女神の魔術士 Chapter 5 #4

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「ウ……ウィル?」
 不審な物音を聞いた瞬間に部屋を飛び出していたブランだったが、ドアを前にして急に躊躇を覚え、最終的に出来たのは外から気弱げに中に問いかけることだった。しかし、返事は返ってこない。小さすぎる声が扉を超えて室内まで届かなかったのか、或いは……返事が出来ないような何らかの事態が起こったのか。
 ブランは背筋を凍らせてきた緊張を利用する形で気を持ち直し、強く扉を叩いて呼びかけた。
「ウィル!? 何かあったの!?」
「…………はい?」
 今度は寝ぼけたような声が、返ってきた。

「……え、なに? ああ、入っていいよ。開いてるから」
 という少しピントのずれた部屋の主の声に従って、ブランは恐る恐るドアを開いた。ドアから中を覗き込むと、今の今まで奥のベッドで眠っていたらしきウィルが、上体を起こしただけの格好でぼさぼさの頭をぼりぼりと掻いている。
「ええと、鍵、締めてなかったの? 寝てるときに無用心よ」
 とりあえず訪問の目的とは無関係ながらも少し気になったことを指摘すると、
「ああ……ソフィアにもたまに言われるな。今後は気がついたら気をつける」
 大変頼りにならなそうな返事が返ってきた。……のはいいとして。
「で、どうかしたの?」
 ブランが当初の問題に意識を戻すのと同時にウィルも論点をそこに戻してきた。が、当のウィルがあまりにもなんともない様子なので、ブランは答えに窮せざるをえない。
「どうって……あの、何か物音がしたから、気になって」
 どうにかして答えると、それを身辺を警護する立場としての責任感からの行動だと取ったのか、ウィルは軽く笑って見せた。
「真面目だね。何かあれば助けを呼ぶから、そんなに常時張り詰めてなくて大丈夫だよ。気が持たないぞ」
「あ……ええ」
 首肯しながらざっと室内を検分すると、ウィルのベッドの下に分厚い本が落ちているのが見えた。客室に備え付けの聖典だろうか。恐らく先ほどの物音は、寝ている間にベッドの上に置いていたそれが落ちた音という所だったのだろう。その程度で驚いて部屋に駆けつけていたのでは、確かに笑われても仕方がない。
 赤面する顔を俯けて、羞恥を誤魔化す様に呟いてみる。
「ウィルも聖典を読んだりするのね」
「ん? ああ、これか。いつもは別にこんなもの読まないけど、今日は暇だったし、なんか……落ち着かなかったから、寝る前に少しね」
 ブランの視線を辿って床の聖典に気付いたウィルは、ベッドの上からそれを拾い上げ、片手で閉じてサイドテーブルの下に戻した。
「別に他に何かあれば聖典じゃなくてもよかったんだけどね。本読んでると落ち着くたちなだけだから」
 ブラン自身の姉とは違って研究者気質の魔術士というタイプではないウィルは、普段あまり魔術士っぽいと思うことはないのだが、そういう所はやはり魔術士らしい部分があるようだ。もう長いこと話をしていない姉をなんとなく思い出して微笑んでから、ブランはその微笑を少し翳らせた。
「やっぱりソフィアさんが心配……?」
 しかしウィルは予想外に、全く思ってもいなかったことを尋ねられたような顔をした。
「ん……いや。そっちは気にしても今はしょうがないしね。心配でないと言ったら嘘にはなるけど、ソフィアは大抵のことからなら自分の身は自分で護れるってことは分かってはいるから。……そうじゃなくってさ」
 ほんの少し困ったように、若しくは単純に不思議そうに首を傾げて、呟く。
「何だろう……? 今日暑くない?」
「あ、暑い?」
 今度はブランが思ってもみなかった発言に目をぱちくりとする番だった。今の季節は立派に冬である。仮に風呂に入ったばかりであったとしても、暑いなどということは有り得ないはずなのだが……
 と、首を傾げかけて、唯一原因になりうるものに思い至り、ブランはぎょっとした。
(まさか、あの薬!?)
 あれがもし高熱を催させるような危険な薬だったら!
