女神の魔術士 Chapter 5 #5

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(……うぅ)
 うつらうつらとしていたはずだったのだが、不意に痛みにすら似た感覚を覚えてウィルは目を覚ました。実際の所は不意にではなく徐々にそれは感じ始めていたと思うのだが、ついに意識が忍耐の限界を超えて、ウィルを逃避気味に逃げ込んでいた眠りの世界から呼び戻したようだった。まだ半覚醒といった状態で瞼は上がらないが、徐々に身体の――ごく一部の感覚が鋭敏になっていくのが自覚できる。一眠りしている間に薬の効果は一段と強まっているようだった。
 尤もこれは薬の効果に気づいた時から概ね予測出来ていた状況ではあった。然るべき処置をすればある程度これは緩和されるのだろうがそれで万事収まるとも思えないし何より何かに負けたような気がするので意地でも寝てやり過ごすつもりだったのだが変な拘りを持たずに素直に身体的欲求に応えておけばよかったと今更ながらに思う。いや別に今更でもないのか。今からでも別に遅くもないだろうなあと考え直しつつ、でもやっぱり先刻は勝てた欲望に今になって屈するというのもなあと普段は張らない無駄な意地が出てくる。普通の状態で起こる欲求だったら若者として正常な生理現象だと認識しているので別段罪悪感を感じないのだが、原因が薬物であるというのがやはりどうにも許容しがたい。多分あんまり関係ないけどソフィアの為にも耐え抜いてみせたい。彼女的には頑張られても困るだろうが。
 ――ソフィア。
 そこに発想が至ったのは少しまずいことだった。彼女の名前は、脳裏に浮かぶ彼女の表情は、声は、匂いは、柔らかさの記憶は、より一層ウィルを刺激する劇薬だった。ウィルは瞼を閉じたまま、頭痛に耐えるように眉間に皺を寄せた。
「あーくそ……」
 かなり情けない気持ちを口中でぼやきに変えながら、ウィルは寝返りを打った。
 ――その時だった。何か、自分のものではない異質な気配を至近に感じ、ウィルは感覚の鋭敏さに比べるとあまりにも働きの鈍い瞼を叱咤して薄く目を開いた。月明かりのみが薄く差す窓際に、本来今ここにあるはずのない姿を認めて、ウィルは喜ぶよりも先に反射的にその不自然さを警戒した。
(何だ……? 何で今ここにソフィアが……)
 窓から注ぐあえかな光に照らし出されるその姿。それは紛れもなくソフィアのものだった。妄想からくる思い込みではない。薄明かりの中とはいえ、微かに見えるその愛らしく整った顔かたちは見間違えようがない。直前まで脳裏に描き出していた姿が確かにそのままそこにいる。
(夢……?)
 薬に浮かされる頭が見せる都合のいい夢、と思ってしまいたい所だが、それにしては身体感覚があまりにもリアル過ぎた。頭の隅に僅かに残る冷静な部分が警鐘を打ち鳴らす。
(いや……魔術攻撃の、可能性がある。……今の状態で対処しきれるか……?)
 一部以外の感覚が酷く緩慢で思考がうまく纏まらない。ウィルは寝ぼけていても魔術を使えるように訓練はしているが、その要諦は半無意識下でのごく弱い魔術の制御と、混濁状態からの迅速な回復にある。前者の技能は本格的な戦闘には心許ないものだし、後者については先程から試してはいるものの、睡魔と薬物の二段構えは相当に堅固な防壁だった。まさか、やはりリエリアは刺客でこれが狙いだったのだろうか。抵抗できない状態でウィルを狙うことが。いやしかし、ブランにも言った通りわざわざ無意味にこんな不確実な搦め手を使う理由が思いつかない。
 ソフィアに似た何者かが足音もなくベッドに近づいてきて、なんとそのままベッドに登り、あろうことかウィルの身体に跨った。真上――真正面からウィルを見下ろすそれの細い指がするりと降りてきて、頬をそっと撫でる。触れるか触れないかの強さで撫ぜられる刺激は、ぞくりとするほど艶かしい。
(ちょっ、……やめ……っ)
 背筋をじわりと何かが這い登る感覚。命の危険とは違う、別の危険が頭をよぎる。その鮮烈な感覚が残った眠気をどうにか吹き飛ばしてくれて、ウィルは上体を跳ね起こした。が、女は尻餅をつく格好になったものの、布団の上からウィルに跨った位置からは離れない。
