CRUSADE〜The end of "CRUSADE" Chapter 4 #17 |
第4章 神聖なる大地 穏やかな風。緩やかな波の音。 優しいゆりかごの中の日常。貴重な全てがそこにはあって、貴重だなんて思いもしなかった。 それはいつか壊れてしまうもの。形あるものも形ないものも。微かな香りだけを残して―― 「やーだよっ!」 舌を出しながら、少年は、後ろから追いかけてくる青年に向かって叫んでいた。 「勉強なんてしたくない! 剣術の稽古もやだ! 魔術の訓練は一番いやだからな!」 「陛下……」 呻くように、青年が呟く。金色の髪の、背の高い青年。切れ長な瞳を更に細くして睨み付けてくる。しかしどれだけそうしても、若さの所為か、はたまた秀麗な容貌の所為か、陰険さが表情に出る事はなかった。 「ヴァレンディアの王族たるもの、さまざまな教養と騎士として通用する剣術、そして何より魔術を行使する力、これらは必ず身につけねばならないんです。わがまま言うんじゃありません」 そう言っても、少年は聞かなかった。仕方のない事なのかもしれない。この聖王国ヴァレンディアの王とはいえ、父王が早くに亡くなったため幼くして王位を継いだ、まだ十二にも満たない少年である。机に縛り付けられたままそうそう長く我慢していられるような年齢ではないということくらい、彼に分かっていないはずはないだろうが。 しかし容赦なく、青年は最終手段を使ってくる。 「今日は午後からエルフィーナ様がお見えになるんじゃないんですか? それまでにお稽古が終わらないようなら帰っていただく事になりますよ?」 「うそ!? そう来るか!? そーゆー手は汚いぞリュート!」 一転して泡を食った表情になる少年に、青年――リュートは、ひょいと肩を竦めて見せる。 「なんとでも。陛下が勉強してくださらなかったら怒られるのは教育係の私なんです。どんな手段でも使いますよ」 口をぱくぱくとしながら――反論の糸口を探しているのだ――少年はしばしリュートの方を見詰めていたが、熟考の後にそれは無理であると言った結論に落ち着いて、やけになったように叫んだ。 「あーもうわかったよ! やればいいんだろやれば! ちくしょうっ!」 「ちくしょう? 何ですその言葉づかいは? 私はそんな言葉を教えた覚えはありませんよ?」 「いちいちうるさいなー……どーでもいいだろそんなの」 ぷう、と幼い輪郭の頬を膨らましながらぶうたれる少年に、リュートは、ほう? と何やら意味ありげに呟いて見せる。 「いいんですか? 普段からそんな言葉使いしてて? エルフィーナ様がそれを聞いて覚えてしまわれて?」 形のよい唇をたちの悪い笑みの形に曲げ、心底楽しんでいる口調で言ってくる。 「それがローレンシア王にばれて、『うちの娘にこんな汚い言葉づかいを教えるとは!? もうヴァレンディアには来ない!』……なーんて事になったりして……」 「うぐっ……」 それがいつもの彼の手段だということくらい、とうの昔から分かりきってはいるのだが、少年は、顔を紅潮させて呻く。もうこんなことが、今迄何度あった事か。最早数える気も起きない程だが、どれだけ繰り返されても、結局それらはみな同じような結末を迎えるのだ。 「わ・か・り・ま・し・た、い・ご・き・を・つ・け・ま・す!」 必要以上に明瞭に言葉を吐きだす少年に、リュートはうんうんと満足げに頷く。きーっと奇声を上げながらこの青年の頭をつかんで振り回してやりたい衝動を子供ながらに押さえて、少年は、身体の内に収まりきらない悔しさで、わなわなと両手を震わせた。 そんな少年に気付いているのかいないのか――いや、絶対に気付いていてそれであえて知らん振りをしているのだが――にこやかに微笑んで、リュートは胸の前で、ぱんと手を打ち鳴らした。 「さぁて、それでは部屋に戻りますか。魔術史の勉強の途中でしたね」 悪意のない微笑み。いつだってそうだ。別に、悪意を持って人を苛めてくれているわけではないのだ、この男は。 彼に言わせるなら、愛の鞭というやつらしい。彼に言わせなくても、概ねの者はそんなものだと認識しているだろう。当の少年も含めて。 「そう……そんな事は分かってるんだよ。理性では、さ」 「何がです?」 溜息と共に紡いだ独り言に対し呟きを返されて、少年は、口を尖らせたままで、彼の顔を見上げた。またさっきみたいに無茶苦茶なわがままでも言ってやろうかとも思ったが、それは止めて、代わりにぼやいて見せる。 「……まったく……勉強ってのはいやだけど分かるよ。国を治めるのには豊富な知識が必要なんだろうから。でも剣術とか魔術とかって一体何なんだよ? この平和な世の中で、戦いに使う力なんて必要ないだろ?」 「おや、陛下はお嫌いですか、そういうの? 