 思い至るや否や、慌ててウィルの傍まで駆け寄り、目を丸くする彼の額に手を当てて具合を確認する。と、微熱程度だがやや体温が高く感じられ、ブランは顔を青ざめさせた。
「どうしたんだよ、急に」
 苦笑して言うウィルだったが、ブランの蒼白になった顔を見て不思議そうに眉を寄せた。
「ブラン?」
「ウィル……熱が」
「熱? ああ、言われてみたら少し熱っぽいかな。そっか、だから暑く感じるのかな」
 言いながら、ウィルは無意識のような仕草でハイネックの襟元をつまんで少し隙間を作る。熱があること自体に気付かなかった位であるなら体調自体はさほど悪くはないようだが、僅かばかりであっても異常が確かに発生している以上安心してよいとは思えなかった。
「ウィル、他にどこか悪い所はない?」
 慎重に尋ねるブランにウィルは苦笑する。
「そんなに心配しなくても大丈夫だってば、心配性だな。少し疲れでも出たんだろ。よくあることだよ」
「違うの……違うのよ」
 やはり、これ以上黙っている訳には行かないだろう。魔術士であるウィルならば、ブランよりもずっと適切な対処方法を知っているかもしれない。恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになりながら、ブランは唇を開いた。
「ウィルにかけてしまったあの薬……あれの所為かもしれない」
「薬……? もしかして、あの香水?」
 目をしばたくウィルに、ブランは、ばっと床に膝をついて頭を垂れた。
「ごめんなさい! あれ、あの……その、……ごめんなさい、その、……ほ、惚れ薬らしいのっ!」
「…………惚れ薬だって?」
 流石に意表を突かれたらしく唖然としているウィルの声を聞きながら、ブランは床に頭をこすり付けんばかりに謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい! もらったんだけど……本当は、使う気もなかったの。……ごめんなさい……」
「いやまあ本当はも何も、別に君が使ったわけでなく俺が勝手に蹴っ飛ばしただけだから」
 平身低頭するブランを、ベッドから足を下ろしたウィルは手を伸ばして宥めつつ、少し何かを考えている調子で言った。
「えーと、貰ったって、リエリアさんにだよな?」
「……ええ」
「リエリアさんならまあ、大丈夫か」
 気楽に呟かれた声に、ブランは顔を上げる。
「……大丈夫、って?」
「命の危険についてさ。彼女は俺を殺したり、何かもっとヤバい薬を盛るチャンスなんていくらでも持ってたはずだから、もし万が一どこかの刺客なんだったらわざわざこんな不確実で回りくどいことはしないだろ。だから、多分本当に言葉通りの薬でしかなくて……さほど害のあるものでもないんだろうなってこと」
 平然とした口調で物騒なことを言うウィルを見て、ブランは彼らが立たされている立場の危うさを再認識した。そして軽率な自分に猛烈に後悔する。
 ウィルはまたひれ伏して謝罪を始めようとしたブランを慌てて制し、言葉を続けた。
「魔法薬には変質の危険もあるけど、そう簡単に危険な薬になるものは流石に限られてるし、そういうのを薬師が把握してないはずはないからそれについても大丈夫。しかしそれよりも惚れ薬って……精神操作関連の魔法薬はご禁制中のご禁制なんだけどな……?」
 心当たりを記憶の中から探り出そうとしているかのように虚空を眺めていたウィルが、不意に合点が行った様子で目の焦点を合わせた。
「……あー。分かった。惚れ薬、ねえ。はぁ」
 歯切れ悪くも何か得心が行ったらしいウィルにブランが顔を上げて視線で問いかけると、彼は呆れたような、困ったような、何とも名状し難い微妙な顔で彼女を見返した。
「惚れ薬と言うかな、多分これ、あれだ。媚薬だ」
「びっ、びや……!?」
 その想像を絶する単語を耳にした途端、ブランは真っ青にしていた顔を一転して真っ赤に染めた。そんなブランを気遣ってか、ウィルが言葉を選びながら説明を続ける。
「言い方が悪いか。興奮剤って言うのかな、うーん、凄く女性に対して説明しにくいんだけど……ともかく別に人の感情を操って誰かに惚れさせたりするわけじゃなくて、単に身体を強制的に興奮状態に持っていく……という類のなんというか」
「え、ええと……」
 極度の混乱を来たしてぐるぐると渦巻いている思考をどうにか取りまとめながらなんとなくウィルの状況を察して、ブランはとりあえず彼から視線を外した。ウィルも実に気まずそうな半笑いを浮かべた。
「……まだ、大丈夫。うん。ギリギリでセーフ」
 呟きながらしかしもそもそと、ウィルはベッドに戻っていく。何がどうセーフなのだろうセーフじゃなくなったらどうアウトなんだろうとかブランは一瞬考えかけて内心だけであわあわとその思考を打ち消した。きっとそれについて考えるのはウィルにとても失礼だし多分どれだけ考えても女の自分には分からない。
「そんなわけなので、俺はとりあえず寝ることにするから。なんか、風邪の引き始めみたいなだるさがあるから、多分これからまだもう少し効果が強まってくるんじゃないかと思う。一晩で効果が切れるかどうかは知らないけど、つらい間は寝てやり過ごすから気にしないでいて」
「つらいって……あ、うん、はい」
 反射的にどういうことなのか分からなかった言葉を聞き返そうとしてしまったがどうにか自制する。意識しないよう意識しないようと努めても勝手に真っ赤になる顔と格闘しながらブランが極力平常心を装ってこくこくこくと頷くと、こちらに背を向ける格好で横になったウィルがひらひらと手を振った。