 脚を押さえ込まれたままの、襲撃者に対処するにはあまりにも覚束ない体勢のまま目の前のそれを睨みつけていると、その両手の指がウィルの頬を撫でながら伸ばされる。
「っ……!」
 ウィルはそれを払いのける代わりに、咄嗟にサイドテーブルを腕で薙ぎ払った。上に乗っていた、寝しなに口にしていた水の入ったグラスが落ちてがしゃんと甲高い音を立てる。大きな物音を立てて己を覚醒させるのに加え、ブランに気づいてもらうことを期待したのだが、一呼吸待っても隣室からの反応はなかった。ブランはウィルよりも余程厳しい修練を積んだ優秀な騎士だ。先程、聖典が落ちた音さえをも拾って駆けつけて来た程に注意深い彼女が就寝しているとはいえこれだけの物音を立てて気づかないとなれば、何らかの魔術で音漏れを防がれているか、あちらにも何かが起きたとしか考えられない。
 ――魔術だ。敵の攻撃だ。意識して危機感に縋り付き、それを拠り所にして意識を研ぎ上げる。
 焦る気持ちを抑えてゆっくりと瞼を下ろして、開く。ようやく自分が魔術を行使するに十分な集中力を取り戻せたことを認識してウィルは右手をしなだれかかってこようとしていたその女の眼前へ、これ以上の接近を阻むように翳した。
「悪いけど、そんなに馴れ馴れしく近づかないで欲しいな」
「どうして」
 ソフィアの声で囁くそれに、ウィルは唇の端で嗤って見せた。
「生憎と、姿形だけがソフィアならいいって訳じゃないんで」
 答えを聞いてその女が口の端に浮かべた苦虫を噛み潰したような表情で、さっきの「どうして」がまだソフィアとしての演技の振りだったらしいことに気がついた。
「化けるならもう少しうまく化けるんだな。姿形はともかく仕草が全然ソフィアじゃない。彼女はね、仮に甘えてきたとしても、そんな媚びる様な目も手つきもしないよ。もっと愛らしく恥らいながら、その恥じらいをどうにか堪えるようにして触れてくるんだ。そのいじらしさたるや、君の品のない振る舞いとは雲泥の差だね」
「……こうまで女に迫られてる状況で、普通他の女をそこまで褒める?」
 ソフィアの姿をした女が、片方の眉を上げて呆れ返った表情を浮かべ、偽者だという指摘を割と素直に肯定した。そのいらえよりも、寧ろ女のその表情自体にウィルは満足して片頬に笑みを浮かべた。顔かたちはソフィアのままだが、表情を変えられると大分ソフィアからかけ離れて見えて助かった。偽者だと確信してはいても、やはり出来るだけ似ていない方がやりやすい。
「自分の恋人を褒めるのは当たり前のことだろ。……で、偽者のお姉さんはどこのどちら様なのかな? 頭、吹き飛ばされたくなかったら素直に答えて欲しいんだけど」
「ふふ、そんな脅しで……」
 鼻で笑って呟きかけた瞬間、女は白い喉を曝け出してのけぞった。女の喉を軽く掴んだウィルの手が、ぱり、と青白い稲妻に似た光を弾かせる。
「…………ッ!」
「……ま、頭吹っ飛ばすってのははったりだけどな。部屋汚したら宿の人に悪いしね。けど、部屋を汚さずに色々白状させる方法なら俺だっていくつかは知ってるんだよ」
 必要さえあれば女性であろうと敵は躊躇なく殺すことが出来るという事自体は嘘ではない。甚だ不本意ではあるが、女子供だからと言って敵に容赦してやれるほどの余裕はウィルにはないのだ。そういう辺りはソフィアの方がまだ優しさがあると言える――ウィルより手加減のできる閾値が高いという意味合いだが。
 絶句する女の顔を見つめながら、ウィルはゆっくりと続けた。
「どこのどちら様と尋ねたが、どちら様かはそんなに重要じゃなかったな。とりあえず、名前は分かってることだしね、リエリアさん」
「!?」
 反応は、想像していたよりも甚大だった。口元を引き結んだまま大きな双眸を見開き一頻り驚愕を表してから、女は、すうと剣呑に細めたその目で鋭く睨んできた。
「……なんで分かったのかしらね。参考までに聞きたいわ」
