女神の魔術士 Chapter 5 #2

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「あら、こんな所にいたの。……何をしてるの?」
「あ……お帰りなさい、リエリアさん」
 豪奢なカールのかかった髪が、緑の匂いを抱く風にふわりと揺れ動くのを手で押さえながら歩いてくるリエリアに、ブランは軽く頭を下げた。リエリアは、裏庭を縦横無尽に駆け回る――というか一方的に追いまわされているウィルと、晴れやかな笑顔でそれを追いまわしているソフィアを眺めてきょとんと小首を傾げた。確かに事情を知らねば何をやっているのか分かりにくい光景かもしれない。……事情を知ってもよく分からない光景ではあるが。
「……痴情のもつれ?」
「武器の習熟訓練、らしいです」
 もう既にウィルは攻撃魔術を撃つタイミングを逸して、ぜえはあ言いながらソフィアの物理的攻撃をかわしているだけなので当初の目的であった魔術武器の訓練は成立していないのだが、ソフィアとしてはウィルとじゃれあえれば何でもよかったのだろう。飽きもせずにウィルをちくちくと突いている。と言っても、本当にウィルの身体に刃が刺さっているわけではなかった。攻撃の殆どはウィルが魔術士としては十分と言える反射速度で回避しているし、当たりそうな攻撃も、槍の先端がウィルに触れる十センチほど手前でぴたりと止まっている。最初はソフィアが寸止めしているのかと思ったが、どうやらそれはウィルが自身の防御魔術で防いでいるようだった。これまで二度ほど、ウィルが引き攣った表情を浮かべて槍の穂先が一センチほどの距離まで迫った瞬間があったのだが、そちらこそがウィルが防御し損ねソフィアが寸止めしたパターンのようだった。
 と、またそのパターンが目の前で展開される。
「これで三回刺さったわね〜。四回目は、ほんとに刺さっちゃうかもね?」
 体勢を崩したウィルの肩口ぎりぎりの所に槍の先端を突きつけながら、軽い口調で穏やかならぬことを言い放つソフィアに、ウィルは唇をぱくぱくさせるが言葉は出て来ない様子だった。汗みずくの彼はまさに疲労困憊という様子でもう立ち上がるのも困難そうに見えたが、ソフィアはそんなことを微塵たりとも気にした様子もなく、手元に引いた槍をゆっくりと旋回させて穂先を再度、ウィルに向けた。
「さ、立ちましょうかウィル。あたしに一撃でも入れられたら許してあげるわよ」
 傲然と言い放つソフィアにウィルはやはり言い返せない。が――その代わりに突如その場に立ち上がったブランを見てリエリアが「あら」と声を漏らした。恋人同士のやり取りに口を挟むべきではないと思ってここまで止めないでいたが、流石にいい加減行き過ぎだと思う。
「ちょっとソフィアさん、もうやめてくださいっ」
 突然外野からかけられた声に、ソフィアは虚を突かれたように視線を動かしてブランを見た――その瞬間、必然的に視界の端になった、直前までの標的の動きにはっと目を戻す。
 ぺしん。
 向けられた槍をかわして伸び上がったウィルの手のひらが、ソフィアの額で軽い音を鳴らした。
「もー無理。勘弁」
 息も絶え絶えに呟いて、そのまま前のめりに倒れ込む。そんなウィルに慌てて駆け寄るブランの脇で、ソフィアは叩かれた額を指先で掻いていた。

