたらいいんだろう。
 宵闇の訪れた窓の外をぼんやりと眺めながら、ソフィアは、膝を抱えて小さくうずくまっていた。ひどく叱られたときや、心細くなったとき、悩み事があるときの昔からの癖だった。レムルスの山奥の実家を出てからのこの数年は、そんなこともしなくなっていたはずだったが。
 そういえば、村のみんなはどうしているんだろう。
 今迄思い出した事もないようなことが唐突に頭に浮かんで、ソフィアは眉を寄せた。というのも、隠れ里同然の小さな村で、このような時世でも戦火とは無縁だったので今迄心配もした事がなかったからなのだが、いざ思い出してみて恋しくないわけはない。
(もし本当に、ディルト様とあたしが結婚する事になっちゃったら、みんなは何て言うだろう。まずはびっくりして、それから……喜んでくれるのかな……)
 唐突に目の前の景色が白濁して、ソフィアは視線を上げた。彼女の前に、ディルトがティーカップを差し出していた。
「暖かいミルクティーだ。落ち着くよ」
「ありがとうございます」
 取り合えず礼を述べて、ソフィアはソファーに座り直した。受け取ったカップをふうっと吹いて、湯気の中に顔を埋めながら、ソフィアは茶を口に含んだ。心地よい芳香の、甘いミルクティー。その甘味が口いっぱいに広がる瞬間だけは、確かに悩み事も、その理由すらも頭から消え失せていた。
 喉に流し込んで小さく息をつくと、目の前のソファーに腰を下ろしたディルトが呟いてきた。
「済まなかったな」
「え?」
 一瞬、本気で何のことだか分からなくて、ソフィアは問い返していた。ディルトは、責められているかのように一旦目を伏せ、やがて決心したように前を向く。
「私が強引に決める事ではないという事は、分かってはいるんだ。でも止められないんだ。誰にも渡したくない、貴女を」
「ディルト……様」
「貴女が、私の事をどう思っているのかは、ちゃんと分かっているつもりだった。止められるものなら……諦められるものなら、とうに諦めていた。だが、どうしても駄目なのだ。ソフィアでなければ」
 涙が浮かんでいるわけではないが、色の所為だろう――潤んだように輝く青い瞳で真っ直ぐに見つめられ、ソフィアはうろたえた。うろたえつつも、彼女はディルトの宝石のように美しい瞳から目を離せなかった。
 すっと近づけられたディルトの指が、色素の薄いソフィアの髪を絡め取る。
「大陸を守護せし女神ミナーヴァに誓って必ず幸せにする。だから、嫌だというのでなければ、私と結婚して欲しい」
「……あ……」
 嫌なわけは――ない。
 ディルトの性格ならよく知っている。王者の誇りを持ち、しかし高慢ではないレムルスの王子。ウィルの言葉ではないが、彼が幸せにしてくれるというのなら、必ず自分は幸せにしてもらえるだろう。その言葉に確信の持てる人間。それが彼、ディルト。
 そんな、万人の理想の集大成のような男性に、それも生まれて初めて男性から愛しているなんて言われて、その申し出を無下に扱うことなどソフィアには出来なかった。とはいえ、受ける事も出来ない――
「あたし……は……」
 ――何故?
 何故、彼の申し出を受けてはいけないだなんて、考えているんだろう?
 ふと、ソフィアは自分の顔をした少女と、向かい合う青年の物語を見ているような錯覚でもって、状況を見ている自分に気づいた。自分は、感想は持つがストーリーの進行には関係のないギャラリー。絡み合う二つの視線。少女の髪に触れる青年の手。彼の手は髪を離れ、少女の頬に……
(ちょっと、そんなのだめっ!)
 たとえそう思っても、ギャラリーには舞台は壊せない。
 何か魔法にでもかけられたかのように動くことの出来ないソフィアの眼前に、ディルトの深い色の瞳が迫ってきて――
 唐突に、舞台は壊された。

 がしゃあぁん!
