女神の魔術士 Chapter 5 #3

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「どうしよう……」
 何度目になるかとも知れない同じ呟きをまた繰り返していた自分にようやく気がついて、ブランは小さく溜息をついた。
 どうするもこうするもない。惚れ薬……だなんて。そんなものは即刻破棄する以外にないではないか。魔術薬の中には服用させると他者をある程度操ることが出来るようになるという恐ろしいものも存在するとも聞く。これがどの程度の効力を持つ薬であるかなどはブランには分からないが、程度はどうであれ人の感情を薬などで操作するような真似が許されるはずなどないのだ。
 恐る恐る小瓶を指でつまみあげ、そのままごみ箱に捨ててこようと決意した、その時だった。
「……あれ、ソフィアたちは?」
 まだ少し寝ぼけたような声を唐突に背後から浴びせかけられて、ブランは飛び上がらんばかりに驚いた。
「ウィ……ウィルっ!? お、起きたの!?」
 振り返ると、丁度今しがた目を覚ましたという具合のよれた格好をしたウィルが無造作に頭を掻きつつ食堂内を見回していた。
 ブランの高く裏返った声での問いかけに彼は少し不思議そうな顔をしたものの特にそれについて問いただすこともなく、ブランの方に向かって歩いてきた。
「うん。明日の朝まで寝てても良かったんだけど、むやみに寝てるとソフィアに襲撃されかねないから」
「さ、されかねないものなの?」
「寝込みを襲いに来るなら色っぽい用件で来て欲しいもんだけどね」
 言いながらウィルはまだ寝足りないのか、ふあぁ、と大きなあくびをひとつした。
「……で、そのソフィアは?」
「あー……あのね……」
 惚れ薬の衝撃で忘れていたが、言いにくい話を告げなければならなかったことを思い出し、ブランは重く唇を開いてソフィアとリエリアが二人だけで出かけたことを告げた。
「えぇ……? こんな時期に無用心な……」
 案の定、ウィルはあからさまに渋面を作って呻いた。窓越しに彼女らが向かった山に視線を投げているのは、今から追いかけるべきかどうか悩んでいるのだろう。
「あ、ご、ごめん……なさい」
 ブランが己の不備への恥ずかしさに顔を赤らめて謝罪すると、ウィルは、え? と声を上げ、すぐさま慌てたように手を振った。
「いや、ブランに言ったんじゃないよ。ソフィアがさ、もうちょっと自分の身に危機感を持って行動してくれないものかなって話」
「で、でも、私が止めるべきだったわ……」
「や、彼女を止めるとか誰にとっても難題だから」
 言ってウィルは片方の肩を竦めて苦笑した。
「まあ……彼女を狙ってる人たちもわざわざ、最初から行く予定を立ててた訳でもなかった村の裏山に戦力を配置したりはしてないだろ。大丈夫だよ」
 万が一の危険、というものを忘れるような性格ではないウィルが敢えてそんな楽観的なことを言ったのは、責任を感じるブランに対しての気遣いであろう。それに余計恐縮して彼女は小さい身体を縮こまらせる。ウィルはそんな彼女の頭を、子供をあやすようにぽんぽんと撫でてから、ブランが座っていたテーブルの向かいの席へと足を向けた――
 と、その時。
「おっと」
 テーブルに足をぶつけて、ウィルは小さく声を上げた。テーブルの上に乗っていた、小さな小瓶がころんと横倒しになり、そのままころころと転がってゆく。
「あっ」
 それは……ブランが受け取った、あの小瓶。
「っと、やば」
 テーブルの縁から床へまっさかさまに転がり落ちようとするそれに、ウィルが慌てて手を伸ばす。その指先に引っかかり、ウィルがほっとした表情を浮かべかけたのもつかの間、却ってそれが小瓶の蓋を外すことになり――少量だった中身は全部、彼の手のひらに撒かれる結果となった。彼の体温に触れて、甘やかな芳香がふんわりと広がる。
「あああっ」
「うわー……ごめん」
 ブランの驚愕の声を、私物の香水を駄目にされたことへの非難と取ったのか、ウィルは済まなそうに謝罪してきた。が、無論ブランの悲鳴の意味はそんなことではない。ブランはすぐさまポケットからハンカチを取り出してウィルの手のひらを拭おうとしたが、
「あれ?」
 ウィルが不思議そうに手のひらに視線を落とす。今落ちたばかりのコイン大程度の水滴は、ブランがハンカチを彼の手に当てようとした時には既に揮発――或いは吸収――されてしまっていた。
(えええええ)
 目と口を丸く開いたまま、ブランは声ならぬ声を上げる。薬、というくらいだから飲用だとばかり思っていたのだが……
(あの、こ、これって……ど、どうなるの……?)
 誰に問うことも出来ない問いだけが、頭の中でぐるぐる回っていた。