「いくらなんでもやりすぎですっ! あなたなら、真剣と向き合うのがどれだけの緊張を強いられることなのかは分かるでしょう! それをあんなに長時間……っ! しかもあれだけの間、彼はずっと防御魔術を持続させていたんですよ!? それが魔術士の心身にどれだけの負担が掛かることだと思ってるんですか!」
 倒れたウィルを宿の中に担ぎ込んで部屋で寝かせるや否や、看病するでもなく喉が渇いたと言い出してさっさと一階の食堂に足を向けたソフィアにブランの感情はついに爆発した。ブランは残ってウィルの看病しようとしたが本職であるリエリアが看てくれると言ってくれたのでそれに任せてソフィアを追い、席について悠長にアイスティーなどを注文していた彼女に先の言葉を吐きつけたのだった。
 このソフィアという少女は同性の目から見ても可愛らしく、また、彼のことを彼女なりには想っているらしいことも知ってはいるのだが、ブランは時折分からなくなることがある。どうして愛する人にこういう乱暴な態度が取れるものなのか。どうしてウィルは度々こんな仕打ちをしてくる彼女などをあんなにも愛しているのか……。
 普段ならば黙って覆い隠しておく苛立ちを一息に吐き出したブランに、ソフィアは驚いたように目を丸くして、
「あ、あーうん、起きたら謝るわ」
 と返してきたのだが、ブランの溜飲は全く下がらなかった。尚も何か言おうと口を開きかけたのだが、廊下の階段から軽い足音が聞こえてきたのでそちらを振り返ると、階段を下って食堂に入ってきたのはリエリアだった。
「ウィルさんは別にどこも打ってないし、意識もちゃんとあるわ。疲れたからこのまま寝るって」
 リアリアの報告にブランはほっと息をついたが、ソフィアはさも当たり前のように茶を啜るだけだった。ブランが眉を顰めて視線を向けると、ソフィアは言い訳のように小さく呟いた。
「だって今回は一回も攻撃入れてないもの。ぶたれたのはあたしだけよ。魔術も、ウィルは前から戦闘中は常に防御魔術を使う人だから、あのくらいの時間なら全然問題ないはずよ」
 その言い方はやはりブランには少し苛つきを催させるもので彼女に反駁しようとしよう試みたが、結局何も言うことは出来なかった。元々人に言い募ることに慣れていないブランは、この苛立ちを上手く彼女に伝える言葉を思いつけなかったのだ。その代わり、内心で思う。 
(本当に、訳がわからない。彼女は自分の恋人が心配ではないのかしら)
 ブランの目には、ソフィアのウィルに対する態度は非常に愛情に欠けているように見えた。少なくとも、ウィルがソフィアに向けている愛情の十分の一も返していないように彼女には思える。無論、愛情は取引ではないから与えられた分を同じだけ返さなくてはならないだなんて決まりはないのだろうが――例えば特に愛情を感じてもいない相手から押し付けられる愛情などならば、迷惑行為以外の何物でもなかろうが、そういうのではない、一応恋人として互いに許しあっている関係であるのにその愛情の度合いに著しい格差があるというのはブランには酷く不公平なことのように思えたのだ。ウィルが不憫でならなく感じる……ウィルは、もっと幸せになってもいい人なのに。
「それにしても、ちょっと困ったわ」
 不意に、同じテーブルに着いていたリエリアが声を上げるのを聞いて、ソフィアと、はっと我に返ったブランは同時に視線を向けた。
「これから一つウィルさんにお仕事をお願いしようと思ってたんだけど」
「お仕事?」
 尋ねるソフィアに、リエリアは、ええ、と頷く。
「すぐ裏の山に住むお得意様にちょっとお届け物をね。護衛が必要な場所じゃないんだけど、荷物があるから手伝ってもらおうと思ってたのよねぇ」
 頬に手を当てて眉を寄せ、言葉通りに困ったわ、というポーズを作るリエリアに、ソフィアが小さく頷いた。
「わかりました。あたしが手伝います」
「そう? ごめんなさいね、助かるわ。……じゃあ、ブランさんはウィルさんと一緒に留守番していてもらうってことでいいわよね。そんなに何人も来てもらわなくても大丈夫だから」
 にっこりと魅力的な笑顔を浮かべてそう告げたリエリアに、
「……え」
 と呟いたのはソフィアとブラン、やはり二人同時だった。