 ソフィアの顔をした女の口から発せられた声は、明らかに艶のある大人の女のもの――リエリアのそれになっていた。ウィルはその違和感に軽く目をしばたかせつつ口を開く。
「……カマかけに決まってるじゃないか。そうもあっさりと肯定されると逆に驚くんだが」
 ウィルの呟きに、目の前の端整な顔がびきっと引きつった。
「ちょ!? アンタ……何堂々とフカシこいてんのよ!?」
 今迄のリエリアの口からは聞いた事がなかった蓮っ葉な言葉遣いを少し意外に思いはしたが、ウィルは淡々と告げる。
「自信なさげに言ったらはったりにならないだろ。強いて言えば直近の心当たりがその程度しかないってくらいの理由はあるけどな。どこの工作員かは知らないがそんなに簡単に種明かしするのはどうかと思うよ」
 目の前の顔を半眼で眺めつつ言うと、女はやや緩んだ表情で、はぁ、と溜息をついた。
「ご忠告痛み入るわ。思ったよりずっといい性格してたのね。……ま、そういうオトコの子も好きだけど」
 リエリアの、吐息のように甘やかに囁かれる声に再び何か危うい気配が漂い始めているのを感じ、ウィルはこの隙に魔術を構成しておかなかったことを少し後悔した。微かな動揺を平静な表情の下に隠し、努めて冷ややかな声になるよう努力して最後通牒を突きつける。
「とりあえずまずは、そこから退いて貰えるかな。どんな意図があったにせよ、一度は命を助けてくれた恩人に不義理なことはあんまりしたくないんでね」
「ふふん?」
 ソフィアの形をしたリエリアの目が婀娜っぽく細まり、楽しげに鼻を鳴らす。
「やれるものならやって御覧なさいな」
 ぐっ、とリエリアの両手がウィルの手首を掴み、眼前から引き剥がした。その力は意外に強く、手のひらがリエリアの身体から逸れる。女性の腕力とはいえ両手で掴まれ更に体重まで掛けられれば片手で抗うのは少し難しい。――だが、彼女にとっては残念なことに魔術は別に翳した手のひらからしか撃てないものではなかった。
「きゃあっ!?」
 唐突に、横合いからの無形無音の衝撃に強く肩を突き飛ばされて、リエリアは悲鳴を上げてベッドから転げ落ちた。
「いくらなんでも魔術士を舐めすぎだろう」
 離された手首をふるふると振りつつ呟くと、床に落ちたリエリアはさしたるダメージはなかったのか意外に素早く体勢を立て直し、こちらとの距離を取った。
「アンタはレディに対して遠慮がなさ過ぎるわ。そんなんじゃ女の子にもてないわよ」
「結構。別にもてる必要なんてないし」
「やだやだ。そんなだから女心に疎いのよ」
 心底呆れたように首を振るリエリアに、ウィルはむっと顔を顰める。
「そういえば君はブランにもちょっかいを掛けてたんだっけな。彼女を唆して何をさせる気だった? こっちの事情は君には知った事じゃないだろうけど、彼女を巻き込んだりしたら俺が怒られるんでね、出来ればやめて欲しいんだけど」
 言うと、リエリアの眉が愉快そうに上がった。
「ああ、ブランさんにあげたあれ? あれはまた別の話よ。あれは純粋な善意。どこかの朴念仁に不毛な恋をする彼女があんまり可哀想だったんだもの。全く、自分に惚れてるのを知ってるならあの扱いはあんまりじゃない?」
「……君には関係ない。彼女は彼女の理由でここにいる」
 呟くようにそうとだけ口にすると、リエリアはやれやれとばかりの笑みを見せてくる。
「私があんまりだって言ってるのはブランさんを側に置いとくことについてじゃないわよ? 側に置いとくのなら、恋人との間に横から入り込めそうな隙を開けておくなって事。手が届きそうで届かない位置にこれ見よがしに餌をぶら下げているようなもんだわ」
「それこそ君の知ったことじゃない」
「ふふ。痛い所を突かれたって顔になったわ」
 ぺろり、と女の赤い舌が唇を舐め濡らす。ソフィアの端正な容貌と相まって酷く妖艶ではあるが、それはまさに獲物を捕らえる寸前の蛇の如き仕草だ。
 捕食者の光を瞳に宿しながら、リエリアは子供をあやすような声で言う。