 突如鳴り響いた、耳障りな大音声に顔をしかめ、ディルトは音のした方――背後を振り返る。
 見事なまでに破壊された窓ガラスが、満月の光を受け、粉雪のように光の粒を撒き散らしながら降り注ぐ中、彼は立っていた。
「ウ、ウィル!?」
 その窓から飛び込んできたのであろう彼の姿に、さすがに度肝を抜かれてソフィアは叫ぶが、ディルトは当然の事が起こったように平然と、その場に立ち、ウィルの方に身体を向けた。
「何用だ?」
「やだなぁ。分かってるんでしょう?」
 にっこりと――そう、確かににっこりと――微笑んで、問うディルトにウィルは答えた。その手を、すっと前にかざす。
 彼の攻撃態勢。
「なんかもー疲れました。という事でしばらく、大陸解放軍軍師の任務を放棄しますのでよろしく」
 言うウィルの手のひらには、ためらいのない魔術の光が点っていた。それが、音もなく放たれる。
「な――!?」
 襲ってきたのは、熱のない爆風だった。ほとんど条件反射のように、ソフィアはディルトをその魔術の範囲外へと突き飛ばしていた。そして自身も、その突き飛ばした反動を利用して、反対側へとその風を避ける――つもりだった。
 彼女の動きは的確だったのだが、風はそのソフィアの動きを見越したかのように、避けたはずの彼女の足をその圧力でもってすくい上げていた。
「ひえっ……?」
 普通ならありえないことだが、魔術を用いれば難しくもない事なのだろう。足をすくわれ体勢を崩したソフィアを今度は軽々と風が宙に浮かす。そのまま、放り投げられるがごとく、彼女の身体は部屋の天井すれすれを舞っていた。が、程なく重力の掟に従い彼女の身体は落下する。
 すとんと、ウィルの腕の中に。おそらく、彼の意図通りに。
「なっ……何……!?」
「ディルト様」
 しかし彼が涼やかに語り掛けたのは、腕の中で声にならない声で驚きを表現しているソフィアではなく、目の前で膝をついているディルトだった。
「ソフィア、頂いてきます。……不敬罪でも反逆罪でも何でもお好きなようにどうぞ」
 呟いて、ウィルは後ろ向きに足を蹴り、ソフィアを抱きかかえたまま、今し方入ってきた窓から身を躍らせた。

「どうされましたか?」
 ガラスの破砕音に始まった一連の騒音は、よほど教会内に響き渡っていたようだった。神官、魔術士、大陸解放軍の騎士達――およそこの場にいて不思議のない人間達が一様に何事かと押し寄せてきていた。そして、レムルスの王子の居室の、嵐に見まわれたような有り様を目の当たりにして、騒然とする。
 そんな中、悠長とも思えるゆったりとした口調で問いかけてきたのは、この地の最高責任者、大神官カイルタークだった。
「魔術士の仕業ですね。何が起こりましたか?」
 悠長と、ディルトは一瞬感じたが、同じ調子で呟かれた彼の二言目を耳にして、そうではないように思っていた。事務的、というか、いやに落ち着いているのだ。まるで、回答が分かっている問いをするかのように。しかし、まさかそんな事はないだろうと思いつつも、ディルトは言葉を選んでいた。
「魔術士が一人。この場から、レムルス王国準王族を拉致しました。捕縛にご協力願いたい」
 その言葉にカイルタークは、ほう、と呟く。
「分かりました。要請を受諾します。して、その準王族の名と敵魔術士の特徴は?」
「準王族、ソフィア・アリエス。魔術士は……ウィル・サードニクス」
 あまり表情を崩さないらしい大神官が、微かに眉を跳ね上げるのを見て、ディルトは本当に彼が驚いているらしい事に、何となく気付いた。しかしすぐに彼は、そのほんの僅かな表情の変化も打ち消して、ディルトを見返す。
「戦闘の可能な魔術士を招集しましょう。指揮は、私が執らせていただく」
「お任せします」
 もとより、教会の魔術士達に指示を出す事はディルトには無理だったので、彼は素直に応じた。見る間に、背後に集まっていた魔術士の数人に、カイルタークは指示を与えていく。魔術士達も、先程までの唖然とした表情を消し、機敏に立ち去っていった。
「五分後、作戦を開始します。王太子殿下も大講堂の方へ」
 言われて、ディルトは静かに頷いた。



 彼らは、人気のない教会の廊下を走っていた。本当はお姫様をさらう悪の魔術士のごとく、『お姫様抱っこ』でもしながら逃走できればビジュアル的には美しいのだが、さすがに人一人抱えたまま全力疾走するような尋常でない体力は彼は持ち合わせておらず、諦めてご随伴願っているのだった。それに、文句の一つも言わず彼女は従ってくれている。
 つまりは、自覚はないのだろう。自分が目の前の男にさらわれた、などと言う自覚は。
「ねえ」
 走りながら平然と問いかけてくるソフィアにウィルは視線だけ向けた。正直言って、喋りながら疾走するような体力の無駄使いはあまりしたくない。
「どうするの? 窓から逃げられたのに、また教会内に入っちゃって。機動力が違うんだから、簡単に封殺されちゃうよ」
「外部になんか逃げ出せるか。辺りは一面の荒野だって、忘れたか?」
 危険な生物が生息している、とかそういう事はないが、つい数日前戦場だった場所である。どう考えたところであまり安全とは言い難い。それ以前に昼は焼け爛れるくらい暑く、夜は凍えるように寒い荒野を、まともな準備無しで、一番近い町まで一昼夜、歩き通したいとは思わない。
 逃げ出さない理由はそれだったが、そう細かく説明する事はせずに、ウィルは気になった事を尋ねた。
「ていうか、機動力が違うって、何を敵に回してるつもりなんだ?」
「大陸解放軍も含めた教会全体、でしょ? ほら」
 走りながら窓の外をひょいと指差す。その先にあるのは、教会の建物から外側に向けてせり出した、物見やぐらだった。そこへ、魔術士らしき人間が登っていく姿が見える。その一番上あるものをウィルは知っていた。ソフィアも分かっているようだった。
 警鐘。
 かぁん! かぁん!