 ――どうしよう。
 ブランはこくりと白い喉を鳴らして、口の中でそう呟いた。
 一時間ほど前に出発したソフィアとリエリアは、夜半まで戻らないという。すぐ裏の山、などという気軽な言い方をするからほんの数刻で行き来出来る場所かと思いきや、片道三、四時間はかかる立派な登山であるらしい。
(ウィルがあとで聞いたら、心配するだろうな……)
 ソフィアは、ウィルに何も告げずに出かけていた。事情についてはあとでブランが話すが、彼女を責めることはないにしろ決して良い顔はしないだろう。ソフィアに関しては時として、度が過ぎるほどに心配性になる彼である。しかも今は……心配はいくらしてもし足りない状況のはずだ。しかし、ソフィアは起こしてまで言う必要もないと思ったのか特に彼に何も言い置いていこうとはしなかったし、ブランもそれを勧めようとしなかった。別にソフィアに対して何かしらの悪意があったわけではない。ただ、ブランはその時、本来の責務――二人の身を守るという彼女の主から命じられた最重要の任務を忘れるほどに、動転していたからだった。
 ブランを心をそれほどまでにかき乱したのは、彼女の目の前にあるごく小さな物体だった。そこにあるのはピンク色の、香水瓶のような可愛らしい小瓶である。しかしブランはそれをあたかも禍々しい魔女の毒薬であるかのように恐れを含んだ瞳で、けれどもその魔力に魅入られたかのようにじっと見つめている。
「どうしよう……これ」
 彼女は再度、呟いた。

「私ね、分かっちゃったのよね〜。ブランさんってさ、ウィルさんのこと好きでしょ?」
「えっ……えええええええ!?」
 出発の支度をする合間、ソフィアが席を外した隙に、唐突にリエリアに断言されたブランは素っ頓狂な声を上げるより他の反応はできなかった。
「な、なっ……そっ、そんなことはっ」
「隠さなくても大丈夫よう。別に誰にも言ったりしないから」
 そのたった一言で顔を耳まで真っ赤にしたブランの必死の抗弁も功を成さず、嫣然と微笑んだリエリアは赤い唇をそっとブランの耳元に寄せて、悪魔の誘惑のような声で囁いた。
「別にそれが悪いだなんて言っているわけじゃないのよ。寧ろ逆。私ね、好きな彼に彼女がいるからって、恋を諦める必要はないと思うの。だって、好きなものは好きなんだもん、しょうがないわよねえ? 自分の気持ちに嘘をつく方がよくないことだと思うわ」
「えっ、そっ」
 そ、そうだろうか……? 確かに恋人がいても好きな気持ちを変えられない、というのなら分からなくはないけれど……だからって恋人の存在を無視していいものではないと思うんだけれど……
 しかしそんな疑問の声は例によって口下手なブランの口から言葉になることもなく、そうこうしているうちにリエリアの声は再度ブランの耳朶を打った。
「ソフィアさんってウィルさんと恋人同士の割に、その関係って結構ビミョーじゃない? 本当にあれで彼は幸せなのかしら。自分と付き合った方が、彼は幸せになれるのに……って、思ったりしない?」
 ――危険な誘惑――
「やめてくださいっ」
 ブランは首を強く振って、その赤い唇が紡ぐ言葉を撥ね退けた。体温が上がり、身体が震える。それは羞恥だった。自分が心の奥底に抱いていた醜い欲望を、そのまま言い当てられたことの。
 ブランは胸元で手を握りしめて、リエリアに背を向ける。
「だめです……私は……もうとっくにふられたもの」
 微かな声での告白に、リエリアは長い睫の並んだ瞼が驚いたように瞬かれた。
「そうだったの」
 頷くのがいやで、ブランはぎゅっと目を閉じる。ふられた、と、なんでもない過去の出来事のつもりで口にしたはずだったが、声に出してみて初めてそれがあまりにも強い喪失感を齎す事実であったと気がついた。……その未練がましさに自分が情けなくなってきて、目頭が熱を帯びてくる。
 涙を零す――その寸前に、ブランの身体はふんわりといい香りのする腕に包まれた。
「きゃ、きゃあっ?」
「それでもまだこんなに彼のことが好きなのね……可愛い」
 小さなブランの身体を後ろから柔らかく抱きすくめて、労わるような優しい声で、リエリアは囁いた。先ほどのように耳の間近に唇を寄せられて、柔らかい豊満な胸を背中に感じて、その色香に同性ながらもどきりとする。慌てて後ろを――身長の関係上背後の斜め上を振り仰ぐと、驚く程柔和に細められたリエリアの瞳と目が合った。
「本当は私が使おうかなって思ってたんだけど、いいわ。あなたの可愛さに免じて、これ、あなたにあげる」
 そのままリエリアはブランの手をとって、小さなそれを握らせた。
 なに……これ?
 目で問うと、人差し指を唇に当てて妖艶にウィンクし、その、ブランを絶句せしめる正体を告げた。
「惚・れ・薬♪」


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