適度な運動になって楽しいじゃありませんか」 小首を傾げて聞いてくる。そんな彼を、少年は険悪に睨み付けた。 「適度な運動になるうちはいいけどな。リュート、本気でやるんだもん。何度僕が痛い目を見てきたか分かってんのか?」 「怪我したのはたかだか二、三回でしょ」 「……先週は、だろ」 「そのたびにちゃんと魔術で治して差し上げてるじゃないですか」 そういう問題じゃないだろ、という言葉を、声には出さず視線でぶつけてみるが、彼は全く動じもしなかった。どころか、さも当たり前のような口調で続けてくる。 「それに、本気でやらない陛下の方に非があると思いますね。稽古だと思って甘く見てるから怪我なんてするんです。そんなんじゃいつまでたっても私は超えられませんよ」 「あのなぁ」 今度こそ、呆れた口調で少年は言い返した。 「どこの世界にファビュラスの最高位の魔術士『ルーンナイト』を超えられる人間がいるって言うんだよ」 真実、言いたかったのは―― どこの世界に、弱冠十七歳にして全世界の魔術士の頂点に立った、確実にその名を歴史に残すであろう天才、リュート・サードニクスを超えられる人間がいるんだよ――その台詞だった。 それだけの力を持ちながら鼻にかけたりしない、かといってその実力を隠そうともしないこの腹の立つ青年に、そんな誉め言葉のような台詞を吐いてやるつもりなど毛頭なかったが。 じろりとリュートを睨めつけて――思わず半眼にしていたその目を見開く。 彼は微笑んでいた。 微笑みなら、見慣れていた。いや、微笑みだけではない。屈託のない笑顔、怒った顔、困った顔、寝顔すら。物心ついた時からという長い付き合いの中で飽きるほどに見続けて来ていた。さすがに、泣き顔は見たことがなかったような気がするが―― 驚いた理由は、その表情が一瞬、泣き顔に見えたからだった。しかしそれは紛れもなく微笑みだった。 決して弱々しくではなく、彼は限りなく優しく微笑んでいた。 リュート? 彼の名を呼ぼうとした――が、言葉にはならなかった。別に、彼の表情にこちらの言葉を押し止める何かがあるわけでもなかったのだが。 どうしても埋めることの出来ない、胸が痛くなるような時間の空隙に、リュートが声を滑り込ませてくる。 「……私ごとき超えていただかねば困ります。貴方はこのヴァレンディアの王、聖王国を統べる御方なのですから……」 耳に心地よい、高くも低くもない澄んだ声。その声が紡ぐ言葉。 「何者にも負けない力を身につけなければなりません。貴方自身を護れるように。護るべきものを護れるように」 聞き漏らしはしなかった。しかし、彼の言わんとしている意味を理解する事は出来なかった。 「リュート……?」 今度はきちんと声になった少年の呼びかけに応えるように、リュートは笑顔を見せた。 いつもと変わらない笑顔。 「さ、はやいとこ勉強を済ませて、剣術と魔術の稽古をしましょうねー」 上機嫌な口調に、少年は、はっと気付いて、叫ぶ。 「リュートお前、僕に剣術とか教えるの、ストレス発散か何かにしてるだろっ!?」 あまつさえ鼻歌などを歌いながら、少年に背を向け勉強部屋へと戻っていくリュートを、少年は、さっきとは全く逆に喚きながら追いかけていった。 穏やかな風。緩やかな波の音。 優しいゆりかごの中の日常。貴重な全てがそこにはあって、貴重だなんて思いもしなかった。 それはとうに壊れてしまったもの。そう―― あの雷鳴のように突然に。 空は、晴れていた。 海の天気は変わり易い、とよく言うが、幸運な事に、乗船してからここ一週間ほど、雨らしい雨に降られたためしはない。 しかし耳の奥では、天空で黒い雲と雲の擦れあう、地の底から響くような――矛盾した表現だが――音が響いて止まなかった。 (トラウマってやつか? この俺が……) 寝転がって青い空を見詰めながら、ウィルは自嘲気味に独りごちた。 ――が。 何となく、気付いて顔を上げる。 よく分からないが、何故か大きな樽を転がしていたソフィアと、丁度目が合った。視線に気付いてソフィアが樽を止めると、ごろごろという音もぴたりと止まる。 「……おい……」 「へ? なぁに?」 唐突に唸り声を上げられて、ソフィアは驚いたように目をぱちくりさせた。 「……何やってんだよ、ソフィア」 「ああ、これ? 調理場の方へ持って行って欲しいって頼まれたから……」 よいしょ、と、転がしていた樽を立てて、ソフィアは彼の方へ駆け寄って来た。 「ウィルこそこんなところで何してるの? お昼寝なら船室使えばいいのに」 呟いてから、くすりと笑う。 「ま、分かるけどね。気持ちいいもんね、ここ」 ソフィアはウィルの横に座って、足を投げ出した。そうしてから、彼女は海の香りに満ちた空気を満喫するように大きく息を吸いこんだ。 ソフィアの、色素の薄い長い髪が、潮風に溶けるように、さらりと揺れる。 