 教会内の数ヶ所で、全人員に非常事態を伝えるそれは、一斉に打ち鳴らされた。
「あの腐れ大神官まで動き出したか」
 もっとも、それは予想の範疇だったが。教会内で何か異常な事態が起こって、彼が首を突っ込んでこないわけはない。それが彼の義務であり、あまり知られていない趣味なのだ。
 それでも、その呆れるほどの対応の速さに――まだ騒ぎを起こしてから二分と経っていないのだ――ウィルは露骨に舌打ちした。
 頭の中で思い描く。五分もせずに教会魔術士、つまり戦闘要員は召集され、機動チームが組まれるだろう。だだっ広い教会とはいえ、発見されずに逃げおおせるのは至難である。と言っても端から逃げの一手を打つつもりもないが。
「それはそれとして、ソフィア、じゃあ何で追われてるのかは分かってんのか?」
 実際に追われているのは彼のみで、彼女は囚われの身であるというのが、彼も含めた彼女以外の全ての人間の見解なのだが、言ってもどうせそれは自覚がないだろうからあえてウィルは簡単に聞いた。
「とりあえず直接の発端はウィルの乱心だとは思うけど」
「乱心とか言うな」
「あたし的には面白そうだから何となくそれにお付き合い」
「いい趣味だ」
 今更ながらに心の底から彼女の、普通の人間からはかけ離れた根性を賞賛して、ウィルは呟いた。
 数分間、かなりの速さで止まらずに走り続けている。人員が召集されるであろう大講堂からとにかく離れるように走ってきたので、まだしばらくは近辺に敵はいないという事になる。が、さすがにあと十分もすれば、正確な情報が教会全体に行き渡るようになる。小さな都市ほどの大きさを持つこの教会全体にだ。一般常識では考えられない事だが、この教会においては、それが常識だった。アウザール帝国をも怖れさせた大神官翼下、教会魔術士達の統率力は伊達ではない。
 ふと、ソフィアが付け加えるように呟いた。
「それと、このところずっと、ちくちくしてたから」
「……ちくちく?」
 聞いても状態のよく分からない擬態語に疑問を持ち、ウィルは聞き返していた。
「うん。何でか分かんないけどね、どうしたらいいんだろうって考えてたら、この辺りがちくちくしてた」
 言いながら、ソフィアは自分の胸元をぎゅっと掴む。
「どうしたらいいんだろうって考える前に、いつもなら身体は動くのに、動けないの」
 わかりにくい表現ではあるが、漠然とウィルは理解した。豊富な経験と勘で悩むという事を知らずに今迄動いてきた彼女にとって、このところの体験した事のない状況の連続は、よほど戸惑いを覚えるものだったのだろう。
「だから意味はないけど『慣れた』逃走劇でも演じて、さっきまでの鬱憤を晴らそうと?」
「そうかも」
 トレジャーハンターというくらいだから、このような闇に紛れての逃走などというものはそれこそ彼女にとって、日常茶飯事だったのだろう。ウィルにはとても想像出来ないが。言葉通り、先ほどとはうってかわって今の彼女は生気に満ちた眼差しをしている。
 ウィルは溜息を吐こうとして、途中で止めた。代わりに苦笑の形で息が漏れる。
「それでこそ君だよ、ソフィア」
「それ、誉め言葉?」
 小首を傾げて聞き返してくるソフィアに、ウィルが、そうそう、と頷いてやると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「頑張って逃げようね、ウィル」
 楽しげにそう言って、ソフィアは口許にその笑みを浮かべたまま、鋭い眼差しで廊下の前方に視線をやった。
 どうやら近づいてくる複数の人間の気配に、彼女は気がついたようだった。


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