 その後、ブランはウィルと二人で夕食をとり、それぞれの部屋に戻った。
 ブランは夕食を食べている間、ウィルに気付かれないように慎重に彼の様子に変化は無いか探っていたのだが、特に変わった様子は見受けられなかった……ように思う。ブランはウィルと二人きりで食事をする機会というのは今迄なかったので、何を話せばいいのか皆目見当がつかず多少緊張していたのだが、実際雑談を始めてみると特定の人物の話題で結構盛り上がれるということを確認して大いに安堵し、会話を楽しむことが出来た。
(――って、楽しかった思い出についての検討ではなくて)
 横道に逸れようとする自分を諌めるように頭をぶんぶんと振って、ブランはウィルの様子を思い出すよう努力した。彼は食事の量も普通に一人前食べ、体調が優れないような様子もなかったし、会話も――ウィルにとっては部下、ブランにとっては上司に当たる相手への共通の親近感は互いに共感できるものだったが、ブラン個人に対する特別な好意を感じられる内容はなかった。
 …………。
 ベッドに転がったまま、枕をきゅうっと抱きしめる。
(……だから、がっかりしてる場合でもないってば)
 彼に変な薬を浴びせかけてしまったことを憂慮せねばならないというのに、私は自分のことばかり。なんと自分勝手なのだろうか。心底自分に嫌悪して、溜息をつく。先程は特に問題が無いように思えたが、もし遅効性の薬だったりしたらその時効果がなかった所で安心は出来ないのに。それに、魔法薬は他の薬以上に扱いが大変難しいものである。ほんの少し量を間違えたり、温度管理を間違えたりしただけで変質し、効果がなくなったり……或いは全く違った効果を齎したりもするという。それをあんな恐らくはイレギュラーな方法で摂取させてしまって果たして大丈夫だったのだろうか。まかり間違って薬の性質が毒性に変じて、身体に悪い影響が出ないとも限らない――
 己の想像にぞくりとしてブランはベッドから起き上がる。丁度その時。
 隣室――ウィルの部屋から、がたん、と何かが落ちる音がした。



「大分遅くなっちゃったわねぇ」
 山の頂上付近にある小屋から漏れ出る光が見えたのは、丁度太陽が山間に姿を全て隠すのとほぼ同時だった。リエリアのほっとしたような声を聞いて、ソフィアも軽く息をつく。山道には思いの他危険そうな場所も多く、山歩きに慣れているとは思えないリエリアを気遣って途中で夜明けを待つことも提案したのだが、もうすぐだからと言われてそのまま登りきったのは結果的に正解だったようだ。
 これまで登ってきたのと同じような、獣道同然の小道をあと少しだけ登り、二人は深い森の中に埋もれるように建つ粗末な小屋の前に到着した。小屋の周囲のみは少しひらけている。小さな畑になっているようだが暗くてどのような作物を育てているのかまでは分からなかった。と、ソフィアが普段の癖でざっと周辺を観察している間にリエリアは小屋の扉を叩いていた。
「ごめんくださいまし。リエリアで御座います」
「おお、開いておるよ、入っておくれ」
 リエリアの声に答えて、男の声が気さくな調子で帰ってくる。勝手知ったる様子でドアを開けて中に入っていくリエリアの後を、ソフィアは慌てて追いかけた。
 小屋の中も外見と同じように粗末で、かつ雑多だった。物置小屋の片隅に生活空間を持ってきたような雰囲気で、入り口付近には各種の農機具が、奥には生活用品と、少し意外なことに数多の本が山のように積まれている。リエリアは古いソファーで食事中であったらしい、恐らくはこの小屋の主であろう男ににっこりと微笑みかけていた。
「お食事中の所お邪魔して申し訳御座いません、ダイエルさん。ご注文のお品をお届けに上がりましたわ」
「何々、リエリアちゃんとわしの仲じゃないか」
 粗末だが思ったよりはこざっぱりとした身なりをした、小柄な初老の男性もまたにこにことして応じる。ソフィアはその男の顔に見覚えはなかったものの、その目つきだけはどこかで見たことがあるような気がしてじっと見ていると、その目がひょいと彼女の方に向いた。
「おっ、そちらのお嬢ちゃんもこりゃまた別嬪さんだねえ。お友達かい?」
「あちらは荷物の運搬を手伝ってくださった、アリエスさん。駄目ですからねダイエルさん、まぁた若い子に手を出そうとしちゃ」
 めっ、と冗談っぽく怒ってみせるリエリアの言葉を聞いて、ソフィアは既視感の理由に思い当たった。この微妙に粘っこい視線は、一見好々爺然とした小男だった為に一瞬ごまかされかけたが――宿場や酒場で男たちがよく投げかけてくるあの視線に他ならない。
「アリエスさん、こちらは魔術士のダイエルさん。魔法薬の権威でいらっしゃるのよ」
「はっは、やだねえ、権威だなんてご大層なもんじゃないよ。ただちょいと薬の研究をしてるってだけだよ」
 リエリアの紹介にまんざらでもないようで、機嫌よさそうにダイエルというらしい男は笑った。
「では、今日お持ちしたお品なのですけれど……」
 早速荷を解こうとしたリエリアを、手を上げて止めて、ダイエルはソファーを指し示す。
「まあ、商売の話はあとあと。男の手料理って奴だが、まずは飯でも食べてゆっくりするといい。今晩は泊まっていくんだろう? この山は大した高さではないが、この時間から下るのは危険だ」
 口調は実に親切そうだったが、その奥で歳の割には嫌に爛々と輝いている瞳を見て――
(えっ。なんだかとってもイヤなんですけど)
 ソフィアは愛想笑いの顔を引き攣らせたが、リエリアとダイエルがそれに気付く様子は全くなかった。


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