「ブランは話が早くて助かるよ。これがソフィアなら皆まで言うしかない状況に陥れられて後がなくなってる場面だ。……じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。……あの。ごめんなさい、本当に」
「大丈夫。問題ない」
 もう少しきちんと謝罪をするべきだろうと思ったが、今は長居をする方が恐らく迷惑であろうと考えて最後に一度だけ簡単に詫び、ブランはウィルの後頭部に向かって何度も頭を下げながらそそくさと部屋を辞した。



 食事をご馳走になってから、暫く三人で他愛もない雑談をした後、リエリアは「仕事が残ってるのでお先に失礼しますね」とソフィアを残して与えられた客室に入っていった。この魔術士の家には居間兼食堂と主人の寝室と客室があって、客室をリエリアとソフィアの二人で使うように勧められている。想像していたよりは紳士的な対応だったので安心はしたが何故かどうにも気を抜いていい気分になれなかったので、ダイエルと二人きりで居間に残されたソフィアは内心、非常に困っていた。一見人のよい魔術士の男は話術も巧みで、おまけにこんな山奥に住んでいながらどういうことか女の子が好みそうな、街で評判のカフェや流行の服装などにも随分と知悉していて、軽い会話の相手としては申し分ない――はずなのだが、どうしても寛いでお喋りに興じる気になれないのだ。気になるのはやはりダイエルの視線だ。ぎりぎり不躾でない範囲で見つめられるその目つきはやっぱり他意があるように感じられて気になるものの、明確に何らかのアクションを行ってきているわけではないのでどうにも対処しにくい。……いや、何らかのアクションを起こされた所で見ず知らずのならず者ならともかく、依頼人の取引相手を殴り倒すわけにも行かないので困るのだが……
 ――と、
「いやしかし、ソフィアちゃんみたいな可愛いお嬢ちゃんがこんなあばら家に来てくれるなんて嬉しいなあ」
 唐突に、視線に含まれていた異質な気配が音声に現れたのを感じて、ソフィアは内心に漠然と渦巻いていた不安感が急速に膨れ上がる感覚を覚えた。ダイエルが発したせりふの言葉面そのものはこれまでと特に調子を違えているわけではないのだが、何かがまずい。気がする。例えるならば肉食の獣が獲物の風下に陣取り藪の中に息を殺して身を潜めたような、そんな、狩りが始まる三秒前みたいな切迫した空気。
 そのようなものを感じてしまったので、ダイエルが親しげな笑みを浮かべてソファーからごく僅かに身体を乗り出してきた途端、ソフィアはばね仕掛けのからくりのように立ち上がって、咄嗟に思いついたことを叫んだ。
「あ、あの、ちょっとお手洗いを借りたいのですけどっ!」
「ん? ああ、外の小屋だよ。案内しようか?」
「いっ、いえっ、結構です」
 突然の生理現象の申告にさほど面食らった様子も見せずに告げられた、親切だがデリカシーがない申し出を断って、ソフィアは駆け出す寸前の速さで屋外に出た。ドアを開けたその途端、服の中に染み込んで来た突き刺すような冷気に身震いをする。居間にいた間は気づかなかったが、夜になり、大分冷え込んでいたようだ。上着を取ってこようかと思ったが戻りにくいので我慢することにして、ソフィアはそのまま足を進めた。別に本当に手洗いに行きたかったわけではないのだが、一応行く振りはしておいたほうがいいかもしれない。畑の片隅にある掘っ立て小屋が手洗いのようだ。
 畑の畦道を通りながら、小さな庭を挟んでその奥に見える家の裏手の窓に明かりが灯っているのに気づいた。たぶん、リエリアのいる客室だろう。何気なく視線を向けてみて、目に入った物にソフィアは目をしばたいた。
「あれ、リエリアさん」
 見えたのは、仕事だと言って下がったリエリアが窓際のベッドに横になっている姿だった。仕事というのは口実で、実は単に先に休みたかっただけなんだろうか。ずるいなあ、と思いながら視線を前に戻して、ふと違和感を覚えてもう一度窓の中を見る。粗末ながらもやはり魔術士の家らしく、魔術を用いた揺らぎのない明かりのランプに照らされた室内で休むリエリアは、ベッドの上に仰向けで横になっているが上掛けをかけておらず、休んでいるにしてはほんの少し奇妙に思える格好であったことが違和感の理由のようだった。急に具合を悪くしたのだろうかという考えが頭をよぎって数秒程その場から観察してみたが、呼吸も表情も見た所、特に異常はなさそうに見える。
「……?」
 あんな格好で寒くはないのだろうか。首を傾げてから、ふと、ソフィアは自分でも改めてそうしようと思った理由が分からなかったが、自分の足元に広がっている小さな畑に視線を向けた。遠い窓から漏れ来る薄明かりにほんのりと照らされる畑には一面に単一の作物が植えてあるように見えるが、これは何の葉だろうか。あまり、見覚えがない。実家の村で作っていた作物の中にはなかった種類のように思うが、どこかで見たことがある気もする。何故だか妙に気になったので、じっと見つめながら記憶の中にある知識と照らし合わせる作業を続けて――不意にそれに気がついてソフィアは息を呑んだ。
「これ、クレルの葉……!」
 思わず呻き声が喉から漏れる。土に植わった状態ではなく摘まれて乾燥されたものしか今まで見たことがなかったのですぐには思い至らなかったが、思いついてみれば確かにあの植物の葉のように見えた。
 クレル草――通常は、乾燥された状態で市場に出回っている……違法な麻薬だ。


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