外での生活が長いとはとても思えない彼女の白い肌と、空と海の青の対比があまりにも美しくて、しばしの間見とれてしまっていたということを、ウィルは素直に認めた。当のソフィアは、見つめられていた事など気がついてはいないようではあったが。 彼女はある一点を眺めたままである。 「どうした?」 さすがに気になって、ソフィアの見ている方へ目をやると、そこにはライラと、サージェンと言ったか――セイルで出会った剣士がいた。その二人はただ静かに寄り添いながら、船縁から広大な海を眺め、声なき語らいを交わしていた。 「知ってる? ライラさんとサージェンさんって、恋人同士なんだって」 「まぁ、そうなんだろうな」 鼻の頭を掻きながら、ウィルは答えた。恋人でもなんでもないと言った方が詐欺になるような雰囲気を醸し出す二人を前にしておいて、今更言うほどの事でもないだろうとは思ったが、口には出さずに、ソフィアの方を見る。 彼女ももう、ライラ達の方ではなく、彼の方を見ていた。にやりとした微笑を浮かべて。 「何だよ」 尋ねると、彼女はいっそうその笑みを深くする。 「ウィルは興味なさそうだね、そういうの」 「あるかよ。人の恋愛話なんか。……女の子じゃあるまいし」 「人の、じゃなくってさー」 抱え込んだ膝に頬を乗せて、ソフィアはとてつもなく楽しそうな表情になる。 「自分のは何かないわけ? ウィルについてそういう噂って、聞いた事ないんだけど」 (本気で言ってるのか? ソフィアは……?) 散々、ウィルと彼女の根も葉もない噂が流れまくった――と過去形で言ってしまってもいいものなのかは定かではないが――ことに、彼女は本気で気付いていないらしかった。彼の事をからかっているのでもなんでもなく、彼女の瞳の奥にある感情はただ一つ。好奇心、それだけである。 ウィルは、小さく溜息を吐いた。 「ある訳ないだろ。俺が教会から解放軍に来て、まだたった半年なんだから」 「ああ、そんなものだったんだっけ。……それじゃあさ、教会では? あ、もしかして教会ってそういうの駄目だったりするの?」 「そんな事はないけど……でも、残念だったな。ないよ。女の子には興味ないから」 「ほほう。ならば男の子には興味あると?」 「あるかっ!」 叫んで、ウィルは立ち上がった。そのまま去ろうとする彼に、ソフィアが慌てた声を上げる。 「いやーん、冗談よ。そんなに怒んなくても……」 「……怒ってないよ、別に」 「うそぉ、めちゃめちゃ怒ってるじゃない」 ソフィアも立ち上がって、ウィルを追いかけようとする。その瞬間、船が大きく揺れ、船体が傾いだ。 「あ……っと」 まともに足をもつれさせ、ソフィアはそのままウィルの背中に飛び込んでいた。 「ごめん、ウィル」 背中に触れたまま、ソフィアは小さく詫びてきた。からかった事に対しての詫びなのか、ぶつかった事に対してなのかは分からなかったが。 その言葉に答えるように、ウィルは、呟いていた。 「今は……誰が好きだのなんだのって、言ってる場合じゃないから」 言ってから、それが全然噛み合わない台詞である事に気付く。急に恥ずかしくなってきて、ウィルは、彼女の方も見ずに歩き出した。 「ごめんね、本当に!」 後ろからソフィアが叫んできたときも、ウィルは振り返りはしなかった。 「そうだよね、ウィルは軍師で、いろいろ悩む事とかあるんだもんね、そんな事言ってられないよね……」 (それじゃないんだけどな) 胸中で呟いて、ちらりと後ろを振り返る。ソフィアはもう、こちらに背を向けて走り出していた。もしかしたら傷つけてしまったのかもしれないと、ふと思う。 ふう、と我知らず、疲れた吐息が漏れる。 (そーだよ。何がいけないって、ディルト様が悪いんじゃないか。いちいち人の神経かき乱すような言動してくれちゃってさ。別に、貴方の恋路を邪魔するような真似はしないよ、俺は) 半ば八つ当たり気味に毒づく。それでも怒りというかいらだちは収まらず、更に声には出さず続けていた。 (俺には、果たさなきゃいけない約束がある……俺の事がどうこう言えるのは、それを果たしてからだ) ――いや―― ウィルは苦笑した。約束を果たしてから。そんな事を思ったのは、初めてだった。 約束。果たしてから、なんてありえない。それ自体が、自分自身の全てなのだから。 これが愛情なのかと聞かれれば、間違いなくそうだと断言できるだろう。だが、それが恋愛感情なのかと聞かれたら、答えに窮するかもしれない。 その時の彼は、あまりにも幼すぎた。だがそれでも、少年にとって彼女は、命を賭しても護りたかった一番大切な存在だった事に代わりはない。 そしておそらく、永遠にその気持ちは変わらないだろう。 ――エルフィーナ。 君を護れるのなら――俺は他には何もいらない。 |