「ごめんなさいね? それは貴方が意図してのことじゃなかったものねえ、先に進みたい気持ちは満々なのに進めない貴方に意地悪な事を言ってしまったわ。別に、ソフィアさんとの仲を邪魔したいというわけではないのよ。……何ならあのお薬、貴方にも分けてあげましょうか? ソフィアさん、あれで相当身持ちが固そうだし、一回既成事実作っちゃえばもう逆らえないタイプだと思うんだけど?」
 あまりにも醜悪な提案に怖気が走る――はずなのに、薬の所為かその怖気さえもがウィルの心身に唾棄すべき感覚を齎してくる。
「……やめろ」
「まさか一度も無理矢理にでも彼女を手に入れたいって思った事がないだなんて言わせないわよ。寧ろその欲望を抑える方が難しい程そうしたくて仕方がないくらいでしょう? 分かるわよ。そう、目が言ってるもの」
「やめろ!」
「うふふ、可愛いわね。食べちゃいたい」
 限界だった。
 ウィルは宣告もせずにリエリアに向けて魔術を解き放った。先程彼女に撃ったものと性質は同じだが、威力の全く違う衝撃波の魔術。殆ど発作的に放ったこの攻撃には明確な殺傷力が乗ってしまっている筈だが、もう構わない。最早躊躇する気はなかった。
 ――が。
「口で負けたからって暴力に訴える男ってやあね」
 魔術の直撃を受けながらも何事もなかったかのように涼やかに軽口を発するリエリアに、ウィルは瞬時動揺せざるを得なかった。精神的には動揺しながらも動作には一瞬たりとも滞りは発生させず、攻撃対象から距離を取ってベッドから飛び降りる。
 リエリアの胴を貫いていった不可視の魔術が部屋の壁に突き刺さり、硬質な轟音を響かせた。
(魔術の幻……か?)
 床に膝をつきながら声に出さず呟いて、ウィルは目の前の女を見据えた。ウィルの攻撃は一見した所、リエリアに何の影響も与えることなく突き抜けていったように見えたが、よく見れば直撃した胴は、ウエストラインはそのままながら上着とシャツの色が交じり合うように崩れているのが見て取れた。乱れは水面に起きた波紋のように不規則に揺らめきながらも徐々に元の配置に戻ろうとしてゆく。防御魔術の一種かとも思ったがそれよりも、実体を持った魔術が、魔術の耐久限界を超える威力の攻撃によって一旦破壊され、再構成されつつあるのだと考える方がしっくり来る現象だった。
 この偽者のソフィアが、暗示による錯覚でも術者がその身に魔術を纏って変装しているのでもない、魔術による実体ある幻そのものだとなると、これは少し厄介だった。自身で研究した事のある魔術ではないので詳しくはないが、魔力による精巧な成形と違和感を感じさせない精密な遠隔操作を同時に行う事がどれだけ難しいかは十分に想像できる。相当の能力を持つ術者だ。……その割には魔術でベッドの上から叩き落した時など、妙に素人臭く感じる部分もないではないのはやや不思議に思うが、薬にやられた今の自分よりは十分に魔術を扱うことが出来る相手かもしれない。
(……だが、これ以上はろくな魔術を使う余裕はあちらにもない筈だ)
 冷静に思考を働かせ、気を取り直す。これだけ複雑な魔術を使いながら更に同時に強力な攻撃魔術を使うことはどれほどの魔術士であっても難しいことだろう。だからこそ最初から、攻撃をするでもなくただのしかかって来るだけだったのだ。
 ――しかし、そうとなるとこれは不毛な状況であるとも言えた。どちらにも攻撃手段がない事になる。あちらからの攻撃の心配もないが、こちらからも、どこにあるかとも知れない魔術士の本体に致命打を与える事は出来ない。
(一体、何だって言うんだこの状況は……?)
 訝しく思って目を細めたその視界の端に――
 唐突に鋭い銀光が閃く。
「――っ!!」
 高らかな音を立てて硝子窓を破り、眉間目掛けて飛来した金属片を寸での所で躱したウィルが慌てて窓の先に視線をやると、いつからか隣の建物の屋根にあった人影がこちらの窓に向けて跳躍してくる姿が見て取れた。
「成程、ここで新手の登場ね……」
 寧ろ納得こそ行くが気の滅入る展開に、ウィルは思わず迫り来る新たな刺客からも視線を外して天井を振り仰いだ。


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